地球岬 作者大隅 充
1
走る特急列車スーパーカムイのトイレで何度
も赤く染まった左手の甲をゴシゴシ洗ってもオ
ヤジの血は落ちなかった。
いつも酒臭いオヤジが大嫌いだった。あのサ
ロベツのボロ家で高速道路で車に撥ねられて雪
の吹き溜まりの側溝で動かなくなったエゾジカ
みたいにオヤジが畳に倒れたときオレは計り知
れない開放感を感じた。
そしてこれでオレは今度こそこんな忌まわしい
世界からおさらばできると実感した。
オレは二十歳をとっくに過ぎて三年も生き延び
ている。高校を中退したとき、はっきりと二十
歳までは生きてないとオヤジに宣言したはずだ
った。
しかしオレは生きている。ちょうど灰色の嫌に
なるほど厚い雲に覆われた今日の空のようにオ
レは、うっとしくてウザいカスの恥をさらして
誰からも疎まれている。列車がトンネルに入っ
たとき車窓に映った自分の痩せた顔を見る度、
その嫌悪感が頭蓋骨の裏に張り付いて離れなく
なった。
石見沢駅から室蘭本線に乗り換えようとしたら
ちょうど乗客の少ない車両に乗務員が切符を切り
に来たのでキセルで乗っているのがバレて身元を
調べられてはたまらない。すぐ様駅のホームの先
頭から飛び降りて鉄線の柵を抜けて駅前商店街へ
走って出た。
バス通りをどんどん早足に歩いて、オレはどこに
行こうとしているのだろう。
とにかく一昨日から歯を磨いていないので口の中
が気持ち悪い。グリーン車のダッシュボードから
食べ残しのカニ弁当を拾って食べたときに一緒に
入っていた楊枝でシーシーやったが親知らずの虫
歯に引っかかったカニの身が未だに取れない。
そして商店街のひとつ裏通りで見つけた公園の水
飲み場で水道の蛇口にかぶりついて嗽をしてやっ
とそのカニ野郎が取れた。オレは2日前の夕方家
を出てから、美深で野宿をして宗谷本線に飛び乗
り、旭川駅で雑魚寝するまで正真正銘の独りにな
った喜びで体中の血がラッパーのリズムみたいに
駆け巡って調子よかった。それが旭川駅の朝。
特急に忍び込んで以来身なりのいい観光客に混じ
って窓辺の席にいると、厚い冬雲の間から覗くや
さしい太陽が赤くオレのボサボサの頭を照らし始
めたあたりから妙な淋しさがオレの小さな体をま
るごとすっぽり包んだ。
オレはこの独りきりの2日間の喜びと淋しさでい
っぱいだった。だからこの公園の水道の水が親知
らずの虫歯に凍みてすっかり目が覚めるまで自分
の身の回りのことに無頓着だった。
節水と書かれた水道の栓を戻して水を止めると
カラスの鳴声と表通りの車のエンジン音が耳に入
って来て、久しぶりの日常と対面した。オレは今
にも雪が降りそうな灰色の雲と空を見上げた。
するとどこかから犬の鳴声がしているのに気づい
た。耳を澄まして声の方向を辿って行くと足元に
置いたグレーの鞄からだった。
そう。マディソン・スクウェアと書かれたバッグ。
とりあえず押し入れにあったオヤジの古い鞄で着
替えとipodを入れて持ってきたものだった。
そういえば駅のホームを飛び降りたとき、鞄がガ
サゴソ動いていたように思ったが必死だったので
この公園に来るまで気づかなかった。
オレは、恐る恐る鞄のチャックを開いてみた。
鳴き声ははっきりこの世界にあらわれてワンワン
ワンと激しい威嚇吠えとともに丸っこい仔犬の顔
がぴょこんと出てきた。
なんだ。こりゃ。マジックか。
急いで鞄から仔犬を出すと中身を確かめてみたが
自分のものは何一つなく、バスタオルが底に敷か
れているだけだった。
そしてその丸々とした茶色の犬は、公園の霜柱だ
らけの地面に着地するとベンチのある広場まで走
っておしっこをすると又水呑み場のオレの足元へ
やってきてペチャペチャと排水溝に溜まった水を
飲みだした。
どこでこの鞄が入れ替わったんだ。
たしか特急列車スーパーカムイが岩見沢に着くま
でオレはipodを聞いていた。そして乗務員が
車内へ入ってきたとき急いでipodを鞄に仕舞いこ
んだ。その時まではこのマディソンバッグはオレ
のものだった。
特急列車を降りたところから落ち着いて記憶を辿
ってみよう。
どこで間違ったのか・・・・
ああ!あのとき。特急列車の閉まりかけのドアか
らホームへ飛び出した。ちょうど売店があり、小
学生の男の子とぶつかった。その子供は売店の新
聞立てに転んで悲鳴をあげたがこっちは、列車の
車内を追いかけてきた乗務員がホームの係員へ連
絡して押し寄せて来るような妄想に頭がいっぱい
で、そんな小学生のことなんか構っている訳にも
いかず転がったマディソン・バッグを拾ってホー
ムの先頭まで走って飛び降りた。
あのとき。バッグを離したのは、あのときだけ。
だとするとのこバッグはあの子の・・・
クンクンクン。仔犬がオレの足にすがり付いてき
た。足ではらったがやっぱりすがり付いてくる。
クンクンクンクンクン・・・
何だ。おまえは?
* * *
「その犬はチャータといいます。」
駅の落し物係に少年が答えた。
「僕は、風見駿といいます。清水沢小学校5年生
です。はい。夕張です。」
どん曇りのせいで早めに暗くなった。まだ3時な
のに駅舎の室内に一斉に電気がついた。
小学生の駿は、今にも泣き出しそうに落し物届書
にサインした。
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走る特急列車スーパーカムイのトイレで何度
も赤く染まった左手の甲をゴシゴシ洗ってもオ
ヤジの血は落ちなかった。
いつも酒臭いオヤジが大嫌いだった。あのサ
ロベツのボロ家で高速道路で車に撥ねられて雪
の吹き溜まりの側溝で動かなくなったエゾジカ
みたいにオヤジが畳に倒れたときオレは計り知
れない開放感を感じた。
そしてこれでオレは今度こそこんな忌まわしい
世界からおさらばできると実感した。
オレは二十歳をとっくに過ぎて三年も生き延び
ている。高校を中退したとき、はっきりと二十
歳までは生きてないとオヤジに宣言したはずだ
った。
しかしオレは生きている。ちょうど灰色の嫌に
なるほど厚い雲に覆われた今日の空のようにオ
レは、うっとしくてウザいカスの恥をさらして
誰からも疎まれている。列車がトンネルに入っ
たとき車窓に映った自分の痩せた顔を見る度、
その嫌悪感が頭蓋骨の裏に張り付いて離れなく
なった。
石見沢駅から室蘭本線に乗り換えようとしたら
ちょうど乗客の少ない車両に乗務員が切符を切り
に来たのでキセルで乗っているのがバレて身元を
調べられてはたまらない。すぐ様駅のホームの先
頭から飛び降りて鉄線の柵を抜けて駅前商店街へ
走って出た。
バス通りをどんどん早足に歩いて、オレはどこに
行こうとしているのだろう。
とにかく一昨日から歯を磨いていないので口の中
が気持ち悪い。グリーン車のダッシュボードから
食べ残しのカニ弁当を拾って食べたときに一緒に
入っていた楊枝でシーシーやったが親知らずの虫
歯に引っかかったカニの身が未だに取れない。
そして商店街のひとつ裏通りで見つけた公園の水
飲み場で水道の蛇口にかぶりついて嗽をしてやっ
とそのカニ野郎が取れた。オレは2日前の夕方家
を出てから、美深で野宿をして宗谷本線に飛び乗
り、旭川駅で雑魚寝するまで正真正銘の独りにな
った喜びで体中の血がラッパーのリズムみたいに
駆け巡って調子よかった。それが旭川駅の朝。
特急に忍び込んで以来身なりのいい観光客に混じ
って窓辺の席にいると、厚い冬雲の間から覗くや
さしい太陽が赤くオレのボサボサの頭を照らし始
めたあたりから妙な淋しさがオレの小さな体をま
るごとすっぽり包んだ。
オレはこの独りきりの2日間の喜びと淋しさでい
っぱいだった。だからこの公園の水道の水が親知
らずの虫歯に凍みてすっかり目が覚めるまで自分
の身の回りのことに無頓着だった。
節水と書かれた水道の栓を戻して水を止めると
カラスの鳴声と表通りの車のエンジン音が耳に入
って来て、久しぶりの日常と対面した。オレは今
にも雪が降りそうな灰色の雲と空を見上げた。
するとどこかから犬の鳴声がしているのに気づい
た。耳を澄まして声の方向を辿って行くと足元に
置いたグレーの鞄からだった。
そう。マディソン・スクウェアと書かれたバッグ。
とりあえず押し入れにあったオヤジの古い鞄で着
替えとipodを入れて持ってきたものだった。
そういえば駅のホームを飛び降りたとき、鞄がガ
サゴソ動いていたように思ったが必死だったので
この公園に来るまで気づかなかった。
オレは、恐る恐る鞄のチャックを開いてみた。
鳴き声ははっきりこの世界にあらわれてワンワン
ワンと激しい威嚇吠えとともに丸っこい仔犬の顔
がぴょこんと出てきた。
なんだ。こりゃ。マジックか。
急いで鞄から仔犬を出すと中身を確かめてみたが
自分のものは何一つなく、バスタオルが底に敷か
れているだけだった。
そしてその丸々とした茶色の犬は、公園の霜柱だ
らけの地面に着地するとベンチのある広場まで走
っておしっこをすると又水呑み場のオレの足元へ
やってきてペチャペチャと排水溝に溜まった水を
飲みだした。
どこでこの鞄が入れ替わったんだ。
たしか特急列車スーパーカムイが岩見沢に着くま
でオレはipodを聞いていた。そして乗務員が
車内へ入ってきたとき急いでipodを鞄に仕舞いこ
んだ。その時まではこのマディソンバッグはオレ
のものだった。
特急列車を降りたところから落ち着いて記憶を辿
ってみよう。
どこで間違ったのか・・・・
ああ!あのとき。特急列車の閉まりかけのドアか
らホームへ飛び出した。ちょうど売店があり、小
学生の男の子とぶつかった。その子供は売店の新
聞立てに転んで悲鳴をあげたがこっちは、列車の
車内を追いかけてきた乗務員がホームの係員へ連
絡して押し寄せて来るような妄想に頭がいっぱい
で、そんな小学生のことなんか構っている訳にも
いかず転がったマディソン・バッグを拾ってホー
ムの先頭まで走って飛び降りた。
あのとき。バッグを離したのは、あのときだけ。
だとするとのこバッグはあの子の・・・
クンクンクン。仔犬がオレの足にすがり付いてき
た。足ではらったがやっぱりすがり付いてくる。
クンクンクンクンクン・・・
何だ。おまえは?
* * *
「その犬はチャータといいます。」
駅の落し物係に少年が答えた。
「僕は、風見駿といいます。清水沢小学校5年生
です。はい。夕張です。」
どん曇りのせいで早めに暗くなった。まだ3時な
のに駅舎の室内に一斉に電気がついた。
小学生の駿は、今にも泣き出しそうに落し物届書
にサインした。