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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【観而不学】難波先生より

2017-08-01 23:27:20 | 難波紘二先生
【観而不学】
 自製の漢句で「観れども学ばず」と訓じてもらいたい。意味は追い追い明らかとなる。

〔貨幣経済〕会津二本松の出身で1890(M23)年に21歳で朝鮮に渡り、「二六新報」という日刊新聞の記者となった本間九介という人物が1894(M27)年に書いた『朝鮮雑記』(現代語版、祥伝社、2016/2)という珍本を入手した。これがとても面白い。
 「通貨の運搬」(p.234)という項があり、朝鮮には紙幣がないこと、そのうえ硬貨は「一銭銅貨」だけで高額貨幣がなく、奥地旅行するには必要な経費を運搬するのに困り果てる、と書いている。
 当時のお金で日本円30円に相当する朝鮮通貨を馬で運ぼうとすると、馬が運べる限度は20貫(75Kg)、「内陸に30里(朝鮮里でなく日本里の120Kmだと思う=筆者)も入るとなると、運搬する通貨の1割5分、4円50銭の運搬料が必要となる」と書いている。
 日清戦争(1894/3〜1895/4)もあって、当時の朝鮮ではインフレが進んでいたのかも知れないが、たった30円のお金が人力では運搬できない重さの硬貨になるというのに驚いた。

 13世紀に中国を支配下においた元帝国は、世界で初めて「不兌換紙幣」を発行した国だ。この紙幣についてはマルコ・ポーロもその旅行記に書いている。
 元帝国は1368年に滅び、新たに漢族の明が建った。元の水先案内人として日本に攻めてきた高麗(文永の役:1274年、弘安の役: 1281年)は、1377年に李成桂が建てた「李氏朝鮮」に変わった。
 この時代の日本では、政治の実権が鎌倉幕府でも源氏→北条氏へと移動し、足利氏による室町幕府の成立(1336)と後醍醐帝による親政が南北朝の分立につながり、鎌倉幕府の御家人(直参武士)が独立して群雄割拠する時代を準備することになった。政治的には不安定な時代である。
 この頃、日本を訪問した外国人の記録に、李氏朝鮮の宋希璟『老松堂日本行録』(岩波文庫)がある。彼は朝鮮使節として1420年1月に来日し、将軍足利義持と面会し、同年10月に帰国している。朝鮮側の目的は「倭寇取り締まり」の要請だった。岩波文庫の村井章介による解説には、この時「朝鮮が日本の要請に応じて大蔵経(一切経)を与えた」とある。
 この旅行記は文人が花鳥風月を詠んだ漢詩が主体で、大して貴重なものと思わないが、ところどころに興味ある所見が盛られている。

 兵庫県西宮での往路の観察。
「日本には乞食が多い。路傍の所々に座っていて、旅人が通ると銭を恵んでくれという。」
 朝鮮の乞食は食べ物を恵んでくれというから、日本ではすでに貨幣経済が普及していたことがわかる。
 外交使節(回礼使)の接遇費について。
「昔より回礼使が来ると将軍は回礼使(団)に銭を与え、回礼使はそれで人を雇い、賄いをさせることになっている」とある。一行が何人だったのかわからないが、「甲斐殿」という護衛担当官の兵卒20人と家人7〜8人が警護と食事の世話に当たったとある。
 「その経費を聞くと、一日に銭二、三貫を用いるという」と書かれている。これはおそらく甲斐殿の部下の食費なども含まれているのであろう。
 この頃の貨幣単位は千文=銭一貫で、ネットによると室町時代の貨幣価値を現在に換算すると一文銭=100円、一貫=10万円に大略相当するという。
 西宮の乞食が求めたのは、一文銭1枚つまり今日の百円玉であり、回礼使の接遇費は1日あたり、二、三十万円になったということであろう。「食器は13日毎に新しいものと交換した」とあるから、こういう経費も含めれば「一日に銭二、三貫」というのはべらぼうに高いものではあるまい。
 宋や明との貿易を通じて、すでに室町時代には貨幣経済が、少なくとも都市にはかなり普及していたことが、これらの記載からわかる。ただ金銀製の純度の高い硬貨はこの時代にはなかった。

 「回礼使」の接遇費が日本持ちという慣行は、江戸時代に12回行われた「朝鮮通信使」の一行についてもそのまま適用された。約500人に達する通信使一行の接遇費は1回当たり約100万両かかった。新井白石は接遇の簡素化を主張し、第8回通信使(1711, 正徳元年)ではこれを60万両に減らすことに成功している。(もっとも白石が失脚した後は旧に復した。)
 当時の幕府の歳入が年間200万両弱しかないのに、この経費を賄えるわけがない。そこで通信使が通過した土地の大名の負担となった。当時の一両はほぼ米一石(180L)の値段である。つまり世に名高い「加賀百万石」とは、加賀藩の歳入はおよそ100万両あったということだ。

 蚊帳について。
 「蚊を追う」という短文があり、「色の黒い大きな蚊に悩まされた。日も落ちないのにすでに空中を飛んでいる。目を開けているのが困難だ。帳(蚊帳)に入っても、一匹でも入ってくれば眠るのも困難だ」と書かれている。
 不思議なことは蚊帳を目撃しながら、これが朝鮮に導入された形跡がないことだ。本間九介は『朝鮮雑記』に朝鮮奥地を旅行した時、宿に蚊帳がなくて苦労したと書いている。

 蚊帳が朝鮮に導入されなかったことは、1719(享保4)年、徳川吉宗の将軍就任慶賀に来た朝鮮通信使の申維翰『海游録』(東洋文庫)にある、日本の蚊帳についての記載からも明らかだ。
 「蚊がひとたび起これば、青糸・苧布(おふ=からむし、麻の線維)をもって方帳となし、四角い木枠にかぶせる。高さは人が座れる程度にする。蚊帳の中には人ひとりが入って、寝られるようにする」(p.292)
 1420年、室町時代に来日した宋希璟は日本のヤブ蚊と蚊帳に驚いたが、300年後には日本の蚊帳は部屋全体を覆うものから、ひとりの寝床を覆うタイプのものにまで進化していた。申維翰も蚊帳を見て驚いているから、本間九介がいうように「朝鮮には蚊帳がない」というのは事実であろう。朝鮮人は日本の蚊帳を見ても、あえて朝鮮に広めようとしなかったのだろう。

 水車について。
 本間九介『朝鮮雑記』に<朝鮮の山は禿げ山が多く、樹木がないため少しの日照りでも、すぐに水源が涸れ、田圃が干上がってしまう。日本では高地の水田の灌漑には水車を用いるが、朝鮮には水車がない。よって柄杓を用いて少しずつ水を汲み上げる。かの国には水車を発明する知識もない」(p.97)とある。
 ところが、金仁謙『日東壮遊歌』(東洋文庫)には、1763〜1764年、第十一次朝鮮通信使の一行が箱根から三島に下る途中で、大型の水車を見たことが詳しく書かれている。水車の軸と取り付けられた5本の棒がどのように、5基の石臼の杵を動かすか、読めばわかるようになっている。「一日二五石の米を精米する」ともある。非常に能率的だ。
 同じく同書1764年1月27日の条に、淀城で淀川から水を汲み上げる水車を見たことを記している。水車自体は28枚の羽目板で廻り、水を汲むのは羽目板の先に紐で取り付けた小桶で、最上部まで達すると、城壁の上で給水溝に水を注ぐようになっている。
 後述するように1881(明治14)年に朝鮮からの使節団「紳士遊覧団」が日本を訪問した際には、この淀城の水車とその製造所を視察したと訳注にある。
 金仁謙はこの水汲み水車に驚嘆し、「その仕組みの巧妙さ、見習って造りたいものだ」と書いているが、「観而不学」。見聞はまったく生かされず、朝鮮には100年後にも水車が導入されなかった。本間九介が「かの国(朝鮮)には水車を発明する知識もない」と1894(M27)年に『朝鮮雑記』で指摘したのも無理はないと思う。
 『日東壮遊歌』は全文ハングルで書かれており、朝鮮人はそれを自慢にしているのだが、どうも文人的思考がつよく、こうした実学的な事物は知識人の関心を惹かなかったようだ。当時の朝鮮人は文盲率90%で、諺文(ハングル文)でさえも読めなかったのだから、無理もない。

〔付記〕イサベラ・バード『朝鮮紀行』(1905、講談社学術文庫, 1998/1)に「水力を利用した米つき機パンア」の記載がある。ソウルから徒歩で朝鮮東岸の元山(ウォンサン)へ旅行した際に目撃している。これは竹筒を利用した日本の「鹿(しし)威し」と同じ原理で動くもので、梃(てこ)として働く棒の片側に杵を取りつけ、他端に水を溜める箱を取り付けたものである。樋の水を箱に注ぐと杵が上に反る。箱が傾くと一挙に水が流れ出し、勢いがついて杵が下の米を入れた臼に落下して米を搗く。効率の方は、金仁謙が見物した5連の大型水車には及ぶべくもない。やはり水車は朝鮮にはなかったようだ。

 同じく衛生について。
 ポータブルの蚊帳に驚いた宋希璟の『海游録』に、蠅についての観察がある。
「(日本の)夏の暑い時、蠅がはなはだ稀である。これは室内を清潔にして汚さず、魚肉の腐敗したものはただちに土に埋め、便所で悪臭を放つものはただちに田んぼに移すからである。このため蠅が生じる余地がないのだ。」(p.292)
 この観察はまったく正しい。問題をこの衛生上の観察を本国に戻って生かさなかった点にある。ここでも実学の発想が欠けている。

 他方、本間九介は1904年の朝鮮について以下の観察を記録している。(『朝鮮雑記』)
「朝鮮の人は尿を汚いものと思わず、湯や水のように心得ている。なんと、小便で顔を洗うのを目撃したことがある。その人の言によると『肌艶がよくなる』という。
 室内に真鍮製の小便器を置き、客があっても隠すことをしない。尿意を催すと、これを取ってすぐに用を足し、また傍らに置く。… 婦女が陰部を洗う際には、必ず小便を用いるという。これは梅毒などの伝染を防ぐためだという。」(「便所」)

 本間は夏に朝鮮内陸部を旅行した時に、旅館に風呂がなく、部屋に畳も蚊帳もなく、ノミ、シラミ、南京虫、蚊に責め立てられて、結局内庭に敷いたゴザの上で丸太の枕で一夜を過ごしたと書いている。(「夏の旅行」)
 同じく冬に朝鮮北西部を旅行した時には、「数十日の旅のあいだに一回の入浴の機会もなかった」が、黄海道・海州にたどり着いた時、宿の主人から「別棟に浴場があります」と言われ、案内されて小屋に入ったところ、中は真っ暗で浴槽はなく、蒸し風呂(サウナ)だったと記述している。(「海州の浴場」)

 享和2(1802)年に初版が出た十返舎一九『東海道中膝栗毛』(岩波文庫2巻本)には、小田原の宿で弥二さんと北さんが初めて五右衛門風呂に入る場面が出て来る。この風呂は文中の挿絵を見ると、平釜の上に木製の風呂桶を乗せた古いタイプの五右衛門風呂である。湯が漏れないように継ぎ目を漆喰で固めてある。
 弥二さんは湯の表面に浮いている底板を蓋だと思って取りのけて入ったものだから、底の鉄板が熱くて足裏を火傷してしまい、仕方なく便所下駄を履いて湯に入るというお話だ。
 京都の箇所では「湯屋」、「銭湯」という言葉が両人と店の主人との会話に出て来るから、すでに江戸にも湯屋や銭湯はあったと思われる。五右衛門風呂はどうも関西が発祥の地で、1800年頃には小田原あたりまで波及していたようだ。

 イザベラ・バードは英人の金持ち旅行客で、高級ホテルや領事館を宿舎にしたせいか、朝鮮の旅館や風呂についての記述がない。これは彼女の『日本奥地紀行』と大いに違う点だ。
 彼女は<朝鮮の民家は平屋で、路地に面した外壁には不規則な形の溝があり、個体及び液体の汚物(排泄物)が溜まっている>と記述している。これが集まるとドブ川になるが、朝鮮ソウルの下層階級の女たちは、この水を柄杓で汲んで洗濯をしているとある。(『朝鮮紀行』講談社学術文庫、p.65)
 ここのところを本間は「(朝鮮全土の市街は)牛馬人糞、市中にあふれ、不潔なことは喩えようもない」、「瓜や水瓜の熟する季節には、朝鮮人がこれらを好んで食うために、道路の排泄物も色青く、瓜や水瓜の種で一杯になる」、「蠅にいたっては、春夏秋冬、おびただしく室内を飛びまわっており、払い尽くすすべもない」と書いている。(「市街の不潔」)

 この風景は私が1992年、アフリカ・コートジボワールの首都アビジャンのスラム街で見た光景を思い出させる。コンクリート・ブロックを積んだだけの粗末な民家にはトイレも浴室もなく、民家10戸くらいに一箇所、共同便所があった。壁も屋根もトタンで、排便する場所に屋根瓦が敷かれ、その両側にレンガを横にした足置き場があった。排便後は備え付けのバケツの水を用いて大便を洗い流すようになっていた。
 ところがこの排水はスラム街を貫通している未舗装の通りに流れて行く。しかも排水溝は道路の真ん中を縦に流れていた。側溝だと家から路上に出るのに足が汚れるので、汚物は道路の真ん中の汚水溝に流すのである。汚水溝といっても浅いので自動車が横断するのに邪魔にはならない。ところどころで水が乾き、汚物が道路に散乱している。
 この汚水は最終的にはスラム街の東端で海(ギニア湾)に注ぐ。
 このスラムはコートジボワール最大の売春街でもあった。日本大使館から「スラム街は危険だから立ち入らないように」と勧告を受けていたが、エイズ感染の実態調査が目的だったから止めるわけに行かない。昼間タクシーをチャーターして、スラム街の全体構造と売春宿の位置を確かめた。
 夜、同じ運転手の案内でスラム街を再訪した。驚いたことに真っ暗だから、道路の中央が排水溝になっていることがまったく見えない。行く手に紅灯の館があり、そこが歓楽の館だとすぐわかる。
 当時、ギニア湾から沖の大西洋にかけて、日本の漁船団が多く操業していて、補給のためコートジボワールに寄港していた。朝鮮人経営のバーで日本人漁船員からも話を聞いた。

 今回、本間九介とイザベラ・バードの旅行記を読み返してみて、1890年代の朝鮮の都市民の居住区と1990年代のアフリカのスラム街が、酷似しているのに驚いた。

 江戸期の朝鮮通信使は12回で、1回100万両、合計で約1200万両の経費を日本は負担した。通信使の員数は一回約500人、合計では6000人程度の朝鮮人が日本を訪問したわけだが、その見聞記録は驚くほど少なく、日本での実学的見聞(水車、蚊帳、風呂、便所など)が朝鮮に導入された形跡もない。「顎足付き」で日本に来た延べ約6000人の朝鮮人は何を学んだのか、と思う。

 1860(万延元)年、前々年の1858年に調印された「日米修好通商条約」に基づいて、江戸幕府は遣米使節団を派遣している。正使・副使は米海軍のポーハタン号に乗船し、木村嘉毅(軍艦奉行)、勝海舟、ジョン万次郎、福沢諭吉などは、オランダ製の咸臨丸に乗り随行した。
 同艦は、往路は米海軍ジョン・ブルック大尉ら米海軍乗組員の助けを借りたが、復路は米人乗組員も雇い入れ、艦長勝の指揮下にハワイに寄港後、神奈川に帰着した。
 正使は新見正興、副使は村垣範正であった。目付には小栗忠順が選ばれた。これら3人を含む使節団はたった77人だった。この一行はパナマ地峡を鉄道で横断、別の米船で首都ワシントンに到着し、米大統領と面会、条約批准書を交換した後、ワシントンでスミソニアン博物館、国会議事堂、海軍工廠、海軍天文台などを見学している。バルチモアでは造幣局を見学し、ニューヨークから別の米船に乗り、大西洋を横断、アフリカ西海岸と喜望峰—インド洋を経て、日本に帰国している。
 訪問先を見ても、一行の関心が米国の統治制度と優れた科学技術・工学に向けられていたことが明らかだ。

 1871(M4)年藩籍奉還と廃藩置県を実施した明治政府は、政府閣僚・要人の約半数を含む大規模な「米欧回覧使節団」と男女の留学生団を派遣している。使節団は岩倉具視(右大臣)を特命全権大使とし、副使4人は木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、伊藤博文(工部大輔)、山口尚芳(外務小輔)だった。約50名の使節団には久米邦武(権少外史=史学者・書記官)が含まれており、後に『特命全権大使 米欧回覧実記(全5冊)』(現岩波文庫)という詳細な見聞録をまとめている。
 留学生団は約60名で、男子には金子堅太郎(福岡士族、後明治憲法の調査・起草者)、団琢磨(福岡士族、後三井財閥の総帥)、中江篤介(高知士族、後の中江兆民)などがいた。女子は5人で、最年少の津田梅子(後に津田女子英塾を創立)はわずか8歳、最年長の医家吉益の娘亮が16歳だった。留学生たちは欧米各地に分散して留学した。
 政府の実力者がこの使節団に加わり約2年間欧米各国の視察を行ったので、本国の政府は「留守政府」と呼ばれた。留守政府は1873(M6)年4月、懸案となっていた「日清修交条約」を外務卿副島種臣が清国に渡り、批准書を交換した。また清国公使から「台湾生蕃は化外の民」という発言を引き出し、1871年に発生した「琉球島民の台湾原住民による殺戮」に対応して、日本が台湾に出兵することを清国に承認させた。

 1868(M1)年12月、明治政府は朝鮮との外交を伝統的に担当していた対馬藩宗氏を通じて「王政復古」の通知を朝鮮に提出したが、「草梁倭館」に駐在していた朝鮮の役人は、文書中に「勅」「皇」の文字が使われていることを不当として、文書の受理を拒否した。中国>朝鮮>日本という「華夷秩序」が刷り込まれている朝鮮人には、勅や皇の文字は宗主国である清国皇帝にのみ許されると考えていた。すでに東京にある各国公使館には同文の通告書が渡され、各国と友好的に交際することが宣言されていた。朝鮮のこの態度を傲慢として、一般民衆にも反朝鮮論が起こった。これが「征韓論」の始まりである。

 以後、日本政府は朝鮮に何度も外交使節を派遣し、国交の再開を要望するが、文字の問題は表層的な理由で、真の目的は鎖国政策の維持(当時の朝鮮政府のスローガンは「衛正斥邪」=正学である儒教を守り、邪教であるキリスト教を排除すること)にあった。
 清国が「日清修交条約」(1871/9)の批准により日本と国交を回復すると、朝鮮のみが「鎖国」を維持する状態となっていた。
 「留守政府」内ににわかに征韓論が台頭したのは、外務卿副島種臣の活躍で「日清修交条約」(1873)が締結されたからである。1871(M4)年の「藩籍奉還・廃藩置県」は旧武士の大量失業を招き、国内には士族の不満が鬱積していた。西郷隆盛や板垣退助らはそのはけ口を朝鮮問題の解決策に利用しようと考えていた。
 情報に接して、大久保利通(M6/5/26帰着)はベルリンから、木戸孝允(M6/7/23帰着)はペトログラードから相次いで急遽帰国した。留守政府は8月中旬西郷隆盛を「遣朝大使」として選んだが、最終決定は右大臣岩倉具視全権大使の帰国後に行うことにした。岩倉はマルセイユから9/14に帰着、復命した後、大久保と組んで先の決定を覆し、朝鮮との全面戦争を前提とした「征韓論」を取り止めにした。

 欧米各国をつぶさに視察した使節団員に「征韓論」を唱える閣僚はいなかった。岩倉の上奏を明治帝が全面的に受け入れ、勅許が出たことで、征韓派は一斉に下野し、大久保は政府制度の改変に着手した。いわゆる「明治六年十月の変」である。
 翌1874(M7)年4月には台湾に漂着した沖縄人が現地人から略奪される事件が起き、現地民(生蕃)鎮圧のため政府は軍を派遣している。これが明治期の最初の海外派兵となった。
 翌1875(M8)年5月、ロシアとの間に「樺太・千島交換条約」を調印し北方領土問題を解決すると、次の目標は「朝鮮の開国」になった。

 当時の朝鮮は「鎖国攘夷」にこり固まっていて、対馬藩から外務省に移管された「草梁倭館」を受け取りに日本から赴いた外交官花房良質は、朝鮮側から「なぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷秩序を乱す行為である」と非難され、水や食糧の供給を拒否されている。
 朝鮮開国の外交交渉が進展しないので、日本側は1875(M8)年5月、「雲揚」他2隻の軍艦を釜山に派遣し、海図作成のための測量などを行った。地元役人の希望で艦内見学を許し、発砲演習を行ったところ、約20人の役人たちが恐懼したという。

 しかし交渉は進展しなかったので、日本側は「小規模の実戦やむなし」と判断し、同年9月、雲揚号を単艦、江華島に派遣した。
 ここはソウルを流れる漢江の河口沖にある島で、要塞化されていた。この島は元、清など北方の民族が朝鮮を侵略した時に、王がソウルから逃げて行く島で、宮殿もあった。
 またこの島の砲台は1866年9月、侵入してきたフランス艦隊の陸戦隊を撃退しているし、1871年4月にはアメリカ海軍の5隻の艦隊が江華島に接近し、砲台と戦闘になったが、島の占領を維持することができず、撤退したという歴史をもっている。これらの艦隊は浦賀に来たペリー艦隊と同じく、朝鮮の開国と和親条約の締結を求めるものだった。

 雲揚の飲料水補給のため、江華湾に入りボートを下ろして漕ぎ始めたところ、江華島砲台が突然発泡した。ボートと同乗者を収容した雲揚は砲台に対して応戦し、砲台を破壊、仁川の沖にある永宗島という島を占領し、民家を焼いた。さらに砲38門を戦利品として押収した。
 3日間に亘る戦闘で、日本側は江華島の3砲台を破壊もしくは占領したが、被害は負傷者2名(うち1名が後に死亡)だけだった。朝鮮側は死者35名、捕虜16名他とされている。彼我の損害の差は、朝鮮側砲台の射程距離が短く、命中精度も悪く砲弾が雲揚に命中しなかったためらしい。
 その後、1876(M9)年2月、日本は6隻の艦隊を派遣し、黒田清隆(全権大使)、井上馨(副大使)が朝鮮側に「日朝修好条規」の締結を求めた。事大主義の「皇」「勅」の文字問題などどこかにすっ飛んでしまい、その月のうちにいわゆる「江華島条約」が成立し、朝鮮は釜山、仁川、元山の3港を日本と日本人に開港することを約した。
 最低限の損害で、明治初年以来の大問題を決着させた「砲艦外交」は美事といえよう。

 これが契機となって以後、朝鮮は欧米各国と修交通商条約を結んだ。締結年次と相手国を以下に記す。
 1882=対米国、対清国
 1883=対英、対独
 1884=対伊
 1885=対露
 1886=対仏
 1892=対オーストリア
 つまり1876年、日本との江華島条約締結が、朝鮮の鎖国を止めさせ、欧米等に門戸を開かせたということだ。百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』には、1876年江華島条約により日本が無理やり朝鮮を開国させたことについて触れられていないが、私見ではこれが朝鮮を滅ぼす最大原因となったと思う。日本は「大政奉還」という奇策により、江戸幕府から太政官政府へと政権を移し新時代の政策を実行することができたが、国王とその姻族が支配する朝鮮では、日本のようにまったく新しい政権を樹立することができなかった。

 朝鮮人、韓国人、在日、日本人、西洋人が書いた多くの本を読んだが、奇妙なことに「江華島条約により朝鮮が開国したことで、朝鮮滅亡の道が定まったのだ」ということを論じた本がない。私見ではこの条約がなければ、ロシアが満州と朝鮮半島を併合しただろうと思われる。
 日清戦争(1894-95)の結果、日本が清国から割譲された遼東半島を返還するように求めた「三国干渉」の音頭を執ったのがロシアで、追従したのがドイツとフランスであることを考えれば、ロシアが遼東半島先端の不凍港旅順を地政学的にいかに欲していたかがわかる。
 ロシアはすでに東は太平洋岸のウラジオストックまで進出しており、遼東半島を清から租借すれば、朝鮮半島北から挟み込む形になり、さらに清に迫って南満州の租借権を得れば、朝鮮半島は付け根の部分で完全にロシアに遮断される形になる。清国が崩壊するのは時間の問題だったから、そうなれば朝鮮国が丸ごとロシア領になっただろう。

 朝鮮は江華島条約調印後の1876/5に金綺秀を主席とする第一回「修信使」を日本に送ったが、滞在期間がたった20日間で、文明開化の実状について、ほんど理解できなかった。何しろ横浜で初めて電線を見て驚いたという。
 1880/8には政府要人の金弘集を団長とする小規模の見学使節団が派遣されている。(滞在期間不明)この使節団により、日本の文明開化の状況の一端(電灯、ガス、電線、電信、鉄道、通貨制度、郵便制度、上下水道など)が朝鮮王室にも伝わった。

 朝鮮が初の「海外視察団」を出したのは1881(M14)年5月のことで、62人(69とも)を「紳士遊覧団」と自称して、4ヶ月間日本に派遣した。宿を分宿するなどカムフラージュはしたが、途中で「王命による視察団」であることが、日本政府にばれて一悶着があった。日本側は丁寧にもてなし、この時は造幣局、造船所など社会インフラを主に見学している。随員のうち、兪吉濬(ゆ・きつしゅん)と柳定秀は福沢諭吉の慶応義塾に、尹致昊(いん・ちこう)は中村正直の同人社に入学し、初の朝鮮人留学生となった。
 日本が1871(M4)年に行った「欧米視察団」に似た使節団の派遣を朝鮮が行ったのは、やっと1883(M16)年のことである。日本に1ヶ月、米国に1ヶ月滞在し、その後、欧州行き組と即帰国組に分かれた。欧州組は英、仏、伊を訪問してスエズ運河を通って帰国した。不思議なことに直近の北の脅威である帝政ロシアを訪問していない。
 朝鮮ではこれを通商条約締結国に対する「報聘使」と称しているらしいが、久米邦武「特命全権大使 米欧回覧実記(全5冊)」(岩波文庫)のように詳しい記録が残っていないので、詳細は不明である。

 朝鮮から日本には、室町時代後期から明治20年までに数十人から数百人規模の「通信使」が30回近くやって来ているが、「観れども学ばず」でなにひとつ実学の知識を学んでいない、というのが今回の発見だった。思うにこれは朝鮮の支配層が「両班(やんばん)」(文官と武官)という階級にありながら、実質的には文官専政で軍の指揮も文官がとるというような体制上の欠陥のせいだろうと思う。実学を軽視するシステムだったのだ。
 「事大」(大=中華 に仕える)を国是とし、大中華を宗主国とすることで自らを「小中華」と位置づける事大主義は、日韓併合まで治らなかった。(今も治っていないようにも思う。)
 朝鮮史を読むと「壬辰矮乱」「壬午軍乱」「甲申政変」というような、五干十二支(干支=えと)を冠した事件がやたら多いが、あれは中国から下賜された元号を使いたくないものだから、干支を使用したためだ。干支は60年すると元に戻るから「絶対年代」の表示には不適切だ。

 1420年に来日した宋希璟『老松堂日本行録』が漢詩の合間に書きつけた観察には、日本を蔑視した記述はない。が、顎足付きで日本に来た江戸時代の朝鮮通信使の記録を読むと、日本人と日本を蔑視した記録が目立つようになる。最悪なのが、1763年に来日した第十一次朝鮮通信使の一行にいた金仁謙『日東壮遊歌』で、京都の都市の結構を見て、
 「惜しむらくはこの豊かな金城湯池が、倭人の所有するもので、帝(みかど)だ 皇(すめら)だと称する者の子々孫々に伝えられていることだ。
 この犬畜生にも等しい倭人をことごとく滅ぼし、日本全土を朝鮮の国土となし、朝鮮王の徳により礼節の国にしたいものだ。」(p.251)
 と嫉妬と羨望に満ちた文言を(ハングルで)書き残している。金仁謙は50歳近くになって、やっと科挙の下級試験に合格した男で、下級随員にすぎなかったが、「ハングルで日本旅行記を書いた」という理由で、もてはやす学者が朝鮮にも日本にもいる。だがこの男は「帝」と「大君(将軍)」との違いすら理解できていない。
 初代駐日英国大使オールコックは『大君の都:幕末日本滞在記(全三巻)』(岩波文庫)を書き、江戸と京都の政治制度上の違いをしっかりと記述しているというのに。
 
 ペリー艦隊が浦賀にやって来たのが1853(嘉永6)年、日米和親条約の調印が1854(同7)年である。日朝間の江華島条約の調印は1876(明治9)年で、その差は約20年だが、この時代の世界は急激に動いていた。普通の20年ではない。維新開国後の日本はわずか一世代30年のうちに、日清戦争と日露戦争を戦って勝ち、H.G.ウェルズ(「世界史概観」)をして「世界史の奇跡」と言わしめている。これは「岩倉使節団」で閣僚の半数を欧米見学に派遣し、「良きは取り、良からざるは捨てる」という「観て学ぶ」という方針を貫いたからだ。
 事大主義にこり固まった朝鮮には諸外国を客観的に観察して取捨選択するべき、肝心の哲学がなかった。外交方針にも先見の明がなかった。李王朝は滅ぶべくして亡んだといえよう。



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