MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯446 父性的思考と母性的思考

2015年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム


 関東で代々神職に就いてきた家に生まれた父親と、遠州で手広く商いをしていた商家で育った母親の間に生を受けた身としては、父親と母親のものの考え方の根本にある(「理念」というか「価値観」というか、そのような)感覚の大きな違いを、子供のころから所与の存在として何の疑問もなく漠然と受け入れていたような気がします。

 数十年も夫婦として一緒に暮らした二人が、基本的な部分で理解しあい共感しあっていたかどうかは、父が他界した現在では既に知るすべもありません。

 しかしそれにしても、「ものを考える際の思考組み立て方」のようなものは、人が育ってきた文化や環境によって、本人もそれと気づかないまま(実際の性別の違いを問わず)根本的に二つに分かれているのではないか。そしてそこにある壁は、(それこそ死ぬまで)乗り越えられないものとして、人と人との間に立ちふさがっているのではないかと感じるようになったのは、そんなに昔のことではありません。

 理屈で語る「あるべき論」から発想する人と、感情や利害を重んじる現実主義の人。前者の基本にある要素は「正統性」や「合理性」などの俯瞰的、公共的な社会秩序が中心であり、後者を構成している価値観は「快・不快」や「損・得」「駆け引き」などといった直接的で身体的な要素だと言うこともできるかもしれません。

 人と話をしていても、発想の第一歩が「明らかに違う」と感じるのは、誰もが意外によくある経験ではないでしょうか。理想とそれへのギャップから発想する(多少屈折した)ナイーブな知性と、身体感覚を伴った「自分」から出発しているシンプルなリアリストでは、お互いに憧れのような感覚を抱くことはあったとしても、本当のところで分かり合えるとはなかなか思えません。

 第二次世界大戦において、ともにヨーロッパの枢軸国として同盟関係を結んだドイツとイタリアは、そういう意味で両者の典型と考えることができるかもしれません。

 ルールを作りそれを守るという整理された秩序や責任に重きを置くドイツと、生活の豊かさや家族のつながり、豊かな感情などを大切にするイタリア。ファシズム体制のもとともに戦った先の大戦においても、徹底抗戦により完膚なきまでに叩きのめされたドイツに対し、イタリアは負け戦と見るや早々に降伏し、大戦末期には連合国側に加わってドイツや日本に宣戦布告を行ったりしています。

 共に熱狂とともに戦争へと突き進んだ二つの国ではありますが、実際のところ両国の間に理念としての理解や共感があったとはとても思えません。

 そうした二つの考え方の間には、一体何に起因する、どういった壁があるのか。かねがね抱いていたそんな疑問に対し、先日、筑波大学教授で精神科医の斎藤環(さいとう・たまき)氏の著書「世界が土曜の夢なら」(角川文庫)を読んでいて、氏の指摘に「はた」と膝を打った部分がありましたので、備忘の意味でここにポイントを整理しておきたいと思います。

 斎藤氏は、男性原理、あるいは父性原理にあっては、普遍的な「男性性」という本質をいかに伝達するかが重要になって来るとこの論評で述べています。

 これは「教える-教えられる」という以上に、その原理の下で父は息子を抑圧し、やがて成熟した息子によって父が象徴的に殺されることで獲得できるという形式に象徴される、「確執」そのものが教育的な機能を果たすというような、「原理」の成り立ちを意味しているということです。

 一方、母性の基本は、一般的な意味でそれが有する「非本質性」にあり、精神分析的に見て「女らしさ」は普遍性の無さに象徴されていると斎藤氏はしています。

 氏によれば、母親が娘に伝えようとしている「女らしさ」は、観念よりも身体的な同一化によってしか伝えられないものだということです。これは「女らしさ」というものが、「男らしさ」とは違って常に人間関係の中でしか表現できないような、見かけ上の特性であることに起因しているからだというのが斎藤氏の認識です。

 社会のルールを教えることが中心となる(父親から)男の子への「躾け」との比較において、母親から女の子への「躾け」の性格は大きく異なっていると斎藤氏は言います。

 斎藤氏は、「女らしさ」と呼ばれているものの本質は、フェミニンな見た目やしとやかな仕草と言った、「身体=外観」に関わる要素から成り立っているとしています。場合によってはこれに「やさしや」や「おとなしさ」「従順さ」などが加わり、相手から好感が持たれ愛されること、さらに言えば他者の欲望を惹きつける身体性を意味しているということです。

 そもそも「女らしさ」の在り方は、時代や文化によって大きく異なっている。だとすれば、「女らしさ」とはあくまでも、普遍性や本質性とは縁のない、それぞれの家庭のプライベート空間において「体験的」に伝えられる他はないことだと、この論評で斎藤氏は述べています。

 集団を導くため先を見つめ「原理・原則」や形式的な正当性を優先させる父系社会の形式論と、現実を既定のものと捉えたうえで集団の中での生き抜く術を教えるといった母系社会の方法論。敢えてシンプルに言ってしまえば、「美学(理想)」と「実益(現実)」のどちらを重んじるかという基本的な価値観の違いが両者の溝の本質なのかもしれません。

 さて、そうはっても言っても、「違いがあって何が悪いか」と言ってしまえばそれまでのこと。人間社会を弁証法的に切り開き、そしてそれを(最小限の犠牲の下に)円滑に移行させていくためには、例え分かりあうことができなくとも、その両者が共に必要であることは想像に難くありません。

 社会を維持発展させていくために備えられたとも考えられる(このような)「父性」と「母性」の役割分担。そしてその重要性を、斎藤氏の論評を読んで私も改めて考えさせられたところです。



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