ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【被災からの復興】難波先生より

2013-03-12 12:19:38 | 難波紘二先生
【被災からの復興】3度目の3・11がやって来た。今朝の産経には14,15面の見開き全面に、「日本地震史」という899年~2011年まで1600年間に起こった主な地震500回を、日本地図に「年月日、震源地、マグニチュード」別にプロットしたものが載っている。関連する写真や絵図も載っている。

 これを見ると、南海トラフ、相模トラフ、日本海溝の東側つまり「フィリピン、太平洋両プレート」が日本列島を載せた「ユーラシア・プレート」の下に沈下する地点に、巨大地震が多発していることが明瞭である。




 特に「伊豆半島」は、フィリピン海プレートの北端に載っかっていた「丹沢ブロック」と「伊豆ブロック」が、150万年前に本土に衝突して形成された。このとき本州の東側が北向きに折れて、「糸魚川-静岡線」つまり「フォッサマグナ」と中央構造線ができた。




 私はこれまで「中央構造線」はフォッサマグナから発して、西に走る地溝帯と思っていたが、「南の国からきた丹沢」(有隣新書)を読みなおすと、「丹沢・伊豆ブロック」が衝突した際の、地殻変動により赤城山、富士山ができ、中央構造線はこの二つの山の間を通って、千葉県の辺りまで延びていることがわかった。




 富士山のすぐ南にある伊豆半島は、東が相模トラフ、西が南海トラフに境されており、このフィリピン海プレートの舌状部はそれ自体が日本列島にもぐり込むとともに、相模トラフの基部にある太平洋プレートが、「フィリピン・プレート」の下にもぐり込む地点でもある。この「二重プレート沈下」により、この地域の地震予測は不可能になる。




 地図の上で、地震がもっとも少ないのは北海道である。なぜなら古い地震が記録されていないから。逆にもっとも多いのが奈良、京都である。599年の記録からある。「歴史は偶然が決める」というのが、ジャレド・ダイアモンドの主張である。源平の争いに源氏が勝って、鎌倉幕府を開いたために、以後、政治権力の中枢はフォッサマグナの東、つまり東日本に動いた。足利氏は一度京都に幕府を移したが、公家の政治への干渉を嫌った家康は再び東国江戸に幕府を移した。




 徳川氏の時代に江戸は世界有数の都市として発展し、山間の盆地京都より、はるかに将来性のある都市として鎖国の終末つまり開国期を迎えた。

 佐幕派の残党を抑え、中央政府を確立し、殖産興業を図るには、東北ににらみがきく江戸を首都とし、「東京(とうけい)」と名をあらため、天皇を遷都させざるをえなかった。

 その際、天変地異への防御ということは、一顧だにされなかった。かくして今日に通じる「一極集中」が始まり、関東大震災の教訓としても学ばれることがなかった。




 被災地での復興はなかなか進まない。仮住まいのまま3年目に入る人も多い。補正予算5兆円が、むだ遣いされているとも新聞が書いている。

 そもそも、放射能汚染を伴う、これほどの大災害をちっぽけな人間の力で、意図的・集中的に短期間に復旧しようというのが無理なのである。いや、被災者に「幻想」を与えるだけ有害かもしれない。




 「復旧」には、破壊と汚染に使われたエネルギー総量よりも、より多量のエネルギーが投入されなければならない。たとえば、10メートルの高さから落ちた5キログラムのレンガは、それに相当する「位置のエネルギー」を放出する。これを元の位置に戻すには、理論的には同量の「位置のエネルギー」を与えればよい。しかし、実際にははしごや足場が必要となり、それには余分のエネルギーがかかる。さらに実際の持ち上げ作業を、人力で行うにせよ動力機械を用いて行うにせよ、それらの「熱機関の効率」は20%~40%である。よって理論値の2.5~5倍のエネルギー消費が必要となる。




 地震・津波の被害額の算定には、「失われたものの商品価値、住宅等の建築費、農水産物の価格、観光収入の減少額など」の累積が用いられている。それらは「価格総額」であって、上記のような「エネルギー的」計算ではない。いわば上記計算の「理論値」にすぎない。

 実際の復旧には、被害総額を100兆円とすれば、300~500兆円が必要とされるであろう。これは国家予算では不可能である。




 1945年8月6日の広島市への原爆投下では市民と兵士、約10万人が即死または1ヶ月以内に死亡。12月末までにさらに10万人が放射線障害で死亡した。後遺症による死亡は6万人にのぼる。早計26万人である。被災者数は41万人である。

 ドイツでは都市爆撃の被害者に対して、ナチス政府が補償をおこなったが、「大日本帝国政府」には「国家により惹起された災害を補償する」という思想がなかった。従って広島も長崎も、他の都市爆撃の被害者(東京では一晩に10万人が焼死している)にも、国家からの補助は一切なかった。




 にもかかわらず、広島市はすでに1946年夏には、市民が主催して「平和復興記念祭」を開催し、1958年春には「広島復興大博覧会」を開いている。

 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A4/4106_1.htm




 1947年、42歳で広島市長となり、4期16年間その職にあった浜井信三は、広島市役所の配給課長として自らも被曝している。一面の焼け野原の中に、バラックが散在し、闇市をめぐって在日と日本人ヤクザが抗争を繰り広げている騒然たる状況下で、浜井はまず基本的な都市再生プランをつくった。それは「区画整理」と市の東西を結ぶ百メートル道路を中心とした「防災都市計画」であった。1957年、私が高校の寮に入った頃には、百メートル道路は完成し、そこから1キロほど南に、片側3車線の「国道2号線バイパス」が、同じく東西を結ぶ道路として建設されていた。被爆資料も「原爆ドーム」の保存や「原爆資料館」の建設が行われ、教育・観光の目玉となりつつあった。




 このように広島市は、都市計画が先行したので「75年間は草木も生えない」という風評は、かえって用地買収を助けた。市街地は最低でも6メートル道路により碁盤の目状に区切られたので、不法なスラム街を除き、広島市では戦後は大火が起こっていない。

 浜井は官製の援助よりも、公共事業により市民に職を与えることを優先した。浜井はわれわれの学校の先輩でもあり、寮に招いて講演をしてもらったことがある。「二度と悲劇は繰り返さない」という彼の思いがよくわかった。広島の今あるは、浜井信三のおかげである。




 その浜井を主人公にした、ドキュメンタリー・ドラマ「ヒロシマ 復興を夢見た男たち」(73分)が、3月16日夜9時からNH・TVで放映されるという。製作意図はおそらく私と同様に、「ヒロシマをモデルとして、東北の復興を考えてほしい」、というものだろうと思っている。ぜひご覧いただきたい。

 http://nhkworldpremium.com/program/detail.aspx?d=20130316210000&ssl=false&c=26




 「混沌からの秩序」あるいは「自己創発」(オートポイエシス)ともいう。ヒロシマの復興は、市街地のマスタープランだけあり、後は市民が鋭意努力して自発的に作りあげたものである。広島城天守閣の再建とか、平和公園の整備には国や市の予算が使用されているが、基本的には道路網、鉄道網の整備、港湾の整備、広島大学の再建などが牽引力となり、「支店経済と教育の町」としてヒトもモノも広島に流入したのである。

 学生が払う下宿料や賄い費、本代や映画、麻雀代、それに会社が接待で使う飲食店の代金などが経済の基本となった。市民は「学生さん」と呼び、何でも大目に見てくれたし、流川町一帯は日本一バーや飲み屋の多い街になったのである。

 このプロセスはまさに「自己創発」であり、「被曝者援護法」が生まれたのは、もう復興が終わってからである。




 ヒロシマの復興に関しては、広島大学の果たした役割も述べなければいけないだろう。特に新制大学になってから、初代学長の森戸辰男(元文相)は、樹木がすべて焼けたキャンパスに、世界の大学から樹木の苗木を寄付してもらった。その中には寿命が3000年以上に達するメタセコイアとエジプト神話の不死鳥フェニックスの名を持つヤシ科の植物があった。

 メタセコイアは「森戸道路」と学生たちがあだ名をつけた、正門から続く広い学内道路の両脇に植えられ、やがて巨木となった。フェニックスは、死期が近づくと自らを炎に投じ、焼けた灰の中から新しく蘇ってくる。まさに「不死鳥」であり、校歌の一節に盛り込まれるとともに、「フェニックス駅伝」も誕生した。

 この木は正門の両脇に縦列をなして植えられ、シュロに似たそのかたちは広島大学のシンボルとなり、校章、大学旗、便せんのマークなどとなった。古くからの広島市民と広島大学の卒業生で、「フェニックス」の意味を知らないものはいないだろう。手塚治虫「火の鳥」の主人公でもある。




 重要なことは「過ちは二度と繰り返しません」という精神である。吉村昭「三陸海岸大津波」(文春文庫, 2004)によると、岩手県田老町(現、宮古市田老地区)は、1896(明治29)年、高さ40メートルの大津波に襲われた。住民のほとんどは津波にさらわれ、死者1895名で、わずか数名が生き残って惨禍を後世に伝えた。

 この田老村(町)は1933(昭和8)年にも高さ15メートルの津波に襲われ、村の500/559戸(89.4%)が流失、死者901名を出した。




 この後、国や県が津波対策として集落の高台移転を指示したが、田老村はこれを拒否、防潮堤を築き津波を防ぎ、元位置に集落を維持する道を選んだ。この防潮堤は戦後の高度成長期にさらに付け加えられ、高さ10メートル、長さ1.3キロに及ぶX字形の「万里の長城」が完成した。




 しかし「3・11」の大津波は「千年に一度」といわれ、高さ10メートルの防潮堤をやすやすと乗り越えただけでなく、コンクリートの防潮堤そのものを押し倒し、砕いた。今回の死者・行方不明者の数は知らない。しかし、高台移転を拒否し、防潮堤で自然の猛威を防げると考えた田老地区は、100年間に3度も大規模犠牲者を出したのである。




 このように「防潮堤」は役に立たないという生きた実例があるにもかかわらず、今日の各局のTV報道を見ると、「復興」の名の下に、三陸海岸をすっぽりコンクリートの「万里の長城」で囲む計画が進行中のようだ。いや、「計画」ではない。すでに工事に着手している。住民の多くはそれに懐疑的である。

 こう見てくると、東北の復興計画は、「自己創発」とはほど遠い。東北には県知事にも市長にも、ただ一人の「浜井信三」すらいないようだ。
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