ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【消える書物】難波先生より

2014-05-10 09:31:16 | 難波紘二先生
【消える書物】
前回のメルマガで、硝子戸の中の枯れたツタの写真の貼付に失敗した。新しGMAILには

「画像添付」という機能があるのに利用せずに、プレビューの画像をコピー&ペーストしたのが間違いだったようだ。改めてWORDに挿入する。こんな無惨な廃屋は初めて見た。
 芭蕉の句をもじって、「無惨やな…」で一句できそうだ。

 こういうわけで、パソコンの操作は間違う、本は行方知れずになる、というような現象が相継いでいる。キーボードのブラインドタッチにも間違いが増えた。
 晩年の山田風太郎が「本が突然消える」と嘆いていた。関川夏央「戦中派天才老人 山田風太郎」(マガジンハウス, 1995)にあったと記憶していたが、頁を繰ったら違った。10冊近くある風太郎随筆のどれかにあるのだが、本気で探すとまた半日かかるので、出典は明示できない。
 探していたW.ブロード & N.ウェイド「背信の科学者たち」(講談社ブルーバックス, 2006)がやっと出てきた。何と積み重ねた新聞切り抜きの下にあった。この牧野賢治による新版は、1988年の化学同人社版に比べて、「訳者解説」が充実していて、1983~2006年までの世界の主なミスコンダクト事件と日本のそれが扱われている。
 新聞や資料の下になっている、これが本が消える第一のパターンだとわかった。
 2004年11月理研では「研究不正」事件が起こり、翌年5月に「監査・コンプライアンス室」が設置されたとあるが、STAP事件をみると、予防効果がなかったことになる。やはり「日本版ORI」設置することが必要だろう。
 そうしていると岡田節人「からだの設計図:プラナリアからヒトまで」(岩波新書, 1994)も出てきた。なんと別の本のページの間に挟まって、横になっていた。道理で積み重ねた資料を動かしても出て来ないわけだ。これが「消える」第二のパターン。
 同じく探していた多田富雄「免疫の意味論」(青土社, 1994)も出てきた。これは月刊誌「現代思想」に12回連載された後、出版されたもので確か「大佛次郎賞」を受賞している名著だ。この本がもっと早く見つかっていれば、TCR遺伝子の再構成についてもっと分かりやすいコメントが書けていただろう。
 これは同じく探していたE.O.Wilsonの原本「Consilience: The Unity of Knowledge」(Vintage, 1999)と共に、仕事場の階段を上がった屋根裏の階段脇に、他の本や雑誌と一緒に立てて並んでいた。階段はこの間に、月刊誌、週刊誌、学会誌などが山積みになって、上りにくく、ここに本が並んでいることさえ忘れていた。
 「置いた位置を忘れる」、これが第三のパターンだ。
 森鷗外が「探し物をするときは、探そうと思わず、片づけようと思ってやれ」と随筆に書いているが、至言だと思う。S先生が片付けをしてくれたおかげか、わずか半日のうちに探していた4冊の本が相ついで見つかった。
 書棚には一連の上下に関連書を必ず置くようにしている。これなら上から下までその連の棚を見れば、探す本がすぐ見つかるからだ。が、自分で例外を作って、作ったことを忘れていたのだから、始末におえない。そのうち「盗まれた」と言いだすのではないかと、自分が怖くなる。
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3 コメント

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安易な医者つくり (まくろふぁーじ)
2014-05-11 14:08:02
私の夫は大学の医学部で教えていますが医学部の定員が増えて学生のレベルが落ちていく様を嘆いております。特に推薦枠ができて。医学部の学生を増やすように文科省はしたけれど教員数も設備もそのまま、お金をかけないで医者だけ増やそうとしている弊害が。
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少子化ゆえ一人一人を大切に (Unknown)
2014-05-11 14:14:33
少子化の中、大学を作り続けて結局定員割れをおこし学生にも迷惑が。文科省は天下り先が増えて喜んでいるかもしれません。そういえば理研にも文科省の天下りが。nature にも理研から多額の広告費がでているそうですけれど、もっと一人一人の子供たちを大切に、教育に正しいお金を配分してほしいものです。
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学閥の中で (免疫とは)
2014-05-11 20:24:43
多田富雄先生は学会会場でお見かけしたことがあります。当時はまだ千葉大におられて、千葉大グループはみなTシャツにジーンズというラフな出で立ちで周囲を圧倒していました。東大に移られてからは蝶ネクタイをされたり以前とがらりと雰囲気がかわれたように思いますが郷にいってはでしょうか、当時はまだ東大へ千葉大から教授として行かれることにはご苦労もあったのかもしれません。
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