ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

第6 患者の自己決定権の無視

2014-07-02 23:02:31 | 修復腎移植
第6 患者の自己決定権の無視
1 患者の自己決定権
患者にどのような医療が行われるかは、ほんらい、患者自身が決定権を有している。医師は患者の自己決定に対して情報を提供し助言を行うことはできるが、それを超えて患者の意思に反して医療の選択を決定することはできないし、してはならない。医療行為の多くは(全てはと言ってもよい)それ自体リスクを有しており、リスクを持たない医療手段はそもそも存在しない。その選択は患者自身が行うべきであり、選択のリスクは患者自身が負担すべきである。医師は患者の選択を助けるために、選択すべき医療手段について正確な情報を提供し、正確な助言を行うべき義務がある。
腎不全患者における、あるいは(ドナーとなる)腎臓疾患患者における、修復腎移植の選択も、こうした患者の自己決定権の問題として考えられなければならない。修復腎移植が患者にとって(とりわけレシピエントにとって)選択の考慮に値する医療技術である以上、その選択を行うのは患者である。医師は患者に対して選択を助けるべく、修復腎移植についての正確な情報を提供し正確な助言を、行う義務がある。

2 被告らの行為は患者の自己決定権を侵害している
被告らは、修復腎移植が医療行為として(現時点では)禁止されるべきであると主張しているところ、
ア その主張を貫徹する目的で『修復腎移植という医療技術』に対する事実に反する悪宣伝を行い、
イ 国に対して専門家集団としての影響力を行使して厚労省ガイドラインを改定させて、修復腎移植が医療行為として行われることを禁止させた。
修復腎移植という医療技術そのものに対して反対することは、被告らの自由である。しかしながら、その反対の実現を遂げる目的で、専門家としての立場にありながら、修復腎移植に関して事実に反する悪宣伝を行うこと、及びこの宣伝によって国を動かして修復腎移植という医療技術を禁止させることは、被告らの自由に属する事柄ではない。
そうした行為は、腎移植を受けることを望む腎不全患者らに対して、医療行為を選択する自己決定権を侵害する行為である。また、自己の事情から腎臓の全摘出を望む腎臓疾患患者に対して、摘出した腎臓を移植用に提供する機会を奪う者であるから、ドナーの自己決定権を侵害する行為でもある。

3 修復腎移植のリスクとその選択
  修復腎移植を受けることに、一定のリスクがあることに疑いはない。しかし同種のリスクは一般の腎移植(とりわけ死体腎移植)にも存するし、そもそも「移植を受けずに透析を継続する」ことにしてもリスクを伴う選択である。
  最も重要なことは、患者が修復腎移植という医療技術について正確な情報を受け、正確な助言を受け、その情報と助言に基づいて自分自身の判断として修復腎移植を「選択できる」ということなのである。「人工透析を続けて緩慢な死に甘んじるよりは、一定の危険を冒しても修復腎移植を受ける」という選択は、ほんらい患者自身の人権である。「全摘も部切もありえるのなら、全摘して臓器を腎不全患者の役に立てる」という選択も、患者自身の権利である。事実に反する悪宣伝や、それを道具として用いて医療手段そのものを禁止することは、患者から人権たる選択権を奪うことにほかならない。

4 被告らの主張の不条理
  被告らの主張が不条理であることは、吉田克法証人の供述で、はからずも明らかになった。
吉田証人は、「修復腎移植は未来永劫禁止されるべきものとは考えていない」旨述べる一方で、「レシピエントにガンが移る可能性が0.1%でも残っていれば、修復腎移植は容認できない」旨述べたのである。吉田証人の供述は、以下のとおりであった(吉田証人調書194~197項)。
    194 先ほど、癌が移るおそれに関しては、1パーセントでも許容できないというお話でしたが、1パーセントというのは随分高すぎる数字だろうと思うが、例えば0.1パーセントでもいけないのですか。
        移植に関しては、そのパーセントが非常に低くであろうが、それは駄目だと思います。
195 パーセンテージとして、あるいは可能性として残っていないと言えるためには、あなたのお考えでは、どんな論証が必要なのですか。
    腎癌だけに関して言いますと、先ほど申しましたように、20年後にも出てくる可能性があります。
196 つまりレシピエント側に、20年でもまだ短いようだが、数十年間のレシピエント側を観察して、1例も出ないという決河が出なければ、担癌患者からの移植は認められないのだと、そういうお考えですか。
    10年でも、私は短いと思います。
197 10年でも短い、だから数十年と申し上げましたが、そういうことなんですね。
    そうです。
  しかしながら、上記の2つの立場は、事実上矛盾している。なぜなら、
ア 「1%の危険」を否定するには100件以上の施術例蓄積が必要であり、
イ 修復腎移植の実施件数は、臨床研究においては年に数例を出ることはないので、楽観的に年10例と考えても、100件の事例蓄積には10年の時間がかかり、
ウ その全件について10年の予後観察を行うにはさらに10年の時間が必要(10年後に移植を受けるレシピエントを10年間観察しなければならない)である。
しかるに被告らの考えでは、①「危険の有無・程度を判断する」ための予後観察は「10年でも短い」、かつ②「1%でも危険があれば許容できない」ので、20年間にわたり臨床研究と予後観察を行っても、修復腎移植はなお許容されるに至らない。
ということは、被告らの考え方に従う限り、被告らや証人の目の黒い間には修復腎移植は復活できない、ということなのである。
吉田は(被告らも)科学者であるから、上記のことは当然理解している。理解しながらあえて上記のような証言を行う点に、彼らの偽善性がよく現れている。被告らは、医療技術としての善悪を超えて、修復腎移植の復活を許す考えが全くないのであり(その動機が嫉妬か面子かは原告らの知ったことではないが)、その目的を遂げるために「無理難題」を持ち出しているのである。
このような不条理な態度は科学者のとるべきものではないし、まして患者の利益を尊重すべき医師として許されないことである。
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