【広島市土砂災害】
世の中の「異常事件」はすべて病理現象であるから、広義の病理学の研究対象となる。
広島市北部で8/20早朝に起きた多発性の山崩れによる土石流災害もそうである。以下は一種の研究メモとお考え願いたい。
8/20(水)朝、NHKニュースの動画をGoogleで見て、「広島県地図帳」の5万分の1図と1万分の1図で、山崩れ発生地点と避難勧告が出た地点を調べたら、5キロ四方に満たない狭い地域に集中していた。北から南へ可部、八木、緑井とつらなる太田川右岸の阿武山(586m)―権現山(397m)山塊にそった狭い帯状地帯である。共通点は急な斜面にある新興住宅地帯で、険しい山の裾を削って団地ができているという点だ。
15:00過ぎに遅いブランチをしながら、新聞4紙を読み、TVの「ミヤネ屋」とNHKを見ると、どちらも被災地の現場中継をやっていた。どちらもミクロの視点で、家が流されたとか、ゴーッという音がしたら土石流がやってきたとか、3時間で8月に降る雨の2倍が降ったとかそういう話ばかりだ。前者は災害(病気)の合併症であり、後者は病因の一つかも知れないが、病理発生を説明できるものではない。
「これは現場を見てみるしかないな」と思った。
『陰徳太平記』によると安芸国が吉田の毛利元就のものになる以前、現場のあたりは武田元繁の勢力範囲で、八木の阿武山には家臣熊谷元直の山城があった。
瀬戸内海沿岸部を安芸まで制圧した山口の大内氏は、大永3(1523)年、出雲尼子氏の属城安芸西条の鏡山城を奪取し、尼子=毛利=武田同盟の一角に食らいついた。この同盟の南端が太田川右岸の八木城であり、それを見張るために大内側が築いたのが左岸の恵下山(えげやま)城である。両城は太田川を挟んで東西に向き合っていた。
かつての恵下山城は、今は「高陽住宅団地」となり、城郭の跡地は「恵下山公園」となっている。西側には太田川を見下ろす展望台もある。
山崩れがあった現場には、国道45号線も、県道から国道に向けて渡る橋も閉鎖されていて、近づけないに決まっている。しかし、恵下山公園に行けば、対岸の山崩れの範囲と規模が遠望できると地図を調べてわかった。そこで公園から現場を見ることにして、小さなショルダーバッグに、コンパス、双眼鏡、地図を詰め込んだ。
詳細な地図とコンパスを持参したのは賢明だった。思わぬ交通規制のため、途中からカーナビが狂ったからである。あれは平時の案内はできても、緊急時の案内はできない。
太田川左岸を走って広島市内に入ると、とたんに渋滞が始まり、結局1時間半かけて目的地に到達した。
「恵下山公園」を奥に入ると、左手に再現された縄文住居があり、右手に展望台に行く細い道がある。すこし泥が溜まったコンクリート道の上に、人が一人歩いた足跡がついている。展望台から、太田川を挟んで対岸の八木・緑井の被災現場がよく見えるし、川土手の道に県警がパトカーを配置し、交通規制しているのも手に取るようにわかるのに、見物人も取材陣も誰一人としていない。不思議なことだ。
現場では上空にヘリが4機ほど旋回していた。うち「産経」の動画が現地の地理学的状況をよく捉えている。
https://news.google.co.jp/news/rtc?ncl=dBgMnkxKyrE-f7Mrl-V7nywqd3uXM&authuser=0&topic=w&siidp=6695a8aa793660cdaf9ecd84d2f703a97664
まず八木地区の崩落状況。八木の別所という土地で、県営アパートの裏山が4箇所にわたり崩落している。うち2箇所は水が集まりやすい谷の部分である。左手の1箇所は段丘状に造成した崖が崩れている。(写真1)
(写真1)
真ん中の崩落地(下図に拡大写真)は、左手が何か造成工事をしており、右手にはイノシシ防御の緑色のネットが見え、その間を上図の山頂付近に、滝のように見える崩落とつながった土石流が走っている。(写真2)
(写真2)
下の写真3を見ると、山の傾斜はいかにも急峻で、100mm/Hrの降雨が3時間続けば、いつ土砂崩れを起こしても不思議でない。
(写真3)
下図(写真4)はその隣の「八木ヵ丘団地」の裏山の崩落状況だ。山の頂上付近から谷筋に縦に崩落が起こって土石流が発生し、それが団地の住宅を直撃している。
(写真4)
不思議なのは上図(写真4)右に見えるように、土石流のため団地の民家は壊されたり傾いたりしているのに、森陰の朱塗りの神社には何の影響も及んでいないことだ。神社は谷筋をよけて、尾根筋に建てられている(写真3下側中央部に遠景)のに、民家はもろ谷筋に建てられたために、たまたま樹林の防壁があった家々を除いて、土石流により流されたり壊されたりしている。
(写真5)
ここ(写真5)は右上からの土石流に直撃された家々である。
恵下山公園の北側には尾根の部分に、県立高陽高校のグランドと校舎がある。グランド脇の道を歩いていて、思わぬ「自然の実験」に出くわした。
写真6a
上図(写真6a)は運動場の端にある土留めのコンクリート石垣で、2メートルおきに配水管が設置してある。マンホールの蓋上にも路上にも土砂の流出がない。
写真6b
上図(写真6b)は同じ通路の山側、展望台に至る道である。左側は運動場の端だが、コンクリート壁で固められていて、異常がない。山側は、雨水に混じって土砂が流れ出し、路上に2箇所で堆積し、「扇状地」を形成している。もう少し乾いていて、水分を失うとともに頂上部に水流の痕が残っている。
これはほぼ純粋な「真土(まさつち)」(「真砂土」と書いて「マサド」とルビを振っている新聞もある。)で、風化した花崗岩性の砂からなる。中国地方の山は古生代のものが隆起した「隆起山地」が多く、このため「中国山脈」として、西は山口県中央部から東は兵庫県中央部まで広がっている。風化が進みなだらかな形状をしているが、これは表土(植物性有機物に富む土壌)の下に真土(風化した花崗岩の砂粒:地質学者は「しんど」と発音しているが、本場の広島地方では「マサツチ」と呼んでいる。)を多く含んでいる。
中国山地の切り通し道の崖を観察すると、黒い表土層はどんなに厚くても50cm程度しかない。その下には厚さ2~3メートルの土砂つまり真土の層がある。その下が花崗岩層である。
雨が降ったときに水を吸収して保水力を発揮するのは、表土とそこに根を張っている植物である。もし集中豪雨による降水量が表土層の保水力を上回れば、余分の水はより下層の真土/花崗岩層に流れ込む。
乾いた砂山に水を注いだらわかるように、砂は最初「パーコーレーション理論」により、砂粒間に水分を保持するので、いくらでも水を吸収するように見えるが、全体に水が行き渡った時点で、突然に液状化する。
そうすると水にかかっている圧力と重力の法則に従って、最も低い地点でもっとも抵抗の弱い地点から流出を始める。これが「土石流」であり、右上図はそれが小規模に発生したものだ。
生物が「分子生物学」の法則に従うように、地質は「物理化学」の法則に従う。スケールの大小は関係ない。
(写真7)
写真7は八木地区の県営アパート裏手の崖の崩落現場である。これを写真6a、6bと比較してもらいたい。高陽高校のグランド脇は、排水パイプを通した上にコンクリート壁で地面の崩落を防いでいる。それをしていない山側斜面では小さな土石流が発生した。
この県営アパート裏の崖は、水抜きパイプもないし、コンクリートの崩落防止壁もない。ただ土を削って段丘状にしただけである。崩落は、最上部の段丘の上にあった山の斜面の真土層の地滑りとして始まり、生えていた樹木をなぎ倒し、最上層の土段を破壊し、それ以下の段では表層部をはぎ取ってアパートを直撃しているように見える。
素人の私が見ても危ないと思われる工法がどうして許可されたのであろうか?
残った山林の樹相を見ると、枯れ松が1本あるが、残りはすべて広葉落葉樹であり、樹齢は40年に満たない。つまり1970年代以後、この団地が開発され、広がるのと軌を一にして、針葉樹から広葉樹への植生の変化が生じている。これも土地の保水力や崩れやすさに影響を与えているだろう。
南にあたる緑井方面は、八木地区の尾根が邪魔して見通しが利かないが、同じような地形が繰り返しているから、やはり谷筋にそって土石流が発生したのであろう。
夕暮れになってヤブ蚊が出てきた。半袖シャツにカメラ、ナイフ、磁石など機材をポケットに満載した釣り用の網ベストを着けただけだから、たちまち4匹に食われた。高血糖があるから私の血は美味いだろう。
夕もやが出てきたし、私のデジカメには手ぶれ補正機構がないから、望遠ズームでの撮影が難しくなってきたので、現場を後にした。駐車場まで戻る途中、「陸上自衛隊第13連隊(海田)」と書かれた指揮車両とジープが各1台、高陽高校の正門から敷地内に入って行くのを目撃した。ここに陣取るのは賢明である。
それにしても前は海田駐屯地には「第13師団」がいたのに、いつ「連隊編成」になったのであろうか? 連隊は旧陸軍と同じく4箇中隊編成なのか?
帰りは来た道を戻ったが、19:00を回っていて、国道54号線が閉鎖されたために緑井の手前から三次方面に向かう帰宅の車が流れ込み、しばらく渋滞が続いた。7時のNHKニュースが時間延長して広島の災害を報じるのを聞きながら戻った。
夕食時に「報道ステーション」を見たが、近接像の被害家屋の映像とヘリからの遠景動画だけで、何が何だかよくわからない。「テレビは写し方を知らんな」と思った。
その後8/21(木)NHK 17:40の報道によると、死者39人、行方不明26人、住宅の方は損壊46棟、浸水139棟であるという。県警と自衛隊などが2,500人体制で捜索・復旧活動を続けているが、被害はさらに増えそうだという。
(8/22朝のNHK報道によると、不明が51人に増えて最大で死者・不明者90人に上る見こみという。)
安佐南区の八木、緑井に知人が住んでいないか気になり始めたので、住所録データベースと医学部の同窓会名簿を調べたら、「安佐南区八木」に高校の同期生が一人だけ住んでいた。ある大手企業の技術者で、定年退職した後、家を建て真っ先にソーラー発電を始めた。もう20年近く前のことだ。住所をもとにGoogleアースとマップの検索機能を使ったら家が特定できた。便利になったものだ。
地形的には山に向かって6メートル道路がやや北西方向に走り、この道路と山との間に20軒ほどの家が一つのブロックをなしている。ブロックの北と東は山である。
彼の家は道路に面して南西に向き、屋根にソーラーパネルが載っている。道路の南側にそって幅1メートルほどの排水溝がある。航空写真では谷筋には見えないが、等高線のある地形図を見ると、明らかに谷筋である。
驚いて電話を入れたら、呼び出しベルは鳴るが、誰も応答しない。電話機が無事だということは、家は無事ということだろう。どこかに避難しているのかも知れない。無事であってほしい。
世の中の「異常事件」はすべて病理現象であるから、広義の病理学の研究対象となる。
広島市北部で8/20早朝に起きた多発性の山崩れによる土石流災害もそうである。以下は一種の研究メモとお考え願いたい。
8/20(水)朝、NHKニュースの動画をGoogleで見て、「広島県地図帳」の5万分の1図と1万分の1図で、山崩れ発生地点と避難勧告が出た地点を調べたら、5キロ四方に満たない狭い地域に集中していた。北から南へ可部、八木、緑井とつらなる太田川右岸の阿武山(586m)―権現山(397m)山塊にそった狭い帯状地帯である。共通点は急な斜面にある新興住宅地帯で、険しい山の裾を削って団地ができているという点だ。
15:00過ぎに遅いブランチをしながら、新聞4紙を読み、TVの「ミヤネ屋」とNHKを見ると、どちらも被災地の現場中継をやっていた。どちらもミクロの視点で、家が流されたとか、ゴーッという音がしたら土石流がやってきたとか、3時間で8月に降る雨の2倍が降ったとかそういう話ばかりだ。前者は災害(病気)の合併症であり、後者は病因の一つかも知れないが、病理発生を説明できるものではない。
「これは現場を見てみるしかないな」と思った。
『陰徳太平記』によると安芸国が吉田の毛利元就のものになる以前、現場のあたりは武田元繁の勢力範囲で、八木の阿武山には家臣熊谷元直の山城があった。
瀬戸内海沿岸部を安芸まで制圧した山口の大内氏は、大永3(1523)年、出雲尼子氏の属城安芸西条の鏡山城を奪取し、尼子=毛利=武田同盟の一角に食らいついた。この同盟の南端が太田川右岸の八木城であり、それを見張るために大内側が築いたのが左岸の恵下山(えげやま)城である。両城は太田川を挟んで東西に向き合っていた。
かつての恵下山城は、今は「高陽住宅団地」となり、城郭の跡地は「恵下山公園」となっている。西側には太田川を見下ろす展望台もある。
山崩れがあった現場には、国道45号線も、県道から国道に向けて渡る橋も閉鎖されていて、近づけないに決まっている。しかし、恵下山公園に行けば、対岸の山崩れの範囲と規模が遠望できると地図を調べてわかった。そこで公園から現場を見ることにして、小さなショルダーバッグに、コンパス、双眼鏡、地図を詰め込んだ。
詳細な地図とコンパスを持参したのは賢明だった。思わぬ交通規制のため、途中からカーナビが狂ったからである。あれは平時の案内はできても、緊急時の案内はできない。
太田川左岸を走って広島市内に入ると、とたんに渋滞が始まり、結局1時間半かけて目的地に到達した。
「恵下山公園」を奥に入ると、左手に再現された縄文住居があり、右手に展望台に行く細い道がある。すこし泥が溜まったコンクリート道の上に、人が一人歩いた足跡がついている。展望台から、太田川を挟んで対岸の八木・緑井の被災現場がよく見えるし、川土手の道に県警がパトカーを配置し、交通規制しているのも手に取るようにわかるのに、見物人も取材陣も誰一人としていない。不思議なことだ。
現場では上空にヘリが4機ほど旋回していた。うち「産経」の動画が現地の地理学的状況をよく捉えている。
https://news.google.co.jp/news/rtc?ncl=dBgMnkxKyrE-f7Mrl-V7nywqd3uXM&authuser=0&topic=w&siidp=6695a8aa793660cdaf9ecd84d2f703a97664
まず八木地区の崩落状況。八木の別所という土地で、県営アパートの裏山が4箇所にわたり崩落している。うち2箇所は水が集まりやすい谷の部分である。左手の1箇所は段丘状に造成した崖が崩れている。(写真1)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/d1/b025fc8bf02d0614993ded9b5c403de3.jpg)
真ん中の崩落地(下図に拡大写真)は、左手が何か造成工事をしており、右手にはイノシシ防御の緑色のネットが見え、その間を上図の山頂付近に、滝のように見える崩落とつながった土石流が走っている。(写真2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/16/b41bbdcad5bcf52af51a1fc8470d3718.jpg)
下の写真3を見ると、山の傾斜はいかにも急峻で、100mm/Hrの降雨が3時間続けば、いつ土砂崩れを起こしても不思議でない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/b9/8973ca4cf2a0c6e360098db7ccebe818.jpg)
下図(写真4)はその隣の「八木ヵ丘団地」の裏山の崩落状況だ。山の頂上付近から谷筋に縦に崩落が起こって土石流が発生し、それが団地の住宅を直撃している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4f/cc7030224339a59b91908899659e9f49.jpg)
不思議なのは上図(写真4)右に見えるように、土石流のため団地の民家は壊されたり傾いたりしているのに、森陰の朱塗りの神社には何の影響も及んでいないことだ。神社は谷筋をよけて、尾根筋に建てられている(写真3下側中央部に遠景)のに、民家はもろ谷筋に建てられたために、たまたま樹林の防壁があった家々を除いて、土石流により流されたり壊されたりしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/be/2dbc5ec811342e467d3bcaf8a30e28ec.jpg)
ここ(写真5)は右上からの土石流に直撃された家々である。
恵下山公園の北側には尾根の部分に、県立高陽高校のグランドと校舎がある。グランド脇の道を歩いていて、思わぬ「自然の実験」に出くわした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/4f/b047ba3b6033bed30a4408eb56eec693.jpg)
上図(写真6a)は運動場の端にある土留めのコンクリート石垣で、2メートルおきに配水管が設置してある。マンホールの蓋上にも路上にも土砂の流出がない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/88/f2c0ece62f81631e48bcc2866c269281.jpg)
上図(写真6b)は同じ通路の山側、展望台に至る道である。左側は運動場の端だが、コンクリート壁で固められていて、異常がない。山側は、雨水に混じって土砂が流れ出し、路上に2箇所で堆積し、「扇状地」を形成している。もう少し乾いていて、水分を失うとともに頂上部に水流の痕が残っている。
これはほぼ純粋な「真土(まさつち)」(「真砂土」と書いて「マサド」とルビを振っている新聞もある。)で、風化した花崗岩性の砂からなる。中国地方の山は古生代のものが隆起した「隆起山地」が多く、このため「中国山脈」として、西は山口県中央部から東は兵庫県中央部まで広がっている。風化が進みなだらかな形状をしているが、これは表土(植物性有機物に富む土壌)の下に真土(風化した花崗岩の砂粒:地質学者は「しんど」と発音しているが、本場の広島地方では「マサツチ」と呼んでいる。)を多く含んでいる。
中国山地の切り通し道の崖を観察すると、黒い表土層はどんなに厚くても50cm程度しかない。その下には厚さ2~3メートルの土砂つまり真土の層がある。その下が花崗岩層である。
雨が降ったときに水を吸収して保水力を発揮するのは、表土とそこに根を張っている植物である。もし集中豪雨による降水量が表土層の保水力を上回れば、余分の水はより下層の真土/花崗岩層に流れ込む。
乾いた砂山に水を注いだらわかるように、砂は最初「パーコーレーション理論」により、砂粒間に水分を保持するので、いくらでも水を吸収するように見えるが、全体に水が行き渡った時点で、突然に液状化する。
そうすると水にかかっている圧力と重力の法則に従って、最も低い地点でもっとも抵抗の弱い地点から流出を始める。これが「土石流」であり、右上図はそれが小規模に発生したものだ。
生物が「分子生物学」の法則に従うように、地質は「物理化学」の法則に従う。スケールの大小は関係ない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/03/739f1da769ba420a31a77aff88c46a1d.jpg)
写真7は八木地区の県営アパート裏手の崖の崩落現場である。これを写真6a、6bと比較してもらいたい。高陽高校のグランド脇は、排水パイプを通した上にコンクリート壁で地面の崩落を防いでいる。それをしていない山側斜面では小さな土石流が発生した。
この県営アパート裏の崖は、水抜きパイプもないし、コンクリートの崩落防止壁もない。ただ土を削って段丘状にしただけである。崩落は、最上部の段丘の上にあった山の斜面の真土層の地滑りとして始まり、生えていた樹木をなぎ倒し、最上層の土段を破壊し、それ以下の段では表層部をはぎ取ってアパートを直撃しているように見える。
素人の私が見ても危ないと思われる工法がどうして許可されたのであろうか?
残った山林の樹相を見ると、枯れ松が1本あるが、残りはすべて広葉落葉樹であり、樹齢は40年に満たない。つまり1970年代以後、この団地が開発され、広がるのと軌を一にして、針葉樹から広葉樹への植生の変化が生じている。これも土地の保水力や崩れやすさに影響を与えているだろう。
南にあたる緑井方面は、八木地区の尾根が邪魔して見通しが利かないが、同じような地形が繰り返しているから、やはり谷筋にそって土石流が発生したのであろう。
夕暮れになってヤブ蚊が出てきた。半袖シャツにカメラ、ナイフ、磁石など機材をポケットに満載した釣り用の網ベストを着けただけだから、たちまち4匹に食われた。高血糖があるから私の血は美味いだろう。
夕もやが出てきたし、私のデジカメには手ぶれ補正機構がないから、望遠ズームでの撮影が難しくなってきたので、現場を後にした。駐車場まで戻る途中、「陸上自衛隊第13連隊(海田)」と書かれた指揮車両とジープが各1台、高陽高校の正門から敷地内に入って行くのを目撃した。ここに陣取るのは賢明である。
それにしても前は海田駐屯地には「第13師団」がいたのに、いつ「連隊編成」になったのであろうか? 連隊は旧陸軍と同じく4箇中隊編成なのか?
帰りは来た道を戻ったが、19:00を回っていて、国道54号線が閉鎖されたために緑井の手前から三次方面に向かう帰宅の車が流れ込み、しばらく渋滞が続いた。7時のNHKニュースが時間延長して広島の災害を報じるのを聞きながら戻った。
夕食時に「報道ステーション」を見たが、近接像の被害家屋の映像とヘリからの遠景動画だけで、何が何だかよくわからない。「テレビは写し方を知らんな」と思った。
その後8/21(木)NHK 17:40の報道によると、死者39人、行方不明26人、住宅の方は損壊46棟、浸水139棟であるという。県警と自衛隊などが2,500人体制で捜索・復旧活動を続けているが、被害はさらに増えそうだという。
(8/22朝のNHK報道によると、不明が51人に増えて最大で死者・不明者90人に上る見こみという。)
安佐南区の八木、緑井に知人が住んでいないか気になり始めたので、住所録データベースと医学部の同窓会名簿を調べたら、「安佐南区八木」に高校の同期生が一人だけ住んでいた。ある大手企業の技術者で、定年退職した後、家を建て真っ先にソーラー発電を始めた。もう20年近く前のことだ。住所をもとにGoogleアースとマップの検索機能を使ったら家が特定できた。便利になったものだ。
地形的には山に向かって6メートル道路がやや北西方向に走り、この道路と山との間に20軒ほどの家が一つのブロックをなしている。ブロックの北と東は山である。
彼の家は道路に面して南西に向き、屋根にソーラーパネルが載っている。道路の南側にそって幅1メートルほどの排水溝がある。航空写真では谷筋には見えないが、等高線のある地形図を見ると、明らかに谷筋である。
驚いて電話を入れたら、呼び出しベルは鳴るが、誰も応答しない。電話機が無事だということは、家は無事ということだろう。どこかに避難しているのかも知れない。無事であってほしい。
しかし、先生の探究心に敬服する一方で、まだまだ大変な状況なのですから、現場まで出かけられるような無茶は余りなさらないでいただきたいとも思いました。
ご友人の安否、ご心配ですね。私もお家が無事ならばご友人も無事なのではと思いますが、天のご加護を心よりお祈り申し上げます。
ニュースで、土砂災害の現場の旧地名が「蛇落地悪谷」だったと、「八木蛇落地悪谷」から「八木」となって災害のイメージをなくしていったのだと知りました。
それにしても地元の大学の地質学教授が、災害があってから地質について語っているのを見ると、何故危険な場所に宅地造成をするのかと、もっと早くに提言出来なかったものかと悔やまれます。
未だに行方不明の方がおられます。一刻も早く確認されるよう願っています。
多くの失われた尊い命に心より哀悼の意を表します。