【献本お礼など】
①高橋幸春「日本の腎移植はどう変わったかー50年代から修復腎移植再開まで」(えにし書房、2019/3, 226頁、1800円):高橋さんからこの本をいただいたのに、お礼を忘れていた。申し訳ない。
この本は全17章のうち10章を「修復腎移植」に反対した、当時の日本移植学会副理事長・大島伸一の半生にスポットをあてた点に特色がある。若き日の彼が名古屋市の中京病院泌尿器科部長として、母校名古屋大の病院を中心とするグループと張り合いながら、腎移植を推進してきた。
後に名大医学部泌尿器科の教授となり、腎移植を推進した。2006年の「病腎移植」事件の時は停年退官して、愛知県大府市にある国立長寿医療研究センターの総長になっていた。
彼が1981年に行った、生きた「無脳児」から両側の腎臓を摘出し、腎不全の小児に移植した手術が、当時猛烈な社会的非難の対象となったことを回想するくだりでは、「ああ、この人は実質的には万波移植を肯定しているな」と思わせた。
「毎日」の〔闘論〕欄での私の修復腎移植支持論に対して「見たことも聞いたことない医療だ」と述べたのは、もう行政職のトップになっていて、かつての部下たちと「論文抄読会」などが出来ていなかったからだろう。
恩師の飯島宗一先生は、1977年5月、2期8年間の広島大学長をやめた後、ひらの病理学教授に復帰され、翌78年3月に名古屋大学医学部病理学の教授に転じられた。2年後に医学部長に、その翌年には学長に選出され、2期6年を務められた。
大島伸一さんの中京病院部長から名大病院教授へのスカウトは、飯島先生の在職中のことだと私は思う。
ともあれ大島伸一氏を「実質的な修復腎移植支持」派に変えたのは、高橋幸春さんの大きな功績だと思う。
②雑誌「月刊読売」昭和20年4月号の「覆刻版(第28巻)」三人社, 2018/10, 3,000円:元岩波書店の編集者、桑原涼(すずし)さんから贈呈を受けた。珍しい雑誌だ。厚くお礼申し上げます。
同封の書簡によると、立教大学のある教授が「青年読売(月刊読売の当時のタイトル)」の戦時休刊は1945年4月である」という説を唱えていて、彼が監修した覆刻版に同誌4月号が含まれていないのに違和感を覚え、ネット探索により「幻の4月1日号」の雑誌現品を発見、覆刻版を出した出版社と交渉し、第28巻としてこの補完が出版されたそうだ。
この覆刻版の「解題」を執筆しているのが、桑原さんだ。これも立派な学問的貢献だ。解題に書かれている、空襲下の出版事情(編集・印刷)や4月1日号の記事内容から、実際は6月下旬に販売されたという推論など、とても面白く役に立った。
太平洋戦争中の「東京空襲」というと、’45年3月10日夜、隅田川両岸の下町地区を焼き尽くし、約10万人の死者を出した「東京大空襲」が有名だ。(早乙女勝元「東京大空襲:昭和20年3月10日の記録」,岩波新書 ,1971/1)
別資料によると東京は1942年4月18日以後、112回の空襲を受け、死者9万4225人、被災者309万9447名だという。(A.C. グレイリング:鈴木主税,浅岡政子訳「大空襲と原爆は本当に必要だったのか」河出書房新社, 2007/2)
多くの印刷所が被災したが、市ヶ谷にあった大日本印刷の工場は無傷だったという。
この「復刻版・青年読売」4月1日号に、面白い著者を2人認めた。
小泉又治郞「罹災地を訪ねて」はWIKIにある「小泉又次郎」と一字異なるが「小磯内閣の顧問」をしていると文中にあり、本人が本文中に、3月10日の東京大空襲の被災地を廻り、家を焼かれたのに「これが戦争でさ!」昂然といいきって、眼に涙を浮かべたお婆さんがいたという。それは決して多年住みなれた家を失い、家財を奪われた悲しみの涙では決してなかった。敵に対する憎しみと戦う決意の涙だったという。
「わしはこんな健気な涙を八十一歳の今日まで見たことがない」と書いているので、小泉純一郎元首相の祖父であろう。接続詞を使わない、歯切れの良い文体が小泉さんの演説とそっくりなのに驚いた。
もう一人は清沢洌で、「ソ連の世界政策—今後はどう出るか」という評論を書いている。
清沢洌というと『暗黒日記 (昭和17年12月9日〜20年5月5日)』(評論社, 1979/8)が有名で、自由主義的見解のために戦争中は執筆の機会を奪われた、と解説の橋川文三は書いている。しかしこの雑誌の4月号にちゃんと評論を書いている。だが、2月7日にクリミア半島のヤルタで開かれた「ヤルタ会談」の内容を正確に理解していないし、この時の秘密協定に基づいて、ソ連が「日ソ中立条約」の不延長を日本に通告したことの意味も理解していない。
この点は清沢の『暗黒日記』の記載を見ても同様である。
ソ連は旧ロシア帝国の領土を復活させようとしているだけだ、という彼の指摘は正しい。また「スターリン独裁体制が今後のソ連にとって最大の問題だ」とちゃんと指摘しているのはさすがだ。
年譜によると「東洋経済新報」の顧問をしており、顧問料と同誌への執筆でちゃんと生活が成り立っていたようだ。
この雑誌(「青年読売」のどの記事を見ても、硫黄島戦(2/19~3/27)、沖縄戦(4/1~6/23)や米大統領ルーズベルトの死(4/12)には触れていない。これは全ての執筆者がこれら事件について詳しい情報を入手し、解析した上で執筆する前に、原稿の締め切り日が来たためだろうと、私は思う。恐らく締め切りは3月半ばだったのではなかろうか。
(無断転載禁止)
①高橋幸春「日本の腎移植はどう変わったかー50年代から修復腎移植再開まで」(えにし書房、2019/3, 226頁、1800円):高橋さんからこの本をいただいたのに、お礼を忘れていた。申し訳ない。
この本は全17章のうち10章を「修復腎移植」に反対した、当時の日本移植学会副理事長・大島伸一の半生にスポットをあてた点に特色がある。若き日の彼が名古屋市の中京病院泌尿器科部長として、母校名古屋大の病院を中心とするグループと張り合いながら、腎移植を推進してきた。
後に名大医学部泌尿器科の教授となり、腎移植を推進した。2006年の「病腎移植」事件の時は停年退官して、愛知県大府市にある国立長寿医療研究センターの総長になっていた。
彼が1981年に行った、生きた「無脳児」から両側の腎臓を摘出し、腎不全の小児に移植した手術が、当時猛烈な社会的非難の対象となったことを回想するくだりでは、「ああ、この人は実質的には万波移植を肯定しているな」と思わせた。
「毎日」の〔闘論〕欄での私の修復腎移植支持論に対して「見たことも聞いたことない医療だ」と述べたのは、もう行政職のトップになっていて、かつての部下たちと「論文抄読会」などが出来ていなかったからだろう。
恩師の飯島宗一先生は、1977年5月、2期8年間の広島大学長をやめた後、ひらの病理学教授に復帰され、翌78年3月に名古屋大学医学部病理学の教授に転じられた。2年後に医学部長に、その翌年には学長に選出され、2期6年を務められた。
大島伸一さんの中京病院部長から名大病院教授へのスカウトは、飯島先生の在職中のことだと私は思う。
ともあれ大島伸一氏を「実質的な修復腎移植支持」派に変えたのは、高橋幸春さんの大きな功績だと思う。
②雑誌「月刊読売」昭和20年4月号の「覆刻版(第28巻)」三人社, 2018/10, 3,000円:元岩波書店の編集者、桑原涼(すずし)さんから贈呈を受けた。珍しい雑誌だ。厚くお礼申し上げます。
同封の書簡によると、立教大学のある教授が「青年読売(月刊読売の当時のタイトル)」の戦時休刊は1945年4月である」という説を唱えていて、彼が監修した覆刻版に同誌4月号が含まれていないのに違和感を覚え、ネット探索により「幻の4月1日号」の雑誌現品を発見、覆刻版を出した出版社と交渉し、第28巻としてこの補完が出版されたそうだ。
この覆刻版の「解題」を執筆しているのが、桑原さんだ。これも立派な学問的貢献だ。解題に書かれている、空襲下の出版事情(編集・印刷)や4月1日号の記事内容から、実際は6月下旬に販売されたという推論など、とても面白く役に立った。
太平洋戦争中の「東京空襲」というと、’45年3月10日夜、隅田川両岸の下町地区を焼き尽くし、約10万人の死者を出した「東京大空襲」が有名だ。(早乙女勝元「東京大空襲:昭和20年3月10日の記録」,岩波新書 ,1971/1)
別資料によると東京は1942年4月18日以後、112回の空襲を受け、死者9万4225人、被災者309万9447名だという。(A.C. グレイリング:鈴木主税,浅岡政子訳「大空襲と原爆は本当に必要だったのか」河出書房新社, 2007/2)
多くの印刷所が被災したが、市ヶ谷にあった大日本印刷の工場は無傷だったという。
この「復刻版・青年読売」4月1日号に、面白い著者を2人認めた。
小泉又治郞「罹災地を訪ねて」はWIKIにある「小泉又次郎」と一字異なるが「小磯内閣の顧問」をしていると文中にあり、本人が本文中に、3月10日の東京大空襲の被災地を廻り、家を焼かれたのに「これが戦争でさ!」昂然といいきって、眼に涙を浮かべたお婆さんがいたという。それは決して多年住みなれた家を失い、家財を奪われた悲しみの涙では決してなかった。敵に対する憎しみと戦う決意の涙だったという。
「わしはこんな健気な涙を八十一歳の今日まで見たことがない」と書いているので、小泉純一郎元首相の祖父であろう。接続詞を使わない、歯切れの良い文体が小泉さんの演説とそっくりなのに驚いた。
もう一人は清沢洌で、「ソ連の世界政策—今後はどう出るか」という評論を書いている。
清沢洌というと『暗黒日記 (昭和17年12月9日〜20年5月5日)』(評論社, 1979/8)が有名で、自由主義的見解のために戦争中は執筆の機会を奪われた、と解説の橋川文三は書いている。しかしこの雑誌の4月号にちゃんと評論を書いている。だが、2月7日にクリミア半島のヤルタで開かれた「ヤルタ会談」の内容を正確に理解していないし、この時の秘密協定に基づいて、ソ連が「日ソ中立条約」の不延長を日本に通告したことの意味も理解していない。
この点は清沢の『暗黒日記』の記載を見ても同様である。
ソ連は旧ロシア帝国の領土を復活させようとしているだけだ、という彼の指摘は正しい。また「スターリン独裁体制が今後のソ連にとって最大の問題だ」とちゃんと指摘しているのはさすがだ。
年譜によると「東洋経済新報」の顧問をしており、顧問料と同誌への執筆でちゃんと生活が成り立っていたようだ。
この雑誌(「青年読売」のどの記事を見ても、硫黄島戦(2/19~3/27)、沖縄戦(4/1~6/23)や米大統領ルーズベルトの死(4/12)には触れていない。これは全ての執筆者がこれら事件について詳しい情報を入手し、解析した上で執筆する前に、原稿の締め切り日が来たためだろうと、私は思う。恐らく締め切りは3月半ばだったのではなかろうか。
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