【血のタブー】「旧約聖書」の「レビ記」第17章に以下のような文言がある。
<肉あるものの命はその血の中にある。だから決して血を食べてはいけない。
獣か鳥を食べる場合には、その血を注ぎだし、血を土で覆わねばならない。
なぜならすべて肉あるものの命はその血であり、血は生きものの中にあるからである。>(『旧約聖書1律法』、岩波書店:ヘブライ語からの新訳)
「King James版聖書」では該当箇所はこうなっている。
<You shall eat the blood of no manner of flesh: for the life of all flesh is the blood thereof: whosoever eateth it shall be cut off.>
「申命記」12章23節にはこうある。(この申命記というのはDeuter-nomionというギリシア語の訳で、「第二(deut)の法律(nomos)」という意味で、モーゼが2回目の十戒を授かった事蹟をいう。それがなぜ「申命記」と訳されるのか、さっぱりわからない。)
<穢れた者も清い者も(動物の)肉を食べてよい。ただし絶対にその血を食べてはならない。血は命だからである。動物の命を肉と共に食べてはならない。>(岩波版)
<Only be sure that thou eat not the blood: for the blood is the life; and thou mayest not eat the life with the flesh.>(King James版)
日本語で「命」、英語で「life」と訳されている言葉はヘブライ語で「nephesh」、アラビア語で「nafus」だという。(エプシュタイン「旧約聖書の医学」)
ネフェシュは旧約聖書のギリシア語訳のさいに「プシケ(psyxe)」に、ラテン語訳の際に「アニマ(anima)」と訳された。動物を英語でアニマル(animal)というのは、これに由来する。キリスト教はプラトン哲学の上に成り立っているから、肉体と精神(魂)を峻別するが、旧約には霊魂という思想はない。
ネフェシュのヘブライ語同義語がルーハ(ruha)、アラビア語がルーフ(ruh)であり、このギリシア語訳がプネウマ(pneuma)、ラテン語訳がスピリトゥス(spiritus)である。後者は「聖霊」と訳されていて、「三位一体」の欠かせない一部となっている。しかし、アウグスチヌス「三位一体論」を読んでも「聖霊」がさっぱりわからないのは、もともと同義語を別語に訳して、それを実体化しているからだ。
アウグスティヌスはギリシア語もヘブライ語もできなかった。
古代のユダヤ人(ヘブライ人)は「血は生命である」と考えていたことがわかる。肉を食うときに血が含まれていたら、動物の生命(魂)が体内に入り、害をなすと考えたのである。そこでするにも頸動脈を切断して、放血するという方法が採用された。正統派ユダヤ教徒はいまでもこの方法により殺された動物の肉しか食わない。
血に対する逆の発想は古代エジプトにあった。エジプト人は若返りのために血を飲んだし、血の風呂に入った。今の「牛乳風呂」のようなものだ。ローマの剣闘士も倒した相手の血をすするのが習わしだった。
「血が生命」なら、重病人に輸血すれば助けられるのではないか、という発想も古くからあった。コロンブスが西インド諸島を発見した1492年、ローマ法皇イノケンチウス8世は死の床にあり、侍医団は若者3人から血を抜き法皇に投与した。(輸血とも一気に飲み干したともいわれている。)
キリスト教の分派で最大の原理主義者というと、「エホバの証人」に止めをさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エホバの証人
19世紀末にアメリカで生まれた新興宗教で、進化論の否定、国旗・国歌への拝礼拒否など独自の思想をもつ。なかでも旧約聖書の「血の摂取禁止」は、輸血拒否につながり、医療面で医師と対立をもたらしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エホバの証人に関する論争
『覚悟としての死生学』(2004/5)を出した年だったと思うが、仙台で講演を頼まれ、その後の懇親会でエホバの証人の方と話す機会があった。全国組織があるとみえて、その後、広島支部の方が研究室に訪ねてみえた。いろいろお話しをうかがったが、輸血拒否の件は「聖書に書いてあるから」というのが唯一の根拠だそうだ。思うに、ウィーンのランドシュタイナーがABO式の血液型を発見したのが1900年で、安全な輸血法はそれから20年くらいかけて(とくにRh型の発見が重要)発展した。しかし、「エホバの証人」の教義は19世紀のうちに確立していたから「輸血禁止」となったものであろう。
旧約聖書の時代には、輸血も透析もない。エホバの神も、ないものは禁止できないはずである。しかし、面白いことに腎移植は禁止されていないのだそうだ。医学的にはいくら生理食塩水で潅流しても、白血球は毛細血管の外にあるものが多いから、腎臓内に残る。つまり血が残るのだが、これは構わないらしい。
宗教は科学と違うのである。
ところが、これは医療を提供する方にとっては難題を突きつけられる。人工透析から離脱したい「エホバの証人」信者が、運よく親族のドナーを見つけられ、移植医に手術を依頼するとしよう。調べてみると「ABO式血液型」が合わない、おまけに「輸血拒否」である。
血液型不適合は血漿交換をして「抗腎臓抗体」を除去すれば何とかなるが、もし手術中に予想外の出血があったら、どうするか。血漿交換は凝固因子の低下をもたらし、出血傾向を高める。まあ、普通の移植医なら「手術適応なし」としてお引き取り願うだろう。誰しもわが身がかわいい。
すると患者はどうするか。こんな条件でも移植をやってくれる「お助け医」のところに駆け込むのである。
賢明な読者には、なぜこんな話を長々と書くか、もうお察しがついているだろう。
私は1000例腎移植は簡単にできるだろうと思っていた。が、案に相違して最大の難手術になりそうだ。
<肉あるものの命はその血の中にある。だから決して血を食べてはいけない。
獣か鳥を食べる場合には、その血を注ぎだし、血を土で覆わねばならない。
なぜならすべて肉あるものの命はその血であり、血は生きものの中にあるからである。>(『旧約聖書1律法』、岩波書店:ヘブライ語からの新訳)
「King James版聖書」では該当箇所はこうなっている。
<You shall eat the blood of no manner of flesh: for the life of all flesh is the blood thereof: whosoever eateth it shall be cut off.>
「申命記」12章23節にはこうある。(この申命記というのはDeuter-nomionというギリシア語の訳で、「第二(deut)の法律(nomos)」という意味で、モーゼが2回目の十戒を授かった事蹟をいう。それがなぜ「申命記」と訳されるのか、さっぱりわからない。)
<穢れた者も清い者も(動物の)肉を食べてよい。ただし絶対にその血を食べてはならない。血は命だからである。動物の命を肉と共に食べてはならない。>(岩波版)
<Only be sure that thou eat not the blood: for the blood is the life; and thou mayest not eat the life with the flesh.>(King James版)
日本語で「命」、英語で「life」と訳されている言葉はヘブライ語で「nephesh」、アラビア語で「nafus」だという。(エプシュタイン「旧約聖書の医学」)
ネフェシュは旧約聖書のギリシア語訳のさいに「プシケ(psyxe)」に、ラテン語訳の際に「アニマ(anima)」と訳された。動物を英語でアニマル(animal)というのは、これに由来する。キリスト教はプラトン哲学の上に成り立っているから、肉体と精神(魂)を峻別するが、旧約には霊魂という思想はない。
ネフェシュのヘブライ語同義語がルーハ(ruha)、アラビア語がルーフ(ruh)であり、このギリシア語訳がプネウマ(pneuma)、ラテン語訳がスピリトゥス(spiritus)である。後者は「聖霊」と訳されていて、「三位一体」の欠かせない一部となっている。しかし、アウグスチヌス「三位一体論」を読んでも「聖霊」がさっぱりわからないのは、もともと同義語を別語に訳して、それを実体化しているからだ。
アウグスティヌスはギリシア語もヘブライ語もできなかった。
古代のユダヤ人(ヘブライ人)は「血は生命である」と考えていたことがわかる。肉を食うときに血が含まれていたら、動物の生命(魂)が体内に入り、害をなすと考えたのである。そこでするにも頸動脈を切断して、放血するという方法が採用された。正統派ユダヤ教徒はいまでもこの方法により殺された動物の肉しか食わない。
血に対する逆の発想は古代エジプトにあった。エジプト人は若返りのために血を飲んだし、血の風呂に入った。今の「牛乳風呂」のようなものだ。ローマの剣闘士も倒した相手の血をすするのが習わしだった。
「血が生命」なら、重病人に輸血すれば助けられるのではないか、という発想も古くからあった。コロンブスが西インド諸島を発見した1492年、ローマ法皇イノケンチウス8世は死の床にあり、侍医団は若者3人から血を抜き法皇に投与した。(輸血とも一気に飲み干したともいわれている。)
キリスト教の分派で最大の原理主義者というと、「エホバの証人」に止めをさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エホバの証人
19世紀末にアメリカで生まれた新興宗教で、進化論の否定、国旗・国歌への拝礼拒否など独自の思想をもつ。なかでも旧約聖書の「血の摂取禁止」は、輸血拒否につながり、医療面で医師と対立をもたらしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エホバの証人に関する論争
『覚悟としての死生学』(2004/5)を出した年だったと思うが、仙台で講演を頼まれ、その後の懇親会でエホバの証人の方と話す機会があった。全国組織があるとみえて、その後、広島支部の方が研究室に訪ねてみえた。いろいろお話しをうかがったが、輸血拒否の件は「聖書に書いてあるから」というのが唯一の根拠だそうだ。思うに、ウィーンのランドシュタイナーがABO式の血液型を発見したのが1900年で、安全な輸血法はそれから20年くらいかけて(とくにRh型の発見が重要)発展した。しかし、「エホバの証人」の教義は19世紀のうちに確立していたから「輸血禁止」となったものであろう。
旧約聖書の時代には、輸血も透析もない。エホバの神も、ないものは禁止できないはずである。しかし、面白いことに腎移植は禁止されていないのだそうだ。医学的にはいくら生理食塩水で潅流しても、白血球は毛細血管の外にあるものが多いから、腎臓内に残る。つまり血が残るのだが、これは構わないらしい。
宗教は科学と違うのである。
ところが、これは医療を提供する方にとっては難題を突きつけられる。人工透析から離脱したい「エホバの証人」信者が、運よく親族のドナーを見つけられ、移植医に手術を依頼するとしよう。調べてみると「ABO式血液型」が合わない、おまけに「輸血拒否」である。
血液型不適合は血漿交換をして「抗腎臓抗体」を除去すれば何とかなるが、もし手術中に予想外の出血があったら、どうするか。血漿交換は凝固因子の低下をもたらし、出血傾向を高める。まあ、普通の移植医なら「手術適応なし」としてお引き取り願うだろう。誰しもわが身がかわいい。
すると患者はどうするか。こんな条件でも移植をやってくれる「お助け医」のところに駆け込むのである。
賢明な読者には、なぜこんな話を長々と書くか、もうお察しがついているだろう。
私は1000例腎移植は簡単にできるだろうと思っていた。が、案に相違して最大の難手術になりそうだ。
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