【事の真相】ネット記事でも週刊誌、新聞、総合雑誌でもわからないことが、宮学、小林健治『橋下徹現象と差別』(モナド新書)を読んですっきりと腑に落ちた。
私はテレビはニュース番組しか見ないから、当時大阪府知事の橋下徹という字は「はしした・とおる」と読むものとばかり思っていた。「はしもと」と読むのだということは、家内に教わった。新聞もこういう場合は、ふりがなを付けてくれないと困る。が、この「橋下」と書いて「はしもと」と読ませるのは、被差別階級の人に明治になって姓を与える際に、役人がわざと「橋本」や「橋元」と区別して付けたのだそうだ。
昨年の秋、「日本維新の会」が旗揚げした直後、「週刊朝日」が10月26日号から「ハシシタ 奴の本性:橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」という「緊急連載」を開始した。ノンフィクション作家の佐野眞一(「東電OL殺人事件」の著者)と同誌取材班の名前だった。私は問題の週刊誌を読んでいないが、「橋下は大阪のの出身者で、父親はやくざだった」という事実を暴いた上で、「彼のDNAにはそれが入っている。だから人格的におかしいのだ、血脈は争えない」というような内容だったという。
橋下大阪市長がすぐに抗議したが、「週刊朝日」は謝罪と連載うち切りで逃げようとした。が、橋下徹はそれを許さず、版元の「朝日新聞出版社」の社長謝罪と辞任など、一連の懲罰人事を実現させた。これはまだ記憶に新しい。
この事件で不思議に思ったのは、第一になぜ執筆者の佐野眞一が表に出て、きちんと釈明しないのか?ということだった。第二は明らかな「差別」事件なのに、なぜ有名な「解放同盟」は騒ぎ立てないのか?というものだった。
この本を読んで疑問はいずれも解けた。
第一の疑問:記事は実質的に取材班が書いたのであり、佐野は「名義貸し」だった。つまり「週刊朝日」の方は、差別問題に理解がある佐野(このことが彼も被差別出身であることを意味するかどうかは不明)を糾弾された際の「弾よけ」に利用していたということだ。
第二の疑問:これが実に面白い構造になっている。2011年11月、任期切れの平松大阪市長の後任に、府知事をやめて橋下が立候補し、「ダブル選挙」となった。解放同盟は、問題に理解があり、解同と仲の良い、現市長の再選のために運動していた。
その最中に、「週刊新潮」と「週刊新潮」が橋下徹の出自を暴く、ネガティブキャンペーンの記事を掲載した。(これは公職選挙法違反ではないかと思うが、いったいどうなっているのであろう?)
解同の運動員は、大阪本部の指示で平松候補の支援活動をしていたが、橋下が自分たちの仲間で、それが今まさに、出自を理由に攻撃されているのを知り、途方にくれたという。結果は、橋下75万票、現職の平松は52万票と、橋下の圧勝だった。
解同は、両誌に対してまことに形式的な抗議をしただけだった。(文面が収録されている。)
つまり、解同は「いかなる差別も許さない」のではなく、「自分たちの利益になる場合には、差別も容認する」(橋下が市長になれば、利権は消滅する)という態度をとったのである。
これにはさらに奥があって、出身者のライターの中に、問題をメシの種にしている人物がいるらしい。どうしてそういう職業がなり立つかというと、出自を暴くというような記事を書くと解同に糾弾されるが、出身のライターが書いた記事を二次利用する形だと、直接糾弾の弾が飛んでこない。だから重宝なのでそこそこ仕事があるらしい。
事の発端は、「新潮45」2011年11月号(発売は10月)が「『最も危険な政治家』橋下徹研究」という特集を掲載した中に、「大阪松原の地区出身」と自称する上原善広というライターが書いた「孤独なポピュリストの原点」という記事があった。この記事で上原は橋下が育った地区を探し回り、橋下の叔父から「あいつのオヤジは、ヤクザの元組員でや」という発言を引き出している。この上原記事が一連の報道のニュースソースであり、「週刊朝日」記事もふくめ、他はすべて「二次利用」なのだ。
宮と小林は「「マイノリティの人間を使って、同じマイノリティを叩くという構図」と上原を批判しているが、WIKIには上原の言い分も載せてある。http://ja.wikipedia.org/wiki/上原善広
この対談本の一人の宮学はグリコ・森永事件で読売大阪社会部から「キツネ目の男」として、犯人として周辺取材されている。早稲田大在学中は共産党細胞にいて、「民青ゲバルト部隊」を率いて新左翼と武闘を闘っている。その半生を記した『突破者』(幻冬社文庫) で知られるようになった。土建業が挫折したときに世話になった、万年東一のことを書いた小説『万年東一』(同)は、「新宿愚連隊」の元祖を描いていて、尾崎士朗『人生劇場』並みの味わいがあった。
もう一人の対談者小林健治は、解同の指導者で、「にんげん出版」の社長。「モナド新書」というのは同社の新書。「モナド」はライプニッツ哲学に出てくるモナド(単子)である。二人とも地区の出身。政治的に橋下は大嫌いだが、だからといって差別を見逃すのはなお許せないという立場からの対談である。
同和対策事業にたかるがいたり、を食い物にするエセがいたり、をメシの種にする出身者がいたりと、この世界もいろいろあるようだ。
面白いと思ったのは、小林が「思想的に左派の文化人は、このあからさまな差別に異議を申し立てなかった。むしろ思想的に右派の知識人がおかしいといった」と事実関係を指摘した上で、「左派は近代主義に乗っかっていたが、近代が終わった時点でひっくり返った。右派はもともと近代の否定という立場だから、<反動>だったが、逆にひっくり返っていないから、異議申し立てができた」と指摘している点だ。(これはもっと説明を要するが、詳しくは本をお読み願いたい)
期せずして、持論である「本当の革新的な政策は思想的にはやや右よりの部分から出てくる」という意見と合致している。
橋下徹のアナロジーとして、坂本龍馬をあげるべきか、アドルフ・ヒトラーを挙げるのが妥当か、私にはまだわからない。
少なくとも「一人解放同盟」で、大朝日を屈服させた力量はちゃんと評価すべきであろう。
宮が、「解放運動を進めるなかで、労働者や左翼のなか(つまり身内)から差別事例が生じた場合、階級闘争の前進のために、内輪の差別は糾弾しないでおこうという意見が強く出されたことがあった。今度のことは、それと本質的には同じだ」と書いている。まさにその通りだと思う。
韓国人は日本に対しては「民族差別」を激しき糾弾するが、自国では信じられない外国人差別を許している。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/05/03/2013050301025.html
この人気タレントの母親はベトナム人だそうで、おそらくベトナム戦争の際に韓国兵との間に生まれた従軍慰安婦の子供だろう。
前に哲学者オットー・ワイニンガーの論理と倫理は同じものだという説を取りあげたが、「橋下は右派の危険な政治家だから、出身であることを暴いて、大衆の差別感情を煽ってもよい」とするのは、宮が指摘するとおり、「身内でないから差別してもよい」ということを主張している。逆に言うと、「差別反対」は倫理ではなく、政治的論理だということを述べているのだ。
これは典型的なダブルスタンダードである。「私は奴隷になりたくない。だから奴隷をつかう身分にもなりたくない」というリンカーンの言葉は、論理と倫理が見事に合致している。橋下事件」が明らかにしたことは、「週刊朝日」も解放同盟も、差別反対をある政治目的のためのお題目として、利用しているにすぎない、ということだろう。
本気で差別をなくしようと思っているのなら、まず差別問題をメシの種にしている、「身内」の上原善広を「糾弾」しないといけない。ワイニンガーは「論理と倫理の解離」が起こるのは、記憶力がわるい、つまり健忘症のせいで、前に言ったことを忘れてしまうからだという。
いま、この国に起こりつつあるのは、知識人の健忘症による右傾化である。「バスに乗り遅れるな」という言葉は、昭和11(1936)年、「日独防共協定」が成立した頃に流行したが、現在はどうもその再来のようだ。昨日までいっていたことをケロリと忘れ、潮目にあわせて別のことを言い始めた連中が目立つ。これから時代が大きく変わる予感がする。
私はテレビはニュース番組しか見ないから、当時大阪府知事の橋下徹という字は「はしした・とおる」と読むものとばかり思っていた。「はしもと」と読むのだということは、家内に教わった。新聞もこういう場合は、ふりがなを付けてくれないと困る。が、この「橋下」と書いて「はしもと」と読ませるのは、被差別階級の人に明治になって姓を与える際に、役人がわざと「橋本」や「橋元」と区別して付けたのだそうだ。
昨年の秋、「日本維新の会」が旗揚げした直後、「週刊朝日」が10月26日号から「ハシシタ 奴の本性:橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」という「緊急連載」を開始した。ノンフィクション作家の佐野眞一(「東電OL殺人事件」の著者)と同誌取材班の名前だった。私は問題の週刊誌を読んでいないが、「橋下は大阪のの出身者で、父親はやくざだった」という事実を暴いた上で、「彼のDNAにはそれが入っている。だから人格的におかしいのだ、血脈は争えない」というような内容だったという。
橋下大阪市長がすぐに抗議したが、「週刊朝日」は謝罪と連載うち切りで逃げようとした。が、橋下徹はそれを許さず、版元の「朝日新聞出版社」の社長謝罪と辞任など、一連の懲罰人事を実現させた。これはまだ記憶に新しい。
この事件で不思議に思ったのは、第一になぜ執筆者の佐野眞一が表に出て、きちんと釈明しないのか?ということだった。第二は明らかな「差別」事件なのに、なぜ有名な「解放同盟」は騒ぎ立てないのか?というものだった。
この本を読んで疑問はいずれも解けた。
第一の疑問:記事は実質的に取材班が書いたのであり、佐野は「名義貸し」だった。つまり「週刊朝日」の方は、差別問題に理解がある佐野(このことが彼も被差別出身であることを意味するかどうかは不明)を糾弾された際の「弾よけ」に利用していたということだ。
第二の疑問:これが実に面白い構造になっている。2011年11月、任期切れの平松大阪市長の後任に、府知事をやめて橋下が立候補し、「ダブル選挙」となった。解放同盟は、問題に理解があり、解同と仲の良い、現市長の再選のために運動していた。
その最中に、「週刊新潮」と「週刊新潮」が橋下徹の出自を暴く、ネガティブキャンペーンの記事を掲載した。(これは公職選挙法違反ではないかと思うが、いったいどうなっているのであろう?)
解同の運動員は、大阪本部の指示で平松候補の支援活動をしていたが、橋下が自分たちの仲間で、それが今まさに、出自を理由に攻撃されているのを知り、途方にくれたという。結果は、橋下75万票、現職の平松は52万票と、橋下の圧勝だった。
解同は、両誌に対してまことに形式的な抗議をしただけだった。(文面が収録されている。)
つまり、解同は「いかなる差別も許さない」のではなく、「自分たちの利益になる場合には、差別も容認する」(橋下が市長になれば、利権は消滅する)という態度をとったのである。
これにはさらに奥があって、出身者のライターの中に、問題をメシの種にしている人物がいるらしい。どうしてそういう職業がなり立つかというと、出自を暴くというような記事を書くと解同に糾弾されるが、出身のライターが書いた記事を二次利用する形だと、直接糾弾の弾が飛んでこない。だから重宝なのでそこそこ仕事があるらしい。
事の発端は、「新潮45」2011年11月号(発売は10月)が「『最も危険な政治家』橋下徹研究」という特集を掲載した中に、「大阪松原の地区出身」と自称する上原善広というライターが書いた「孤独なポピュリストの原点」という記事があった。この記事で上原は橋下が育った地区を探し回り、橋下の叔父から「あいつのオヤジは、ヤクザの元組員でや」という発言を引き出している。この上原記事が一連の報道のニュースソースであり、「週刊朝日」記事もふくめ、他はすべて「二次利用」なのだ。
宮と小林は「「マイノリティの人間を使って、同じマイノリティを叩くという構図」と上原を批判しているが、WIKIには上原の言い分も載せてある。http://ja.wikipedia.org/wiki/上原善広
この対談本の一人の宮学はグリコ・森永事件で読売大阪社会部から「キツネ目の男」として、犯人として周辺取材されている。早稲田大在学中は共産党細胞にいて、「民青ゲバルト部隊」を率いて新左翼と武闘を闘っている。その半生を記した『突破者』(幻冬社文庫) で知られるようになった。土建業が挫折したときに世話になった、万年東一のことを書いた小説『万年東一』(同)は、「新宿愚連隊」の元祖を描いていて、尾崎士朗『人生劇場』並みの味わいがあった。
もう一人の対談者小林健治は、解同の指導者で、「にんげん出版」の社長。「モナド新書」というのは同社の新書。「モナド」はライプニッツ哲学に出てくるモナド(単子)である。二人とも地区の出身。政治的に橋下は大嫌いだが、だからといって差別を見逃すのはなお許せないという立場からの対談である。
同和対策事業にたかるがいたり、を食い物にするエセがいたり、をメシの種にする出身者がいたりと、この世界もいろいろあるようだ。
面白いと思ったのは、小林が「思想的に左派の文化人は、このあからさまな差別に異議を申し立てなかった。むしろ思想的に右派の知識人がおかしいといった」と事実関係を指摘した上で、「左派は近代主義に乗っかっていたが、近代が終わった時点でひっくり返った。右派はもともと近代の否定という立場だから、<反動>だったが、逆にひっくり返っていないから、異議申し立てができた」と指摘している点だ。(これはもっと説明を要するが、詳しくは本をお読み願いたい)
期せずして、持論である「本当の革新的な政策は思想的にはやや右よりの部分から出てくる」という意見と合致している。
橋下徹のアナロジーとして、坂本龍馬をあげるべきか、アドルフ・ヒトラーを挙げるのが妥当か、私にはまだわからない。
少なくとも「一人解放同盟」で、大朝日を屈服させた力量はちゃんと評価すべきであろう。
宮が、「解放運動を進めるなかで、労働者や左翼のなか(つまり身内)から差別事例が生じた場合、階級闘争の前進のために、内輪の差別は糾弾しないでおこうという意見が強く出されたことがあった。今度のことは、それと本質的には同じだ」と書いている。まさにその通りだと思う。
韓国人は日本に対しては「民族差別」を激しき糾弾するが、自国では信じられない外国人差別を許している。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/05/03/2013050301025.html
この人気タレントの母親はベトナム人だそうで、おそらくベトナム戦争の際に韓国兵との間に生まれた従軍慰安婦の子供だろう。
前に哲学者オットー・ワイニンガーの論理と倫理は同じものだという説を取りあげたが、「橋下は右派の危険な政治家だから、出身であることを暴いて、大衆の差別感情を煽ってもよい」とするのは、宮が指摘するとおり、「身内でないから差別してもよい」ということを主張している。逆に言うと、「差別反対」は倫理ではなく、政治的論理だということを述べているのだ。
これは典型的なダブルスタンダードである。「私は奴隷になりたくない。だから奴隷をつかう身分にもなりたくない」というリンカーンの言葉は、論理と倫理が見事に合致している。橋下事件」が明らかにしたことは、「週刊朝日」も解放同盟も、差別反対をある政治目的のためのお題目として、利用しているにすぎない、ということだろう。
本気で差別をなくしようと思っているのなら、まず差別問題をメシの種にしている、「身内」の上原善広を「糾弾」しないといけない。ワイニンガーは「論理と倫理の解離」が起こるのは、記憶力がわるい、つまり健忘症のせいで、前に言ったことを忘れてしまうからだという。
いま、この国に起こりつつあるのは、知識人の健忘症による右傾化である。「バスに乗り遅れるな」という言葉は、昭和11(1936)年、「日独防共協定」が成立した頃に流行したが、現在はどうもその再来のようだ。昨日までいっていたことをケロリと忘れ、潮目にあわせて別のことを言い始めた連中が目立つ。これから時代が大きく変わる予感がする。
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