3つながりの続編
【今日は何の日】雲仙普賢岳祈りの日
1991年(平成3年)のこの日、雲仙・普賢岳の大火砕流災害で43人の犠牲者が出た。この犠牲者を追悼するために1998年(平成10年)長崎県島原市が制定。
※こよみのページより:今日は何の日/by こよみのページ (koyomi8.com)
今日6月3日は普賢岳大規模火砕流発生から 33年目 になります。
災害について|雲仙岳災害記念館(がまだすドーム) (udmh.jp)
画像はがまだすドームHPより
(回顧)
転勤で島原の地へ赴いたのが平成2年4月で料金業務担当でしたが、平成3年4月から窓口・電話お客様受付担当へ
島原に赴任した年の11月に「島原大変、肥後迷惑」以来、普賢岳が198年ぶりに噴火して・・・当初は島原・雲仙観光のひとつになるかもなんてことも言われておりましたが、自然災害はそんなやわなこと(思い)を許してはくれませんでした。
窓口に着任して4月以来、火砕流だの土石流だの身近に災害報道と合わせ間近に危機が来てる感がある中で業務をやっておりました。当時は雲仙岳と隔てる眉山が崩落するなんて情報まで巷に出てきておりましたね。社宅は島原市でちょうど眉山の麓になるところにありました。
そして、33年前の今日6月3日、多分月曜日だと思います。日曜日勤務で月曜日が週休日でした。近くのパチンコ店に朝から行っておりまして夕方17時頃に外に出るとどんよりとした空から火山灰の混じった雨が降っておりました(パチンコで333が揃ったかは定かではない)
慌てて家に帰ると奥さんと3人の子供たちは帰り支度・・・(出て行くの)
ではなくて、避難命令が出されるとのことで一時私の実家に避難することとなりました。
僕は業務があるので帰れませんが翌日家族は帰省して、息子は一学期の間、僕の母校「光岡小学校」に通いました。
僕自身は諫早に仮宿舎を準備してくれましたか、一ヶ月ほどは会社に寝泊まりしつつ、解除時間に社宅戻り必要なものを取り出したり・・・勧告に繰り下がってからは社宅に一人寝泊まりしておりました(遠い記憶で且つ、記憶障害?でこと詳細は記憶から消えてたりします)
二学期からは社宅を諫早に変えていただき島原まで通勤しつつ家族での生活が再開したことは記憶しております。ただそこ(諫早)での生活自体は記憶に薄い。
◎22年目にブログに日記を残していました。人の記憶は曖昧なものでかなりの部分が抜け落ちたり、異なる理解になってたりすることがあります。
まあ、だから人は生きていけるのかも知れませんが・・・・
33年前の6月3日起きた大規模火砕流が最大の被害で多くの方が亡くなられました。
でも、それから起きた土石流はすさましいもので、降り積もった火山灰と雨で被害と恐怖は数年に及んだように思います。
復興に向けて仮設住宅への入居に伴う通信設備の構築や開通と維持をする設備屋(部門、協力会社)さんは昼夜問わずに稼働していました。
ひと晩の雨と土石流で徹夜で作った設備が流れてしまったりしたこともありました。
それまでにも辛かったり大変な思いを経験した業務はあったりしましたが、仕事でパニックというのを経験したのは後にも先にもこの島原でした。
それでも被災地に住む社員の人たちも日々頑張って出社して、お客さまのために業務を遂行していることに感謝と感激を覚えたりもしました。
60歳の時に息子や娘たちと島原を訪れる機会がありました。
既に姿を変え、軌跡は残しつつ復興されているなと感じました。
トップにおいた「がまだすドーム」もそのひとつなんでしょう。
今読み直すと還暦60歳直前の土日だったようです。
家族の配慮にも感謝です。
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