油彩 15x20cm 2014年
2009年の帰国以来どれほど多くの強制わいせつ罪の報道を耳目にしたことだろう。こんなことが連日のように話題になるということは何と日本は太平な国かと思ったこともあったが、外国の人権問題を扱う団体が視察に来るというような不祥事に至っては深く掘り下げて考えなくてはならないことだと思った。例によって日本では何事も喉元過ぎれば忘却の一途という国民性があるから僕などは絶望を感じているが、此の際少し私見をまとめておきたい。
そもそも日本の文化は嘘が多すぎる。昔から建前と本音と言われ続けてきたのだが、上から下まで国民全体がこの嘘の文化にまみれている。だから僕から見れば日本人は何を考えているかしれない不気味な民族だと思って距離を置くようになった。大体日本語がいけない。時と所と年齢を考えて小さい時から言葉を使い分けるように教育されている。内と外ではまるで人格まで変わったかに見えるバイリンガルの日本人を何人もみたことがある。外では標準語を話し家に帰れば土臭い大阪弁丸出しというのがいっぱいいる。僕から見れば人格の統一を欠くように見えてならない。しかしこれが日本人のスタンダードなのだ。英語圏の人間でそんな馬鹿なことをしている人間にであったことはない。みんな生まれて死ぬまで男も女も同じ言葉を話し同じ言葉で考えるのである。
僕は自分の人生で何回も言語崩壊を体験した。多分幼児の頃は幼児語を話していただろう。それは小学校まで続いたかもしれない。しかし小学校も高学年になると外で買い物をしたり目上の人に対しては丁寧語を使わなければならないことを強いられた。僕は他の仲間たちがそれを何不自由なく乗り越えていくのを見て驚いた。昨日までのしゃべり方と違って偉く取り澄ました余所行きの言葉が何の抵抗もないように使えるのがふしぎでならなかった。中学2年の時に東京から転校生がやって来た。僕は学級委員長をしていたので彼の面倒を見るように担任から託されていた。偶然に家が近くだったので僕たちはすぐに親しい間柄になった。彼には二歳離れた弟があり若くて美しい母親がいた。庭にブラジャーが干されていたのを初めて見て興奮したのを覚えている。自分の母親などはいまだに赤い腰巻をして洋装などしたことがなかったのだ。その転校生の家庭と我が家とは何もかもが異なっていた。そして彼らが話す東京弁に比べると大阪弁がどうにもならない泥臭い言語に思えてくるのだった。それで僕はいつも言葉の上で劣等感を感じる始末だった。
社会に出てみると自分のことを私と呼称しなければならないことに出会ってこれも僕には躓きの石となった。僕からすれば私というのは女言葉であって、なぜ男の自分が私と言わなければならないのかどうにも理解できなかった。そしてこれは今に至ることだけど、僕は外でも内でも相手がだれであっても僕は僕という一人称で通してきた。これは日本人としては全く非常識なので出世するわけがなかった。そして仕上げは中年になってから日本脱出を余儀なくされ、今度は日本語が全く通じない世界で生きることになるのである。
かように僕の言語社会は何度も崩壊の危機を体験した。そのために非常に大きな犠牲と精神的軋轢を感じて生きて来た。ところが海外に出て彼らの言語に触れてみると、誰も僕が体験したような言語崩壊は体験していない様子なのだ。英語圏では男も女も生まれて死ぬまで「I アイ」一文字だし、相手を呼ぶのも「you」一つなのだ。この単純さにどれだけ僕が感動したかはまさに言語に絶するというわけだった。だから相手が七歳の幼児だからと言って日本のように相手に合わせた言葉に変える必要が全くないわけである。だから年齢を隔てても何のわだかまりも緊張もなく普通にはなしができるわけだった。もちろん男女間にあっても同じだ。だから彼らと付き合っている限り「こいつ何を考えているのだろう」と危ぶむような経験は一度もなかった。かえってそのオープンでイコールな話しぶりに「なんと正直なんだろう。何とフランクなんだろう」と感心するばかりだった。続く。
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