若葉のころ 作者大隅 充
1
ウミネコが小さくなって行く調査船のマストのまわ
りを群れ飛んで海洋調査研究船の出航を祝福している
ように見える。
あの人は、行ってしまった。一週間は帰って来ない。
来週まで会えないと思うとぽっかりと大きな穴が開い
たみたいで、つい又涙ぐんでしまう。どうしてこんな
気持ちが自分にあるのか不思議でならない。
朝まだ暗い内から手作りのお弁当を作って、八戸港
の第四埠頭の乗船員待合室で輪竹さんにその弁当を手
渡すまで毎日毎日ワクワクした気持ちに満ち溢れて、
きっとシアワセってこんな感覚なのかしらと思う。も
うすぐ40に手が届こうとするこの年になって、恥か
しいけど初めて味わうこの心に甘い実の詰まった感じ。
シアワセって先も後ろもない時間の止まったことを言
うのだと思う。
陸奥湊を過ぎて海岸線をホンダのフィットで走ると、
左に見える太平洋の、朝日を鏡のように乱反射して輝
く海原にあの人の乗った海洋調査船「ちきゅう号」が
どんどん小さな点のようになっていく。
私はどこまで行くと言う当てもなく種差海岸をただた
だ走っている。あの人の船が見えなくなるまでとにか
く走りたい。
もう「ちきゅう号」がゴマ粒のようになった時私は岬
のマリエントを通り過ぎていた。
今日は、月曜日。私の勤めている水産科学館・マリ
エントは定休日で駐車場にも車はなくひっそりとして
、海風に無人の宇宙船のようなその姿を晒していた。
そして岬のタイヘイ牧場まで来た時、ついにゴマ粒
だった船は見えなくなった。とうとう輪竹さんは、い
なくなった。
私は、車のエンジンを止めてしばらく泣いた。午前
の平日の岬は、車通りもなく静かだ。私は心にぽっか
りと開いた空洞に早春の冷たい海風が唸り声をあげて
吹き抜けていくのをじっと我慢した。
今日。このあと午後何をすることもなく、夫のカズ
マは、先週から八甲田山へ狩猟仲間とウサギ撃ちに出
かけて明後日まで家には戻って来ない。そしてこの春
から中学生になる娘ハルカは、塾の春季講座で夜遅く
ならないと帰って来ない。
私は、ひとり。
車のウィンドーを開けると涙が風と日光とにみるみる
乾いてゆくのが心地いい。
私は、涙跡を確かめようとバックミラーを見る。す
るとそこに映った自分の唇の煌くバイオレットの口紅
がほんの少しだけ下唇ではみ出ているのを発見した。
私ってドジ?
いつもは使わない高い化粧をして、つまらない失敗を
してしまった。せっかく盛岡のデパートで買ったブラ
ンドものの春物のセーターをうまくコーディネートし
てお気に入りの白いコートと一緒に着てきたのに。普
段塗らない色の口紅を塗ったときに限ってヘマをして
しまった。
輪竹さんは、このドジな年上の女を見てがっかりしな
かっただろうか。
私は十歳も年下の大学の研究員の輪竹龍彦さんに
恋してしまったのかしら。
一週間に二回ほど私の働くマリエントの展望レスト
ランに食事に来るただのお客さんだった。それがある
ときお決まりのカレーセットの注文を聞いていてこの
種差の科学館の裏がウミネコの生息地だという話をし
てから親しくなり、定休日に十和田湖まで私の車でド
ライブしたり、野辺地湾にハクチョウを見に行ったり
、知り合いに会わない三沢の繁華街のコーヒー屋さん
でただ海鳥や魚の話をするようになって気がついたら
一週間に二回も会うようになっていた。
はじめは東北初心者の彼を私が道案内するガイド役
だったのがいつの間にか彼の動物や地学の話を聴く聴
講生のように私はなっていた。
そしてそのうち時々マリエントからの帰り八戸港の
海上保安庁の彼の宿舎の前まで遠回りして輪竹龍彦とい
う郵便受けの文字を読むだけで満足してペンションの
ある我が家へ帰るようになってしまった。自分でもど
うしてこんな行動に出てしまうのかわからない。私は
あの不精ひげの輪竹さんの笑顔が私の心に突き刺さっ
て離れないの。マリエントへ朝山から降りていくのが
とても楽しくて、彼が来る日を思うだけでシアワセな
気持ちになる。でも今の今まで手も握らないでいる。
あなた髭剃りなさいよとか、今日は昨日よりウミネコ
が少ないねとかそんなどうでもいい会話しかしていな
いのにこんな、外洋調査に出てしばらく会えないとな
ると涙が出てしまう。弟ともボーイフレンドとも違う。
まるで中学生の放送部で部長と副部長の関係の気の合
う仲間とでも言えばいいのか、私の心の中に渦巻くつ
らいあの人に対する、この感情を誰か教えてほしい思
う。
「すみれちゃーん。」
誰が後ろで私の名前を呼んだ。