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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【従軍売春婦】難波先生より

2014-01-14 12:37:04 | 難波紘二先生
【従軍売春婦】空樽を住み家としたことで知られる、古代アテネの哲学者ディオゲネスは売春と結婚の違いについて、こう述べている。
 「売春は賃仕事、結婚は請け負い仕事」
 売春の起源はもっと古く、メソポタミアの神殿巫女売春にあるとされている。バビロンの乙女は巫女として、参詣者の男に身をまかせ、その代金を神殿に奉納しないと、晴れて結婚する権利を獲得できなかった。



 1618年に始まったヨーロッパの「三十年戰争」は、国民国家の成立を促した重要な戦争だが、各国の軍隊の後には「娘子軍」と呼ばれる、売春や洗濯などを行う女たちが追従していた。
 1960年代の「ベトナム戦争」では、南ベトナム政府軍の兵士は、家族を連れていた。


 生命のやり取りをする戦争を戦う兵隊にとって、「性の処理」は大問題だ。どのような指揮官もこの問題を解決せざるをえない。
 歴史的には以下の方式があったようだ。
 1. 自発的な売春婦が軍隊の後を追いかけるのを許す、
 2. 兵士が戦勝後に、相手方に対して略奪・強姦するのを許す、
  ジンギスカンの軍隊は騎馬兵が主力であったから、この方式しか取れなかった。世界でもっとも多くの子孫を残した男は、ジンギスカンだと言われている。
 3. 衛生風紀上の問題から、軍が業者を通じて兵士相手の売春を管理するようする。
 性病の原因が解明され、予防が重要なことが明らかになった19世紀末からは、各国とも戦力維持の観点から、これに積極的に取り組んでいる。


 ちなみに「性病」病原体の発見年は次のようになっている。
 梅毒=スピロヘータ・パリドゥム, 1905 (シャウディンとホフマン)
 淋病=ナイセリア淋菌, 1879 (ナイセリア)
 軟性下かん=デュクレー桿菌, 1889 (A.デュクレー)
 鼠頸リンパ肉芽腫(第四性病)=クラミジア菌, 1907 (ハルベルシュテッターとプロワゼッキー)


 いわゆる「従軍慰安婦」なるものは、上記1.が発展して3.のかたちになったもので、軍としては兵士及び将校の「性病の予防及び治療」を行っていた。そのために民間の遊廓では「検梅」と呼ばれた娼婦の定期検診があった。



 日本軍には「慰安所」という軍管理の売春所があり、軍医が性病の検診と治療を行っていた。前回に触れた戸井昌造「戦争案内」(平凡社ライブラリー, 1999)をめくっていたら、p.199に「武漢積慶里の慰安所」の図面が載っていた。
 (添付1)
 大通り(「中山路」)に面して、高いレンガ塀に囲まれた敷地があり、中に6棟の建物があり、20軒の女郎屋と診療所、病棟、看護婦詰め所、薬剤室、警官派出所、業者組合事務室などがある。
 女郎屋のうち、戸井が「朝鮮人業者の経営」としているものが7軒。日本人業者の支店としているものが、8軒ある。他の5軒は楼名も、業者も不明。


 何気なくめくったのだが、「羽田別荘(広島)」という文字の方が勝手に眼に飛び込んできて、いやでも詳細に検討せざるを得なくなった。この店はいまも、広島の「高級割烹旅館」として存続している。
 場所は天満川の左岸で、右岸の下手には「魚久」というやはり割烹旅館があり、医師会が宴会によく利用していた。(すぐ傍に県医師会館がある。)
 前から「なぜこんな住宅地のど真ん中に、割烹旅館があるのだろう?」と不思議に思っていたのだが、尋ねる相手もなくこの歳まで来た。しかし、この絵がヒントになって、答えが見つかりそうだ。


 私の知る戦後の広島の繁華街は「八丁堀・紙屋町」地区にあり、夜の飲食街・遊び場は八丁堀の東に連なる「流川・薬研堀・弥生町」地区になっている。が、どうも原爆が落ちる前は広島駅北側の「東練兵場」と広島城内の「西練兵場」があり、そこから徒歩で行けるところに東遊廓、西遊廓というふたつの売春街があったらしい。
 東遊廓は薬研堀通りの東側にあった。いま弥生町は私娼窟だ。
 西遊廓は本川の右岸、「土橋・船入町」地区にあった。その西端に位置するのが、羽田別荘や魚久なのだ。ここは爆心地から1キロ以内の距離にある。今、中国新聞社がある位置の西側には「瓢亭」という老舗料亭もあった。


 原爆にもめげず商売を再開したが、1958/4/1から「売春防止法」が施行され、遊廓は廃業となった。これは私が高校2年生の時で、失業した娼婦たちが県営の「婦人会館」に収容され、2階の窓から外を見ていたのを憶えている。(何しろ自宅がはす向かいにあった。)なかには子連れの女もいた。


 この本を書いた戸井という人は、1943年12月(あの雨の神宮球場を隊列行進するニュース・リールで有名な)学徒出陣第1陣として入営し、「見習士官」として中国戦線に送られている。敗戦後、抑留生活を経て帰国、以後「反戦平和運動」に積極的にかかわっているが、この本の記述はまるで軍隊生活を楽しんだみたいで、イデオロギー的な主張はない。岡本喜八監督の映画に「独立愚連隊」シリーズがあるが、あれの原話みたいな、集団脱走した兵隊ヤクザのエピソードも載っている。


 この「積慶里」の慰安所には、朝鮮人150名、日本人130名の慰安婦がいたこと、死んだ慰安婦のために立派な「供養塔」が建てられていたことなどが、描かれている。兵には「六合里」という名の中国人売春街に行く自由もあったが、戸井は一度行って懲りて、次からは「積慶里」に替わったと述べている。クーニャンの粗野な感性に耐えられなかったそうだ。


 この絵を見ると、施設そのものは既存の中国遊廓を転用していると思われる。
満州のハルピン市外にあった「大観園」という売春・阿片窟の構造と同じである。
(佐藤慎一郎「大観園の解剖」、原書房、2002)
 恐らく中国の売春街は阿片窟を兼ねていて、一種の城塞の様に造られていたのであろう。中からの逃亡と外からの盗賊を防ぐために…。
 大観園は漢民族だけが経営していたが、戸井の見た積慶里は、日本人業者と朝鮮人業者がひとつの同業者組合を作って、共存していた。
 この図面と本文説明を読むかぎり、「強制連行」があったとは考えにくい。


 上記の室谷克実「悪韓論」(新潮新書)によると、古来より朝鮮には「献女」と称する若い女性を貢つぐ伝統があり、宗主国中国に対して毎年多数の性奴隷が贈られていたという。(1637年の清国との条約第1項によると「毎年娘3000人」。)
 李成桂が1392年に樹立した「李氏朝鮮」は約500年続いたが、その間に、王族、両班、常民、という4身分制の階級制度が形成された。奴婢階級は奴隷身分で、出自は親が子供を売った場合、同士の間に生まれた子である場合、借金や貧困のため自らを売った場合があった。奴隷には国家所有の「官」と個人所有の「」があり、生殺与奪県は所有者が握っており、法によらずして殺害することもできた。朝鮮は法治国家でなく、「慣習法」で維持されていた。(ダレ「朝鮮事情」東洋文庫)


 郡役所が所有する女は、郡長官、官吏、門衛、警察官、官飛脚などに対して「性サービス」を提供した。仏人神父ダレは、「貞淑な婦人にとって、官に落とされることは、死刑に数千倍する苦痛を意味した」と書いている。
 なお朝鮮の女性には名前がなく、朝鮮に戸籍制度はなかったから、恒久的な通称もなかった。一般には幼児期はあだ名で呼び、長じては「◯◯の姉」、「◯◯の妹」、結婚後は出身地の名称をとって、「XX(地名)」あるいは「△△(夫の名前)の家」と呼ばれた。
 李氏朝鮮では夫が死んでも妻の再婚は禁止されていた。このため若い寡婦の多くは生活のために金持ちの妾になるか、娼婦になるのが普通であった。つまり階級制度と再婚禁止令が、朝鮮における「売春文化」の培地を用意したのである。
 (ダレ神父「朝鮮事情」は、フランス語テキストを「在日」が日本語に訳したもので、朝鮮の悪習はぼかしてあり、よい訳本ではない。)


 李氏朝鮮時代、日本による朝鮮併合時代、大韓民国成立後も、朝鮮では売春が公認されていた。韓国が「性売買特別法」を施行し、売春を違法としたのは2004/9になってからである。法施行前に行われた政府による初の「売春実態調査」(「朝鮮日報」記事)によると、
 1.売春産業の年間売り上げは26兆ウォン(2兆6,000億円)=GDPの5%
 2.専業売春婦数=26万人 (20~34歳の女性人口の4%)
 3.専業・副業売春婦の推計=80万人(同年齢女性人口の約10%)
となっている。
 (これらの事実を、日本のメディアはなぜ報じないのであろうか?)


 こうして韓国国内で売春が違法となったので、多くの売春婦が「海外出稼ぎ」(唐ゆきさん)となった。万単位の移住が行われた先が、日本、フィリピン、米国である。フィリピンでは韓国人売春婦と現地人の混血児は、「コピーノ(コリアとフィリピーノ=フィリピン人の結合短縮語)」と呼ばれているという。
 米国では業者が店の名前に「ハルコ」など日本名を用い、売春婦にも日本風の源氏名を使用させているという。(室谷克実「悪韓論」、「呆韓論」)
 「先に在りしものはまた後にもある。先に起きたことはまた後にも起こる。
 日の下に新しきものはない。」(「旧約聖書」:伝道の書, 1: 9)


 ともあれ、「軍慰安所絵図面」というのは珍しいと思うので、文献紹介と供覧を行った。
 
【「朝日」従軍慰安婦の報道:補注】室谷克実(元時事通信社員、「時事通信」編集長)が、「悪韓論」(新潮新書)で、「朝日」の植村隆記者が「従軍慰安婦の火付け記事」(1992/1/11一面の大スクープ記事)を書いた、また植村の義母が韓国で「対日被害者賠償請求運動」団体の会長であると指摘していること、などをこの前紹介した


 秦郁彦「慰安婦と戦場の性」(新潮選書, 1999)をめくっていると、p.14の「注1」に、この記事の執筆者は「辰濃哲郎」記者で、吉見義明(中央大教授)から12月24日頃、情報を入手し、発表まで2週間以上寝かし、1月16日に予定されていた「宮沢首相の訪韓」で、事前に政府が対応するゆとりがないように、11日というタイミングを測って掲載したという説を述べている。この報道では<「国の関与」という曖昧な概念>を持ちだして報じたために、その後の対韓外交に大きな禍根を残したとしている。


 どっちが本当の執筆者であろうか?
 辰濃記者は1957年生まれ、81年、慶応法学部政治学科卒で朝日に入社した。実父が当時「天声人語」を書いていた辰濃和男である。地方廻りを経て89年から「東京本社社会部」に在籍し、主に厚労省、医療問題を担当していた。
 実父が93年に退社すると、2004年10月に「無断録音」事件が起こり、責任を取るかたちで退社した。いわゆる「辰濃事件」である。
 (これについては、以下の辰濃記者の弁明と
 http://www.yuki-enishi.com/messages/messages-05.html
 魚住昭「官僚とメディア」(角川oneテーマ21新書, 2007)
 を参照願いたい。)


 辰濃の著書には「歪んだ権威:日本医師会、積怨と権力闘争の舞台裏」(医薬経済社, 2010)があるが、「歪んだ視点」から見ており、医療・医学問題を公正な立場から、調査報道する能力を備えているとは思えない。


 室谷の主張と秦の主張のどちらが正しいか断定はできないが、吉見が資料を渡した相手が辰濃記者で、実際に記事を書いたのが植村隆記者だ、という可能性もあると思う。社内で調整や追加調査が行われれば、期せずして記事にできたのが宮澤訪韓の直前ということもありえるだろう。
 これに関しては結論を保留にしておきたい。
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