【朝日誤報の構造】
この問題を引き続き注目している。今や「吉田昌郎調書」の誤報問題、池上彰コラムの掲載拒否問題、任天堂の社長インタビュー捏造問題、「デアゴ社機密資料」持ち出し問題と多重的に不祥事が重なったわけだが、元はといえば「朝日」8/5「慰安婦問題」検証記事の不備が発端だ。
検証は「済州島で慰安婦狩りをした」という「吉田清治証言」の真偽、1991/8/11「朝日」に、朝鮮人慰安婦の金学順が「<女子挺身隊>の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた<朝鮮人従軍慰安婦>」だったと書いた植村隆記者の記事の妥当性、この2点に焦点が当てられている。
最初の吉田証言については、「済州島での慰安婦強制連行」が吉田清治の詐話であったことは、済州島で現地調査を行った秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書, 1999)により完璧に明らかにされており、慰安婦問題に関心をもつ人にとって常識となっていた。だから「朝日」が今日まで記事を撤回しなかったのが不思議だ。
むしろ問題は「女子挺身隊」と「慰安婦」を混同し、しかも後者を「強制連行された朝鮮人従軍慰安婦」と書いた植村記者の記事にある。8/5「朝日」検証記事は、これについて「当時は研究が乏しく同一視した」と釈明している。
同「検証記事」によると、植村記事は武田幸男編『朝鮮史』(山川出版,1985)と『朝鮮史を知る事典』(平凡社,1986)の記載を参照して書かれたという。これらの項の執筆者はともに宮田節子(早稲田大講師、当時)で、「朝日」の検証記事のための取材に対して、彼女は千田夏光『従軍慰安婦』(三一書房,)から引用した、と述べている。この元「毎日」記者、千田夏光によるこの本は、今日ではフィクションとみなされていて、まともな学術書と見なされていない。
千田夏光から植村記事に至る「一次情報」の変容を、「正論」10月号で東京基督教大教授、西岡力が検証している。それによると、千田夏光の依拠した元資料は1970/8/14「ソウル新聞」の以下の記事だという。
<1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおよそ20万人。そのうち韓国の女性は、5~7万人とされている。>
これは女子勤労動員について包括的に述べたもので、慰安婦とは関係がない。また数値の出典が不明である。
秦郁彦の上記書によると、日本国内では男子へ「国民徴用令」(1939)、学徒に関しては「学徒勤労令」(1944/8)、女子に対しては「女子挺身勤労令」(1944/8)が施行されたが、朝鮮では実施されなかった。朝鮮に「徴用令」が出されたのは1944年9月で、これは男子のみを対象としている。
また、朝鮮における「女子挺身隊」の募集は「官斡旋」のかたちで、1942/1から始まり、実際には学校で募集し、担任教師が引率して朝鮮における軍需工場で作業した。日本の工場に向かったものは、総数2,000人程度と秦は推定している。具体的には富山・不二越工場(1,090人余)、三菱航空・名古屋道徳工場(約300人)、東京麻布紡績・沼津工場(約100人)など。
で、「ソウル新聞」の記事を千田は以下のように改ざん・引用している。
<そこ(ソウル新聞)には、1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮人婦人約20万人が動員され、うち「5万人ないし7万人」が慰安婦にされたとあるのである。>
ここで意図的な改ざんが行われている。ソウル新聞には慰安婦のことは書いてない。女子挺身隊に動員された20万人のうち5~7万人(10~15%)が朝鮮人だったというのも、秦の研究から見て荒唐無稽である。それなのに、千田は朝鮮人女子が20万人挺身隊に動員され、うち5~7万人が慰安婦にされたと、元記事をゆがめて書いている。
この千田本に依拠した宮田節子は『朝鮮史』(1985)でこう書いた。
<44年8月には「女子挺身隊勤労令」が公布され、数十万人の12歳から40歳までの朝鮮の女性が勤労動員され、その中で未婚の女性数万人が日本軍の慰安婦にさせられた。>
上述の秦の研究にあるように、朝鮮では「女子挺身隊勤労令」が発令されなかった。日本国内の「女子挺身隊勤労令」では「農業要員を除く満12歳~40歳の未婚女性」が対象とされていた。従ってこの宮田の記述は完全に間違いで、大幅な誇張がある。
同じく宮田が執筆した『朝鮮を知る事典』(1986)には、こう書かれている。
<43年からは「女子挺身隊」の名の下に、約20万人の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5~7万人が慰安婦にされた。>
このように「挺身隊として動員された女子は日朝あわせて約20万人。うち朝鮮人は5~7万人」という根拠を示さない「ソウル新聞」の記事が伝言ゲームのようにひとり歩きして、1986年の『朝鮮を知る事典』での宮田節子による記載では「女子挺身隊の名で約20万人の朝鮮人女性が動員され、うち5~7万人が慰安婦にされた」と変わってしまった。
西岡力の検証によると、千田夏光『従軍慰安婦』(1978)にヒントをえて、吉田清治『私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行』(三一書房,1983)が出版され、多くの学者やメデイアがこの内容を信じた。済州島だけで200人の慰安婦狩りをしたというのだから、「朝鮮全土では950人」(1992/1/23「朝日」記事)、「約1000人」(1992/5/24「朝日」記事)と報じられた。これらも「朝鮮人慰安婦5~7万人」説の根拠となった。
1991/8/11「朝日」の植村記者による記事について、8/5「朝日検証記事」は「記事に事実のねじ曲げない」とし、植村記者の「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)幹部だった「義母らを利する目的で報道をしたことはない」という説明をそのまま受け入れている。
しかし彼が記事を書くのに参照した上記書籍資料には、上述のように、信じられないような大きな間違いがある。また遺族会の幹部だった義母は、その夫が太平洋戦争中に軍属として動員され死亡しているため、遺族として元慰安婦とともに、日本政府を相手に裁判を起こしている。92/12/25の植村記者による「朝日」記事は、この裁判を有利にするための効果を発揮しており、「身内を利するため」といわれても仕方がないのではないか。
「朝日」の慰安婦報道は、発掘年次順に、①吉田清治という加害者の証言(1983)、②金学順ら元慰安婦の証言(1991)、③吉見義明発掘の「軍関与を示す書類」(1991/12)という三点セットで成り立っている。
「朝日」は①の吉田証言を撤回したわけだが、②の金学順は、母親に売られたキーセンであり、買った「養父」により中国で慰安所業者に売られたと証言しており、単なる売春婦である。その他の「慰安婦」も、遺族会による裁判の「原告探し」に応じて名乗りをあげたものにすぎない。よって②の信憑性も薄い。
最後の「軍関与書類」は、吉見が12/6「朝日」の「慰安婦裁判」提訴の報道を受けて、防衛庁図書館の文書館で発掘したもので、「朝日」辰濃哲郎記者に渡された。これが1992/1/11のスクープとなったものである。文書自体は吉見の誤読で、「軍の名前を乱用して誘拐まがいの人集めをしている業者がいるが、そういうことのないよう、業者をちゃんと取り締まれ」という内容だった。
こうして見てくると三点セットがもう成り立たない。これが「西岡検証」の要点である。
結局、「朝日慰安婦報道」には、それを支える確固とした一次資料がまったくなかったことになる。これには驚いた。もし植村隆記者が自分の書く記事に誠実で、きちんとした調査をしたのであれば、宮田節子の記載が1970/8/14「ソウル新聞」の記事、<1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国女性は、全部でおよそ20万人。そのうち韓国の女性は、5~7万人とされている>が元の情報で、これには出典が書かれていないことを発見していたであろう。(なお後述の「VOICE
10月号池田論文は、外村大『朝鮮人強制連行』,岩波新書,2012を引用して1994/8朝鮮に「国民徴用令」が施行されるまでの企業や「官斡旋」による労働者募集の総数を約32万人として、紹介している。)
植村記者は1991/8/11「朝日」記事で、
<…「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、…>と書いた。金学順のことである。西岡が「正論」論文で指摘しているように、この文章の下線部は読点「、」の使い方から見て、金学順を含むことは明瞭である。この記事に書かれているのは金学順が「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍相手の従軍慰安婦にされた」という経歴の持ち主だという主張である。実際には、実母に伎楼を経営する男に売り渡され、その「養父」により慰安所に転売されたのであるから、この記述は虚偽である。
8/5「朝日」検証記事では「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」との混同が当時はあったと説明している。西岡は「朝日」の混同の元は詐話師吉田清治の『私の戦争犯罪』(1983)だと指摘している。吉田本(p.101)に以下の記述がある。
<女子の勤労報国隊が女子挺身隊と改称されて、女学校生徒や地域の処女会(女子青年団)の軍需工場勤労奉仕は女子挺身隊と呼ばれていたが、皇軍慰問の女子挺身隊とは「従軍慰安婦」のことであった。>
つまり「女子挺身隊」に2種類あり、ひとつは勤労奉仕に動員されたもの、もうひとつは従軍慰安婦だったというのである。秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(p.363,表12-2)によると、「従軍慰安婦」という呼称の初出は伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』(1969)で、千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社,1973)以後、徐々に広まったという。従軍慰安婦を「女子挺身隊」と混同させたのが吉田清治の証言とその著作である。これで「従軍慰安婦は女子挺身隊の名の下に戦場に強制連行された」という神話が生まれてしまった。
「朝日」検証記事がいうように「研究レベルが低かったから、混同が起こった」のではなく、吉田証言を大きく事実として報道した「朝日」のせいで、それまで挺身隊と従軍慰安婦をちゃんと区別しており、また事実を知る世代が生き残っていたのに、学者たちが混乱し誤解が広まったのである。
8/5「朝日」検証記事は、<吉田氏が慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。>と述べた。その上で<自由を奪われた強制性はあった>と主張している。これは1997/3/31の「朝日」検証記事、<(吉田)氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない>としながら、<「強制」を「強制連行」に限定する理由はない。強制性が問われるのは、いかに元慰安婦の「人身の自由」が侵害され、その尊厳が踏みにじられたか、という観点からだ>とした、当時の主張とまったく変わらないではないか。
吉田証言の「真偽が確認できない」でも、「証言は虚偽」でも、証言が事実とされていた時と立論がまったく変わらないのでは、とうてい「事実に基づいた報道」といえないだろう。
植村記者の1991/8/11記事、同/12/25記事については、記事の捏造と「身内の利益」を優先したという強い疑いが提起されており、徹底的な記事検証が必要だろう。
この点で植村釈明の矛盾を鋭く突いているのが「VOICE
10月号の池田信夫論文で、8/5「朝日」検証記事の以下の発言を問題としている。
1991/8/15「ハンギョレ新聞」が報じた金学順録音テープ内容には<母親によって閉場にあるキーセンに40円で売られた>とあるのに、植村記者は「朝日」検証記事では、
<91年8月の記事でキーセンに触れなかった理由について、植村氏は「証言テープの中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話し、「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」と説明する。> としている。
この釈明を素直に読めば、植村記者が聞いた録音テープには「キーセン学校」のことが含まれていなかったために、記事に書けなかったと受け取れる。ところが植村記者は同じ検証記事の中でこうも釈明している。
<植村氏は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」と説明。「そもそも金さんはだまされて慰安婦にされたと語っていた」といい、8月(11日)の記事でもそのことを書いた。>
この発言は「金学順がキーセンだった」という事実認識があって、それを記事にしなかった理由の説明としか考えられない。つまり植村記事は「40円でキーセンに売られ、養父につれられて華北の日本軍慰安所に行った」という事実を、キーセンだったことと「養父」に連れられて華北に行ったことを隠して、<「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存>と植村記事は書いた。池田はこう指弾する。
<語るに落ちるとは、このことだ。彼(植村)はここで、金(学順)が「キーセンになった」と聞いたことを認めている。騙されて慰安婦にされたことは強制連行とは別で、だました主語は養父だから国とは無関係だ。彼は身売りの話を強制連行に意図的に変えたのだ>
これも結局は「吉田昌郎調書」誤報と同じ構図で、金学順の証言テープが「朝日」の独占状態にあるうちは、植村捏造問題は決着がつかないだろう。「挺対協」は同じテープを沢山ばらまいたはずだから、植村が聞いたとしているものと同じテープを発掘してその内容を他のメディアが検証するしかないだろう。結局、「情報源を独占している」という確信があるかぎり、「朝日」にかぎらずメディアは平気でウソをつく、という構造的な問題があると考えるべきだろう。
「朝日」には植村が入手したテープを公開して、意図的な「キーセン隠し」であったなら、率直に謝罪して植村記事を撤回するのがもっとも望ましい対処法だろう。
仮に植村記事を撤回しても、またしても「朝日」の主張は変わらないだろうが、それはそれでよい。
8/6「朝日」検証記事は、<済州島における慰安婦狩りを証言した吉田清治を16回も紙面に登場させたが、虚言らしいと判明した93年以降は起用をやめた>と書いている。第1回は1982/9/2(大阪版)の「吉田清治講演」内容の報道だから、11年間に16回も取り上げたことになる。しかし朝日は「吉田関係記事の取り消し」は明言したものの、対象となる16本の記事リストを明示していない。これは本当に誠実で、読者から信頼を得られる態度といえるだろうか?
旧石器遺跡捏造事件で「調査委員会」は最終的に藤村新一がらみの遺跡は全部捏造だという結論を出した。それなら藤村遺跡に依拠して書かれた書物や学位論文その他の論文も無効になるはずである。しかし委員会は影響があまりに大きくなることをおそれ、「撤回書籍・論文リスト」を公表しなかった。
その結果何が起きたか。アマチュアの考古学に対する不信である。「考古学離れ」が起こり、一時はあれだけあった考古学関係の雑誌や一般向け考古学概説書はいまやほとんどなくなった。
「朝日」の部数が減少するのは致し方ないが、「朝日」不信はよりひろく「新聞不信」を生み、広範な「新聞離れ」につながるおそれがある。それを防ぎ得るかどうかは、「朝日」の真剣な自己検証にかかっているといえるだろう。
定点観測している近くのコンビニに行くと、日曜日の18:00で朝日は4/5,読売1/5,毎日1/5, 日経1/5が売れ残っていた。中国は10部を完売。田舎だから地元紙が多く出るが、「朝日」の落ち込みはちとひどい。
この問題を引き続き注目している。今や「吉田昌郎調書」の誤報問題、池上彰コラムの掲載拒否問題、任天堂の社長インタビュー捏造問題、「デアゴ社機密資料」持ち出し問題と多重的に不祥事が重なったわけだが、元はといえば「朝日」8/5「慰安婦問題」検証記事の不備が発端だ。
検証は「済州島で慰安婦狩りをした」という「吉田清治証言」の真偽、1991/8/11「朝日」に、朝鮮人慰安婦の金学順が「<女子挺身隊>の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた<朝鮮人従軍慰安婦>」だったと書いた植村隆記者の記事の妥当性、この2点に焦点が当てられている。
最初の吉田証言については、「済州島での慰安婦強制連行」が吉田清治の詐話であったことは、済州島で現地調査を行った秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書, 1999)により完璧に明らかにされており、慰安婦問題に関心をもつ人にとって常識となっていた。だから「朝日」が今日まで記事を撤回しなかったのが不思議だ。
むしろ問題は「女子挺身隊」と「慰安婦」を混同し、しかも後者を「強制連行された朝鮮人従軍慰安婦」と書いた植村記者の記事にある。8/5「朝日」検証記事は、これについて「当時は研究が乏しく同一視した」と釈明している。
同「検証記事」によると、植村記事は武田幸男編『朝鮮史』(山川出版,1985)と『朝鮮史を知る事典』(平凡社,1986)の記載を参照して書かれたという。これらの項の執筆者はともに宮田節子(早稲田大講師、当時)で、「朝日」の検証記事のための取材に対して、彼女は千田夏光『従軍慰安婦』(三一書房,)から引用した、と述べている。この元「毎日」記者、千田夏光によるこの本は、今日ではフィクションとみなされていて、まともな学術書と見なされていない。
千田夏光から植村記事に至る「一次情報」の変容を、「正論」10月号で東京基督教大教授、西岡力が検証している。それによると、千田夏光の依拠した元資料は1970/8/14「ソウル新聞」の以下の記事だという。
<1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおよそ20万人。そのうち韓国の女性は、5~7万人とされている。>
これは女子勤労動員について包括的に述べたもので、慰安婦とは関係がない。また数値の出典が不明である。
秦郁彦の上記書によると、日本国内では男子へ「国民徴用令」(1939)、学徒に関しては「学徒勤労令」(1944/8)、女子に対しては「女子挺身勤労令」(1944/8)が施行されたが、朝鮮では実施されなかった。朝鮮に「徴用令」が出されたのは1944年9月で、これは男子のみを対象としている。
また、朝鮮における「女子挺身隊」の募集は「官斡旋」のかたちで、1942/1から始まり、実際には学校で募集し、担任教師が引率して朝鮮における軍需工場で作業した。日本の工場に向かったものは、総数2,000人程度と秦は推定している。具体的には富山・不二越工場(1,090人余)、三菱航空・名古屋道徳工場(約300人)、東京麻布紡績・沼津工場(約100人)など。
で、「ソウル新聞」の記事を千田は以下のように改ざん・引用している。
<そこ(ソウル新聞)には、1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮人婦人約20万人が動員され、うち「5万人ないし7万人」が慰安婦にされたとあるのである。>
ここで意図的な改ざんが行われている。ソウル新聞には慰安婦のことは書いてない。女子挺身隊に動員された20万人のうち5~7万人(10~15%)が朝鮮人だったというのも、秦の研究から見て荒唐無稽である。それなのに、千田は朝鮮人女子が20万人挺身隊に動員され、うち5~7万人が慰安婦にされたと、元記事をゆがめて書いている。
この千田本に依拠した宮田節子は『朝鮮史』(1985)でこう書いた。
<44年8月には「女子挺身隊勤労令」が公布され、数十万人の12歳から40歳までの朝鮮の女性が勤労動員され、その中で未婚の女性数万人が日本軍の慰安婦にさせられた。>
上述の秦の研究にあるように、朝鮮では「女子挺身隊勤労令」が発令されなかった。日本国内の「女子挺身隊勤労令」では「農業要員を除く満12歳~40歳の未婚女性」が対象とされていた。従ってこの宮田の記述は完全に間違いで、大幅な誇張がある。
同じく宮田が執筆した『朝鮮を知る事典』(1986)には、こう書かれている。
<43年からは「女子挺身隊」の名の下に、約20万人の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5~7万人が慰安婦にされた。>
このように「挺身隊として動員された女子は日朝あわせて約20万人。うち朝鮮人は5~7万人」という根拠を示さない「ソウル新聞」の記事が伝言ゲームのようにひとり歩きして、1986年の『朝鮮を知る事典』での宮田節子による記載では「女子挺身隊の名で約20万人の朝鮮人女性が動員され、うち5~7万人が慰安婦にされた」と変わってしまった。
西岡力の検証によると、千田夏光『従軍慰安婦』(1978)にヒントをえて、吉田清治『私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行』(三一書房,1983)が出版され、多くの学者やメデイアがこの内容を信じた。済州島だけで200人の慰安婦狩りをしたというのだから、「朝鮮全土では950人」(1992/1/23「朝日」記事)、「約1000人」(1992/5/24「朝日」記事)と報じられた。これらも「朝鮮人慰安婦5~7万人」説の根拠となった。
1991/8/11「朝日」の植村記者による記事について、8/5「朝日検証記事」は「記事に事実のねじ曲げない」とし、植村記者の「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)幹部だった「義母らを利する目的で報道をしたことはない」という説明をそのまま受け入れている。
しかし彼が記事を書くのに参照した上記書籍資料には、上述のように、信じられないような大きな間違いがある。また遺族会の幹部だった義母は、その夫が太平洋戦争中に軍属として動員され死亡しているため、遺族として元慰安婦とともに、日本政府を相手に裁判を起こしている。92/12/25の植村記者による「朝日」記事は、この裁判を有利にするための効果を発揮しており、「身内を利するため」といわれても仕方がないのではないか。
「朝日」の慰安婦報道は、発掘年次順に、①吉田清治という加害者の証言(1983)、②金学順ら元慰安婦の証言(1991)、③吉見義明発掘の「軍関与を示す書類」(1991/12)という三点セットで成り立っている。
「朝日」は①の吉田証言を撤回したわけだが、②の金学順は、母親に売られたキーセンであり、買った「養父」により中国で慰安所業者に売られたと証言しており、単なる売春婦である。その他の「慰安婦」も、遺族会による裁判の「原告探し」に応じて名乗りをあげたものにすぎない。よって②の信憑性も薄い。
最後の「軍関与書類」は、吉見が12/6「朝日」の「慰安婦裁判」提訴の報道を受けて、防衛庁図書館の文書館で発掘したもので、「朝日」辰濃哲郎記者に渡された。これが1992/1/11のスクープとなったものである。文書自体は吉見の誤読で、「軍の名前を乱用して誘拐まがいの人集めをしている業者がいるが、そういうことのないよう、業者をちゃんと取り締まれ」という内容だった。
こうして見てくると三点セットがもう成り立たない。これが「西岡検証」の要点である。
結局、「朝日慰安婦報道」には、それを支える確固とした一次資料がまったくなかったことになる。これには驚いた。もし植村隆記者が自分の書く記事に誠実で、きちんとした調査をしたのであれば、宮田節子の記載が1970/8/14「ソウル新聞」の記事、<1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国女性は、全部でおよそ20万人。そのうち韓国の女性は、5~7万人とされている>が元の情報で、これには出典が書かれていないことを発見していたであろう。(なお後述の「VOICE
10月号池田論文は、外村大『朝鮮人強制連行』,岩波新書,2012を引用して1994/8朝鮮に「国民徴用令」が施行されるまでの企業や「官斡旋」による労働者募集の総数を約32万人として、紹介している。)
植村記者は1991/8/11「朝日」記事で、
<…「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、…>と書いた。金学順のことである。西岡が「正論」論文で指摘しているように、この文章の下線部は読点「、」の使い方から見て、金学順を含むことは明瞭である。この記事に書かれているのは金学順が「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍相手の従軍慰安婦にされた」という経歴の持ち主だという主張である。実際には、実母に伎楼を経営する男に売り渡され、その「養父」により慰安所に転売されたのであるから、この記述は虚偽である。
8/5「朝日」検証記事では「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」との混同が当時はあったと説明している。西岡は「朝日」の混同の元は詐話師吉田清治の『私の戦争犯罪』(1983)だと指摘している。吉田本(p.101)に以下の記述がある。
<女子の勤労報国隊が女子挺身隊と改称されて、女学校生徒や地域の処女会(女子青年団)の軍需工場勤労奉仕は女子挺身隊と呼ばれていたが、皇軍慰問の女子挺身隊とは「従軍慰安婦」のことであった。>
つまり「女子挺身隊」に2種類あり、ひとつは勤労奉仕に動員されたもの、もうひとつは従軍慰安婦だったというのである。秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(p.363,表12-2)によると、「従軍慰安婦」という呼称の初出は伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』(1969)で、千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社,1973)以後、徐々に広まったという。従軍慰安婦を「女子挺身隊」と混同させたのが吉田清治の証言とその著作である。これで「従軍慰安婦は女子挺身隊の名の下に戦場に強制連行された」という神話が生まれてしまった。
「朝日」検証記事がいうように「研究レベルが低かったから、混同が起こった」のではなく、吉田証言を大きく事実として報道した「朝日」のせいで、それまで挺身隊と従軍慰安婦をちゃんと区別しており、また事実を知る世代が生き残っていたのに、学者たちが混乱し誤解が広まったのである。
8/5「朝日」検証記事は、<吉田氏が慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。>と述べた。その上で<自由を奪われた強制性はあった>と主張している。これは1997/3/31の「朝日」検証記事、<(吉田)氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない>としながら、<「強制」を「強制連行」に限定する理由はない。強制性が問われるのは、いかに元慰安婦の「人身の自由」が侵害され、その尊厳が踏みにじられたか、という観点からだ>とした、当時の主張とまったく変わらないではないか。
吉田証言の「真偽が確認できない」でも、「証言は虚偽」でも、証言が事実とされていた時と立論がまったく変わらないのでは、とうてい「事実に基づいた報道」といえないだろう。
植村記者の1991/8/11記事、同/12/25記事については、記事の捏造と「身内の利益」を優先したという強い疑いが提起されており、徹底的な記事検証が必要だろう。
この点で植村釈明の矛盾を鋭く突いているのが「VOICE
10月号の池田信夫論文で、8/5「朝日」検証記事の以下の発言を問題としている。
1991/8/15「ハンギョレ新聞」が報じた金学順録音テープ内容には<母親によって閉場にあるキーセンに40円で売られた>とあるのに、植村記者は「朝日」検証記事では、
<91年8月の記事でキーセンに触れなかった理由について、植村氏は「証言テープの中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話し、「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」と説明する。> としている。
この釈明を素直に読めば、植村記者が聞いた録音テープには「キーセン学校」のことが含まれていなかったために、記事に書けなかったと受け取れる。ところが植村記者は同じ検証記事の中でこうも釈明している。
<植村氏は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」と説明。「そもそも金さんはだまされて慰安婦にされたと語っていた」といい、8月(11日)の記事でもそのことを書いた。>
この発言は「金学順がキーセンだった」という事実認識があって、それを記事にしなかった理由の説明としか考えられない。つまり植村記事は「40円でキーセンに売られ、養父につれられて華北の日本軍慰安所に行った」という事実を、キーセンだったことと「養父」に連れられて華北に行ったことを隠して、<「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存>と植村記事は書いた。池田はこう指弾する。
<語るに落ちるとは、このことだ。彼(植村)はここで、金(学順)が「キーセンになった」と聞いたことを認めている。騙されて慰安婦にされたことは強制連行とは別で、だました主語は養父だから国とは無関係だ。彼は身売りの話を強制連行に意図的に変えたのだ>
これも結局は「吉田昌郎調書」誤報と同じ構図で、金学順の証言テープが「朝日」の独占状態にあるうちは、植村捏造問題は決着がつかないだろう。「挺対協」は同じテープを沢山ばらまいたはずだから、植村が聞いたとしているものと同じテープを発掘してその内容を他のメディアが検証するしかないだろう。結局、「情報源を独占している」という確信があるかぎり、「朝日」にかぎらずメディアは平気でウソをつく、という構造的な問題があると考えるべきだろう。
「朝日」には植村が入手したテープを公開して、意図的な「キーセン隠し」であったなら、率直に謝罪して植村記事を撤回するのがもっとも望ましい対処法だろう。
仮に植村記事を撤回しても、またしても「朝日」の主張は変わらないだろうが、それはそれでよい。
8/6「朝日」検証記事は、<済州島における慰安婦狩りを証言した吉田清治を16回も紙面に登場させたが、虚言らしいと判明した93年以降は起用をやめた>と書いている。第1回は1982/9/2(大阪版)の「吉田清治講演」内容の報道だから、11年間に16回も取り上げたことになる。しかし朝日は「吉田関係記事の取り消し」は明言したものの、対象となる16本の記事リストを明示していない。これは本当に誠実で、読者から信頼を得られる態度といえるだろうか?
旧石器遺跡捏造事件で「調査委員会」は最終的に藤村新一がらみの遺跡は全部捏造だという結論を出した。それなら藤村遺跡に依拠して書かれた書物や学位論文その他の論文も無効になるはずである。しかし委員会は影響があまりに大きくなることをおそれ、「撤回書籍・論文リスト」を公表しなかった。
その結果何が起きたか。アマチュアの考古学に対する不信である。「考古学離れ」が起こり、一時はあれだけあった考古学関係の雑誌や一般向け考古学概説書はいまやほとんどなくなった。
「朝日」の部数が減少するのは致し方ないが、「朝日」不信はよりひろく「新聞不信」を生み、広範な「新聞離れ」につながるおそれがある。それを防ぎ得るかどうかは、「朝日」の真剣な自己検証にかかっているといえるだろう。
定点観測している近くのコンビニに行くと、日曜日の18:00で朝日は4/5,読売1/5,毎日1/5, 日経1/5が売れ残っていた。中国は10部を完売。田舎だから地元紙が多く出るが、「朝日」の落ち込みはちとひどい。
そんなもの実際にあったとしても私は臆さない。
日本人としての誇りはなくならない。
なぜなら、慰安婦如きの苦しみなど大空襲や原爆で亡くなったり、日本を守るために散った英霊の方々の辛苦を思えば大宇宙の塵の如きものだ。