ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【伝言ゲーム】難波先生より

2014-10-06 15:02:29 | 難波紘二先生
【伝言ゲーム】
 中野清見の『ある日本人第2部』(平凡社,1958)冒頭に、昭和19年10月、九州から沖縄に向けて南下した輸送船団の中に、朝鮮人慰安婦を乗せた輸送船が一隻あり、これが中野ら兵員を乗せた輸送船とともに、宮古島に上陸したという記載がある。
 この記載が事実であるかどうか、わからない。
 「宮古島+慰安婦」でGoogle検索すると、以下のサイトが上位に出てくる。
http://deepannai.info/miyakojima-ianfu/
 これによると韓国「挺対協」の尹貞玉会長が2007年5月に、宮古島の朝鮮人慰安婦がいたとされる土地を訪問し、翌年9月宮古島の住民、与那嶺博敏が当時小学生だった自分が記憶する地に「アリランの碑」を建てたらしい。その他にもいろいろ石碑が建てられているが、その建立年月日や建てた団体の詳細は不明だ。
 「挺対協」の尹貞玉会長は恐らく朝鮮人元慰安婦の聞き取りに基づき、宮古島に朝鮮人慰安婦がいたという情報をキャッチしたものだろう。もしこれが中野清見の筆にあるように、駆逐艦が護送した輸送船団の中に、慰安婦を満載した輸送船が一隻あったとするならば、これは「強制連行」を思わすが、もし事実そうであったとすれば、尹貞玉が強力な反日キャンペーンの素材として使わないはずがなく、「朝日」がそれを大きく報道しないことも考えにくい。従って、中野の記載にもかかわらず、「慰安婦の強制連行」という事実はなかったのかもしれない。
 これを書き終えた後で、「戦時中朝鮮女性が慰安婦として多数戦線に動員されている」という文言を見つけた。朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社, 1965, p.67)である。これが中野清見『ある日本人、第二部』(平凡社,1958)の前記該当箇所に依拠したことを引用文献番号で示している。
 しかし巻末に揃えられている引用文献目録を見ると、出版社名が記載してないので朴慶植が本当に該当部分を読んだかどうかは大いに疑わしい。巻末資料目録は約50頁にわたり、刊行年別に多数が収録されているから、読者は著者がこれらに目を通して執筆したと思い込むようになっている。
 著者朴は1922年朝鮮生まれ、29年に、7歳で日本に移住した在日で、朝鮮大学教員という職業からも明らかなように「朝鮮総連」系の著作家である。本の終わりの「未来社刊行本」の広告を見ると、金日成の著作集があり、そっちの方の出版社だとわかる。ともかく朴慶植は中野清見の記述を「ウラを取ることなく」そのまま、事実として採用している。
 これに限らず金慶植の資料吟味はかなりひどい。たとえば戦時中三井系の「三池染料」という会社で働いていた「足立氏」(名不明)という人の証言を、福岡県在日朝鮮人殉難慰霊祭実行委員会編『兄弟よ安らかに眠れ:朝鮮人殉難の真相』というパンフレットから引用したとしているが、巻末文献リストにこの資料は掲載されていない。証言内容はこうなっている。
<昭和16年か昭和18年かちょっと記憶にないのですが朝鮮から数百名の青年をつれてきました。…終戦後、この朝鮮人を徴用に行った労務の係長から聞いたことですが、「憲兵と共に釜山に上陸し、トラックを持って町を歩いている者、田圃で仕事をしている者など手当たり次第、役に立ちそうな人は片っぱしからそのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた、まったく今考えると無茶苦茶ですよ。徴用というが、人さらいですよ」と話していました。>
 この足立という男は、朝鮮から「数百名の青年」を連れてきた男ではない。彼は「労務の係長」から聞いたという話をしている。伝聞だから徴用した年も定かでない。「徴用というが、人さらいですよ」という言葉が非常に衝撃的だが、これはあくまでも「係長」の話として述べられている。で、著者はこれを「足立氏」から直接に聞いたわけでなく、パンフレットから引用している。ところがこのパンフレットが実在するかどうかは、検証できるかたちで、文献目録に明示していない。
 「伝聞」と「目撃証言」が区別されていないだけではない、朴慶植の本では「証言」と著者の意見さえ区別されていない。
 第3章「体験者は語る:軍属として片足切断の重傷=玉知守氏」という体験談では、1942年4月朝鮮から軍属として広島市宇品の「暁部隊」(陸軍輸送部隊)に配属となった朝鮮人男の証言が取り上げられているが、ここでは玉知守の証言部分と作者の解釈や加筆部分が区別されていない。記述ではこうなっている。
<玉知守氏の乗った船で南方に連行された朝鮮女性だけでも二千数百名に上る。これらの女性は故郷にいるときには戦争への協力を強制され、軍需工場、被服廠で働くのだといわれて狩りだされた一七―二〇歳前後のうら若い娘たちであった。しかし実際はこうして輸送船に乗せられて南方各地の戦線に送られ軍隊の慰安婦としてもてあそばれた。>(p.122)
 この後に<玉氏が三回目に沈められた船にもはじめ150余名の同胞の女性がのっていた。途中沖縄の宮古島に下船させたので海のもくずとはならなかったが、彼女らの運命がどうなったかわからない。>という文が出てくる。
 これは<危険な海を渡って、私たちと同じ船団できた朝鮮の女たちは、その後どうしただろう、と時々思った。>という中野清見『ある日本人、第二部』(p.349)からのコピーである。
 
 鄭大均『在日・強制連行の神話』(文春文庫,2004)で、首都大学東京の教授(日本に帰化)鄭大均は、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(1965)が朝鮮人「強制連行」という言葉を日本に広めた元凶であると指摘している。この言葉が一般化して「慰安婦強制連行」が、千田夏光『従軍慰安婦』(1978)、吉田清治『私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行』(1983)として、詐欺師どもに便乗的に取り上げられたのである。
 朴慶植の著書の巻頭グラビアには16枚の写真が掲げられているが、「5/30間島事件、朝鮮人虐殺の惨状(1930)」という説明がついている2枚は、それぞれ「土匪のため惨殺された朝鮮人の幼児」と「鉄嶺にて銃殺した馬賊の首」というのがオリジナルな説明書きであったことが判明しているという。(鄭大均、上記書p.147)もっとも後者の写真に写っているのは銃殺後に切断された11個の生首であり、いずれもでっぷりと肥満しており、本当に馬賊の首かどうか一抹の疑念が残る。
 なお後藤文康『誤報:新聞報道の死角』(岩波新書, 1996)によると、この生首写真は「朝日」が1984年に「南京虐殺事件の際の中国兵の首」として紙面で報道し、1986年に誤報を訂正したそうである。
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