厚生労働省が5月23日に発表した3月分毎月勤労統計によれば、この1年における日本の名目賃金の増加額は物価の伸びに追いつかず、働き手1人あたりの「実質賃金」は前年度比で1.8%減少したということです。
詳しく見ると、今年3月時点での現金給与総額は前年同月比で+1.3%(前月は同+0.8%)。変動の激しい所定外給与(残業代)やボーナスなど、一時金を含まない所定内給与は、同+0.5%(前月は同+0.8%)となったとされています。
一方、折からの(円安やエネルギー高に伴う)物価高騰により、現金給与総額を消費者物価(持ち家の帰属家賃を除く総合)で割った実質賃金は、前年同月比-2.3%と大幅に低下したとのこと。実質賃金の低下は12か月連続で、マイナスとなったのは2年ぶりだとされています。
今年の春闘における賃上げ率は予想以上に上振れしている様子が報じられていますが、本格的に賃金統計に表れてくるのはこれからのこと。4月の(天候による変動が大きい生鮮食品を除いた)消費者物価指数が、前年同月比で3.4%上昇していることなどを考えれば、実質賃金が上昇に転じるまでにはまだまだ時間がかかりそうな状況です。
それにしても(一時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われた)この日本で、バブル崩壊後の30年間にわたり、世界から取り残されたように実質賃金が上がらなかったのは一体なぜなのか。
5月24日の『日刊SPA!』が、「実質賃金が30年間上がらないのはなぜ?」と題する元日銀総裁の岩田規久男氏へのインタビュー記事を掲載しているので、改めてその概要を残しておきたいと思います。
実質賃金とは、給与(賞与含む)から物価変動の影響を差し引いた「一人当たりの実質賃金」のこと。厚労省の毎月勤労統計調査」で示されるその値は1996年をピークに、ほぼ一貫して下がり続け、2021年は1990年比で10%も低い水準にあると岩田氏はインタビューの冒頭で指摘しています。
そのため、メディアは「アベノミクスは失敗だった」と繰り返し報じてきた。しかし、この実質賃金は、必ずしも正確に雇用情勢を反映しているものではないというのが、記事における氏の見解です。
その理由について岩田氏は、(当該統計が)正規社員と非正規社員を「一緒くた」にしているからだと話しています。
アベノミクス期間(2013年~2021年)に失業率は4%台から2%前半まで下がったが、一般に雇用環境が改善されていく局面では実質賃金が下がる傾向にある。これは、既存の雇用者よりも賃金の低い、非正規も含めた新規の雇用者が増えるからだ氏は言います。
この点について国会答弁で安倍晋三元首相は、「私の妻が働きに出て、その賃金と私の賃金を合計して2で割った一人当たり実質賃金は低下してしまいます」と説明している。新たに労働に参加する人が増えた(つまり、分母となる働き手が増えた)ため、一人当たりの賃金は(見かけ上)低下しているということです。
(さらに分析すると)実質賃金が低迷を続けている主な要因は、「一人当たり労働時間の減少」にあることがわかると岩田氏は続けます。
OECD(経済協力開発機構)の統計では、1990~’21年の日本の労働生産性上昇率は、G7中2位の高さだった。一方、この期間の日本の一人当たり労働時間は毎年0.75%と、米国の10倍、英国の3倍というすさまじい勢いで減少していたと氏は言います。日本の多くの企業で生産性が大きく向上したにもかかわらず、一人当たりで割った労働時間が大幅に減ったことで、実質賃金上昇率はG7中、6位に落ち込んでしまったということです。
このように労働時間が減少した背景には、長期にわたるデフレがあったと氏はしています。(「就職氷河期」とも呼ばれる)雇用環境の悪化の中、2001年に始まった小泉純一郎内閣の下で構造改革が大きく進められ、労働時間が短い非正規社員の比率(2002年29%→2022年37%)が急激に上昇したのは我々の記憶にも新しいところです。
因みに、今回の記事で岩田氏は、「より正確に賃金動向を見るため」との理由からGDP統計の「雇用者報酬」の推移にも触れています。
同統計の雇用者報酬は、賃金・俸給に企業の社会負担(年金保険料負担など)を加えた金額を表したもの。「毎勤」の賃金には含まれない(企業が負担する)社会保険料なども、最終的に雇用者に帰属する所得となることから雇用者報酬には含まれているということです。
この数字をもとに、消費増税の影響を除去した消費者物価を用いて計算すると、2012年の一人当たり実質雇用者報酬は、対1997年(デフレが始まる前年)比で8.9%のマイナスとなる。一方、2021年の実質雇用者報酬は対2012年比で3.9%のプラスとなっていると氏は話しています。
9年間で3.9%の上昇率は年平均にすると0.4%にすぎないため「上昇」を実感しにくかったのは事実でしょうが、雇用者報酬で見ると、30年間低迷し続けていたわけではなく、「アベノミクスが始まってからは少しずつ上昇し続けていた」というのが、(元日銀副総裁としての)岩田氏の指摘するところです。
バブル経済破綻後の経済的な混乱を経て、人口減少やそれに伴う経済規模の縮小フェーズに突入した日本の社会。社会保障コストの拡大や高齢化に伴う急激な生産年齢人口の減少、さらには(それに伴う)女性の社会進出などが相まって、「失われた」と言われる30年が生まれたということでしょうか。
この日本で長期にわたって賃金が上がらなかったのは、単純に日本企業が成長への意欲を失ったからでも、労働配分をせずに内部留保に勤しんてきたからでも、ましてや労働者が生産性向上への努力を怠ったたりしたからでもない。この期間に我々が乗り越えてきたのは(目には見えない)人口減少に伴う社会・経済の調整期間の存在であり、そうした必要な調整を飲み込みながら現在の社会は動いていると考える岩田氏の指摘を、大変私も興味深く読んだところです。
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