ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

7-14-2014鹿鳴荘便り/難波先生より

2014-07-14 12:58:49 | 難波紘二先生
7/13日曜日、娘一家は朝早く車で出かけた。午後には早めに戻って来たので、どこへ行ったのか尋ねたら「けん玉のチャンピオン大会を見物に広島へ出かけた」のだそうだ。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/20140713-OYT1T50039.html
 廿日市市が「けん玉発祥の地」とされていることも、世界大会が開かれることも知らなかった。
上の孫がけん玉をハワイから持ち帰り、さかんに練習しているのは知っていたが、2010年頃アメリカでブレークしたとは知らなかった。(深夜のNHKニュースで米国青年の優勝を知った。)
 「肉ジャガ発祥の地」を軍港のあった呉市と舞鶴市が争っているが、こういうのは早く言った方が勝ちだろう。

 夕方、下の孫が仕事場にやって来て、「クツがオープン」という。オープンは英語発音だ。言葉はぜんぶわかるが意味が通じない。「登山靴の紐がほどけている」という意味かな?と一緒に戸口に出てみると、横なりに突っ掛けを脱いだので、左右が少し開いた位置になっているのを指さす。「わからん」というと、タタキに下りて、自分が履いてきた靴を離して並べ「オープン」、二つをそろえて「クローズド」という。
 「あ、やられた」と思った。先日兄弟で仕事場にやって来たときに、クツの脱ぎ方があまりに乱暴なので、「クツは脱ぐときに、両方をそろえて、かかとを床の方に向けておくと、出るときに履きやすいのだよ」と教えた。教えたくせにジジは自分で守っていないではないか、というのだ。
 「後生」をあなどってはいけないな、と思った。

 母屋への行き帰りに少しだけ草抜きをする。長くやると腰痛になるから、しゃがみ込んで5分かそこら周囲の草を引き抜くだけだが、それでも好天続きだと目に見えて草がなくなる。雨の後だと、草の生長も早いが、根がゆるんでいて抜きやすい。
 その都度発見がある。例えばクローバーは実が稔る前に抜いても、半地下を横に這うつる状の根が残っていると、そこからいくらでもクローン再生が起こり、気がつくと小さな三つ葉があちこちにびっしり茂っている。一年草では花芽を摘むと、いつまでも枯れず巨大化が起こるが、オオバコのような雑草でも幹が形成され、木化が起こることを「発見」した。
 
 これは車庫への誘導路に抜き忘れたオオバコで、実は一度抜きそこねて根が残っていたものだ。「植物図鑑」を見るとオオバコの葉は「根出し」といって、地下茎上端から直接水平に出る。根の張り方が弱いと、葉っぱを束ねて、根元を指でつまんで引っ張ると抜けるのだが、土の乾いているときには、どうかすると根元のところで、茎がちぎれてしまうことがある。
 今日は、かなり降った雨後だったので、根こそぎに抜けたが、気づくと枯れ枝が手中にあった。
 「おかしいな…」とよく見たら、地下茎が地上に伸びて木化したものだった。葉柄が幹の両側に4本ずつ付いている。対照に引き抜いたオオバコはもう花穂を付けていたが、葉柄の数はやはり8本だった。図鑑の説明によると、漢方ではオオバコの葉を利尿剤に、実を咳止めに用いるという。
 念のために「植物形態学」の教科書を読むと、根と茎は思ったほど別ものではなく、基本構造は同じで、「地下茎」があったり、地上を這う茎からヒゲ根が出たり、そこからまた茎が生えたりするらしい。このオオバコの茎の伸長と木質化も、いわば植物が「外傷」を受けたための病理現象である。
 植物にもヒトと同じように、感染症、循環障害、代謝障害、発生異常、腫瘍があり、動物と比較しながら「植物病理学」を研究したら面白いだろうと思う。このオオバコは「後外傷性木化症」であろう。

 日曜日は「新聞書評」を読む楽しみがあるが、今週は「毎日」の
 仲野徹「エピジェネティクス:新しい生命像をえがく」(岩波新書)
 「中国」の
 笹沢信「評伝吉村昭」(白水社)(評=斎藤慎爾)
 を面白く読んだ。
 「毎日」の互盛央(たがいもりお)「言語論の系譜」(講談社)(評=三浦雅士)
は買う気を阻喪させる提灯書評の典型である。こういう文を書いてよく恥ずかしくないものだ。
 言語はヒトだけに特異なものではない。オウムは気管下部の発声器で声を出す。キンカチョウのさえずりは、学習による脳の変化により完成することが実験的に確かめられている。歌が言語に先行したという説も、鳥やネアンデルタール人の研究により有力になってきている。舌打ちによる「クリック言語」が人類最初の言語だという説も、東アフリカ・コイサン族(ブッシュマン)の方言分布調査から有力視されている。
 比較動物学、比較人類学の知見を取り入れないで、いつまでもソシュール=チョムスキーを中心にした言語論など、いまやほとんど意味がない。
 書評を引用しようと思ったが「毎日」記事はロックされている。
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