こちら、自由が丘ペット探偵局 作者 古海めぐみ
25
中島の運転する軽トラの助手席に健太が乗ると、
バス通りに出てドラム缶橋の浮橋へ車を走らせた。
祐二と春は、サーブで神社の入口からバス通りへ出る
のに方向転換に手間取ってかなり遅れて湖岸沿いの道
へ出てきた。
歪曲した道で軽トラが見えなくなって、祐二はスピード
を上げてカーブを曲がろうとしたそのとき崖の向こうで
中島の軽トラが鳴らすクラクションがけたたましく聞
こえたと思った次の瞬間、突然崖道の陰からミニワゴン
が対向車線をはみ出て突進して来た。
慌てた祐二は、サーブのハンドルをきって湖面側の
ガードレールに一度ガリガリとかすって、暴走ワゴン
をかわすとカーブをやっとの思いで曲がった。
「バカ野郎!危ないだろっ!」
春ちゃんが横にいるのも忘れて上田祐二は、ナマの
感情を剥き出しにして罵声を発した。
夜の山道でスピードを出そうとしていた外車と狂った
ように猛進したワゴン車とが湖畔の狭いカーブで接触
しそうになりながらすれ違ったのだ。どちらもハンド
ルを持つ手がほんの数センチでも緩慢になっていたら、
正面衝突していてもおかしくなかった。
そんなギリギリの場面で助手席にいた猫田春は、すれ
違い様間近でミニワゴン車の運転席の男の姿を目にした。
あたかもストロボ分解写真のように目の前を強張った
色白の男の顔がガムを噛みながらハンドルをきって
後ろへ流れて行った。
しかし一コマだけ春と色白の男は目が合った。
春は、瞬時にシートベルトの胸がカチカチに凍った。
男の深い井戸のように暗い黒目が、その一コマの中で
笑ったように見えた。
あの男だ。
バールを振りかざして春を夜の菜の花畑で襲った、
あの男だ。
春は、カーブでダッシュボードに両手をついて体を
支えながらアリアリとその男の姿が甦って来た。すると
車がぶつかりそうだった恐怖よりもっと大きな懼れで
全身に鳥肌がたった。
「大丈夫?」
祐二が浮き橋が見える直線道路で安定走行に入って、
隣で俯いたまま固まっている春を見て云った。
「あの男だった。バール、持った、」
「何?」
「今すれ違った車、運転していた人ー。」
「あの男って、春ちゃん襲った変態男?」
と祐二は、車を停めた。
「間違いない。」
春はシートベルトを外して大きく息を吐いた。
祐二は、前進して橋の袂の広くなったスペースでUタ
ーンして、ミニワゴンを追いかけようとギアチェンジ
しようとしたが、春が祐二の腕をとって制した。
「あのスピードじゃ、もう追いつけないわ。」
「でも・・・」
「ちょっと息が苦しいの。」
とドアを開けて外へ大股でゆっくりとサーブから抜け
出した。サーブはプスンと言ってエンジンが切れた。
「おーい。」
浮き橋の渡り場から健太が走って来た。
「今逃げたワゴン車、何かドラム缶橋から湖に捨てて
逃げたぜ。」
祐二がキーを抜いて車から出てきた。
「あれ。あのワゴン車、運転していたの、春ちゃんを
襲ったヤツだって。」
「本当かよ。今のが、あの変態野郎ってか。」
春は、サーブの車体に凭れて小刻みに震えていた。
「確かか。春ちゃん。」
「あの、黒目、忘れられない。」
健太も祐二も春の震える唇が確信に満ちているのを
感じ取った。
「あんな、冷たくて、救いのない、暗い黒目って、
そうそうあるもんじゃないわ。」
闇空を見ていた春がようやく祐二と健太に顔を向けて
現在に戻ってきた。
祐二がサーブの後ろの席からテニス用の長袖のウェア
を取り出して春の背中にかけた。
「ミニワゴン、つうったっけ。変態男のも。」
健太の質問に青い唇で春は頷いた。
「そう云えばさ。あの車、ぼくらがここへ来る時青梅
街道で追い越して行ったやつだよ。」
祐二がそう言うと、健太もそれ、それとクイズ番組の
司会者が正解を出すみたいに手を顔の前で大きく振っ
て同意した。「でもなんでこんなとこに・・・」
「私もそれがわからないの。むしろその偶然の方が
気味悪くて・・・」健太の前まで歩いて春はしっかり
と両手で自分の両肩を掴んで呼吸を整えた。
「こんな寂しいとこでよりによって。」
春が空を見上げると、いつの間にか雲の割れ目から
三日月が顔を出して蒼い湖の上を低く照らしていた。
「あった!あったぞ。」
ドラム缶橋から下手に二十メートルほど離れた岸辺
で中島が叫んだ。
「ああ。あいつが捨てたダンボールだ。」
健太は、そう言って走り出した。
歩道から草が生い茂った岸へ行く健太を追って祐二
も春も後を追った。
岸では中島がグラスファイバーの釣竿をいっぱい
に伸ばしてぷかぷか浮いているダンボールを引き寄せいた。
その異物は月明かりにキラキラと波うつ湖面にくっきり
とひとつだけ漂っていた。健太たちが合流した時点では、
中島がガムテープでしっかりと梱包されたダンボールを
両手で挟んで確保していたところだった。
「何ですか?」健太が屈みこんで言うのを黙って中島は、
箱のガムテープを剥がした。
「やっぱり。犬だ。」
祐二の背中から春が覗くと、ダンボールの口から顎の
ないチワワの硬い毛が見えた。
25
中島の運転する軽トラの助手席に健太が乗ると、
バス通りに出てドラム缶橋の浮橋へ車を走らせた。
祐二と春は、サーブで神社の入口からバス通りへ出る
のに方向転換に手間取ってかなり遅れて湖岸沿いの道
へ出てきた。
歪曲した道で軽トラが見えなくなって、祐二はスピード
を上げてカーブを曲がろうとしたそのとき崖の向こうで
中島の軽トラが鳴らすクラクションがけたたましく聞
こえたと思った次の瞬間、突然崖道の陰からミニワゴン
が対向車線をはみ出て突進して来た。
慌てた祐二は、サーブのハンドルをきって湖面側の
ガードレールに一度ガリガリとかすって、暴走ワゴン
をかわすとカーブをやっとの思いで曲がった。
「バカ野郎!危ないだろっ!」
春ちゃんが横にいるのも忘れて上田祐二は、ナマの
感情を剥き出しにして罵声を発した。
夜の山道でスピードを出そうとしていた外車と狂った
ように猛進したワゴン車とが湖畔の狭いカーブで接触
しそうになりながらすれ違ったのだ。どちらもハンド
ルを持つ手がほんの数センチでも緩慢になっていたら、
正面衝突していてもおかしくなかった。
そんなギリギリの場面で助手席にいた猫田春は、すれ
違い様間近でミニワゴン車の運転席の男の姿を目にした。
あたかもストロボ分解写真のように目の前を強張った
色白の男の顔がガムを噛みながらハンドルをきって
後ろへ流れて行った。
しかし一コマだけ春と色白の男は目が合った。
春は、瞬時にシートベルトの胸がカチカチに凍った。
男の深い井戸のように暗い黒目が、その一コマの中で
笑ったように見えた。
あの男だ。
バールを振りかざして春を夜の菜の花畑で襲った、
あの男だ。
春は、カーブでダッシュボードに両手をついて体を
支えながらアリアリとその男の姿が甦って来た。すると
車がぶつかりそうだった恐怖よりもっと大きな懼れで
全身に鳥肌がたった。
「大丈夫?」
祐二が浮き橋が見える直線道路で安定走行に入って、
隣で俯いたまま固まっている春を見て云った。
「あの男だった。バール、持った、」
「何?」
「今すれ違った車、運転していた人ー。」
「あの男って、春ちゃん襲った変態男?」
と祐二は、車を停めた。
「間違いない。」
春はシートベルトを外して大きく息を吐いた。
祐二は、前進して橋の袂の広くなったスペースでUタ
ーンして、ミニワゴンを追いかけようとギアチェンジ
しようとしたが、春が祐二の腕をとって制した。
「あのスピードじゃ、もう追いつけないわ。」
「でも・・・」
「ちょっと息が苦しいの。」
とドアを開けて外へ大股でゆっくりとサーブから抜け
出した。サーブはプスンと言ってエンジンが切れた。
「おーい。」
浮き橋の渡り場から健太が走って来た。
「今逃げたワゴン車、何かドラム缶橋から湖に捨てて
逃げたぜ。」
祐二がキーを抜いて車から出てきた。
「あれ。あのワゴン車、運転していたの、春ちゃんを
襲ったヤツだって。」
「本当かよ。今のが、あの変態野郎ってか。」
春は、サーブの車体に凭れて小刻みに震えていた。
「確かか。春ちゃん。」
「あの、黒目、忘れられない。」
健太も祐二も春の震える唇が確信に満ちているのを
感じ取った。
「あんな、冷たくて、救いのない、暗い黒目って、
そうそうあるもんじゃないわ。」
闇空を見ていた春がようやく祐二と健太に顔を向けて
現在に戻ってきた。
祐二がサーブの後ろの席からテニス用の長袖のウェア
を取り出して春の背中にかけた。
「ミニワゴン、つうったっけ。変態男のも。」
健太の質問に青い唇で春は頷いた。
「そう云えばさ。あの車、ぼくらがここへ来る時青梅
街道で追い越して行ったやつだよ。」
祐二がそう言うと、健太もそれ、それとクイズ番組の
司会者が正解を出すみたいに手を顔の前で大きく振っ
て同意した。「でもなんでこんなとこに・・・」
「私もそれがわからないの。むしろその偶然の方が
気味悪くて・・・」健太の前まで歩いて春はしっかり
と両手で自分の両肩を掴んで呼吸を整えた。
「こんな寂しいとこでよりによって。」
春が空を見上げると、いつの間にか雲の割れ目から
三日月が顔を出して蒼い湖の上を低く照らしていた。
「あった!あったぞ。」
ドラム缶橋から下手に二十メートルほど離れた岸辺
で中島が叫んだ。
「ああ。あいつが捨てたダンボールだ。」
健太は、そう言って走り出した。
歩道から草が生い茂った岸へ行く健太を追って祐二
も春も後を追った。
岸では中島がグラスファイバーの釣竿をいっぱい
に伸ばしてぷかぷか浮いているダンボールを引き寄せいた。
その異物は月明かりにキラキラと波うつ湖面にくっきり
とひとつだけ漂っていた。健太たちが合流した時点では、
中島がガムテープでしっかりと梱包されたダンボールを
両手で挟んで確保していたところだった。
「何ですか?」健太が屈みこんで言うのを黙って中島は、
箱のガムテープを剥がした。
「やっぱり。犬だ。」
祐二の背中から春が覗くと、ダンボールの口から顎の
ないチワワの硬い毛が見えた。
8月26日夕方。代々木上原から歩いて5分のところ。
突然大きな音とともに古い家がぺしゃんこになった。
地震でもないのにつぶれてしまった。
中にいた80才と74才の姉妹は、かろうじて助かった。
上原の古民家倒壊のニュース
昨日ちょうど渋谷の上原中通り商店街を歩いていてその現場に遭遇。
築80年の壊れかかった木造2階建ての家だった。
そばや(丹波屋)などがある商店街から一歩入った狭い路地にあった。
それは生活道路でおそらく消防車は入れず救出作業がたいへんだった。
実はこの近辺は、戦災で焼けずに残っている木造の古い家が結構ある。
昭和初期の日本家屋を現役で見ることが出来る珍しい地区だった。
中には関東大震災(大正12年)でも倒れなかった家が現在も和菓子屋として
残っている。
近所では傾いていて危ないといわれていたらしい。
そんな古い家は、おしなべて老人だけで暮らしている。
このへんは宇崎竜童が子供時代住んでいたところで
今では大使館や芸能人が住む東京でも一等地の近代的で高級な
マンションが広がってあるが、ミスマッチのように所々にこういう
古い、古い貴重な昭和の木造家屋がある。
それにしてもその吉田さん老姉妹のこの後が気になる。
この他にもこの商店街は、古い昭和家屋がいまだに生きている。
これは、商店街にあるもう一つの老姉妹の古い家の改装前の中部。
突然大きな音とともに古い家がぺしゃんこになった。
地震でもないのにつぶれてしまった。
中にいた80才と74才の姉妹は、かろうじて助かった。
上原の古民家倒壊のニュース
昨日ちょうど渋谷の上原中通り商店街を歩いていてその現場に遭遇。
築80年の壊れかかった木造2階建ての家だった。
そばや(丹波屋)などがある商店街から一歩入った狭い路地にあった。
それは生活道路でおそらく消防車は入れず救出作業がたいへんだった。
実はこの近辺は、戦災で焼けずに残っている木造の古い家が結構ある。
昭和初期の日本家屋を現役で見ることが出来る珍しい地区だった。
中には関東大震災(大正12年)でも倒れなかった家が現在も和菓子屋として
残っている。
近所では傾いていて危ないといわれていたらしい。
そんな古い家は、おしなべて老人だけで暮らしている。
このへんは宇崎竜童が子供時代住んでいたところで
今では大使館や芸能人が住む東京でも一等地の近代的で高級な
マンションが広がってあるが、ミスマッチのように所々にこういう
古い、古い貴重な昭和の木造家屋がある。
それにしてもその吉田さん老姉妹のこの後が気になる。
この他にもこの商店街は、古い昭和家屋がいまだに生きている。
これは、商店街にあるもう一つの老姉妹の古い家の改装前の中部。
以前ご紹介した絵本「犬のルーカス」の続編とも言える書籍。
今回は絵本ではありませんが、要所要所に著者自身が描いた挿絵が入れられています。
前作では書かれていなかった愛犬ルーカスの晩年、病気の後遺症で右半身不随となり、
リハビリしながらも徐々に老いて弱り、食事や排泄で介護を必要とするようになって、
最期は静かに息を引き取るまでの様子が、丁寧に記されています。
ルーカス君のことを「同志であり守護天使」と呼び、彼から「自然の力に抗わず、
ナチュラルに、力を尽くして生を終えることを教わった」と書いているのが
とても印象的でした。
この本にはルーカス君の他にも、彼女が幼少の頃から飼った様々な犬のこと
が描かれています。
「今までに出会った犬を思い出すと、神様がいつもそばにいたような幸福を覚える」
という彼女の言葉に、犬達への深い愛情が感じられます。
今回は絵本ではありませんが、要所要所に著者自身が描いた挿絵が入れられています。
前作では書かれていなかった愛犬ルーカスの晩年、病気の後遺症で右半身不随となり、
リハビリしながらも徐々に老いて弱り、食事や排泄で介護を必要とするようになって、
最期は静かに息を引き取るまでの様子が、丁寧に記されています。
ルーカス君のことを「同志であり守護天使」と呼び、彼から「自然の力に抗わず、
ナチュラルに、力を尽くして生を終えることを教わった」と書いているのが
とても印象的でした。
この本にはルーカス君の他にも、彼女が幼少の頃から飼った様々な犬のこと
が描かれています。
「今までに出会った犬を思い出すと、神様がいつもそばにいたような幸福を覚える」
という彼女の言葉に、犬達への深い愛情が感じられます。
こちら、自由が丘ペット探偵局 作者 古海めぐみ
24
消防団の男は、中島と名乗った。
そして小河内神社はすぐそこだからと親切に案内してくれることになった。
今は、奥多摩駅の近くで金物屋をやっているが元はダム湖に沈む前の小河内村
に曾お爺さんの代から住んでいたとまるで湖のそこに沈んだ村が桃源郷だった
ように饒舌に語りだした。秋になると山が色づき、稲刈りの後の祭りは美しか
ったと云う。そして鶴の湯という温泉場があって湯治客で賑わっていたという。
しかしその輝く光景もその男が知る筈もなくお婆ちゃんからの伝聞だった。
神社の鳥居の下で軽トラとサーブの二台の車を停めて、暗い参道を率先して
登りだしながら声だかにしゃべる中島の話ぶりから後をついて歩いていた春
や健太は、この中島という男がおばあちゃん子であるのがわかった。
それは特に春には、奥多摩に迷い込んだハルおばちゃまのことを少し詳しく
話してから急に中島なる男の態度が変わったことでもこの人は、私と同類項
の情緒を持っていると確信した。ただ上田祐二だけは、そんな中島論に無頓着
で根っからの都会育ちの性質から早くこんな暗い山の中から抜け出して明るい
青山辺りのカフェバーで冷たいオンザロックを飲みたいという気持ちで正直
いっぱいだった。
それは、ちょうど喉の渇いたのを我慢して散歩に付き合う飼い犬のように帰って
からのおやつと水皿だけを希望にテクテクと歩くのに似て、祐二もハルさん
ミッション後のバーでのゆったりソファと冷たい氷に絡まったアルコールとを
ただひたすら心の拠り所に春の後をつきあって歩いていた。
小河内神社の社まで来た。しかしそこには、ハルさんの姿はなく、夜の水辺を
背にしーんと静まり返っていた。中島がサーチライトを境内をぐるりと照らした。
「誰もいないようだね。」
「ハルおばちゃまー!」
春が名前を呼んだ。
下の軽トラの荷台に積まれた2匹の犬がか細く鳴いて応えた。
「ハルさーん!」
祐二が次に呼んだ。
犬の遠吠えが消え、木立の葉のざわめきが聞こえて来た。
「バカ。だから動くなって言ったんだ。だから年寄りはきらいだよ。」
健太は腹の底から大きな声で言った。
「いくら病気だからって自分のしてることでどんだけ迷惑かけてるか、わかん
ねえのかよ。あの息子さん夫婦の気持ちがよくわかったよ。本当によ。」
「そんな迷惑だったら私ひとりで捜します。」
春がそう言うと神社の後の森へ走り出した。
「ああ。危い。そっちは湖への崖になっているだけですよ。」
中島がライトをかざしながら春を捕まえて木立の間を照らして、ほら何もないでしょ。
ここにいたら返事できますから、と納得させるように裏を偵察して正面へ帰ってきた。
「わるかったよ。春ちゃん。」
健太が迎えて目を合わせずぽつりと云うとペンライトで境内を照らして歩き出した。
「ハルおばちゃまって、本当にここにいたのかな?」
社の階段に座り込んで祐二が本音を云った。
「何、全然別のとこにいて奥多摩にいるみたいに思って電話してたってこと?」
参道の暗がりからペンライトの一点になった健太が聞いてきた。
「そこまでボケてないでしょ。おばちゃま。」
春がもう一度ハルさんのケイタイにアクセスしてみた。
「おばちゃまは近くにいる。きっと・・・」とケイタイを耳に押し当てた。
すると闇の中でケイタイの発信音が響いた。トロイメライの着メロ。
「ハルおばちゃま!」
春が叫んだ。
「どこだ。」
中島、祐二と耳を済ませた。
「ここだ。」
健太が狛犬の陰から声をあげた。
春、祐二と中島のサーチライトを頼りに健太のところまで駆け寄った。
健太は、ペンライトを狛犬の石塔の足元に向けていた。
そこには、ケイタイが転がっていて瀕死の着信ランプが点滅してすぐに消えた。
闇夜に響き渡ったトロイメライがプツンと空爆にあったコンサート会場のように
深い沈黙に演奏が閉ざされた。
春は、そのケイタイを手にとった。
「もう完全に電池がなくなった。」
「いたんだ。あのおばちゃま。」
祐二が春からケイタイを受け取り、しみじみと言った。
「こっちにも何か・・・」
中島がライトを赤々と地面へ照らした。
「ああ。おばちゃまのバッグ。」
春は、掠れた声を出した。
そこにあったのは、引き裂かれた西陣織のバックだった。
中身はなく、三つに裂けていた。
「犬だな。」
健太がバッグを覗きこんでしっかりとした口調で云った。
「野犬かもしれない。」
と中島がやはり覗き込んで云った。
「ハルさーん。」
春はもう一度奥多摩湖の方へ叫んだ。
「一匹じゃないぞ。こりゃ。」
健太は、狛犬のまわりと社の土台とペンライトを照らしながら説明した。
「犬の小便の跡がある。それもあっちこっちに。少なくとも五六匹はいた。しかも
ついさっき。みんなまだ新しい。」
「ハルさーん。ハルおばちゃまー。」
春はますます大きな声を出した。
風が湖の水面を渡った。
そしてザブンと何かが水に落ちる音がした。
「何?」
祐二が言うと春が健太の手をとった。
「あれ。ドラム缶橋の方だ。」
中島が緊張した声で呟いた。
24
消防団の男は、中島と名乗った。
そして小河内神社はすぐそこだからと親切に案内してくれることになった。
今は、奥多摩駅の近くで金物屋をやっているが元はダム湖に沈む前の小河内村
に曾お爺さんの代から住んでいたとまるで湖のそこに沈んだ村が桃源郷だった
ように饒舌に語りだした。秋になると山が色づき、稲刈りの後の祭りは美しか
ったと云う。そして鶴の湯という温泉場があって湯治客で賑わっていたという。
しかしその輝く光景もその男が知る筈もなくお婆ちゃんからの伝聞だった。
神社の鳥居の下で軽トラとサーブの二台の車を停めて、暗い参道を率先して
登りだしながら声だかにしゃべる中島の話ぶりから後をついて歩いていた春
や健太は、この中島という男がおばあちゃん子であるのがわかった。
それは特に春には、奥多摩に迷い込んだハルおばちゃまのことを少し詳しく
話してから急に中島なる男の態度が変わったことでもこの人は、私と同類項
の情緒を持っていると確信した。ただ上田祐二だけは、そんな中島論に無頓着
で根っからの都会育ちの性質から早くこんな暗い山の中から抜け出して明るい
青山辺りのカフェバーで冷たいオンザロックを飲みたいという気持ちで正直
いっぱいだった。
それは、ちょうど喉の渇いたのを我慢して散歩に付き合う飼い犬のように帰って
からのおやつと水皿だけを希望にテクテクと歩くのに似て、祐二もハルさん
ミッション後のバーでのゆったりソファと冷たい氷に絡まったアルコールとを
ただひたすら心の拠り所に春の後をつきあって歩いていた。
小河内神社の社まで来た。しかしそこには、ハルさんの姿はなく、夜の水辺を
背にしーんと静まり返っていた。中島がサーチライトを境内をぐるりと照らした。
「誰もいないようだね。」
「ハルおばちゃまー!」
春が名前を呼んだ。
下の軽トラの荷台に積まれた2匹の犬がか細く鳴いて応えた。
「ハルさーん!」
祐二が次に呼んだ。
犬の遠吠えが消え、木立の葉のざわめきが聞こえて来た。
「バカ。だから動くなって言ったんだ。だから年寄りはきらいだよ。」
健太は腹の底から大きな声で言った。
「いくら病気だからって自分のしてることでどんだけ迷惑かけてるか、わかん
ねえのかよ。あの息子さん夫婦の気持ちがよくわかったよ。本当によ。」
「そんな迷惑だったら私ひとりで捜します。」
春がそう言うと神社の後の森へ走り出した。
「ああ。危い。そっちは湖への崖になっているだけですよ。」
中島がライトをかざしながら春を捕まえて木立の間を照らして、ほら何もないでしょ。
ここにいたら返事できますから、と納得させるように裏を偵察して正面へ帰ってきた。
「わるかったよ。春ちゃん。」
健太が迎えて目を合わせずぽつりと云うとペンライトで境内を照らして歩き出した。
「ハルおばちゃまって、本当にここにいたのかな?」
社の階段に座り込んで祐二が本音を云った。
「何、全然別のとこにいて奥多摩にいるみたいに思って電話してたってこと?」
参道の暗がりからペンライトの一点になった健太が聞いてきた。
「そこまでボケてないでしょ。おばちゃま。」
春がもう一度ハルさんのケイタイにアクセスしてみた。
「おばちゃまは近くにいる。きっと・・・」とケイタイを耳に押し当てた。
すると闇の中でケイタイの発信音が響いた。トロイメライの着メロ。
「ハルおばちゃま!」
春が叫んだ。
「どこだ。」
中島、祐二と耳を済ませた。
「ここだ。」
健太が狛犬の陰から声をあげた。
春、祐二と中島のサーチライトを頼りに健太のところまで駆け寄った。
健太は、ペンライトを狛犬の石塔の足元に向けていた。
そこには、ケイタイが転がっていて瀕死の着信ランプが点滅してすぐに消えた。
闇夜に響き渡ったトロイメライがプツンと空爆にあったコンサート会場のように
深い沈黙に演奏が閉ざされた。
春は、そのケイタイを手にとった。
「もう完全に電池がなくなった。」
「いたんだ。あのおばちゃま。」
祐二が春からケイタイを受け取り、しみじみと言った。
「こっちにも何か・・・」
中島がライトを赤々と地面へ照らした。
「ああ。おばちゃまのバッグ。」
春は、掠れた声を出した。
そこにあったのは、引き裂かれた西陣織のバックだった。
中身はなく、三つに裂けていた。
「犬だな。」
健太がバッグを覗きこんでしっかりとした口調で云った。
「野犬かもしれない。」
と中島がやはり覗き込んで云った。
「ハルさーん。」
春はもう一度奥多摩湖の方へ叫んだ。
「一匹じゃないぞ。こりゃ。」
健太は、狛犬のまわりと社の土台とペンライトを照らしながら説明した。
「犬の小便の跡がある。それもあっちこっちに。少なくとも五六匹はいた。しかも
ついさっき。みんなまだ新しい。」
「ハルさーん。ハルおばちゃまー。」
春はますます大きな声を出した。
風が湖の水面を渡った。
そしてザブンと何かが水に落ちる音がした。
「何?」
祐二が言うと春が健太の手をとった。
「あれ。ドラム缶橋の方だ。」
中島が緊張した声で呟いた。