ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【行徳のまな板】難波先生より

2013-05-16 12:06:32 | 難波紘二先生
【行徳のまな板】谷沢永一追悼集『朝のように 花のように』(論創社, 2013)を読んだ。がっかりした。
 死後に寄せられたものは、わずかに丸谷才一(「毎日」夕刊)、渡部昇一(「産経」)、週刊新潮「墓碑銘」など数編にすぎない。後は故人の生前に文庫の解説などとして、(本人に読まれることを知って)書かれた文章を編纂しただけのものだったからだ。
 
 司馬遼太郎、開高健、高見順、百目鬼恭三郎、星新一の文章もあるが、それらも谷沢生存中に書かれたもので、彼らも今は故人である。「追悼集」に悪く書くものはいないが、それにしても「よいしょ文」の集成でがっかりした。
 唯一、丸谷才一(これも今は故人)が、「それにしてもあの溢れるほどの才能、おびただしい情熱を何と無駄なことに浪費したものだろうと惜しむ」(「毎日」2011/3/14夕刊)と書いているのはさすがだ。
 これは渡部昇一に誘われて、右翼的な政治思想の表明に多くの時間を費やしたことを指す。
 「人は死んで三日したら忘れられる」という山田風太郎のアフォリズムが実感される。


 唯一、学んだことは「行徳のまな板」という「地口(じぐち)」。恥ずかしながら地口という言葉も知らなかった。「語呂合わせの洒落」、例えば「猫に小判」を「下戸(げこ)にご飯」と言い替えるような、のを言うのだそうだ。
 で、千葉県の行徳(ぎょうとく)といえば「バカ貝の産地」で、行徳ではまな板の上でバカ貝の殻を割るため、まな板が擦れる(すり減る)。そこで「バカ(貝)で、すれっからし」のことを、「行徳のまな板」というのだそうだ。これは語呂合わせでないから、厳密には地口ではなかろう。判じ物である。(しかし小笠原滋という「文芸評論家」はそう書いている。P.159)


 これは関西ではまず聞いたことがない。(漱石の「我が輩は猫」には出て来るという。)だから谷沢と司馬が対談して「行徳」という名前を二人して思い出すのに30分かかったという話は、ごく自然に思える。
 雑煮の具ひとつとっても、関東と関西では違いがある。それほど文化が違うのだから、関東の駄洒落がそのまま関西に通じると思って、得々としている「文芸評論家」にも困る。


 ただ『日本文学史』(講談社学術文庫)を書いた小西甚一「無気力書評」(1993/12執筆)には、「書評」というもののあり方について、大いに教えられることがあった、と書いておきたい。
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