懐かしい人への旅 作者大隅 充
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この松竹にいた三年半の間に中村さんの関わった木下作品以外の
美術監督作品には川島雄三監督の「相惚れトコトン同志」「学生
社長」、小林正樹監督「息子の青春」、野村芳太郎監督「次男坊」
「きんぴら先生とお嬢さん」(大阪志郎・高橋貞二)などがある。
俳優では大阪志郎さんと知己を得て生涯付き合いがあったと娘さ
んの公美さんは言っておられた。
そして昭和29年に新生日活へ移籍する直前にやったのが木下
恵介「二十四の瞳」で中村公彦さんがロケマッチという手法の名
手だったことをこの作品で見てとれる。
映画ファンなら誰もが知っているこの映画は数々の映画賞を総
なめした。監督、撮影、脚本、主演・・ただ美術だけがとれなか
った。
それは今でもこの映画を観た人が勘違いしているのだが、全部小
豆島に行って撮ってきたものと思っているフシがある。教室にし
ても高峰秀子の家にしても大船のセットである。しかしロケ先の
瀬戸内海の美しい風景とマッチしたセットを組んだ中村美術があ
の子供達の純真な笑顔や涙を引き立たせたのだった。
その技術が巧すぎて、評論家でさえ映画美術の姿を読みきれなか
った。
映画賞の発表のとき木下恵介監督が中村さんにそのことを言っ
て「それだけあなたの美術がすぐれていたということですよ。あ
まりにも自然なセットだったから・・」
と慰められたというエピソードがある。
この中村美術の天才的なロケマッチ手法はその後日活に移って
から今村昌平作品で花開くことになる。
「にっぽん昆虫記」は、映画の美術の考え方をまるっきりひっ
くり返したと言っていい今村昌平監督作品である。撮影所で作ら
れていた映画産業は、必ずセットやロケセットでその背景となる
舞台を描いてきた。ところがこの「にっぽん昆虫記」は、東北の
寒村の農家を一軒借り切って撮影された。そして徹底してその実
際の農家の中で撮影された。普通農家の居間のシーンだとセット
が組まれ俯瞰で撮影するときは、天井のないスタジオセットの上
にクレーンにカメラを乗せて撮影する。しかしこの作品では、
実際の農家の天井にカメラを仕込むし、壁に穴を開けて引き画を
撮ったりした。つまりこれは、ロケマッチの極致と言っていいも
のになった。ほとんどドキュメントに近い作法である。映画のウ
ソから自由になりたいと願った今村監督と中村美術が合体した瞬
間だった。
それはちょうど時代がハリウッド的な絵空事に満足できなくな
っていた時期でもあった。その下地は、ロッセリーニに代表され
るイタリアのネオリアリズモの影響があり、その後のフランスの
街にカメラを持ち出して即興で演出するヌーベルバーグの流れと
呼応する映画史的な動きと同期しているものでもあった。
余談だがこの後今村昌平は、実際にドキュメント映画へ傾倒し
て行って創作をしばらくやめてしまう。中村さんは、今村のいな
くなった日活で逆に井上梅次監督作品でセット美術の舞台的な展
開へと再び戻って行く。
さてここで話をムーランルージュへ戻して中村夏樹の誕生から
進めていこう。
中村公彦さんが戦後ムーランの前身「劇団小議会」に参加する
のが昭和21年の10月からで芝居「女性研究第一話」とバラエ
ティ「街の小議会」で最初に「中村夏樹」のペンネームが載るこ
とになりました。この劇団「小議会」は、ムーラン研究者では正
確に年代区分をされるので戦後第二次ムーランという人もいるし
、この前に五月から七月にかけてムーランの作家中江良夫と焼け
跡で浪曲をやっていた鈴木勝親分とがはじめた劇団「赤い風車」
というものがあるので第三次という人もいる。
ただこの「小議会」は御殿場で戦後第一回衆議院選挙で落選し
ていたムーランの創設者佐々木千里を再び、中江良夫が呼んでき
て本格的に始めた興行だった。だからトップスターの明日待子、
小柳ナナ子などが表紙を飾り新生にっぽんの新宿でムーランの芝
居とバラエティを繰り広げたが三ヶ月しかつづかなかった。客足
がどんどん減っていった。
佐々木千里の意図は、敗戦で焼け野原になった日本、東京では
時代に沿わなかった。今日食べるものがなく、戦地から帰ってき
た復員兵は、家族が空襲でいなかったり、逆に夫を戦争で失い子
供を女手ひとりで育てなければならなかったりした。戦災孤児が
溢れ、パンパンと呼ばれる街娼が辻辻に立ち、新宿周辺でもやく
ざと三国人との抗争がはげしく死体が路地裏に転がっていたりし
た。そんな混乱した世相で佐々木千里の戦前のユーモアとエロス
は、物足りないものだったのではないだろうか。もはや佐々木千
里の時代ではなかった。時代はもっと即物的な欲望の大きな渦に
飲み込まれていた。だから中江良夫もどこか違うと感じていた。
ムーランルージュは新しいこの敗戦の混乱に対応しなければなら
ない。また佐々木千里の敗北は新しいムーランの始まりでもあっ
た。
戦後ムーランの始動は、さらに三ヶ月の準備期間を待って昭和
22年の4月8日からの劇団「ムーランルージュ新宿座」からと
なる。今度は、三崎千恵子と夫の宮坂将嘉が座長になり、台湾の
華僑である林以文が資本を提供することで安定的に興行すること
ができた。
中村公彦さんの美術も低予算の中で演目の主題をクローズアッ
プして大胆にデホルメしたデザインのセットとなった。このデホ
ルメと「生活の河」や「にしん場」に見られる実写的なリアルな
セットも又別にありそれらを見事に両輪の翼として成立させていた。