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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【中江藤樹】難波先生より

2012-11-21 02:41:20 | 難波紘二先生
【中江藤樹】クラス会は2泊3日で、長浜と雄琴に泊り、マイクロバスで琵琶湖周囲のお寺巡りが主体だった。このあたりの寺は創建が古いので、平地にあるものは少なく、山の中腹にあり長い階段を歩いて登らないといけないので、大変である。帰って家内に「寺巡りだった」と言ったら、「みんなお迎えが近いからね…」といわれた。


 途中、地図を見ると「しんあさひ」という駅の近く、琵琶湖の西岸に「近江聖人中江藤樹記念館」、「藤樹書院」というのがある。見たかったが幹事が組んだ予定に入っておらず、今回は見逃した。


 17日(土)の「産経」の「教育」というコラムに「消えた偉人・物語」という不定期連載があり、<中江藤樹と『捷径医筌(しょうけいいせん)』>と題して、藤樹が大野了佐(尾関友庵)という物覚えの悪い弟子に必死に医学を教えたという話が書いてあった。その苦労ぶりを「われ了佐において幾度精根を尽くす」と漏らしたそうだ。何しろ大野了佐のために『捷径医筌』という医学教科書を執筆したのだそうだ。


 中江藤樹の本は岩波文庫でも、「翁問答」、「鑑草」しかない。それも現行本は1936年初版、2002年7刷りだから、ほとんど読まれていない。解説もいいかげんである。大野了佐のことも、『捷径医筌』のことも書いてない。


 藤樹は1608年の生まれで、近江高島郡小川村が出生地。祖父中江吉長が近江高島城主(2万石)加藤光泰に仕えた100石取りの武士だった。光泰は秀吉に仕え、甲斐24万石に加増されたが、朝鮮出兵中に病死し、跡を息加藤貞泰が嗣いだが、美濃4万石に減俸された。1600年、関ヶ原の合戦に東軍に味方し、米子6万石を領した。


 祖父吉長はこれに従い、米子時代に孫藤樹を養子とした。主君貞泰は1617年、米子から伊予大洲6万石に移奉された。以後、加藤家は貞泰死後に長男泰興の大洲藩5万石と次男直泰の新谷藩1万石に分知された。中江藤樹ははじめ大洲藩の藩儒だったが、1632年新谷藩に移籍になり、「母に孝養を尽くすため」という理由で何度も辞職を願い出ているが、藩主に許されず、ついに1634年脱藩して郷里小川村に戻った。以後、宮仕えをせず、私塾を開いて教育に生涯を送り、1648年41歳で死去している。


 著書は「中江藤樹全集 全5巻」があり、医書だけで「小医南針」、「医筌」、「医方規矩」、「医方摘要」があることになっている。(「大日本人名辞書」)この「医筌」が『捷径医筌』のことかも知れない。しかし富士川游「日本医学史綱要」を見ると、中江藤樹の医学はいわゆる「古医方」で、「陽明学の祖ではあるが、医学は程・朱の範囲を脱せず」とあっさり片付けてある。程は程伊川のことで、朱はその孫弟子、朱子(朱喜)のことである。11世紀北宋から12世紀南宋にかけての学者で、恐ろしく古い。


 「医筌」は医学書からの抜粋、「捷径」は今日でいう「エッセンシャル」あるいは「ポケット版」という程度の意味だろう。藤樹は理解力のない大野のために丸暗記用のあんちょこを作ってやった、ということだろう。


 いったい藤樹は師がなく、独学の人で初め「四書」を研究し、ついで「五経」を学び、朱子学に傾倒した。ついで30歳過ぎに「王陽明」の著作にはじめて接し、陽明学に傾倒した。
 「翁問答」では百六問の問いに答えを述べているが、独学の人だから、体系性が全然ない。「心学」という用語が、「石門心学」の石田梅岩「都鄙問答」(1739)より100年くらい前に出てくる。陽明学を基本とし、唯心論ないし観念論を説く点では同じである。医学に関する問答はまったくない。


 それはともかく、藤樹を手こずらせた出来の悪い弟子、大野了佐は大洲藩に戻り、母方の尾関家の養子となった後、尾関友庵と改名し、宇和島で開業したという。後継者が甥の尾関小三郎というそうだ。この恐ろしい医者のことを近藤先生はご存じだろうか。
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