MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2213 「正しさ」に飲み込まれる人たち

2022年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

 奈良市内で街頭演説を行っていた安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件で、殺人容疑で送検された山上徹也容疑者。当初は「民主主義への挑戦」というような報道が多く見られましたが、事件に至るバックグラウンドが明らかにされるにつれ、メディアの取扱いも徐々に変化しつつあるようです。

 奈良県警は、宗教団体幹部を狙う計画に頓挫した山上容疑者が、安倍氏ならば団体と接点があり社会の注目も集められると考えて事件に及んだとみて捜査を進めていると報じられています。

 容疑者は取り調べに対し、「(安倍氏は)本当の敵ではなかったが、仕方なく殺害対象に選んだ」という趣旨の供述をしているとも伝えられています。容疑者の経歴が詳らかになるのに伴い、家族を不幸に陥れた宗教団体への個人的な恨みや、思い込みに基づく歪んだ正義感が過激な犯行に繋がったと見る向きが増えているようです。

 また、今回の事件の経緯から、容疑者が当初犯行の対象としていた宗教団体が大きく注目されるようになっています。テレビのワイドショーなどで報じられるその布教活動の様子や寄付金の流れなどを見聞きするにつけ、教義に対する入信者の妄信がなぜこれほどまでに極端なものになるのかと、改めて驚かされるところです。

 山上容疑者にせよ、宗教にはまった容疑者の親族にせよ、己れの考える「正しさ」に身も心も飲み込まれてしまった人々が、こうして(周囲を不幸にする)過激な行動に走ることを食い止めるすべはないものなのか。

 7月20日の総合情報サイト「PRESIDENT ONLINE」では、文筆家の御田寺 圭(みたでら・けい)氏の近著『ただしさに殺されないために』(大和書房)の一部を紹介し、「思い込み」によって暴走する人々の背景に目を向けています。(「○○を倒せば世界はもっとよくなる…そんな過激思想に共感する人を増やす"多様性"という落とし穴」2022.7.20)

 ある過激な思想に耽溺していた人が、しばらくすると別の過激な思想の信奉者になっていたり、もしくは両方を掛け持ちしていたりというのはよくあること。例えば、エコロジー系のオピニオンリーダーを信奉していた人が次は反原発運動にのめり込み、最近では反ワクチン活動家になったという話などを聞いても、誰も違和感を抱くことはないと御田寺氏はこの著書に記しています。

 いくつかの思想や運動には共鳴性がある。とりわけ、反ワクチン、極端な脱原発運動家、フェミニズム、ヴィーガンなど、ラディカルでピーキーなリベラル/レフト(左翼)系思想では、こうした傾向が顕著に認められると氏は話しています。

 ともすれば、列挙したそれらすべてを内面化して、界隈を渡り歩いているような人もいる。それも、ひとりふたりの話ではない。特定の思想が強い磁力で相互に作用し合い、繋がっているのはおそらく偶然ではないというのが氏の認識です。

 こうした思想に傾倒している人のふるまいや言動からは、ある種の共通点が見えてくる。共鳴するラディカリズムに深入りしていく人のほとんどは、「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えており、心身共に弱っている人ほど、自分がこれまで抱えてきたそれらの機序と責任の所在をわかりやすく説明してくれるような物語に対して脆弱となると氏は言います。

 生きていく中で、社会からさまざまな「被害」を受けて弱っている人は、人間社会で顕在化するありとあらゆる事象が普遍的に備えている「複雑性」を、細かく解きほぐして消化していくような(根気を要する)作業に耐えうる認知的リソースがない。

 心も体もすでに疲弊し切っている人が、自分の苦しさをもたらしている根源的な事象について多面的・多角的・客観的・相対的に分析し、その複雑な機序と構造を理解しようとするのは相当に困難な試みになるということです。

 こうして、「生きづらさ」で窮している人が、「複雑性」と対峙するという迂遠な作業から遠ざかり、代わりに目の前に提示されたシンプルな物語に身を委ねたくなるのは、(ある意味)自然の成り行きと言える。

 弱っている人は、「複雑系」への疲れと、「単純系」への憧れを持ってしまう。身も心も弱り、疲れ切っている人の目の前に提示されたシンプルな物語が、とりわけそれが責任を「外部化」するものであれば、なおのこと魅力的に見えるというのが氏の見解です。

 例えばラディカル・フェミニズムであれば、「あなたがこれまで抱えてきた生きづらさは、男性あるいは男性社会によってもたらされた不当な搾取であり、加害行為なのだ」と説明される。かくして、説かれる者の責任の一切を外部化するこの言説は、「生きづらさ」によって消耗し切った女性たちを次々に動員していくということです。

 今日、世界の各所で台頭するラディカルな思想運動自体、その党派性にかかわらず、複数の「正しさ」を提示することで社会的統合を目指す‘多様性‘の反動として生まれたものだと氏はここで指摘しています。

 右派・左派それぞれの政治的系統に顕在化するラディカルで暴力的な思想運動は、その行動様式や価値体系や政治的指向性はそれぞれ大きく異なっていたとしても、しかしいずれも「多様性」の反動によって生まれた、血を分けた兄弟たちである。

 彼らは、貴方や私に苦悩を与える様々な状況を「敵か味方か」というシンプルな物語にきれいに収斂させ、天から救いの手を差し伸べる。トランプ主義、極右政党の台頭、ヴィーガン、Antifa、ラディカル・フェミニズム、反ワクチン、Qアノン…例を挙げれば枚挙にいとまがないということです。

 今日の過激思想の台頭は、「ここに集まるだれもが正しい」と肯定される(多様性の)時代に生きる人びとが、ついにその「正しさ」の寛大さに疲れ果て、邪悪な巨人とそれを倒す勇者の叙事詩をふたたびこの世に求めた結果ではないかと、御田寺氏はこの著書に綴っています。

 そして、そこに浮かび上がった「倒すべき相手」は、時に世界を破滅に陥れる「サタン」であったり、宗教団体の代表者であったり、場合によっては宗教団体の活動に加担する(ように見えた)元首相になったりするのでしょう。

 「〇〇を倒せば世界は救われる」…メディアなどに様々に映し出される、そんなアニメのような「正しさ」に飲み込まれていく人々の姿を見るにつけ、「次は自分の番かな」などと(リアルに)不安も感じる今日この頃です。

 本ブログのタイトルではありませんが、「視点によって見方は変わる」「正義は(たぶん)一つではない」と、改めて肝に銘じたいところです。



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