1973年の第4次中東戦争、そしてオイルショックによる原油価格の高騰に端を発した日本のインフレは、当時「狂乱物価」と呼ばれそれまでの高度成長に浮かれた日本経済に大きな混乱を招いていました。
同年の10月16日に産油国が決定した70%という原油価格の引き上げは、1971年のニクソン・ショック(ドル・ショック)から立ち直りかけていた日本の景気を直撃していました。折しも田中角栄内閣による前年からの「日本列島改造ブーム」による地価高騰により「土地バブル」に沸いていた日本経済は、ガソリンや灯油などの価格上昇により相次いだ便乗値上げなどもあってインフレーションが一気に加速した、そんな時代です。
深夜のテレビ放送は休止され、夜間のネオンサインも無くなって街はひっそりと沈まり返りました。デパートのエスカレーターが止められたりガソリンスタンドの日曜営業停止などが行われたのもこの頃のことです。また、国民の間にも物資不足への不安が広がり、一部では市場からトイレットペーパーや洗剤が無くなるなど、日本人の当時の慌てふためきぶりは今でも語り草となっています。
そんな中、1970年代は日本のモータースポーツにとって「冬の時代」と呼ばれています。戦後のモータリゼーションの黎明期を抜け、高速道路網の発達や工業技術の発展、何よりも国民の所得の上昇と生活の向上により、3C(カラーテレビ・クーラー、カー)などと呼ばれた自家用車の大衆化とともに、1960年代後半には、モータースポーツは日本においても華やかな存在となりつつありました。
1962年にホンダが「鈴鹿サーキット」を開設。翌1963年には戦後初めての大規模な自動車レースである「第1回日本グランプリ」が開催されています。1964年、ホンダはヨーロッパのF1GPに参戦。翌1965年の第10戦メキシコGPでは念願の初優勝を果たしています。
さらに国内では、現在公開中の映画「rush」にも登場する「富士スピードウェイ」が1966年にオープンし、ここを中心にトヨタと日産を中心とした国産メーカーによる(今や伝説ともなっているスカイライン対ポルシェの戦いなど)様々な熱戦が繰り広げられました。
しかし、そんな華やかな60年代は、1970年に大阪で開催された万国博覧会をピークにひとつの時代のピリオドを打ちました。経営の先行きへの不安やモータースポーツへの社会の偏見などもあり、1970年にはトヨタ、日産の二大メーカーが「日本グランプリ」からの撤退を発表するに至りました。
開催予定であった日本グランプリ自体が直前で中止されたほか、さらに1973年には第1次オイルショックの影響で、その他の国産メーカーも一斉にワークス活動を中止する事態が生じます。
また、1970年はアメリカで大気浄化法(いわゆるマスキー法)が改正され、これを発端に自動車の排出ガス規制が世界的に進められることになった年でもありました。
ホンダのCVCCエンジンが世界で初めてこのマスキー法基準をクリアし、初代シビックに搭載されたのは1973年のこと。1970年代はまた、自動車にとっての環境元年でもありました。これ以降1980年代初頭まで、市販乗用車のエンジン出力は、触媒や希薄燃焼などの影響を受けモータースポーツファンにとっては魅力の薄いものになってしまいます。
併せて、1970年代に入り、運転免許人口の増加による交通事故の増加や若者の暴走行為の増加なども世論の強い非難を浴び、社会問題化するようになりました。1975年に入り、警察当局により大型オートバイに関する免許制度の見直しや暴走行為の取り締まり強化などが強力に進められたことも、日本のモータースポーツにとっての逆風となっていたようです。
富士スピードウェイにおいて日本で初めてのF1GPが開催された1976年は、そんな時代の流れの真っただ中にありました。前年のチャンピオン、ニキ・ラウダとジェームス・ハントとの優勝争いが最終戦までもつれ込んだことで、豪雨の中で始まったこの記念すべき日本GPは世界中のモータースポーツファンの注目を浴びることとなりました。
しかし、翌1977年、同じく富士スピードウェイで開催された第2回F1日本GPにおいて、6週目に14位を走るジル・ヴィルヌーブのフェラーリが1コーナーでエスケープエリアにダイブして、観客一人と警備員一人が死亡し7名が重軽傷を負うという痛ましい事故が発生したことに加え、興行的にも大きな赤字を生んだことから、日本におけるF1GPはわずか2回で打ち切られることとなります。
日本におけるF1の歴史は、一旦ここで途絶えることになりました。そして再び日本におけるF1の歴史が動き出す1987年の鈴鹿開催まで、日本のモータースポーツファンは10年という歳月を待たなければなりませんでした。
こう考えていくと、1970年代に暮らす日本人にはモータースポーツは案外馴染みが薄い存在だったのかもしれません。確かに、私の知る範囲でも70年代後半の富士スピードウェイや鈴鹿サーキット、筑波サーキットには、ツーリングカーレースやプロダクションレースを中心としたいわゆる「草レース場」の(少しアウトローな)匂いが確かにあったような気がします。
1980年代後半から90年前半代にかけてのF1を中心とした日本のモータースポーツの隆盛を思うと、少なくとも日本においてはモータースポーツの人気は経済の勢いを映す鏡であると言えるのかもしれません。
一方、一定期間モータースポーツがブームにならないでいると、モータースポーツの楽しさを知らない世代が世の中のほとんどを占めることとなり、モータースポーツ自体が極めてマイナーな存在になってしまう可能性もまた考えられます。モータースポーツの素晴らしさを理解し日本の社会に根付かせるためには、(今回の「rush」の公開なども含め)折に触れ、その魅力を発信し続けることが大切なのだろうなと改めて感じた次第です。
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