miyabuの雑記帳

ボケ老人の無責任なお話

ヤクザが付ける因縁≒韓国が付ける因縁

2018-12-16 | Weblog
韓国の裁判所はヤクザの事務所か、とても法律家集団とは思えない。国自体がヤクザ国家だから仕方ないか(笑)、日本のヤクザ集団は構成員の半数以上が朝鮮半島の出だと言うから、因縁の付け方も同じで頷けますねー。

1910年8月29日の日韓合併から1945年9月9日の解消までの35年間がなければ、今日の韓国はありえなかったと世界の多くの国が認めています。1929年カーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者たちが「日本は合併してわずか19年間で数百年停滞状態にあった朝鮮を近代文明国家に橋渡しした」と報告しています。今問題になっている徴用工は外務省の記録では245名です、韓国の糾明委員会が12万人と発表している根拠は、慰安婦問題同様なにもありません。(参考までに合併以降の様子をウイキペディアから下記に転載しました


1910年、大日本帝国は大韓帝国との間に結ばれた「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)の締結によって大韓帝国を併合し(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置いた[2]。日本の同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めた。
日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる[3]。
併合当初の10年間は所得税の免税措置を行い、さらに日本統治以前は進んでいなかったインフラストラクチャーの整備や、近代教育制度(朝鮮語は必須科目)や近代工業の導入など統治下に置いた朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした[4][5]。
一方で、憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名[6])や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された[7]。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は、小規模な日本軍守備隊を襲撃し全滅させている。
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていた[8]。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり[9]、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった[9]。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯では、共産主義国家であるソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。