【旧石器遺跡捏造との類似性】ここまで書いてきて、ネットを検索したらちょうど10年前の今日ネットに発表した、奥野健男氏の本に対する自分の書評を見つけた。「毎日出版文化賞」を受賞した本だ。やはり今回のSTAP事件と類似性があると思うので再掲する。
藤村新一=小保方晴子、岡村道雄=笹井芳樹、文化庁・歴博=理研と置き換えて読むと、ふたつの事件の類似性がわかるだろう。
<角張淳一氏のホームページ「 新・考古学の新視点」に難波紘二広島大学教授の『神々の汚れた手』の書評が載りました。
書評:奥野正男「神々の汚れた手」(梓書院 \2,100)
投稿者---難波紘二(2004/04/30 16:14:17)
世の中の移り変わりは早いから、二十世紀最後の年に露見した「旧石器遺跡捏造」事件など、もう大方の人々の記憶から忘れ去られているかもしれない。何しろ、あの大スクープを飛ばした毎日新聞の記者が、疑惑が今もたれている岩手県宮守村金取遺跡(7万年以上前の地層から石器が発見されたとされている)について、「日本に原人がいた証拠」と報道する(昨年)始末なのだから。
しかし、世の中には藤村新一という素人考古学者にすべての責任をなすりつけ、学問的責任や道義的責任には、知らぬ顔を続けるえせ学者ばかりではない。
じっくりと、20数年前の事件の発端から、「ゴッドハンド」として素人が祭りあげられ、原人フィーバーが学会・過疎地を加熱させ、その間に学問の本質論が大きくゆがめられていく過程を、おびただしい論文や学会での発言、新聞などの報道を資料として駆使して、事件の検証に取り組み、さらに事件の真相を解明しようと、「偽計業務妨害」罪で藤村を告訴した学者がいる。
それがこの本の著者奥野正男氏だ。奥野氏は、古代史学者として知られ、邪馬台国関連の研究が有名だが、考古学会の会員でもあり、事件を他人事とはとらえていない。副題にあるように、「旧石器捏造・誰も書かなかった真相」を明らかにし、「文化庁・歴博(国立歴史民俗博物館)関係者の責任を告発する」というのが本書執筆の動機であり、その熱意はどの頁からも熱い思いとしてひしひしと伝わってくる。
このなかで著者は、「20数年にもわたり、直接藤村と発掘した学者だけでなく、日本中の専門家をまんまとだまし続けられたのは、学説と発掘物の間にきちんと整合性が取れていた、という事実が一番重要であり。それは外国語が読めない藤村一人では不可能なことだ」と主張し、元文化庁審査官の岡村道雄(現国立奈良文化財研究所教授)氏の関与を公然と指摘している。つまり岡村氏が筋書きを書き、藤村がそれを実行したというのである。(少なくとも私には、そうとしか読めなかった。)
つまり事件は藤村の単独犯行ではなく、共犯がいたというのである。しかもそれは一人にはとどまらないかもしれないという。これを読むと、考古学における縄文や日本原人の異常なブームは、単にバブル期に土木工事がさかんで、遺跡がみつかり、文化財保護法にもとづく「行政発掘」のため、考古学の需要が異常にふくらんだ、という一過性の問題だけでなく、日本の考古学それ自体が学問としてもつさまざまな根底的問題が、多々あるということがよくわかる。この書は、まだ未決着の捏造問題についての貴重な中間報告であると思う。
奥野氏の仙台地検への告訴は、昨年秋、残念ながら不起訴処分が決まり、司法は真相解明に乗り出す気がないことが明らかになった。藤村が2年近く精神病院に入院していたという事情がかなり関与しているようだ。
戦闘的な奥野氏は、この著書で岡村氏をやり玉にあげている。それはあたかも「名誉毀損」で、岡村氏が告訴するのを待っているかのようでもある。岡村氏が仮にそのような対抗措置をとらないとしても、公然と証拠をあげて、岡村関与についての疑惑が縷々ここに提示されたのであるから、岡村氏はもし自らにやましいことがないのであれば、公開のかたちでこれに答えるべきであろう。今も彼は「公僕」であり、それが国民の付託に応える道だと筆者は思う。>
要するに研究費が注がれる分野に研究者が殺到する、メディア報道は論文もろくに読まないで書き立てるから一躍知名度が増す、ブームになるとますます研究が注目される。だれが捏造者になるかはわからないが、類似の事件が繰り返される構造的な背景はある、とこういうわけだろう。
TVやラジオは発言者がわかっている。署名がない記事を書くのは新聞だけだ。まず記事の署名制を実現すること。それも科学部とか社会部とか担当部局を明記することだ。それだけで記事の信憑性は格段に変わる。
プロでも野球やサッカーでは年俸制で、年俸何億という選手がいる。メディアもそうすればよい記事で記者のファンが増えるだろう。「押し紙」で末端の販売店をいじめないで、もっと前向きなことをやるべきだ。
藤村新一=小保方晴子、岡村道雄=笹井芳樹、文化庁・歴博=理研と置き換えて読むと、ふたつの事件の類似性がわかるだろう。
<角張淳一氏のホームページ「 新・考古学の新視点」に難波紘二広島大学教授の『神々の汚れた手』の書評が載りました。
書評:奥野正男「神々の汚れた手」(梓書院 \2,100)
投稿者---難波紘二(2004/04/30 16:14:17)
世の中の移り変わりは早いから、二十世紀最後の年に露見した「旧石器遺跡捏造」事件など、もう大方の人々の記憶から忘れ去られているかもしれない。何しろ、あの大スクープを飛ばした毎日新聞の記者が、疑惑が今もたれている岩手県宮守村金取遺跡(7万年以上前の地層から石器が発見されたとされている)について、「日本に原人がいた証拠」と報道する(昨年)始末なのだから。
しかし、世の中には藤村新一という素人考古学者にすべての責任をなすりつけ、学問的責任や道義的責任には、知らぬ顔を続けるえせ学者ばかりではない。
じっくりと、20数年前の事件の発端から、「ゴッドハンド」として素人が祭りあげられ、原人フィーバーが学会・過疎地を加熱させ、その間に学問の本質論が大きくゆがめられていく過程を、おびただしい論文や学会での発言、新聞などの報道を資料として駆使して、事件の検証に取り組み、さらに事件の真相を解明しようと、「偽計業務妨害」罪で藤村を告訴した学者がいる。
それがこの本の著者奥野正男氏だ。奥野氏は、古代史学者として知られ、邪馬台国関連の研究が有名だが、考古学会の会員でもあり、事件を他人事とはとらえていない。副題にあるように、「旧石器捏造・誰も書かなかった真相」を明らかにし、「文化庁・歴博(国立歴史民俗博物館)関係者の責任を告発する」というのが本書執筆の動機であり、その熱意はどの頁からも熱い思いとしてひしひしと伝わってくる。
このなかで著者は、「20数年にもわたり、直接藤村と発掘した学者だけでなく、日本中の専門家をまんまとだまし続けられたのは、学説と発掘物の間にきちんと整合性が取れていた、という事実が一番重要であり。それは外国語が読めない藤村一人では不可能なことだ」と主張し、元文化庁審査官の岡村道雄(現国立奈良文化財研究所教授)氏の関与を公然と指摘している。つまり岡村氏が筋書きを書き、藤村がそれを実行したというのである。(少なくとも私には、そうとしか読めなかった。)
つまり事件は藤村の単独犯行ではなく、共犯がいたというのである。しかもそれは一人にはとどまらないかもしれないという。これを読むと、考古学における縄文や日本原人の異常なブームは、単にバブル期に土木工事がさかんで、遺跡がみつかり、文化財保護法にもとづく「行政発掘」のため、考古学の需要が異常にふくらんだ、という一過性の問題だけでなく、日本の考古学それ自体が学問としてもつさまざまな根底的問題が、多々あるということがよくわかる。この書は、まだ未決着の捏造問題についての貴重な中間報告であると思う。
奥野氏の仙台地検への告訴は、昨年秋、残念ながら不起訴処分が決まり、司法は真相解明に乗り出す気がないことが明らかになった。藤村が2年近く精神病院に入院していたという事情がかなり関与しているようだ。
戦闘的な奥野氏は、この著書で岡村氏をやり玉にあげている。それはあたかも「名誉毀損」で、岡村氏が告訴するのを待っているかのようでもある。岡村氏が仮にそのような対抗措置をとらないとしても、公然と証拠をあげて、岡村関与についての疑惑が縷々ここに提示されたのであるから、岡村氏はもし自らにやましいことがないのであれば、公開のかたちでこれに答えるべきであろう。今も彼は「公僕」であり、それが国民の付託に応える道だと筆者は思う。>
要するに研究費が注がれる分野に研究者が殺到する、メディア報道は論文もろくに読まないで書き立てるから一躍知名度が増す、ブームになるとますます研究が注目される。だれが捏造者になるかはわからないが、類似の事件が繰り返される構造的な背景はある、とこういうわけだろう。
TVやラジオは発言者がわかっている。署名がない記事を書くのは新聞だけだ。まず記事の署名制を実現すること。それも科学部とか社会部とか担当部局を明記することだ。それだけで記事の信憑性は格段に変わる。
プロでも野球やサッカーでは年俸制で、年俸何億という選手がいる。メディアもそうすればよい記事で記者のファンが増えるだろう。「押し紙」で末端の販売店をいじめないで、もっと前向きなことをやるべきだ。