ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

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2014-01-07 12:59:48 | Weblog
【認知症】倉橋島に住む従妹のところに、家内が年始に行くから一緒に行かないかと誘われたが断った。昨年、亭主が肺がんで亡くなったばかりで、未亡人である。積もる話もあるだろうし、私がいてはじゃまな話もあるだろう。
 それに私とは深いつき合いがないから、仕事場にこもって読書と賀状書きをしている方が、こちらもありがたいのだ。


 で、夕方遅く戻って来た家内から、夕食の時に話を聞いた。故人は糖尿病で通院していたが、精密検査で末期肺がんが見つかり、主治医から1)治療するか、2)ターミナルケアをするか、選択を迫られ、国立医療センター呉病院に入院して、ターミナルケアを受けることにしたそうだ。


 「もう好きなものを食べて良い」と云われ、好きなものをたらふく食ったら体調がみる見る良くなり、医者が「これなら化学療法ができます」というので、2クール受けたそうだ。
 今度はみるみる体調が悪化し、肺炎を起こし、医者が「このまま苦しみますか、それとも意識をなくして楽になりますか」というので「楽になる」方を選んだら、眠ったまますぐに死んだそうだ。


 まあ、今の医者は昔のカトリックの牧師みたいなことまでやらされているわけだ。


 これなんかみても、なまじ化学療法などしなければ、もっと余生を楽しめたのではないかという気がする。


 息子が母親と同居していて、町にある「老人ホーム」に勤めていて、たまたま1/3は夜勤の日で午後4時頃まで寝ていたそうだ。
 それが起きてきて、いろいろ痴呆老人のエピソードや扱い方の話をしてくれたそうだ。


 入居者の老人と話しするのは食事介助の時が主らしい。これは大事な仕事で、誤嚥した場合に適切な対応をしないと、誤嚥性肺炎が起きるし、ヘタをすると植物人間になり、自分で食べられなくなるので「胃瘻」を作成する必要が出て来る。儲け主義の施設なら、勝手に胃瘻を作る。


 で、食事の前に痴呆老人が「今日は家に帰る」と言いだす。
 コツはこれに決して逆らわないこと…。
 「それいいね、ぜひそうしんさい。だけどその前にご飯を食べておこうね」と対応する。
 食事をしているうちに、老人は前に言ったことを忘れて、別なことをやりたいといいだす。今度はそれに応諾して、適当に気を逸らせるような言葉をかける。万事その調子。


 この話を聞いて、「徘徊老人の仕組みがわかった」と思った。
 徘徊老人というのは、家を出た時は目的が分かっていたが、途中で気が変わり、別なところに行き始め、また途中で気が変わり、そうしているうちに、自分が何しに家を出たのか、どうしたら家に帰れるのかまでわからなくなって、ぐるぐる目的なしに歩きまわる老人をいう。


 人間誰でも、40代にもなると何かの目的で2階に上がったものの、「はて何を取りに来たのか?」と忘れることがある。
 これが一段で終わる人は、元の位置にすぐ戻れるし、そのうち「何しに2階に行ったか、何が欲しかったのか」を思い出せる。


 それが階段を降りる途中でまた別のことを思い出し、二階に引き返し、探し物をたずねているうちに、別のことを思い出せば、結果として1階と2階の間を「徘徊する」ことになる。


 私はこういうことはないから、通常の意味での「徘徊老人」ではないが、ある調べ事をしていて、その途中で見つかった疑問点を調べないと気が収まらず、歴史書から世界史年表へ、年表から年鑑へ、年鑑から医学史、科学史の本へ、そこからまた別の本へとしばしば「大探険」に出かけ、なかなか元のテーマに戻れなくなることがあるから、これは立派な「知的徘徊老人」である。


 この「すぐ気が変わる」というのは、精神科では「躁病」の特徴とされている。世の中には「馬鹿のひとつ覚え」とか「コケの一念」といって、倦まずたゆまずに、ひとつのことに専念しないと完成できないことがあるが、躁病の患者ではクルクル気持ちが変わるために、一貫した仕事ができず、何ごとも中途半端なままで完成に至らない。
 どうも自分にはこういう傾向があると、自覚し反省もしている。


 「気が変わる」というのは、目的とそのための「運動行為」ニューロンとの間の連絡が途絶えるということだろう。「運動行為ニューロン」から「目的意識ニューロン」へのフィードバックが途切れて、目的意識が「意識されなくなった」状態をいうのだと思われる。
 その代わりに、いまやっている行動を「合理化する」意識が生みだされる。まあ、これが「気が変わる」ことの本態であろう。
 こうしてみると、認知症と躁病の間には共通点があるかもしれないと思う。


 ただ躁病と認知症の違いは、躁病では病期の記憶がほぼ100%保たれるが、認知症では記憶保持率が0%、朝飯を食ったことさえ忘れる、という特徴がある。
ただし記憶保持率は別のメカニズムによる可能性があり、この一事だけで躁病と認知症がまったく別ものと言い切ることもできないだろう。
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