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【ヒンズー教】難波先生より

2013-03-11 12:09:07 | 難波紘二先生
【ヒンズー教】サンスクリット語というのは、古代インドの言葉であり、仏典やヒンズー教のお経やジャイナ教のお経がこれで書かれているだけでなく、英語と並んで主要な公用語である。そもそもHindi(ヒンズー語)をフランス式にhを無声にすればIndiとなり、これに国を意味する-aを語尾につければ、Indiaとなる。つまりインドの語源なのである。
 「サンスクリット(Sanscrit, Samskrit)」というのは、辞書には別の語源が書いてあるが、私見では<「San」(聖なる)+「Script」(書きもの)>の意だろうと思う。これはほぼラテン語と同じ造語法で、「Sanct-scriptum」とすればそのままラテン語になる。


 ヒンズー語、従ってその古語であるサンスクリット語、がヨーロッパ語と共通の「インド・ヨーロッパ語」だと発見したのは、英国が「プラッシー戦い」(1758)に勝ってフランスの勢力を追い出した後、英国東インド会社がインド専制支配を始めた後、1833年に判事としてインド・カルカッタに赴任した、ウィリアム・ジョーンズである。彼によって「印欧語」の概念とその話者としての「アーリア人」の概念とその故地が明らかにされたのである。


 サンスクリット語は「梵語」ともいう。これは中国語でヒンズーの神ブラフマンを「梵天」と漢訳し、梵天が作った言葉および字として「梵語」、「梵字」としたものである。事実は、言葉自体は印欧語だが、文字は東方に波及したフェニキア文字が変形したものである。西フェニキア文字がギリシア文字となり、後にこれからラテン文字が生まれた。東フェニキア文字は北はチベット文字、モンゴル文字になり、東はさらに東南アジアの文字になっている。日本の「五十音図」はインド起源である。(サンスクリット・アルファベットはアイウエオ順である。)朝鮮のハングルは明らかにモンゴル=女真文字の影響を受けている。


 日本に本格的なサンスクリット語をもたらしたのは、東本願寺から派遣されて、明治9年から8年間、オックスフォード大に留学した南条文雄(ぶんゆう)である。「大谷大学」の創設者のひとりでもあり、そのサンスクリット学は「南条の前に南条なく、南条の後に南条なし」といってよいであろう。


 AMAZONから辻直四郎「リグ・ヴェーダ讃歌」、渡瀬信之「マヌ法典」が届いたのでざっと目を通した。いずれも2002年に、J.ゴンダ「インド思想史」(岩波文庫)が出る前の本なので、ゴンダへの言及がないのはやむを得ないともいえるが、いやしくもサンスクリット原典の翻訳をやる以上、インド第一級の学者の仕事くらいは知っておくべきだろう。日本では理系の学者だけでなく、文系の学者も視野狭窄の専門バカになっている。


 サンスクリット語は一見、難しいように思えるが、チョムスキーの「普遍文法」と「印欧語」に属することがわかっていれば、大したことない。
「ヴェーダ(veda)」は「知る、知識」という意味であり。「マヌ(manu)」は人(英語man,フランス語home, ドイツ語mann,ラテン語homo, ギリシア語andoras, アラビア語razul)の意である。「人」という言葉は多くの未開民族において「自部族」を指すのに用いられる。他部族のことは「食える連中」というような意味の言葉で指すことが多い。


 「マヌ法典」は従って「人たるものの規範」という意味で、ほぼ「前6世紀から前2世紀にかけて成立した」と渡瀬は書いているが、それはウソである。サンスクリット語を書く文字は、古代サンスクリット文字とアレクサンダー大王のインド遠征後では変わった。前4世紀の終わりの頃だ。ついでに「ゼロの概念」はアレクサンドロス遠征隊に同行した学者がインドに伝えたもので、インド人が発明したのは「空位記号」としての「0」である。当時のギリシアには、算用数字がなく「1+1=2」を「α+α=β」のように書いていた。


「旧訳聖書」より古い「マヌ法典」が面白いのは、人生を4期に区分して、それぞれ「修業期」、「家長期」、「林住期」、「放浪期」としている点である。
人生を80年とすれば、約20年ずつがそれに割り当てられる。
 つまり「修業期」は親の下にあり、親からの訓育を受けるとともに、学校もしくは師匠について勉学の修業をする時代である。およそ20年とすれば、今でもほぼあてはまるだろう。
 「家長期」は結婚して子供をつくり、家業にいそしみ家族を養うとともに、人間としての社会的義務を果たす時代である。この時代の開始は、現代社会では10年あるいはそれ以上に遅れているのが実状だろう。これは前5世紀頃と平均寿命が違うのだから、やむを得まい。


 「林住期」というのは、息子に家督をゆずって、必要最小限度の道具だけをもって林の中に移り住み、「ヴェーダ」を唱える生活に移行するのをいう。
その時期は、「孫が生まれ、顔に皺がより、白髪が目立つようになったら」としている。まあ、鴨長明の「方丈記」の生活に近い。
 ヴェーダ期のインドはすでに農耕社会であったが、林住期には農耕は認められていない。他方、「獣の皮衣」の着用は認められており、アーリア人の初期文明である「狩猟採取生活」への復帰を意味している。


 最後が「放浪期」で、これは「林住期」から移行してもよいし、「家長期」からいきなり「放浪期」に移ってもよいとされている。これは「死ぬための旅」で、林住期からの場合は、家を捨て、妻とも別れて1人で放浪する。身には托鉢の椀1個と布の着衣のみであるが、肉食は許される。食事は1日1食で、民家の食事が終わった頃に托鉢を行う。水はいくら飲んでもよい。放浪と言っても「彷徨」ではなく、北東の方向いいかえるとアーリア人の故地を目指す。
 やがて病気になるか、飢え死にして行路に倒れる。弔うものはいないから、動物に食われるか、そのまま腐って土に還る。
 こうしてマヌ(人)は創造主ブラーマンに合体するわけである。


 ただ現在のヒンズー教徒はこの通りにはしていない。最低でもドンゴロスの袋に遺体を入れて、墓地に土葬する。上には目印の木製墓標を立てておく。


 私のヒンズー教に対するイメージが悪いのは、イブン・バツータの「三大陸周遊記」を読んだせいである。ここにはガンジス川流域地方で彼が目撃した、「偶像崇拝教徒」(ヒンズー教徒)には、夫が死んだ際に、その妻が火葬の火の中に身を投じる殉死の風習があることが、生々しく描かれている。
 この殉死は、妻だけでなく王の死に際しては、その護衛兵や近習が王の遺骸を囲むように、立ったまま生きながら焼かれているから、当時はごく普通の文化だったと思われる。日本にも江戸期には殉死の風習があった。


 生きながら焼かれるのは嫌だが、「放浪期」というのはかなり魅力的だと思う。私の現在の生活はほぼ「林住期」に、少なくとも環境面では、相応していると思っている。息子に子供ができたら、本気で「放浪期」に移行したい。放浪先は日本よりも、「世界」がよいと思う。


 空海は日本に真言密教という名前のヒンズー教を導入したのだと考えているが、彼は四国讃岐の出身で、四国は「遍路」で有名なところだ。あれは「同行二人」と書くが、別に妻や夫あるいは他の人が同行するわけではない。どうも「放浪期」の発想から生まれた慣行ではないかという気がする。
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