【雑記】
1)少子高齢化=3/28の新聞が「2040年(2010年から30年後)に日本の人口が83.8%に減り、1億700万人なる。65歳以上が占める<高齢化率>が40%になる」と報じている。そんなことは、20年前にわかっていた。だから国連は「毎年40万人の移民を受け入れないと、日本は社会が破綻する」と移民受け入れを推進するように勧告したのだ。だが日本はそれをまともに受けとめなかった。
日本語が喋れない「中国人研修生」をチープ・レーバーとして雇用するから、「江田島殺傷事件」のような事件が起こる。ドイツ・フンボルト留学生のように、「ゲーテ・インスティチュート」に入れ、みっちりとドイツ語を教え、ドイツ社会に溶け込めるようにしてから、各大学に留学研究者として受け入れれば、問題はほとんど起こらない。
中曽根内閣以来、日本は「留学生10万人計画」を推進してきた。いまは確か「20万人」までアップされたはずだ。広島大学にも国費、私費等による外国人留学生が多数いる。今は1200人を超えた。うち半数が中国からだ。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/top/intro/gaiyou/ryugakuseisu/p_71ud93.html
膨大な国費を使い留学生を呼びながら、親日家も帰化する学生も増えない。
国策と定住、移民、国籍取得をうながすための措置が上手くリンクしていないためだ。
もともと日本列島にはBC2万年前には人が住んでいた。いわゆる最古の「縄文遺跡」は1万年以上前のものがある。
問題は初期日本人を「縄文人」と「弥生人」に二分する考古学・古代史の思考方法にある。あれは明治期に発掘された土器による分類で、もう100年も前の分類だ。BC5000年前に台湾からアウトリッガー・カヌーに乗り、「オーストロネシア祖語」を話す人たちが南方に広がった。南西諸島伝いに北上し、九州・四国・和歌山に到達しなかったと考える方がおかしい。
血液型、HTLV-1ウイルス、Y染色体DNA、ミトコンドリアDNA、常染色体DNAと生物学的検索法は発達したが、肝腎の研究者が「縄文人か弥生人か」という二分パラダイムに縛られているのだから、解析しても明瞭な結果が出て来ない。それにすでにサンプリング段階でバイアスがかかる。
英国はケルト人以前、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人と最低でも6種の民族が混淆して現在に至っている。梅棹忠夫「文明の生態史観」が指摘したようにユーラシア大陸の両端にある日本と英国は、よく言えばパイオニア、悪く言えば大陸からの落ちこぼれの吹きだまりで、いろんな民族の混淆からなり立っている。
日本だけが縄文系と弥生系の2種しかいないと考える方がおかしい。小熊英二「単一民族神話の起原」がいうように「単一民族説は神話」なのである。
「少子高齢化」対策として出生率の向上がいつも挙げられるが、それは過去20年間にぜんぶ失敗している。移民問題への総合的な取り組みこそが必要だろう。
2)経済表=出たばかりのF.ケネー『経済表』(岩波文庫)が届いた。フランスのケネー(Francois Quesnay: 1694-1774)は外科医で、後に内科医になり宮廷医師となり国王と王妃の主治医を務めるかたわら、経済学を研究した。「経済表」(1758)は農業による生産に基礎をおき、それが次々と社会の経済過程にどのような影響を、どのくらい与えるかを最初に論じた「重農主義」の書物である。「産業関連表」とも呼ばれる。
『道徳感情論』(1759)を出版した後、アダム・スミスは1764年から約3年間、フランスに滞在し、ケネーとも交流している。ケネーは、スミスがお供していたバックル-公爵の急病治療にも当たっている。
スミスの『国富論』(1776)は、この旅行による産物だが、岩波文庫4冊本の索引には欠陥があり、「ケネー」も「重農主義」も索引項目にない。しかしスミスは第3分冊に「第4編9章:重農主義について」をもうけており、そこにケネーの名前が出て来るし、かれの考え方を「きわめて独創的な体系」と評価、紹介している。他の箇所では「重農主義のひじょうに独創的で深遠な創始者」(訳文は日本語になっていない)と人物評価している。(訳者杉山忠平はsystemを体系と訳しているが、"Agricultural systems"という複数形の訳語としては"重農主義"とするのが適切である)。
もともとケネーは医者として国家の経済を人体になぞらえ、人体が健康であるためには、適切な質と量の食べ物と、それを消化する各器官や血液の循環や身体の運動が必要であるように、国家・社会が安定的に維持されるには経済的循環がうまく行かないと考え、各産業の相互依存度を明らかにするために「経済表」を書いたのである。『経済表』、『国富論』の訳者には肝心要のところが、ぜんぜん分かっていない。
フランス語で「重農主義」をPhysiocratieというが、このphysi-は「自然」を意味するギリシア語である。生理学(physiology)や物理学(physics)のphysi-と同じものである。これはケネーの造語だが、経済学者はその意味がわかっていないようだ。
『経済表』の訳者は平田清明・井上泰夫となっているが、解説を書いた井上が「日本におけるケネー研究の代表」として平田清明をあげるのは、いかがなものか。
「経済表」だから表を主体に、本文は短くすべきなのに、小さな表がたった5枚しかない。本文は解説を含めて、312頁もある。索引がない。これではケネーが泣くだろう。
3)図鑑本=カナダ生まれの米国人学者マーシャル・マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系:活字人間の形成』を書いたのは1962年である。が、日本では「聴覚人間」、「視覚人間」という安直な解釈が流行し、本格的な全訳はなんと1986年(みすず書房)まで出なかった。
この本でマクルーハンは、文字の発明により文章を読むことで視覚に大きな負担がかかり、聴覚、触覚、嗅覚などの情報が「無意識の世界」へ抑圧されることで意識された意識(自己意識)が発生したと論じた。1960年代後半から70年代にかけては、竹村健一の提唱するマスメディア論がさかんで、これとの絡みでマクルーハン理論がブームになったが、「活字の時代が終わり、情報が同時的に拡散し、人間の全面的な相互依存が生じる電子時代」が間もなく到来することをつげ、「グーテンベルグ銀河系」が崩壊すること、活字文化がもたらした「理性と感性の分離」もまた変化することを予言した。
アメリカの心理学者J. ジェインズ『神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡』(紀伊國屋書店, 2005)は、「自己意識」の誕生はわずか3000年前で、文字の誕生と関係があることを論じた。「左脳が右脳に命令する」ことで、「内省」機能をもった自己意識が誕生したとしている。文字と活字のとらえ方は、マクルーハンとほぼ同じである。
ドイツのメディア哲学者N. ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』(法政大出版会, 1999)は、ハイパーテキスト以前の「グーテンベルク銀河系の没落、書物文明の終焉」を熱っぽく語っている。
つまりコンピュータ制御された電子画面の出現に伴い、「紙に印刷された書物の没落」は50年前に予言されていたのである。
ケネー『経済表』に掲げられている表は文字が小さく、まことに読みづらい。「岩波用字辞典」の付録に「活字ポイント表」が付いているかと思ったが、ない。(付けるべきだ)。同じく岩波ジュニア新書『単位の小事典』にはあった(「ポイント」の項)。見ると6ポイントで、最小の活字である。ケネーを読むのは、アダム・スミスとの関係を知っているごく少数の老人である。まことに残酷な編集だ。私が編集者だったら、表部分は折り込みにし、文字を大きくする。
電子時代に入ってプレゼンテーションの方法も変わった。1960年代以前の学会はポスターか掛け軸だった。発表者の演説に合わせて助手が掛け軸をめくった。
それ以後は白黒のスライドをプロジェクターで投影する方式に変わった。その後カラースライドが登場し、文字だけのスライドは、読みやすいように青発色させるブルースライドに変わった。
話者が投影フィルムを操作でき、完全暗室でなくても使える「オーバーヘッド・プロジェクター(OHP)」が流行した時期もある。
状況が根本的に変わったのは1990年、WINDOWS 3.0の発売とともにプレゼンテーション用ソフト「パワーポイント(PPT)」が急速に普及したことによる。ノートPCに合わせた液晶プロジェクターが開発され、セミナーや学会での発表様式が根本から変わった。
(2001年春、すでに医学系の学会は完全にPPTに切り替わっていたが、「日本考古学協会総会」での演題発表ではOHP用のフィルムを用意させられた。「かなり時代遅れの学会だな」と思った記憶がある。)
私はPPTを昔のスライドのようにしか使えないが、若い世代の人たちは、フェードイン・フェードアウト、オーバーラップ、画面分割、動画、音声などを自由に使いこなして、迫力と説得力のある発表をする。この電子スライドをコピーして、メールで送ってくれる友人があるが、説明文やそれを読み上げる音声ファイルもついていて、臨場感がある。
つまり本の1項目が1スライドになっている。これを沢山つくり、画面上の編集機能を使って並べ替えれば、すぐに1冊の「図説本」ができあがる。タイマー機能を使って、画面説明が終わったら次画面に移るようにしておけば、映画を見るように1冊の本が読めることになる。音声の背景には集中できるように、バックグラウンド・ミュージックを流せばよい。
出版社にいまこれを要求しても無理だろうが、せめて同じ内容を文字でなく図や表で伝える「図説本」をもっと増やせないか。
私は少々値が張っても、外国語であっても、できるだけそういう本を買うようにしている。
もっとも古いものは「タイム=朝日・世界歴史地図」(朝日新聞社, 1979)で、当時1万3000円もしたが、今も愛用している。
「Eereka!(発見した!)」という英語本は、1975年にアメリカのスーパーの安売りで買ったものだが、タイプライターとか気球だとか潜水艦だとか、いろんな事物の発明・発見史が書いてあり、調べるのに便利である。ベックマン「西洋事物起原」、石井研堂「明治事物起原」も持っているが、有用性がぜんぜん違う。
「Histoire de France(フランスの歴史)」(1990)はパリで買った図説フランス史で、これを見ると「維新」に相当するフランス語は「レストラシオン(Restauration)であり、「王政復古」の意味だと分かる。ケルンで買った「Sittengeschite des Zweiten Weltkrieges(第二次大戦風俗史)」(出版はKometとあるが、出版年の記載なし)は、ナチス支配下のドイツにおける残酷と頽廃について、多くの貴重な写真や絵を含んでいる。
日本でこれに近い本をよく出しているのは原書房だろう。
M. モネスティエ「図説・死刑全書」は死刑制度の是非を論じる際の必読書だ。
B.ローズ「図説・世界を変えた50の植物」もよい本である。植物学的説明だけでなく、その受容史を歴史的・社会的に説明しているのがよい。クワのところでは、女性たちがむしろの上にいるカイコにクワの葉を与えているところを描いた、喜多川歌麿の浮世絵も示されている。索引もしっかりしているし、学名や参考文献、ウェブサイトもちゃんと書いてある。
これで2800円は安い。横組みで、書誌が内表紙の見開き面に印刷されているから便利だ。著作権関係も明瞭だし、原本が2010にロンドンで出版され、訳本が2012だということがすぐわかる。英国も出版不況で、必然的に従来型の「文字本」から「図説本」に変わりつつあるのがよくわかる。
横組みのよいのは原語を表記しても、いちいち本を廻さなくてもすぐ読める点だ。事実この本では日本語に英語でルビがふってある箇所があるが、ぜんぜん気にならない。アルファベットは構造が単純なので6ポイント活字でも容易に読めるからだ。
日本語本でこれに近いのが、浅野先生の「基礎からわかる病理学」(ナツメ社)、松尾友香「図解入門・血液型:基本としくみ」(秀和システム)だろう。こういう理系書物が、書物の未来を暗示しているように思う。
1)少子高齢化=3/28の新聞が「2040年(2010年から30年後)に日本の人口が83.8%に減り、1億700万人なる。65歳以上が占める<高齢化率>が40%になる」と報じている。そんなことは、20年前にわかっていた。だから国連は「毎年40万人の移民を受け入れないと、日本は社会が破綻する」と移民受け入れを推進するように勧告したのだ。だが日本はそれをまともに受けとめなかった。
日本語が喋れない「中国人研修生」をチープ・レーバーとして雇用するから、「江田島殺傷事件」のような事件が起こる。ドイツ・フンボルト留学生のように、「ゲーテ・インスティチュート」に入れ、みっちりとドイツ語を教え、ドイツ社会に溶け込めるようにしてから、各大学に留学研究者として受け入れれば、問題はほとんど起こらない。
中曽根内閣以来、日本は「留学生10万人計画」を推進してきた。いまは確か「20万人」までアップされたはずだ。広島大学にも国費、私費等による外国人留学生が多数いる。今は1200人を超えた。うち半数が中国からだ。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/top/intro/gaiyou/ryugakuseisu/p_71ud93.html
膨大な国費を使い留学生を呼びながら、親日家も帰化する学生も増えない。
国策と定住、移民、国籍取得をうながすための措置が上手くリンクしていないためだ。
もともと日本列島にはBC2万年前には人が住んでいた。いわゆる最古の「縄文遺跡」は1万年以上前のものがある。
問題は初期日本人を「縄文人」と「弥生人」に二分する考古学・古代史の思考方法にある。あれは明治期に発掘された土器による分類で、もう100年も前の分類だ。BC5000年前に台湾からアウトリッガー・カヌーに乗り、「オーストロネシア祖語」を話す人たちが南方に広がった。南西諸島伝いに北上し、九州・四国・和歌山に到達しなかったと考える方がおかしい。
血液型、HTLV-1ウイルス、Y染色体DNA、ミトコンドリアDNA、常染色体DNAと生物学的検索法は発達したが、肝腎の研究者が「縄文人か弥生人か」という二分パラダイムに縛られているのだから、解析しても明瞭な結果が出て来ない。それにすでにサンプリング段階でバイアスがかかる。
英国はケルト人以前、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人と最低でも6種の民族が混淆して現在に至っている。梅棹忠夫「文明の生態史観」が指摘したようにユーラシア大陸の両端にある日本と英国は、よく言えばパイオニア、悪く言えば大陸からの落ちこぼれの吹きだまりで、いろんな民族の混淆からなり立っている。
日本だけが縄文系と弥生系の2種しかいないと考える方がおかしい。小熊英二「単一民族神話の起原」がいうように「単一民族説は神話」なのである。
「少子高齢化」対策として出生率の向上がいつも挙げられるが、それは過去20年間にぜんぶ失敗している。移民問題への総合的な取り組みこそが必要だろう。
2)経済表=出たばかりのF.ケネー『経済表』(岩波文庫)が届いた。フランスのケネー(Francois Quesnay: 1694-1774)は外科医で、後に内科医になり宮廷医師となり国王と王妃の主治医を務めるかたわら、経済学を研究した。「経済表」(1758)は農業による生産に基礎をおき、それが次々と社会の経済過程にどのような影響を、どのくらい与えるかを最初に論じた「重農主義」の書物である。「産業関連表」とも呼ばれる。
『道徳感情論』(1759)を出版した後、アダム・スミスは1764年から約3年間、フランスに滞在し、ケネーとも交流している。ケネーは、スミスがお供していたバックル-公爵の急病治療にも当たっている。
スミスの『国富論』(1776)は、この旅行による産物だが、岩波文庫4冊本の索引には欠陥があり、「ケネー」も「重農主義」も索引項目にない。しかしスミスは第3分冊に「第4編9章:重農主義について」をもうけており、そこにケネーの名前が出て来るし、かれの考え方を「きわめて独創的な体系」と評価、紹介している。他の箇所では「重農主義のひじょうに独創的で深遠な創始者」(訳文は日本語になっていない)と人物評価している。(訳者杉山忠平はsystemを体系と訳しているが、"Agricultural systems"という複数形の訳語としては"重農主義"とするのが適切である)。
もともとケネーは医者として国家の経済を人体になぞらえ、人体が健康であるためには、適切な質と量の食べ物と、それを消化する各器官や血液の循環や身体の運動が必要であるように、国家・社会が安定的に維持されるには経済的循環がうまく行かないと考え、各産業の相互依存度を明らかにするために「経済表」を書いたのである。『経済表』、『国富論』の訳者には肝心要のところが、ぜんぜん分かっていない。
フランス語で「重農主義」をPhysiocratieというが、このphysi-は「自然」を意味するギリシア語である。生理学(physiology)や物理学(physics)のphysi-と同じものである。これはケネーの造語だが、経済学者はその意味がわかっていないようだ。
『経済表』の訳者は平田清明・井上泰夫となっているが、解説を書いた井上が「日本におけるケネー研究の代表」として平田清明をあげるのは、いかがなものか。
「経済表」だから表を主体に、本文は短くすべきなのに、小さな表がたった5枚しかない。本文は解説を含めて、312頁もある。索引がない。これではケネーが泣くだろう。
3)図鑑本=カナダ生まれの米国人学者マーシャル・マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系:活字人間の形成』を書いたのは1962年である。が、日本では「聴覚人間」、「視覚人間」という安直な解釈が流行し、本格的な全訳はなんと1986年(みすず書房)まで出なかった。
この本でマクルーハンは、文字の発明により文章を読むことで視覚に大きな負担がかかり、聴覚、触覚、嗅覚などの情報が「無意識の世界」へ抑圧されることで意識された意識(自己意識)が発生したと論じた。1960年代後半から70年代にかけては、竹村健一の提唱するマスメディア論がさかんで、これとの絡みでマクルーハン理論がブームになったが、「活字の時代が終わり、情報が同時的に拡散し、人間の全面的な相互依存が生じる電子時代」が間もなく到来することをつげ、「グーテンベルグ銀河系」が崩壊すること、活字文化がもたらした「理性と感性の分離」もまた変化することを予言した。
アメリカの心理学者J. ジェインズ『神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡』(紀伊國屋書店, 2005)は、「自己意識」の誕生はわずか3000年前で、文字の誕生と関係があることを論じた。「左脳が右脳に命令する」ことで、「内省」機能をもった自己意識が誕生したとしている。文字と活字のとらえ方は、マクルーハンとほぼ同じである。
ドイツのメディア哲学者N. ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』(法政大出版会, 1999)は、ハイパーテキスト以前の「グーテンベルク銀河系の没落、書物文明の終焉」を熱っぽく語っている。
つまりコンピュータ制御された電子画面の出現に伴い、「紙に印刷された書物の没落」は50年前に予言されていたのである。
ケネー『経済表』に掲げられている表は文字が小さく、まことに読みづらい。「岩波用字辞典」の付録に「活字ポイント表」が付いているかと思ったが、ない。(付けるべきだ)。同じく岩波ジュニア新書『単位の小事典』にはあった(「ポイント」の項)。見ると6ポイントで、最小の活字である。ケネーを読むのは、アダム・スミスとの関係を知っているごく少数の老人である。まことに残酷な編集だ。私が編集者だったら、表部分は折り込みにし、文字を大きくする。
電子時代に入ってプレゼンテーションの方法も変わった。1960年代以前の学会はポスターか掛け軸だった。発表者の演説に合わせて助手が掛け軸をめくった。
それ以後は白黒のスライドをプロジェクターで投影する方式に変わった。その後カラースライドが登場し、文字だけのスライドは、読みやすいように青発色させるブルースライドに変わった。
話者が投影フィルムを操作でき、完全暗室でなくても使える「オーバーヘッド・プロジェクター(OHP)」が流行した時期もある。
状況が根本的に変わったのは1990年、WINDOWS 3.0の発売とともにプレゼンテーション用ソフト「パワーポイント(PPT)」が急速に普及したことによる。ノートPCに合わせた液晶プロジェクターが開発され、セミナーや学会での発表様式が根本から変わった。
(2001年春、すでに医学系の学会は完全にPPTに切り替わっていたが、「日本考古学協会総会」での演題発表ではOHP用のフィルムを用意させられた。「かなり時代遅れの学会だな」と思った記憶がある。)
私はPPTを昔のスライドのようにしか使えないが、若い世代の人たちは、フェードイン・フェードアウト、オーバーラップ、画面分割、動画、音声などを自由に使いこなして、迫力と説得力のある発表をする。この電子スライドをコピーして、メールで送ってくれる友人があるが、説明文やそれを読み上げる音声ファイルもついていて、臨場感がある。
つまり本の1項目が1スライドになっている。これを沢山つくり、画面上の編集機能を使って並べ替えれば、すぐに1冊の「図説本」ができあがる。タイマー機能を使って、画面説明が終わったら次画面に移るようにしておけば、映画を見るように1冊の本が読めることになる。音声の背景には集中できるように、バックグラウンド・ミュージックを流せばよい。
出版社にいまこれを要求しても無理だろうが、せめて同じ内容を文字でなく図や表で伝える「図説本」をもっと増やせないか。
私は少々値が張っても、外国語であっても、できるだけそういう本を買うようにしている。
もっとも古いものは「タイム=朝日・世界歴史地図」(朝日新聞社, 1979)で、当時1万3000円もしたが、今も愛用している。
「Eereka!(発見した!)」という英語本は、1975年にアメリカのスーパーの安売りで買ったものだが、タイプライターとか気球だとか潜水艦だとか、いろんな事物の発明・発見史が書いてあり、調べるのに便利である。ベックマン「西洋事物起原」、石井研堂「明治事物起原」も持っているが、有用性がぜんぜん違う。
「Histoire de France(フランスの歴史)」(1990)はパリで買った図説フランス史で、これを見ると「維新」に相当するフランス語は「レストラシオン(Restauration)であり、「王政復古」の意味だと分かる。ケルンで買った「Sittengeschite des Zweiten Weltkrieges(第二次大戦風俗史)」(出版はKometとあるが、出版年の記載なし)は、ナチス支配下のドイツにおける残酷と頽廃について、多くの貴重な写真や絵を含んでいる。
日本でこれに近い本をよく出しているのは原書房だろう。
M. モネスティエ「図説・死刑全書」は死刑制度の是非を論じる際の必読書だ。
B.ローズ「図説・世界を変えた50の植物」もよい本である。植物学的説明だけでなく、その受容史を歴史的・社会的に説明しているのがよい。クワのところでは、女性たちがむしろの上にいるカイコにクワの葉を与えているところを描いた、喜多川歌麿の浮世絵も示されている。索引もしっかりしているし、学名や参考文献、ウェブサイトもちゃんと書いてある。
これで2800円は安い。横組みで、書誌が内表紙の見開き面に印刷されているから便利だ。著作権関係も明瞭だし、原本が2010にロンドンで出版され、訳本が2012だということがすぐわかる。英国も出版不況で、必然的に従来型の「文字本」から「図説本」に変わりつつあるのがよくわかる。
横組みのよいのは原語を表記しても、いちいち本を廻さなくてもすぐ読める点だ。事実この本では日本語に英語でルビがふってある箇所があるが、ぜんぜん気にならない。アルファベットは構造が単純なので6ポイント活字でも容易に読めるからだ。
日本語本でこれに近いのが、浅野先生の「基礎からわかる病理学」(ナツメ社)、松尾友香「図解入門・血液型:基本としくみ」(秀和システム)だろう。こういう理系書物が、書物の未来を暗示しているように思う。
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