森の王者 作者大隅 充
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ノノハラッパを過ぎると、飢餓の谷になった。水のない
沢に枯れ木の林がつづいて周囲を急峻な崖に囲まれていた。
この谷に入る東の道と風の峠へ出る西の道のふたつの通り
道が唯一の抜け道だった。ここまで来ればあのタルカの縄
張りから外れることだろう。
チャータは、その細長い谷を早く抜けてうさぎやシカの
いる餌場の豊な森へ行きたい。しかし目の前に風の峠の犬
の形に似た突っ立った岩が見えているのになかなか辿りつ
けない。長い一本道でしかないこの谷底のケモノ道をもう
何日も歩いているような疲労感に襲われた。チャータにと
って不安だったのは、その疲労感だけでなく、涸れ沢の脇
に転がっている動物の白骨化した死体の夥しい数だった。
そしてチャータはかなり歩いた石灰岩の窪みで一匹の小
さなヤマイヌに出会った。それはあのタルカにしっぽを噛
み切られたヤマイヌの仔だった。微かに息はしていたが目
は宙を見つめたままその色を失っていた。そのヤマイヌの
仔のいる窪みには血が溜まっていた。見ると腹にタルカの
牙で射抜かれた痕があった。上空をトンビが旋回している。
たぶんこの仔犬は後1時間ももたないだろう。チャータ
はそいつの鼻をペロリと舐めてやった。
するとものすごい唸り声が後ろから聞こえてチャータの
尻にはげしい痛みが走った。眉間に三日月の傷のある大き
な褐色のヤマイヌがチャータの背中に噛みついたのだった。
チャータは飛び退いて石灰岩の上に登った。褐色のミカヅ
キは、怒りのかぎり吠え、牙を剥いた。チャータも負けず
に唸り応戦した。別にあの仔犬を喰おうとしたわけじゃな
い。よく頑張ったと慰めただけなんだ。そうチャータはミ
カヅキに説明したがこの辺のヤマイヌのリーダーなのか、
あの仔犬の父親なのか、ミカヅキは全くそんな説明に耳を
かそうとしないでこの山で何をしている、この山に入った
からには生きて返さない、と烈しい調子で吠え続けた。
気がつくとチャータのいる岩のまわりを数十頭のヤマイ
ヌが取り囲んでいた。殺気立った咆哮は、飢餓の谷に木魂
した。
ミカヅキの横から出てきた黒いカミソリのように痩せた
若いオスが驚く跳躍力でチャータの喉めがけて跳びついて
来た。チャータは牙を黒いオスとあわせて砂地に転がり落
ちた。そして吠えたてるヤマイヌの群れの中でお互いに肩
と肢を噛んだままゴロゴロと転がり廻った。チャータが馬
乗りになり上になった時白い丸々としたメスがチャータの
背中に牙をたてた。激痛でチャータがひるんだ隙に黒いオ
スはチャータの牙から離れた。そして何頭ものヤマイヌが
一斉にチャータの体に向かって八つ裂きにすべく跳びかか
った。
どう考えても一番小さなチャータは不利だった。腹を噛
み切られ、咽を喰いちぎられズタズタになってもおかしく
ない。ケモノの掟は、弱みを見せたものが負けだった。少
しでも腹を見せたり、しっぽを巻いたら、それは死を意味
した。
しかしチャータは、ぐるりと取り囲まれた群れの中で一
番大きな白メスの首を噛みちぎった。傷は深く鮮血が噴き
出た。みるみる白い巨体が真っ赤な岩になって転がり落ち
た。群れの輪が一瞬ゆるんだ。
チャータは、ものすごい速さで白メスの横にいた茶色の
若いオスの耳を牙で切り落とし群れの外に飛び出た。
甲高い悲壮な鳴声がヤマイヌの群れと谷に充満した。チ
ャータは、再び石灰岩の岩に登って雄たけびをあげた。そ
れは、はじめて聞くオスの戦慄の咆哮だった。
黒いオスとミカヅキのリーダーとヤマイヌたちが静かにな
った。
チャータは、もう一度低い遠吠えをして谷の出口を目指
して走り出した。ヤマイヌが後を追う気配がなかった。枯
れ木と石灰岩と砂地とを蹴って走った。肩の傷も背中の傷
も肉は見えても骨にまでは達していない。走る四肢の筋肉
がどんどん大きくなってゆくのが自分でもわかった。この
数分の間にチャータの体が大きくなって成長したのだと確
信した。信じられれないことだけどはっきりとそう実感し
た。それは又チャータが森で生きて行く野生のオスの大人
になったことの証でもあった。
風の峠はもうすぐだ。谷の隆起を乗り越えれば、この飢
餓の谷から抜けられる。大きな火成岩の岩を越えたら峠だ。
チャータは走りを弛めて、いよいよこのに谷ともおさらば
だと後ろを振り返った。枯れた林の谷が目の下にあった。
ヤマイヌの叫びは、聞こえない。死んだように静かな枯れ
木と石灰岩の世界があるだけだった。
チャータは再び力強く駆けると火成岩の大岩を乗り越え
た。
しかしそこには風の峠はなかった。又同じ枯れ木の谷が
つづいていた。そして窪地にあのヤマイヌの仔が腐りかけ
て前と同じ格好で横たわっていた。