【V音の表記】
7/4毎日の「余録」が<ラテン語の「モーダス・ビベンディ」とは「生活様式」である>という文で始まる文章を掲載している。
http://mainichi.jp/opinion/news/20140704k0000m070098000c.html
次ぎに<モーダスは方式、ビベンディは生活のことだ>とある。が、意味が取れない。しばらく考えて「Modus vivendiのことか…」と合点がいった。
http://ejje.weblio.jp/content/modus+vivendi
Modusは「モォドゥス」と発音する。「モーダス」は米国発音で、英語modeと同義だ。
http://ejje.weblio.jp/content/modus
Vivendiは動詞「vivo(生きる)」に由来する形容詞だから、二重のV音をちゃんと表記しないとラテン語スペルが想起できない。Vivoはvitro(ガラス)と対比させてin vitro(試験管内で)、in vivo(生体内で)と、実験状況を説明するのに用いられる。Modusを含む成句はmodus operandi(やり方、手口)のようにも用いられる。
ラテン語のCはギリシア語のKと同じで、古代にはkと発音した。初代皇帝のシーザーのスペルはCaesarだから「カエサル」と発音する。Caedo(切開する)という動詞の過去分詞がcaesumで、難産で母親の腹を切って生まれたところからカエサルと名づけられたとプリニウス『博物誌』は書いている。「帝王切開」の語源である。
哲学者のCiceroはシセロでなく「キケロ」である。近世になって英語の影響が出て、ギリシア語、ラテン語の固有名詞がごちゃごちゃになった。プラトンは英語で「プラトー」、アリストテレスは「アリストートル」になった。
だがラテン語やギリシア語の初歩を習ったものなら、ちゃんと原音で発音したいものだ。
余録士も知ったかぶりのラテン語句を引用すると、耳から入った米俗語とすぐにお里が知れる。各種「用字辞典」には平成3(1991)年「内閣告示」による「外来語表記」が載っている。Violin、Venus、Veilはヴァイオリン、ヴィーナス、ヴェイルと書くのが正しいが、「一般的には、バ、ビ、ベ等と書くことができる」とある。原音に近い表記が必要だ。
「日本人の英語」がいろいろ取りざたされるが、Vivaldiを「ビバルジ」という表記で憶えていたら外国(イタリア)に行っても、絶対に「四季」の作曲家の話が通じない。
こうならないためには、コラムを横組みして、必要な場合は原語を併記するようにすればよい。実際、明治や大正期の小説や論説を見ると、ドイツ語、英語、フランス語が原語で表記されている。ただタテ組なので読むのに難儀する。もう縦書きは日本とモンゴルにしか残っていない。
買った岩波文庫のなかに、チョムスキー『統辞構造論』(1914/1)がある。これは嬉しいことに左横書きで、豊富な参考文献、索引と全433ページのうち、100ページが「解説」に当てられている。索引の人名には原綴りが併記されているが、事項名にも原語並記があるともっとよかった。誰でも経験があると思うが、翻訳語はやたら堅苦しく難しい。「疾病」と書いてあっても英語ならdisease (ease=安逸を、-dis=妨げられる)、フランス語ならmaladie (mal=悪い,不調、die=状態)と意味は簡単だ。病名にも「本態性(Essential)」、「特発性(idiopathic)」、「不可知性(agnogenic)」などとやたら難しそうな名前がついたものがあるが、これらはすべて医者の業界用語で,患者に向かって「わからん」といえないからごまかしているだけである。
チョムスキー『生成文法の企て』(岩波現代文庫, 2011)は本文縦書きで、文献と索引が横組みだったが、これはまことに読みにくい。映画もテレビも文字はすべて横書きになった。iPhoneもネットもみな横書きで、漢字かな混じり文にアルファベットが混じっている。どうして新聞、雑誌、書物だけがかたくなに縦書きにこだわるのであろうか…
7/4毎日の「余録」が<ラテン語の「モーダス・ビベンディ」とは「生活様式」である>という文で始まる文章を掲載している。
http://mainichi.jp/opinion/news/20140704k0000m070098000c.html
次ぎに<モーダスは方式、ビベンディは生活のことだ>とある。が、意味が取れない。しばらく考えて「Modus vivendiのことか…」と合点がいった。
http://ejje.weblio.jp/content/modus+vivendi
Modusは「モォドゥス」と発音する。「モーダス」は米国発音で、英語modeと同義だ。
http://ejje.weblio.jp/content/modus
Vivendiは動詞「vivo(生きる)」に由来する形容詞だから、二重のV音をちゃんと表記しないとラテン語スペルが想起できない。Vivoはvitro(ガラス)と対比させてin vitro(試験管内で)、in vivo(生体内で)と、実験状況を説明するのに用いられる。Modusを含む成句はmodus operandi(やり方、手口)のようにも用いられる。
ラテン語のCはギリシア語のKと同じで、古代にはkと発音した。初代皇帝のシーザーのスペルはCaesarだから「カエサル」と発音する。Caedo(切開する)という動詞の過去分詞がcaesumで、難産で母親の腹を切って生まれたところからカエサルと名づけられたとプリニウス『博物誌』は書いている。「帝王切開」の語源である。
哲学者のCiceroはシセロでなく「キケロ」である。近世になって英語の影響が出て、ギリシア語、ラテン語の固有名詞がごちゃごちゃになった。プラトンは英語で「プラトー」、アリストテレスは「アリストートル」になった。
だがラテン語やギリシア語の初歩を習ったものなら、ちゃんと原音で発音したいものだ。
余録士も知ったかぶりのラテン語句を引用すると、耳から入った米俗語とすぐにお里が知れる。各種「用字辞典」には平成3(1991)年「内閣告示」による「外来語表記」が載っている。Violin、Venus、Veilはヴァイオリン、ヴィーナス、ヴェイルと書くのが正しいが、「一般的には、バ、ビ、ベ等と書くことができる」とある。原音に近い表記が必要だ。
「日本人の英語」がいろいろ取りざたされるが、Vivaldiを「ビバルジ」という表記で憶えていたら外国(イタリア)に行っても、絶対に「四季」の作曲家の話が通じない。
こうならないためには、コラムを横組みして、必要な場合は原語を併記するようにすればよい。実際、明治や大正期の小説や論説を見ると、ドイツ語、英語、フランス語が原語で表記されている。ただタテ組なので読むのに難儀する。もう縦書きは日本とモンゴルにしか残っていない。
買った岩波文庫のなかに、チョムスキー『統辞構造論』(1914/1)がある。これは嬉しいことに左横書きで、豊富な参考文献、索引と全433ページのうち、100ページが「解説」に当てられている。索引の人名には原綴りが併記されているが、事項名にも原語並記があるともっとよかった。誰でも経験があると思うが、翻訳語はやたら堅苦しく難しい。「疾病」と書いてあっても英語ならdisease (ease=安逸を、-dis=妨げられる)、フランス語ならmaladie (mal=悪い,不調、die=状態)と意味は簡単だ。病名にも「本態性(Essential)」、「特発性(idiopathic)」、「不可知性(agnogenic)」などとやたら難しそうな名前がついたものがあるが、これらはすべて医者の業界用語で,患者に向かって「わからん」といえないからごまかしているだけである。
チョムスキー『生成文法の企て』(岩波現代文庫, 2011)は本文縦書きで、文献と索引が横組みだったが、これはまことに読みにくい。映画もテレビも文字はすべて横書きになった。iPhoneもネットもみな横書きで、漢字かな混じり文にアルファベットが混じっている。どうして新聞、雑誌、書物だけがかたくなに縦書きにこだわるのであろうか…
かなり経ちますが、私は「ビバルディ」で通しています。
それがイタリアに行って通用しなくとも、「ビバルディ」は日本語なのだと言ってやります。
和製英語で通じないものも多くあると聞きますが、それらもすべて「日本ではそう言うのだ」と外人に言ってやるつもりです。
名前を名乗る時ですら、マイネームサカイシゲハルと、苗字を先に言ってやるのです。
それが日本語としての名前を表す順序だからです。
それくらい日本人として誇りを持ちたいと思っております。
当然、世界すべてが死刑廃止となっても、日本だけは死刑を存続させるべく、日本としての矜持を持つべきです。
因みに、ラテン語ではたしか r は巻き舌だと教わりました。私は巻き舌ができないので、原音でラテン語を朗読する事はできなさそうです。