MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2434 ハイ、論破!

2023年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 一般に「論破」とは、議論をして相手の説の誤りを指摘し打ち破ることを指す言葉。日本最大級の匿名掲示板「2ちゃんねる」の解説者として知られる西村博之氏(通称「ひろゆき」氏)が(ネット言論上の)「論破王」として知られるようになったことで、この2~3年のうちに若者の間でにわかに一般化した感があります。

 とは言え、論破、つまり勝ち負けのための議論は、得てして議論のための議論として表層的なものになりがちなのも事実のようです。

 「そういうデータってあるんですか?」「根拠はあるんですか?」といくつかの決めゼリフを吐き、相手がうまく答えられなければ「嘘付くの、やめってもらっていいですか?」と攻撃する。熱く語る相手には、斜に構えて(少し)小ばかにした感じで「それってあなたの感想ですよね?」と受け流し、相手が黙ってしまうと「はい、論破!」となるのが定番の流れでしょうか。

 件のひろゆき氏がどうと言うわけではありませんが、初代の論破王と呼ばれた元大阪市長の橋下徹氏やホリエモンこと堀江貴文氏など、このネット社会において発信力を際立たせている人々の姿を見聞きするにつれ、議論を積み上げる中で新しいものを生み出すことが難しい時代になったのだなと思わずにはいられません。

 一体、議論とは何のために、何を目的に行うものなのか。5月22日の『東洋経済オンライン』が、専修大学教授の岡田憲治(おかだ・けんじ)氏による『やたらと「論破!」と言う子に伝えたい大切な事』と題する論考を掲載しているので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 いまの若い層に人気のある「論破力」という力。いろいろなやりとりを眺めると、そこで言われている「論破」というものが、説得するための話の内容やその組み立てではなく、人を説得する際の話し方、空気や状況のつくり方の技術の話だということがわかると岡田氏はこの論考に記しています。

 その勝ち負けを決めるのは、議論している人たちを観ているテレビやYouTubeの司会者や観客のフィーリングや受け止め方だということ。だからここで言う「論」を「破る」とは、「言い負かしたという印象を観ている人たちに与える」こと、つまりこれは言論の力ではなくて、空気づくりの演出力の話だというのが氏の指摘するところです。

 しかし、(当然だが)ここには「議論」をするために絶対に必要なものがない。それは、「この言葉のやりとりをすることで、自分のこれまでの思い込みや考えの組み立て方が変わる可能性がある」「優れた言葉のおかげで自分が成長しうる」といった、自分と相手と言葉に対する信頼(敬意)だと氏は話しています。

 知的成長とは眩暈を起こすことだと氏は言います。自分が強く思い込んでいることに揺さぶりをかけられていることを誰もが認めたがらないのは、その前提が崩れると、自分の主張そのものが動揺してしまうのをどこかでわかっているから。正しいと思っていたことが(実は)「そうでもなかった」という現実に直面するのは、しんどいし辛いことだと氏は言います。

 しかし、(だからといって)それを避けて目をつぶっているだけでは成長と発展は止まってしまう。知的に豊かに大きくなるためには、「自分は間違っているのかもしれない」という慎ましい姿勢と、自分の考えを変える可能性のある他者と言葉への敬意がなければならないというのがこの論考における氏の認識です。

 自分を揺さぶる言葉に会った時、人は「え?」と戸惑う。それが眩暈というものだと氏は説明しています。そして「その後」を決定的なものにするのは、理屈の組み立てを丁寧にたどっていくこと。「そういうふうに説明されれば、なるほど自分の考え方も違って見えますね」と、きちんとお腹に落として確かめる勇気が必要だということです。

 さて、ともあれ相手を言い負かしたり、誰かが誰かを論破しているシーンを観るのは概して気持ちのいいこと。なぜなら人は、イライラやフラストレーションを解消してくれるような場面や人の行動を観ることでスッキリするからだと氏はしています。そう、もちろん、勝てば10秒くらいは気持ちいい。しかし、それ以外に、言い合いに勝てば何が得られ、負けると何を失うというのか?

 現在言われている「論破力とは、言い方や雰囲気を通じて相手を嫌な気持ちにさせ、なおかつ自分が変わろうとする勇気を封じ込めてしまうとても臆病なやりとりを、格好よく言い換えたものにすぎないというのが、この論考における氏の見解です。

 でも僕(←岡田氏)は、この言葉を不適切に使う人たちを決して責めたくはないと氏は言います。「論破力」というのは、心が苦しいと感じている、自分と同じ、勇気が少し足りない人間が頼りにする(だからこそ)「強い言葉」。自らを弱者と認識していればこそ、強者に対する憎悪をみたそうとする鬱積した心理(=ルサンチマン)を、少しでも解放したいと願いうのは人の本能のようなものだということでしょう。

 しかし、だからこそ(議論によって自分を変えることができる)本当に強い者には、強い言葉は必要ないと氏は言います。「はい、論破!」と言いながら、今日も苦しい気持ちの誰かが何かを守っている。そんな彼らを責めてはいけない。(強い者はその強さをもって)彼・彼女らを守ってやらねばならないとこの論考を結ぶ岡田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿