森の王者 作者大隅 充
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チャータは、何度も目を瞬いた。
しかし今目にしている光景は、決して幻ではなか
った。艶々と濡れた背中の栗毛といい、澄んだ湖の
ように深い緑色をした瞳といい、そしてすらりと伸
びた美しい四肢といいそれは母にして神聖な処女の
泉のような光を放っているまさしく神の使いだった。
黄色い花の丘をポツポツと麓まで降りて、その栗毛
のオオカミはチャータの目の前まで来た。長い時間
見つめ合った。濡れたその緑色の瞳は同じ生き物の
ものではないようにチャータは感じた。メスオオカ
ミは栗毛の胸毛を揺らして首をかしげさらに近づい
て来た。鼻と鼻を交差しくるりと身を翻して丘に退
けては、クンクンと又近づいて来た。チャータは一
歩も動けず金縛りに遭ったみたいに立ちすくんでい
ると、栗毛のメスオオカミはピョンと飛んでチャー
タの後ろに回ったと思ったらチャータのお尻の匂い
をクンクン嗅いだ。そしていきなりチャータの背中
に栗毛の背中をこすりつけて来た。瞬間チャータの
身体に電流が走って花の丘も栗毛のオオカミもみん
な、世界が虹の力に包まれ空中にシャボン玉のよう
に浮いた。チャータは生まれて初めて官能というも
ののどうしようもなく甘いとろける快感を味わった。
蜜の匂いと遠い日の大地の底から響いてくる魂の叫
ぶ唸りとがチャータの中で渦巻いた。
そこにはオスとメスとがいた。丘の花々が風にな
びき囁いた。オスは激しくメスの首を噛んだ。メス
が陶酔の叫びを天空へ響かせた。メスとオスがひと
つになった。それは花咲く丘の一対の黒いシルエッ
トとして止まった世界をつくった。陽はいよいよ真
上にかかって番の影を短くした。
やがてチャータの腰はへなへなと崩れ落ちた。栗
毛のオオカミはチャータの股からお尻を引くと真っ
直ぐに花の丘を駆け上がった。チャータは肩で息を
してただじっと見送った。いつの間にか虹は消えて
いた。
× × ×
白神の谷の生活は、仮住まいにしては居心地がよ
かった。こんな平和な山はもしかしたら後にも先に
もないのではないかと思えるくらい日々長閑で初夏
に向かって気候もよく、肉食のヤマイヌやキツネの
数も限られていてここでの生態系はまるで理想の教
科書に出てくるごとく単純で秩序だっていた。
あの虹の丘での女神との遭遇から一ヶ月が過ぎた
が虹と一緒に消えたあの、栗毛のメスオオカミは二
度と姿を見せなかった。それなのにチャータは、毎
日狩りの帰りには虹の丘を必ず通って行った。それ
はほとんど巡礼だった。ときには明け方陽の昇るま
で何時間も独りでその丘の上で過ごすこともあった。
引きこもったままのシロのことも確かに心配だった
がチャータにとって独りでこの丘へ行くことは、あ
らかじめ組み込まれた理由のない使命のようなもの
だった。その丘からは、美しい谷とその向うに白い
雪の頂を連ねた神々しい山脈が見えた。親兄弟と別
れ、生まれた北の大地を後にして今自分は青年期に
なり、この平和な谷で群れのリーダーとして他のど
んな生き物たちからも畏れられ、グレーの弟をはじ
め群れのヤマイヌたちからは揺るぎない尊敬を集め
ている。だからひたすら山を駆け巡りエサを獲り、
山猿やイノシシらの争いごとには仲裁に入り、必要
最低限の営みを旨として生きてきた。だけど何かも
っと大きな満たされぬものがはっきりとあることに
チャータは悩んだ。それが何なのか。あの栗毛のメ
スオオカミともう一度逢い交わるという単純なこと
ではなく、何かもっと大きな使命というより宿命の
ようなものがあるように思えて仕方ない。しかしそ
れがどんなものなのかわからない。もう一度あの女
神に会えばその答えが見つけ出せそうになんとなく
思うがではどうすればいいのか又わからない。
そんな雑念が消えないままチャータは、長い夏の
狩りの旅に出た。緑のむせ返るような山や崖を辿り
新しい餌場を探して歩いた。朝早く倒木の巣をチャ
ータが出て行くのを見送ったシロはチャータが二度
と再び帰って来ないんだなとぼんやり思った。