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少し以前の記事になりますが、読売新聞の1面から2面にかけて連載されている企画コラムの「地球を読む」に、劇作家の山崎正和氏による「日本的『律義さ』に潜む功罪」(2015.8.3)と題するコラムが寄せられていました。
戦後70年を機に、先の大戦における日本人の国家や社会に対する意識を振り返り、その後の復興や経済成長を俯瞰したうえで、将来の日本の在り方に対して独自の視点を投げかける骨太の論評です。機会を改めてじっくりと読みたいと思い手元にスクラップしておいたのですが、備忘の意味を込め、ここでこの論評における氏の指摘を整理しておきたいと思います。
戦争中、自殺的な特攻や玉砕も辞さない苛烈な戦闘で世界を驚かせた日本人は、いったん平和の詔勅を聞くと敗戦を一夜にして受け入れ、急速に平和な日常に復帰していった。山崎氏はこうした事実を正面から捉え、一体、日本軍人とは、そして日本国民とはどういう人達だったのだろうかと読者に問いかけています。
有力な通説では、戦争を引き起こしたのは一種の熱狂主義(フェチシズム)であり、それを支えたのが煽情政治(ポピュリズム)だったとされています。つまり、軍部の硬直した組織に盲信を注ぎ込んだのが大衆社会の狂気であり、近代人として未熟だった大衆の付和雷同が軍部のパワーの源泉と考えられてきたと氏は述べています。
しかし、大正から昭和の前期の日本では都市部の中間層は少なく、日本人の大多数が農林水産業や地域の零細な在来産業に従事していた。つまり、当時の日本人の多くは熱狂的な扇動政治を生みがちな都市の孤独とは無縁な、(大家族や地域社会の中で)伝統的な心情に親しむ階層であったと山崎氏はこの論評で指摘しています。
それでは一体何が、そうした(穏やかに暮らしていた)日本人を、死を省みぬ戦闘に駆り立てていったのか。
山崎氏は、幸福な国民が戦争を起こし、一転して再び平和な日常に回帰したという不思議な社会現象の原因を、日本人が「律義」と呼ぶ、日本人の庶民に特有の「真面目に働く」という倫理感覚にあると見ています。
「律義さ」とは、「忠誠」や「信義」に近い徳目で、特に「世間の決まりには従う」という心情に通じるものだと山崎氏は説明しています。しかし、であればこそこの特性は、悪くすれば盲目的な服従に見える弊害も引き起こすことにもなる。戦争に召集された多くの庶民が死を省みず突進したのは、世間の約束事は守らなければならないという、その「律義さ」から来たものではなかったのかという指摘です。
R・ベネディクトは、著書「菊と刀」において日本人の生真面目さを他律的な「恥の文化」の文脈の中で説明しました。しかし、山崎氏は、整理、整頓、清潔、時間厳守を尊び、とりわけ正直を心情とする日本人の「律義」な人間性は、これはそうでない自分が気持ち悪いから守る習慣であって、他人に対する体面から生じる規律とは性格が異なるものだと考えています。
言うなれば、「律義さ」は長く日本人を支配してきた純粋に自己を内側から律する価値観であり、平時にあっても危機にあっても日々の務めを果たし、身辺の秩序を守るという心象は、日本の社会の中できわめて自律的な感情として育て上げられてきたということです。
一方、このような日本人の特性が最大に発揮されたのが戦後であって、廃墟の混乱を最小限に抑え、復興から高度成長までの日本を牽引する力になったのではないかと山崎氏はしています。
特に戦後経済をけん引したモノづくりにおいて、日本人の律義さは企業の大小を問わず生産現場を強く励ましてきた。日本人は、戦争へ向かっていた律義さを、そのまま生産への律義さに置き換えて邁進してきたということです。
しかし、あらゆる規範に真面目に取り組もうとするこうした日本人の心象には、全く別な限界があると、山崎氏はこの論評で指摘しています。第一に、律儀者は射幸心に乏しく投機的な冒険に消極的であること。そして第二に、当面の身辺の問題に集中しすぎて、世界規模の政治について視野狭窄になりがちだということです。
日本人は、貯蓄好きであっても株式投資は好まないような、律儀さゆえの限界を自らの内に抱えていると山崎氏は指摘しています。また、靖国参拝に対する中・韓の抗議に対しこれを十分に理解・解決できない政府の対応からも分かるように、律儀者はとかく自分を正すことには誠実でも、自分が他人のどのように見えるかについては等閑視しがちだということです。
山崎氏は、日本人が有する「律儀」の美徳は日本人の貴重な財産であり、日本が世界で戦う上で今後も最強の武器になるだろうとしています。
しかしその一方で、新自由主義の国際社会で生きていくためには、必要があれば冒険を厭わず、気を見て果断なイノベーションを試みる大胆さが必要になることもあるでしょう。さらには、投機的な利益に対するリスペクトを潔しとしない日本の社会の風潮を、将来的に見直さざるを得ない機会が訪れないとは言えません。
そしてもうひとつ。将来の日本に必要なのは、自分が世界にどう見えているかに敏感になり、外交や国際広報、さらに企業や個人の身繕いを改善し、世界の社交の関心を積極的に追及することだと山崎氏は指摘しています。
日本人の美徳である「律義さ」を大切にする一方で、多くのステークホルダーの間で関係性を調整し、日本の寄り立つ所に対する国際社会の理解を得て味方に付けていけるだけの戦略的な柔軟さを併せ持つ必要があるのではないかとする山崎氏の意見を、私もこの論評から大変興味深く読んだところです。
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