ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ヒトラー暗殺未遂事件】難波先生より

2013-03-15 12:23:18 | 難波紘二先生
【ヒトラー暗殺未遂事件】の関係者「エワルトハインリッヒ・フォン・クライスト」がミュンヘンの自宅で90歳で死亡したと、今朝の「中国」は「ベルリン共同」の記事を国際欄の訃報に載せている。「ヒトラー暗殺を計画した将校グループで最後の生存者」とある。ドイツ国防軍によるヒトラー暗殺計画は何度もあるが、最大のものは、1944年7月20日、東プロイセンにあった「総統大本営」での会議室に仕掛けられた時限爆弾の爆発である。


 この事件で逮捕され、死刑になったものはおよそ4000人に上る。国民の英雄であるロンメル元帥は、死刑にできないので、青酸カリで自殺させ「病死」と発表した。「エワルトハインリッヒ」という長いファーストネームを持つ人物は、事件の主な関係者リストには載っていない。
 フォン・クライスト将軍はドイツ機甲師団を指揮してロシアに侵攻し、その成功により1943年3月、元帥に昇格している。彼が生きているはずがない。


 W.L.シャイラー『第三帝国の興亡 5』(東京創元社)を読んで、やっと謎が解けた。元帥のファーストネームが「エワルト」で、その息子の「歩兵将校」が「ハインリッヒ」なのである。当初の計画では、「外套作戦」を実行する予定だった。ヒトラーが陸軍の新しい外套と背嚢を「試着したい」といいだしたので、その両ポケットに信管付きの爆弾2個を忍ばせておき、彼が試着している間に、ヒトラーに抱きついて信管をセットさせ、二人とも木っ端みじんに吹き飛ぶというものだ。
 ところが実行予定者のブッシェ大尉が前線で重傷を負い、代役として立てられたのが、ハインリッヒである。(階級は書いてない。)が、ヒトラーは2月11日の「試着予定日」に総統大本営に来なかったので、計画は流れた。


 7月20日、総統大本営の会議室にシュタウフェンベルク大佐が書類カバンに入れて持ち込んだ爆弾は、総統から1.8メートルの距離に置かれ、予定時間にうまく爆発した。しかしヒトラーは軽傷負っただけで、会議室にいた他のものは死者4名、重傷者などが出たのに、うまく生き延びた。
 この後の、ゲシュタポによる捜査で7000人近くが逮捕され、約4000人が死刑になった。この時に過去の陰謀事件が明るみに出て、フォン・クライスト元帥親子も逮捕されている。死刑判決は即時執行されたが、親衛隊の長官ヒムラーは「連合国との交渉」に備えて人質として20名を生かしておいた。この20名は1945年4月、ソ連軍のベルリン攻撃の前に、全員銃殺されているから、フォン・クライスト元帥もこの中にいたかもしれない。(本には「息子は生き延びた」とあるものの、どこでどうやっては書いてない。)


 この本を書いたウィリアム L.シャラーは「シカゴ・トリビューン」の特派員として、ナチス台頭から第二次大戦の勃発と終了にいたる、ヨーロッパの数々の事件を取材し、膨大な資料を調査してこの本を書いた。初版は1959年である。(邦訳は井上勇訳が、1961年に創元社から出ているが、いまこれは絶版。松浦玲訳が2008年に「東京創元社」から出た。)


ドイツ語WIKIを見ると、息子のフォン・クライストの名前は「じゅげむじゅげむ」の様に長い。見出し語だけで「エワルト=ハインリッヒ・フォン・クライスト=シュメンチン」だ。
 http://de.wikipedia.org/wiki/Ewald-Heinrich_von_Kleist-Schmenzin
 要するに裁判で死刑にするには証拠不十分で、そのうち爆撃が激しくなって、裁判長が死んだり、証拠書類が焼けて、処刑されなかったようだ。逮捕されたときの階級は「中尉」とある。
英語版では、シュタウフェンベルク大佐とフォン・クライスト中尉が混同されているし、脱走してイタリアに行ったという話が書いてない。(どっちが本当かわからないが)。
 http://en.wikipedia.org/wiki/Ewald-Heinrich_von_Kleist-Schmenzin
 こんな人物の訃報を掲載すべきではないと思うが、載せるのなら父親と区別する内容にしてほしかった。フォン・クライスト将軍は有名である。
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