【小役人】「ある省のある局に…それがどんな局かは、この際やはり言わずにおくほうがいいだろう。およそ局とか連隊とか官房とか、つまり一口に言っておよそ役人階級くらい怒りっぽいものはないからである」とゴーゴリの小説「外套」は始まる。
「万年九等官」アカーキイ・アカーキエヴィチが主人公の、ロシアの哀れな小役人を風刺した物語である。九等官というがロシアの官僚制では最下等が十四等官だから、中くらいなのだがこの男は五十の坂を越えて独身でペテルブルグに下宿している。
年俸は四百ルーブルで、古ぼけて傷んだ外套をなじみの仕立屋に「修理不能」といわれ、百五十ルーブルで新調をすすめられる。貯金はまったくない。何とか八十ルーブルにまけてもらい、生活を切り詰めて代金を工面する。
新調の外套をはじめて役所に着て行った夜、うれしくて冬の町を歩きまわっているうちに強盗に遭い、外套を盗られてしまう。取り戻してもらおうとするが、警察はまったくあてにならない。
ツテを頼ってある局の局長に懇願にいったら、たまたま友人が来訪中だった局長は威厳を見せつけようと、「俺を誰だと思っているんだ、九等官なら九等官らしく手続きを踏め!」と、哀れな小役人を怒鳴りつける。
打ちひしがれたアカーキエヴィチは下宿に戻る途中の寒さで扁桃腺炎にかかり、さらに全身感染を起こし、哀れにも急死する。家族、親類のないこの小役人の遺体は役所からの会葬者もなく、下宿のおかみのはからいで共同墓地に埋葬される。
(それにしてもロシアの医者が「あと一昼夜でお陀仏です」と患者に告げるというのは、おかしい。「お陀仏」という訳語の問題、神父も呼ばないで医者がじかに患者に余命告知をする問題…。木村彰一訳には問題がある。)
ここで話を終えれば、間違いなく傑作になったろうが、ゴーゴリは蛇足にも、主人公の幽霊を登場させ、それがかの局長に復讐するという物語にしてしまった。
ここに描かれているのは役人の世界における「階級制」である。
それと執務制度が基本的に大部屋制で、局長クラスでないと個室がない。
こうした役人の生態は日本とよく似ている。
日本の官僚制について書かれたものに、
1)保坂正康:「そして官僚は生き残った」, 毎日新聞社, 2011
2)古賀茂明:「官僚の責任」, 講談社, 2011
3)堺屋太一:「第三の敗戦」, 講談社, 2011
などがあるが、今の官僚制の起源は、明らかに明治維新における「王政復古」が「大宝律令」(養老律令)をモデルとして国家建設を行ったところにあるにもかかわらず、どの書も比較法制史的な分析が不十分である。
4)坂本多加雄:「日本の近代2:明治国家の建設」,中央公論社, 1998
にも誤りが多い。
「大部屋執務」は私が視察したかぎり欧米ではみられない。
和田英松「新訂官職要解」(講談社学術文庫)によると、世襲制でない「大臣」が出現するのは大化の改新以後である。ただし当時は「おおおみ」(後に「おとど」)と発音し「だいじん」と読むのは「建武の中興」以後である。
(北畠親房「神皇正統記」, 岩波文庫 は「日本」という字は、ニッポンと読まない、ヤマトと発音するとわざわざ書き添えている。日本語の漢音化が、この頃に生じたのであろう。)
「大宝律令」では役人の位階を30段階とし、勲位を12等に分かった。これが役人の職階制の起源である。絵巻物を見ると、「ひらの大部屋執務」もすでに始まっている。
省、局、長官、次官という名称もこの時に誕生した。当時、大蔵省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省などがあった。
筆頭局は、「神祇官」でこれは明治維新で復活し、明治4年には「神祇省」となり、明治18年に廃止されるまで続いた。いまの宮内庁は神祇官と式部省を併せたものである。
奈良・平安時代は、天皇家の支配力が東日本に向けて拡張して行く時代であった。統一的な中央政府を維持するには当然事務量が増える。効率的に処理するには、省庁別の専門的事務官を必要としただろう。
それを管理するには「位階制と勲位制」が必要だったのである。アカーキエヴィチが「万年九等官」であるのを口惜しく思ったと同じく、役人はなんとかひとつ上の階級に昇進したいと思うものだ。かくて清少納言が「すざまじきものは、…除目に司(つかさ=役職)得ぬ人の家」(「枕草子」)と書いたような、人事異動発表日の夜の混乱が起きたのである。
こういう総合的な官僚システムは「武家の時代」(つまり鎌倉幕府から江戸幕府崩壊まで)には消失していた。
「王政復古」の明治維新が古代の名称とともにそれを復活したのである。
「王政復古というた手前、古い大宝律令などを引っぱり出して基本とし、官名等にその名前を付けた」(石井研堂「明治事物起原」ちくま学芸文庫)
官僚の等級制は明治4年8月から導入され、15等までに地位が細分された。(さすがに「大宝律令」のように30等には分けなかった。)
3等以上は「勅任官」で天皇が直接会って任命した。今の内閣大臣のようなものだ。
7等官以上は「奏任官」で総理大臣または大臣による奏薦により、天皇が決済した。
8等以下は「判任官」で、各省の大臣や都道府県知事の権限で任免されるもの。「下級役人」である。
勅任官と奏任官が高等官に属し、各省の幹部官僚つまりキャリア組である。判任官は高等官の指揮下にあるので「属官」ともいう。いわゆるノンキャリである。
戦前の帝国大学教授は「勅任官」だった。
いまの国立大学教授は文科大臣の任命によるので、みな下級役人だ。(「独法化」以後、学長のみが大臣発令で、他は学長発令に変わったかもしれない。)
で、いわゆる役人根性を典型的にもったものが、この属官クラスに多い。「小役人」、「木っ端役人」と呼ばれるのはこのクラスである。
黒澤明「生きる」は、胃がんに罹り死期を悟った市役所の一課長が、小役人意識を捨て、市民から要望の強い公園をつくるために奔走する姿を描いていて、人生の意味を問いかけた名作だ。
もうひとつ役人根性を助長したものが、「定時出勤・定時退庁」つまり「休まず遅れず仕事せず」という「役人学三則」(末弘厳太郎「嘘の効用」, 東洋文庫) の実施である。これは予算の単年度制とも結びついている。余った予算を大蔵省が没収するのなら、非効率な組織運営をして予算を使い切る方が得になるのである。
また一斉出勤、一斉退庁は、軍隊と変わらない没個性的な集団思考を育てることになる。
これをさらに助長するのが「大部屋執務」である。お互いがお互いの言動を監視しているから、民間人に優しく親切に対応することができない。電話の応対が紋切り型なら、窓口の応対も不親切になる。怠けていると思われるからだ。ちょっとした書類不備を見つけたら、受け付けないで突き返す。
「大部屋執務」の建前は、係、課、部として仕事をしているので、個人ではなく「組織」が仕事をしている。よって相手に名乗る必要もなければ、個人が責任を問われることもない、となる。役職には異動があるが、ひらはまず異動しない。
もうひとつ、日本の官庁では直属の上司が退庁しないと、ひらは帰れないという不文律がある。それどころか、課長が「飲もう」というと、職場で酒盛りが始まる。午後5時過ぎて閉庁になると、出前でつまみや食事を取り寄せて、飲み会である。どの官庁にもご指定の出前業者がいる。
私は24年間、移転前も移転後も、大学の事務組織を観察してきた。大学事務だけに見られる現象でないことは、厚生省の医系技官だった宮本政於が「お役所の掟」(講談社)に書いている。
私は一時アメリカ政府の職員だったから、米国政府の事務官の仕事ぶりを観察している。
基本的に「個室執務」である。書類が次々とたらい回しされて、べたべたハンコが押されることはない。
なぜかというと、担当事務官に「決裁権限」が委譲されているからだ。
留学延長の際も、カナダへの旅行の際も、「フォガティ・センター」という留学生会館に必要書類を持って行ったら、女性の担当官がすぐに決済してくれた。(留学生用ビザだと、カナダに出ると普通は出国・再入国の手続きが必要となる。その面倒を避けたのである。)
日本の方式は「委員会審議」と同じで、決済に多くの人間がかかわることで、責任の分散をし、無責任体制にしているだけだ。かつて丸山真男が論文「超国家主義の論理と心理」(1946)で、「天皇に無限遡及する無責任体制」と批判したものがこれだ。
欧米方式だと自己判断に誤りがあれば、責任を追及される。
スピルバーグの映画「プライベート・ライアン」では、ペンタゴンの一室で、戦死者の家族宛に弔意レターをタイプしていたタイピストが、同じ家に3通目の手紙をタイプしていることに気づき、上司に告知し、上司もどう対応すべきかわからず、それからどんどん上に問題が報告され、ついに国防長官に情報が届き、ノルマンディー戦線にいる4人兄弟の最後のひとりを助ける「兵卒ライアン救出作戦」が発動される。これが映画の冒頭シーンである。
日本の軍隊では起こりえない話だ。
私にあてがわれた技師ミスター・ソーバンは、「定時出勤・定時退庁」でなかった。「フレックス・タイム制」が認められていて、午前4時出勤12時退庁だった。「これだと午後がまるまる畑仕事に使えるのでよい」と言っていた。しかし仕事はよくやってくれた。
私は次々と論文を読み、引用されている重要論文を丸善の文献カードにタイプして行った。それを机の脇に積み重ねておくと、朝出勤したソーバン氏は24時間開館のNIH図書館に行き、カードの文献をコピーしてくれる。10時頃、私が出勤したときにはその日読むべき論文のコピーが机上に重ねてある。この方式で血液病理学に関する、英語、ドイツ語、フランス語の重要論文約3000本を滞米中に読み、日本に持ち帰った。
ソーバン氏は私のコピー係だけだったわけではない。病理技師でそちらの仕事、凍結切片の作成と酵素組織化学染色もやってもらった。飲み込みは早い方で、すぐに技術をマスターし、後に免疫組織化学法もおぼえ、定年後はそれらを専門とする下請け会社を起こした。
ただ学歴による差別はある。技師の給与号俸の最高位は「GS-11」だったが、高卒のソーバン氏はこれになれない。号俸は年金に関係する。そこで私の論文にはすべて彼の名前をつけ、推薦状に論文別刷を添えて担当の係に提出したら、特例としてGS-11への昇格が認められた。こういうことは日本の官僚制度ではありえない。
私は半官半民の病院ー米国立研究所ー日本の国立大学しか知らない。大学の中でも原則として学生や教員と接触のない、本部事務組織、図書館事務組織は官僚化がつよい。しかし広島市の「公文書館」ほどではない。
資料の公開に館長面接を行い、2週間も待たせたあげく、閲覧にいちゃもんをつけ、「公開非公開の決定権は館長にある」と抜かす。
アメリカなら面接したら即断即決。監視なんかしない。小心翼々としていて、人を見る目がなく、自分の判断力に自信がない。小役人の典型である。
広島大図書館も公文書館も、貴重図書・文書の閲覧に際して、閲覧者の監視なんかしない。国会図書館でもしないから、ときどき「孤本」のページが切り取られるという事件が起こる。孤本というのは天下に一冊しかない本のことである。
「小役人とはなにものであるか」を考えていたら、官僚制の起源が問題だと思えてきて、長文になってしまった。保坂正康の本も、もっと深みがあったら良い本になっていただろうに。
「万年九等官」アカーキイ・アカーキエヴィチが主人公の、ロシアの哀れな小役人を風刺した物語である。九等官というがロシアの官僚制では最下等が十四等官だから、中くらいなのだがこの男は五十の坂を越えて独身でペテルブルグに下宿している。
年俸は四百ルーブルで、古ぼけて傷んだ外套をなじみの仕立屋に「修理不能」といわれ、百五十ルーブルで新調をすすめられる。貯金はまったくない。何とか八十ルーブルにまけてもらい、生活を切り詰めて代金を工面する。
新調の外套をはじめて役所に着て行った夜、うれしくて冬の町を歩きまわっているうちに強盗に遭い、外套を盗られてしまう。取り戻してもらおうとするが、警察はまったくあてにならない。
ツテを頼ってある局の局長に懇願にいったら、たまたま友人が来訪中だった局長は威厳を見せつけようと、「俺を誰だと思っているんだ、九等官なら九等官らしく手続きを踏め!」と、哀れな小役人を怒鳴りつける。
打ちひしがれたアカーキエヴィチは下宿に戻る途中の寒さで扁桃腺炎にかかり、さらに全身感染を起こし、哀れにも急死する。家族、親類のないこの小役人の遺体は役所からの会葬者もなく、下宿のおかみのはからいで共同墓地に埋葬される。
(それにしてもロシアの医者が「あと一昼夜でお陀仏です」と患者に告げるというのは、おかしい。「お陀仏」という訳語の問題、神父も呼ばないで医者がじかに患者に余命告知をする問題…。木村彰一訳には問題がある。)
ここで話を終えれば、間違いなく傑作になったろうが、ゴーゴリは蛇足にも、主人公の幽霊を登場させ、それがかの局長に復讐するという物語にしてしまった。
ここに描かれているのは役人の世界における「階級制」である。
それと執務制度が基本的に大部屋制で、局長クラスでないと個室がない。
こうした役人の生態は日本とよく似ている。
日本の官僚制について書かれたものに、
1)保坂正康:「そして官僚は生き残った」, 毎日新聞社, 2011
2)古賀茂明:「官僚の責任」, 講談社, 2011
3)堺屋太一:「第三の敗戦」, 講談社, 2011
などがあるが、今の官僚制の起源は、明らかに明治維新における「王政復古」が「大宝律令」(養老律令)をモデルとして国家建設を行ったところにあるにもかかわらず、どの書も比較法制史的な分析が不十分である。
4)坂本多加雄:「日本の近代2:明治国家の建設」,中央公論社, 1998
にも誤りが多い。
「大部屋執務」は私が視察したかぎり欧米ではみられない。
和田英松「新訂官職要解」(講談社学術文庫)によると、世襲制でない「大臣」が出現するのは大化の改新以後である。ただし当時は「おおおみ」(後に「おとど」)と発音し「だいじん」と読むのは「建武の中興」以後である。
(北畠親房「神皇正統記」, 岩波文庫 は「日本」という字は、ニッポンと読まない、ヤマトと発音するとわざわざ書き添えている。日本語の漢音化が、この頃に生じたのであろう。)
「大宝律令」では役人の位階を30段階とし、勲位を12等に分かった。これが役人の職階制の起源である。絵巻物を見ると、「ひらの大部屋執務」もすでに始まっている。
省、局、長官、次官という名称もこの時に誕生した。当時、大蔵省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省などがあった。
筆頭局は、「神祇官」でこれは明治維新で復活し、明治4年には「神祇省」となり、明治18年に廃止されるまで続いた。いまの宮内庁は神祇官と式部省を併せたものである。
奈良・平安時代は、天皇家の支配力が東日本に向けて拡張して行く時代であった。統一的な中央政府を維持するには当然事務量が増える。効率的に処理するには、省庁別の専門的事務官を必要としただろう。
それを管理するには「位階制と勲位制」が必要だったのである。アカーキエヴィチが「万年九等官」であるのを口惜しく思ったと同じく、役人はなんとかひとつ上の階級に昇進したいと思うものだ。かくて清少納言が「すざまじきものは、…除目に司(つかさ=役職)得ぬ人の家」(「枕草子」)と書いたような、人事異動発表日の夜の混乱が起きたのである。
こういう総合的な官僚システムは「武家の時代」(つまり鎌倉幕府から江戸幕府崩壊まで)には消失していた。
「王政復古」の明治維新が古代の名称とともにそれを復活したのである。
「王政復古というた手前、古い大宝律令などを引っぱり出して基本とし、官名等にその名前を付けた」(石井研堂「明治事物起原」ちくま学芸文庫)
官僚の等級制は明治4年8月から導入され、15等までに地位が細分された。(さすがに「大宝律令」のように30等には分けなかった。)
3等以上は「勅任官」で天皇が直接会って任命した。今の内閣大臣のようなものだ。
7等官以上は「奏任官」で総理大臣または大臣による奏薦により、天皇が決済した。
8等以下は「判任官」で、各省の大臣や都道府県知事の権限で任免されるもの。「下級役人」である。
勅任官と奏任官が高等官に属し、各省の幹部官僚つまりキャリア組である。判任官は高等官の指揮下にあるので「属官」ともいう。いわゆるノンキャリである。
戦前の帝国大学教授は「勅任官」だった。
いまの国立大学教授は文科大臣の任命によるので、みな下級役人だ。(「独法化」以後、学長のみが大臣発令で、他は学長発令に変わったかもしれない。)
で、いわゆる役人根性を典型的にもったものが、この属官クラスに多い。「小役人」、「木っ端役人」と呼ばれるのはこのクラスである。
黒澤明「生きる」は、胃がんに罹り死期を悟った市役所の一課長が、小役人意識を捨て、市民から要望の強い公園をつくるために奔走する姿を描いていて、人生の意味を問いかけた名作だ。
もうひとつ役人根性を助長したものが、「定時出勤・定時退庁」つまり「休まず遅れず仕事せず」という「役人学三則」(末弘厳太郎「嘘の効用」, 東洋文庫) の実施である。これは予算の単年度制とも結びついている。余った予算を大蔵省が没収するのなら、非効率な組織運営をして予算を使い切る方が得になるのである。
また一斉出勤、一斉退庁は、軍隊と変わらない没個性的な集団思考を育てることになる。
これをさらに助長するのが「大部屋執務」である。お互いがお互いの言動を監視しているから、民間人に優しく親切に対応することができない。電話の応対が紋切り型なら、窓口の応対も不親切になる。怠けていると思われるからだ。ちょっとした書類不備を見つけたら、受け付けないで突き返す。
「大部屋執務」の建前は、係、課、部として仕事をしているので、個人ではなく「組織」が仕事をしている。よって相手に名乗る必要もなければ、個人が責任を問われることもない、となる。役職には異動があるが、ひらはまず異動しない。
もうひとつ、日本の官庁では直属の上司が退庁しないと、ひらは帰れないという不文律がある。それどころか、課長が「飲もう」というと、職場で酒盛りが始まる。午後5時過ぎて閉庁になると、出前でつまみや食事を取り寄せて、飲み会である。どの官庁にもご指定の出前業者がいる。
私は24年間、移転前も移転後も、大学の事務組織を観察してきた。大学事務だけに見られる現象でないことは、厚生省の医系技官だった宮本政於が「お役所の掟」(講談社)に書いている。
私は一時アメリカ政府の職員だったから、米国政府の事務官の仕事ぶりを観察している。
基本的に「個室執務」である。書類が次々とたらい回しされて、べたべたハンコが押されることはない。
なぜかというと、担当事務官に「決裁権限」が委譲されているからだ。
留学延長の際も、カナダへの旅行の際も、「フォガティ・センター」という留学生会館に必要書類を持って行ったら、女性の担当官がすぐに決済してくれた。(留学生用ビザだと、カナダに出ると普通は出国・再入国の手続きが必要となる。その面倒を避けたのである。)
日本の方式は「委員会審議」と同じで、決済に多くの人間がかかわることで、責任の分散をし、無責任体制にしているだけだ。かつて丸山真男が論文「超国家主義の論理と心理」(1946)で、「天皇に無限遡及する無責任体制」と批判したものがこれだ。
欧米方式だと自己判断に誤りがあれば、責任を追及される。
スピルバーグの映画「プライベート・ライアン」では、ペンタゴンの一室で、戦死者の家族宛に弔意レターをタイプしていたタイピストが、同じ家に3通目の手紙をタイプしていることに気づき、上司に告知し、上司もどう対応すべきかわからず、それからどんどん上に問題が報告され、ついに国防長官に情報が届き、ノルマンディー戦線にいる4人兄弟の最後のひとりを助ける「兵卒ライアン救出作戦」が発動される。これが映画の冒頭シーンである。
日本の軍隊では起こりえない話だ。
私にあてがわれた技師ミスター・ソーバンは、「定時出勤・定時退庁」でなかった。「フレックス・タイム制」が認められていて、午前4時出勤12時退庁だった。「これだと午後がまるまる畑仕事に使えるのでよい」と言っていた。しかし仕事はよくやってくれた。
私は次々と論文を読み、引用されている重要論文を丸善の文献カードにタイプして行った。それを机の脇に積み重ねておくと、朝出勤したソーバン氏は24時間開館のNIH図書館に行き、カードの文献をコピーしてくれる。10時頃、私が出勤したときにはその日読むべき論文のコピーが机上に重ねてある。この方式で血液病理学に関する、英語、ドイツ語、フランス語の重要論文約3000本を滞米中に読み、日本に持ち帰った。
ソーバン氏は私のコピー係だけだったわけではない。病理技師でそちらの仕事、凍結切片の作成と酵素組織化学染色もやってもらった。飲み込みは早い方で、すぐに技術をマスターし、後に免疫組織化学法もおぼえ、定年後はそれらを専門とする下請け会社を起こした。
ただ学歴による差別はある。技師の給与号俸の最高位は「GS-11」だったが、高卒のソーバン氏はこれになれない。号俸は年金に関係する。そこで私の論文にはすべて彼の名前をつけ、推薦状に論文別刷を添えて担当の係に提出したら、特例としてGS-11への昇格が認められた。こういうことは日本の官僚制度ではありえない。
私は半官半民の病院ー米国立研究所ー日本の国立大学しか知らない。大学の中でも原則として学生や教員と接触のない、本部事務組織、図書館事務組織は官僚化がつよい。しかし広島市の「公文書館」ほどではない。
資料の公開に館長面接を行い、2週間も待たせたあげく、閲覧にいちゃもんをつけ、「公開非公開の決定権は館長にある」と抜かす。
アメリカなら面接したら即断即決。監視なんかしない。小心翼々としていて、人を見る目がなく、自分の判断力に自信がない。小役人の典型である。
広島大図書館も公文書館も、貴重図書・文書の閲覧に際して、閲覧者の監視なんかしない。国会図書館でもしないから、ときどき「孤本」のページが切り取られるという事件が起こる。孤本というのは天下に一冊しかない本のことである。
「小役人とはなにものであるか」を考えていたら、官僚制の起源が問題だと思えてきて、長文になってしまった。保坂正康の本も、もっと深みがあったら良い本になっていただろうに。
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