ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ペルシア語】難波先生より

2012-12-04 12:31:20 | 難波紘二先生
【ペルシア語】長くなったので別項にする。


 上記『マスタードガス傷害アトラス』は横書きであるから、左表紙で、左横組みになっている。しかしイラン語の部分だけは右横書きになっている。
どうせ読めないのだから、関係ないが、数字だけがアラビア数字で、左から右に書いてある。これには違和感を憶えた。イランの人は違和感を憶えないのだろうか?(添付1)


 手許にイラン語の本が1冊だけある。オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」の「英語、ペルシア語、ドイツ語」版だ。英訳者はエドワード・フィッツジェラルドとなっている。この本は、大学を辞めるとき総合科学部の教授で奥さんがイラン人であるY君が贈り物としてくれたものだが、日本で印刷された絵入りの美術書だ。
 ところが、イラン語の4行詩を中ほどに、上に英訳、下に独訳が配列してあるのだが、ページ番号がない。歌にも番号がついていない。


 従って、たとえば岩波文庫、小川亮作訳「ルバイヤート」に収録されている作品との対応を付けるのは大変困難だ。
 この美術版は1970年に、東京で初版が印刷されているが、「岩波文庫版」にあるハイヤームの思想を物語るもっとも重要な詩、


「酒を飲め、土の下には友もなく、またつれもない、
 眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
 気をつけて、気をつけて、この秘密 人には言うな…
 チューリップひとたび萎めば開かない」


 が収録されていない(排除されている)。


 これがシャー体制打倒後の、コメイニ体制による検閲のせいかどうかは定かでないが、ハイヤームの時代のイスラム・イランが飲酒についてきわめて寛容であったことは確かである。もっともその酒は専らワインで、ビールは含まれていないが。


 4行詩だが、実質的には2行、4句しか占めていないのは、「母音を省略する」というフェニキア/アラブ・アルファベットの基本的特徴に由来するものであろう。この方式だと情報圧縮が可能だが、あらかじめその言語を知ったものにしか、書かれた文章は読めないことになる。


 「ルバイヤート」が書かれたのは11世紀のことで、もうこの頃にはインドで成立した「ゼロ」(0)記号と位取りの概念とそれに基づく「ヒンズー・アラビア数字表記法」が成立していた。


 これにもっとも貢献したのが、アッバース朝イスラムのカリフ、ムアマーンがバグダードに創立(832年)した「智者の館」で働いたアル・クワリズミ(Al-Kwarisimi)である。「智者の館」が行った最も重要な仕事は、アリストテレスの著作をペルシア語からアラビア語に翻訳することだった。(拙著「誰がアレクサンドロスを殺したのか?」, p.322)


 しかし、この時期、インド数学もその記数法を含めてアラビア語に輸入された。それを行ったのが、アル・クワリズミである。彼の名前は、二つの普通名詞の語源となっている。


 ひとつは、「代数学(アルジェブラ=Al-Jebra)」である。これは彼の著書「Al-Jahr」に由来するものである。他方、彼の用いた論理演算の方法は、今日、コンピュータ科学における「論理演算方式」=アルゴリズム(Algorism)と彼の名称そのものとなっている。(Kwa=goへの音転化が生じた。)


 ところでアル・クワリズミが、数学、天文学、地理学において傑出した才能を示したのに対して、イスラムの勢威が少し和らいだサマン朝(875-999)以降に生まれたオマル・ハイヤームは、数学、気象学、天文学において卓越した業績を残した。文学は余技というべきである。
 ハイヤームには「代数学問題の解決」、「ユークリッド<エレメント>の難点に関する論文」という著書などがある。


 インド記数法が13世紀に、ピサ生まれのフィボナッチにより「算盤の書(Liber Abaci)」(1002)として、初めて紹介された。「ゼロの概念」と「位取り記数法」を西欧世界が知ったのは、これによってである。


 9世紀のバグダードでのアル・クワリズムによる数学の革新、11世紀ペルシア(イラン)におけるオマル・ハイヤームによる数学のさらなる進歩、については疑いがない。


 インド数字(算用数字)の発明は、「ゼロの概念」と「位取りの概念」と結びついており、インドで発明されたものであることは疑いがない。ところでこの「位取り」は当時インドで使用されていた、「グプタ文字」(4世紀)の書き方によれば「左から右に書かれる」文字列である。


 従って2012年は、今と同じように「2012」と書かれる。
 これに対して、インドからイスラーム世界に算数が輸入された8世紀においては、アラビア語は今のそれと同じように「右から左へ」書かれていた。「2012」は当然、「2102」と書かれる。つまり位取りの向きがまったく逆になる。
 イスラーム改宗以後のペルシア語も、文字自体はアラビア語を用いたから、必然的に今と同じように、右から左への書き方に変わった。


 疑問は、ここからである。文章全体が「右から左へ」と変わる中で、インド数字の記数法だけがどうして元の「左から右へ」という序列を保てたのであろうか?


 この点は吉田洋一「零の発見」(岩波新書)も、矢野健太郎「数学物語」(角川文庫)も、まったく論じていない。というか、外国の数学史の本でもまったく言及されていない。


 もっとも日本において、いつ算数の教科書が横書きになったのか、調べていないし、「算用数字」の導入時期についても知らない。自国のことを知らないで他国のことを論じるのもどうかと思うが、「位取り」の概念と「左横書き」は切り離せないと思うので、どなたかご存じの方があったらご教示願いたいと思う。


 藤田恒夫先生の「ミクロスコピア」があった頃は、「読者からの手紙」に掲載されれば、たちどころに返事があったので、大変便利であった。ああいう雑誌が、ぜひほしいものだ。
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