リオネル・メッシ
登録日:2010/04/08 (木) 21:14:55
更新日:2021/04/18 Sun 09:32:09
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リオネル・メッシ(Lionel Andrés Messi Cuccittini)とは、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するプロサッカー選手である。
アルゼンチン出身の1987年生まれ。
ポジションはCFやWGなど、攻撃的な位置ならどこでも機能する。
愛称は『レオ』、『プルガ(スペイン語でノミ)』。
サッカー界に突如現れた未だに進化し続ける天才。いや、もはや天才という言葉では到底表現出来ない。安易な表現だが、彼はもはや神だ。
そういっても過言ではないだろう。
正にサッカーをするために生まれてきた男である。
この偉大なプレイヤーをリアルタイムで見ることが出来ることに私達は感謝しなければならない。
●クラブでの活躍
17歳の時トップチームでデビューを果たす。
観る者を引き付けるプレーで、目の肥えた地元のファンの心をガッチリとつかんだ。
そしてそのシーズンで、17歳10ヶ月7日という当時のバルセロナにおいて最年少ゴールを決める。
(その後この記録はボージャン・クルキッチが17歳51日で達成し、破られているが、その時のアシストはメッシ本人)
その後も世界最優秀若手選手、リーガエスパニョーラ最優秀外国人選手等のタイトルを獲得し、着実にステップアップする。
そして08-09シーズンでは、FCバルセロナ史上最強と言われたチームの主軸として活躍。
見事チームは史上初の5冠を達成し、メッシはそれに大きく貢献した。
自身もCL得点王、バロンドール、FIFA世界最優秀選手等のタイトルを獲得。
クラブと自身のタイトルを合わせると16個のタイトルを総なめにする。
09-10シーズンは怪物クリスティアーノ・ロナウドと並ぶリーガ最高34得点を記録、これはほぼ1試合1得点という驚異的なペースである。
この活躍からシャビ、イニエスタを抑え2年連続バロンドール授賞となった。
……そして、何よりメッシを生ける伝説たらしめているのはその継続性。
08-09から19-20シーズンまで12シーズン連続リーガ20得点*1という前人未到の記録を築いており、
11-12シーズンに至っては50得点という、リーガどころか欧州全リーグの歴代最大得点記録を叩き出した。
そのうえアシストも常に10を超え、20を上回ることもザラ、30アシストを達成したことすらある。
バロンドール受賞はすでに6回。その間、2位にもつけていなかったのは2018年ただ1回である。
サッカーの歴史において数多にいる伝説的なストライカーにおいても、彼のように一度トップレベルに至ってから10年以上にわたってキャリアに一切の陰りがない者は極めて稀。
もっとも、同じ時代に生まれ2008年からバロンドールの座を2人でほぼ全て分け合っているクリスティアーノ・ロナウドという絶対的ライバルの存在は無視できないところではあるが、一人の選手のキャリアとして彼を超えるということは、未来永劫にわたって困難を窮めることであろう。
(その期間内の例外は、2018年にルカ・モドリッチに与えられた1つだけである)
●代表での活躍
メッシの代表デビューは、意外にも「開始40秒でレッドカードでの一発退場」と、涙のほろ苦いデビューとなっている。
2006年のワールドカップには、18歳で出場しいきなり1ゴール1アシストを記録するという離れ技をやってのけ、この活躍でその名は世界中に広まった。
しかしマラドーナ監督指揮下のA代表では真価を発揮できず、得点王最有力候補として期待され挑んだ2010年南アフリカワールドカップではまさかの無得点。
アルゼンチン代表も準々決勝でドイツの組織力に手も足も出ずに不本意な結果に終わった。
主将として臨んだ2014年のワールドカップではグループリーグで4得点を挙げ前回の不本意な結果を晴らす活躍。その後もチームの攻撃を担い続けたが、決勝でドイツに敗れ優勝ならず。大会MVPを受賞したが、トロフィーを逃した悔しさは隠せなかった。
コパ・アメリカ2015でも決勝進出するも、PK戦の末チリに破れまたも準優勝に終わった。
予選敗退すら危惧された2018年のワールドカップではメッシ自身はゴール・アシスト共に記録するもベスト16止まり。
クラブにおける輝かしいキャリアとは裏腹に、代表選手として一切のタイトルに恵まれていないこともメッシを語るうえで欠かせない事柄である。
なおユース大会での活躍は凄まじく、FIFAワールドユース選手権大会、北京オリンピックのタイトル獲得に大きく貢献している。ワールドユースでは得点王・MVPも受賞している。
●プレースタイル
ポジションは、セカンドトップや右WG。
169cmと小柄ではあるが決してフィジカルが弱い訳ではなく、筋肉質で体幹が強いため当たりにも強い。
そして特筆すべき点は、なんと言ってもドリブルだろう。
バルセロナでは、プレッシャーがかからない右サイドでボールを受けると、その後の選択は殆どゴール方向に向けてドリブル開始である。
彼はドリブル時には殆ど左足でプレーしストライドが短いため、それを生かした加速力・スピードには目を見張るものがある。
限られたスペースの中での速さはトップレベル。
ゴールに向かって走るそのスピードはディエゴ・マラドーナをして「6速目のギア」といわしめるほど。
体の使い方が上手く、また非常に高度な足元のセンシビリティーを駆使した華麗なボールタッチによって、流れるようなドリブルを得意とする。
その能力ゆえに、一般的なドリブラーが多用するような複雑なフェイントはほとんど用いず、単純な動作のみで相手を翻弄できる。
ドリブルで何人でも抜いてしまえる一方でパサーとしても天才的で、低い位置での組み立てや相手の裏を斯く決定的なパスも持ち味。
得点感覚、シュートセンスも並大抵では無く、シュートは右足で打っても遜色ない威力・技術を持つ。
要はドリブルもパスもシュートも最高峰である。
メンタルも強靭であり、エル・クラシコ、CL決勝でゴールを決めている。
ただし、PKだけはなぜかあまり得意ではない(成功率は人並みなのだが、これだけの能力を持ちながらなぜか人並み止まり)。
必然として絶対的なエースとして君臨し、彼のいる場所は良くも悪くも「メッシ中心の戦術」と評される。
とはいえ周囲を活かす能力も含めてのメッシであるため、「メッシ中心の戦術」には実際のところチームメイトとの折り合いも含まれる。
配置上はCFだが一列下がってゲームメイクし破壊力のあるWGを切り込ませる偽9番、CFには純正9番を据えつつ自由を担保させた右WG、とバルサ内でもその役割は度々変化しており、
「メッシの真の適正ポジションはどこか」「別のポジションを任せるべきではないか」という話題はいつまで経っても尽きない。
●バルセロナとの蜜月の関係
幼い頃からその才能を見出だされ、名門クラブの下部組織でプロを目指しながらプレイしていたメッシだが、11歳の彼に突如問題が降りかかる。
成長ホルモンの分泌障害が確認され、「このままでは身長が150cmぐらいまでしか伸びない」と言われてしまうのだ。
その後3年半毎晩太ももにホルモン注射を打ち続けてなんとか病を克服するものの、彼の身長が169センチと低めなのはこの病のためと思われる。
その当時、クラブ側はいくら逸材とはいえ "一ユース選手" でしかない彼を特別扱いするかどうか決めかねており、
またメッシの両親にも、月10万円と高額な治療費は支払い続ける経済的余裕は無かった。
メッシは、岐路に立たされていた。
そんな彼が13歳の頃、彼に目をつけたのがスペイン屈指の名門、バルセロナである。
バルセロナ側は、治療費の全額負担、家族のスペインでの職・住居の補償という破格の待遇と引き換えに彼を獲得。マシアと呼ばれる下部組織で彼を育て上げた。
当時のユース監督カルロス・レシャックは、彼の最初のボールタッチでかなりのレベルの選手だと判断し、プレーを30秒見て獲得を決断する。
監督は「紙ナプキンでもなんでもいいから直ぐ契約書を作れ」と指示。
そして紙ナプキンを差し出し、メッシに「契約書にサインしてくれ」と言った。
メッシがサインすると、彼はこう言ったという。
「君は、バルセロナの選手だ」
このエピソードからか、メッシはバルセロナに対して大変な恩義を感じており、ユニフォームを着るならバルセロナかアルゼンチン代表しか無いと語っている。
――――が。
●バルサ退団騒動
2014年にジョゼップ・マリア・バルトメウ会長が就任して以降のフロントの迷走に次ぐ迷走、
にもかかわらず「自分たちに非はない、現場の問題である」という態度を崩さないフロント。
2020年、メッシ33歳。未だに正真正銘の衰え知らずながらも、クラブのためにも「引き際」を視野に入れざるを得ない年齢。
そして19-20UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝、この後CLを制するバイエルンに2-8の歴史的惨敗。
世代交代を打ち出す新監督ロナルド・クーマンが多くのベテランをあっけなく切り捨て、
そこにはバルサが誇るもう一人のエースストライカーでありメッシの「相棒」であり「親友」の、ルイス・スアレスも含まれた。
さらにはフロントが民間企業と結託し、選手のネガティブキャンペーンやフロント擁護論を広めるネット工作を行っていたことまで報じられる始末。
メッシもさすがにキレた。
19-20シーズン終了直後、ついに退団希望を書面で正式に通達する事態へと発展してしまう。
もっとも、バルサとの契約はあと1シーズン残っていた。
しかしメッシにはその偉大さに敬意を払い、本人の希望があれば一方的に契約を中途解消できる権利が与えられていたのだ。
……のだが、この契約は「6月10日まで」という期日があり、この時はとっくに8月だった。
19-20シーズンが正常に進行できなかったのが原因である。要は「シーズン終了直後くらいには言ってね」という期間指定なのが、シーズン終了が後ろ倒しになったので頓珍漢な指定になってしまったのだ。
なので特例として適用が認められるべきであるとメッシ側は主張するが、バルサ側も当然却下。
蜜月の関係を象徴するはずの契約条項が、その亀裂を証明してしまった。
ただでさえ世界一のフットボーラーに相応しい年俸を有するメッシに移籍金まで設定されていては、潤沢な資金源を持つメガクラブでもさすがに手が出ない。
下手をすれば移籍ではなく退団、あるいはボイコットにより、
メッシがお家騒動で貴重な1年を棒に振るという全世界のサッカーファンにとっての最悪の事態すら危惧されたが、
結局、「愛するバルサと法廷で争いたくはない」と残留を選択。
少なくとも残りの1シーズンをバルサで過ごすこととなった。
後にこの騒動を「最悪の時期だった」と語り、20-21シーズン序盤はクラブ共々不調(メッシ基準)が目立つも
十分に割り切ることはできたようで、予定通り若手が台頭し、苦闘しながらも希望の見える新生バルサの中でしっかりと活躍(2月現在)。
ただし、いずれにせよバルサとの契約はこのシーズンで満了となるため、去就については大いに注目を集めることとなっている。
さらにー。
メッシが衝撃的な行動をしてしまう。
20ー21シーズンのスーペルコパ。バルセロナは前半40分にフランス代表FWアントワーヌ・グリーズマンのゴールで先制したが、直後に失点して試合は振り出しに。後半32分にグリーズマンのこの日2点目のゴールで再びリードを奪うも、タイムアップ目前に同点弾を決められ、延長戦にもつれ込んだ。そして、延長前半3分に勝ち越し点を奪われて追う形に。延長後半アディショナルタイム。1点ビハインドのバルセロナは敵陣内で攻撃を仕掛けるなか、ビルバオFWアシエル・ビジャリブレから激しいチャージを受けてヒートアップしたメッシは、行く手を阻む相手の後頭部を目掛けて右腕を振り回し、こパンチで殴り倒すような格好になった。
結局、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の介入でビデオ確認を経て、ヘスス・ヒル・マンザーノ主審はメッシを一発退場処分。メッシは過去に、アルゼンチン代表で2005年8月17日(ハンガリー戦)、19年7月6日(チリ戦)と2度の退場処分を受けているが、バルセロナでの公式戦では753試合目にして初めてのレッドカードとなった。
●マラドーナ2世として
アルゼンチンの若手有力選手は、ドリブルやパスのスキルが高いとすぐ"マラドーナ2世"としてもてはやされ、
幾多の才能ある選手が、その通り名のプレッシャーに押し潰され、埋もれていった。
しかしその名を背負いつつもプレッシャーに見事打ち勝ち、乗り越えたのがメッシである。
小柄な体躯、左足一本のドリブル、マラドーナとそっくりな道筋を辿った5人抜き、神の手ゴール…
彼以上に「マラドーナ2世」として相応しい者はおらず、マラドーナからも直々に認められた。
むしろ前述の実績を鑑みれば、もはやマラドーナを超えたと言っても過言ではないであろう。
しかしアルゼンチンは、これで新たに「メッシ2世」の呪縛に捕らわれそうだ。
●その他
何故か日本語版のオフィシャルブログがスペイン語版より早く開設された。
現在は残念ながら終了している。
2011年6月17日にアルゼンチンで乱交パーティーを開催したのがバレる。
参加者はミリート兄弟、パレルモなど。
2011年、元チームメイトのボージャン・ケルキッチとは遠い親戚関係にあることが判明した。
メッシのルーツはスペインのカタルーニャ州にあり、曽祖父がボージャンの曽祖父と兄弟だったとのこと。
前者の孫娘がアルゼンチンへと渡ったことから、国籍が明確に枝分かれしたようだ。*2
Leo
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最終更新:2021年04月18日 09:32
*1 実際のところ、20点台より30点以上の方がずっと多い
*2 https://www.goal.com/jp/news/124/%E5%8D%97%E7%B1%B3/2011/10/14/2710350/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B7%E3%81%A8%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%81%AF%E8%A6%AA%E6%88%9A%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
サッカーイングランド代表
登録日:2017/03/24 Fri 01:41:46
更新日:2021/03/13 Sat 09:46:34
所要時間:約 21 分で読めます
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サッカーイングランド代表は、イギリスのイングランド地方を統括するサッカー組織「フットボール・アソシエーション」が組織するサッカーのナショナルチームである。
愛称は「スリーライオンズ」、本拠地はロンドン郊外に建つ「サッカーの聖地」ことウェンブリー・スタジアム。
概要
近代フットボール発祥の地であるイングランドの代表チームだけあってその歴史は古く、1870年からスコットランド代表と非公式ながら初の国際試合を含め5試合ほど戦った。1872年11月30日、同じくスコットランドを相手に世界初の公式国際試合が実施された。
後述するような数多くの名選手を輩出し、世界的にも強豪国の1つとして認識されている…はずなのだが、大舞台での戦績は今一歩である。W杯およびEUROでのベスト4以上は1966W杯優勝(母国開催)、1968年EURO3位、1990年・2018年W杯4位のみで、W杯の優勝経験がありながら大陸別選手権*1の優勝経験がない唯一の国である。
近年特に指摘されているのがPK戦での弱さで、詳しくは後述するがW杯とEUROのトーナメントでPK戦による決着が導入されてから2勝6敗と大きく負け越している。
このような苦戦の原因としてプレミアリーグに外国人選手が多く自国の選手が育ちにくくなっていることや、過密日程が選手の疲労や試合レベルの低下を招いていることを挙げる声がある。
あとは食べている物の差でもあるのだろうか
2012年、ナショナルフットボールセンターのセント・ジョージズ・パークが開設されたが、こういった改革がイングランド代表の実績にどんな影響を及ぼすかは今後明らかになっていくことだろう。
ちなみに長い歴史があれどあくまで「英国の一地方のチーム」なため、オリンピックには縁がない。
一応2012年ロンドンオリンピック時等では他地方代表(スコットランド・ウェールズ・北アイルランド)と合わせた「イギリス代表チーム」が結成されたりもしたが、
ロンドンの時には諸事情により男子はイングランド・ウェールズ連合チーム、女子はイングランド・スコットランド連合チームとなり北アイルランドは不参加となってしまい、リオデジャネイロではイングランドから提案したらディスられ断念したという。
EURO1996
本大会は母国開催ということで躍進が期待された。
スイスと引き分けたのちスコットランドとオランダに連勝しグループAを1位通過。
準々決勝ではスペインにPK戦で勝利(!)したが、続く準決勝ではPK戦に敗れた。
相手はPK戦が比較的得意で、かつ最終的に優勝を果たすドイツであったので少々致し方なかった所もある。
1998年W杯
グループGではチュニジアに勝ち、シード国のルーマニアに敗れたが、コロンビアに勝ったことで2位通過。
決勝トーナメント初戦の相手はアルゼンチン。2-2で迎えた後半開始早々に事件が起きる。デビッド・ベッカムがディエゴ・シメオネのタックルを受けて倒されたのだが、ベッカムは倒れたままシメオネの足を引っかけ転倒させるという報復行為に出てしまい、結果ベッカムは一発退場となる。後半と延長戦を10人で凌いだイングランドであったが、苦手のPK戦で敗れた。
この敗退を受けて非難の矛先は主にベッカムに向けられ、デイリー・ミラー紙は"10 heroic lions, one stupid boy"と断罪するなど、以降彼は2年以上に亘って批判され続けることとなった。
EURO2000
グループAに配属。
ポルトガル戦では2点を奪った後3失点するという形で逆転負け。続くドイツ戦では1-0で勝ち前回大会のリベンジを果たすものの、ルーマニア戦では先制された後2点を奪って逆転するものの、そこから2失点し再逆転され勝ち点3・グループ3位で敗退となった。
ベッカムがポルトガル戦の2点を演出しながらも浴びせられる批判が最高潮に達したのがこの時期であった。
2002年W杯
アルゼンチン・ナイジェリア・スウェーデンと同じグループFに入った。
強豪が多い死の組への加入となったが、アルゼンチンに勝利し残り2チームに引き分けたことで、スウェーデンに続く2位通過を果たした。
アルゼンチン戦では本大会で主将を務めたベッカムがシメオネと和解、試合ではベッカムが決めたPKが決勝点となり、ベッカムは予選での活躍と併せて4年前の汚名を返上した。
決勝トーナメントでは初戦でデンマークに3-0と完勝するものの、続く準々決勝でブラジルに逆転負けしベスト8という成績で敗退。とはいえ相手は最終的に優勝を果たすチームであり、近年の敗れ方ではマシな方と言えるかもしれない。
EURO2004
グループBでフランス・スイス・クロアチアと同居。
フランス戦ではベッカムのPK失敗もあって1-2で敗れるが、残り2戦に連勝して2位通過。
決勝トーナメント初戦(準々決勝)の相手はポルトガル。開始早々先制するものの前半のうちに若手ルーニーが負傷交代を強いられ、後半に追いつかれる。延長戦ではソル・キャンベルのゴールが認められないという出来事もあり、更に勝ち越し点を決められるが、その5分後にランパードが同点ゴールを決め、試合はPK戦へと突入した。そのPK戦で1番手のベッカムがフランス戦に続き失敗、5-6で再びPKで苦杯をなめる結果となった。
2006年W杯
グループBではやや苦しみながらもパラグアイとトリニダード・トバゴに連勝し早々にグループ突破を決め、スウェーデンと2-2のドロー。
スウェーデン戦でオーウェンを負傷で欠いたせいか決勝トーナメント初戦ではエクアドルにやや苦戦するものの、ベッカムのFKで挙げた1点を守り切り勝利した。
準々決勝の相手はポルトガル、EURO2004に続く対決である。マンチェスター・ユナイテッドで攻撃の核を担う若手であるルーニーとC・ロナウドが対決するという構図となった。
前半はスコアが動かず。後半早くにベッカムが負傷交代を強いられたのちに事態が急変する。
ルーニーがカルヴァーリョを踏みつけるラフプレーにより一発退場。カードが提示される前にC・ロナウドが主審に激しく抗議し、ルーニー退場後には彼がベンチに向かってウインクする姿が目撃されたため、イングランド国内ではC・ロナウドがチームメイトのルーニーを退場に追いやったと解釈された。
試合は10人のイングランドが攻撃を凌ぎ切りPK戦に入るものの、3人のシュートが相手GKリカルドに止められたことでまたもPK戦敗退。特にジェイミー・キャラガーは最初主審のホイッスルの前にボールを蹴ってしまい成功するものの当然認められず、蹴り直しがセーブされてしまった。そしてこのPK戦で唯一成功したオーウェン・ハーグリーヴスがカナダ出身であったため、イングランド人はPKに弱いという説が説得力を増したりもした。
こうして再度PKで敗れてしまった代表であるが、非難の矛先は主にルーニーを退場に追いやったとされたC・ロナウドに向けられた。しかし彼はルーニーに謝罪し和解した模様で、本大会の後レアル・マドリードに移籍するまでの3シーズン、ルーニーと共にマンUのプレミア3連覇や2007-08シーズンUCL優勝の原動力となる。
EURO2008
予選のグループEでクロアチアとロシアの後塵を拝し予選敗退。
アウェーでのクロアチア戦ではDFガリー・ネヴィルのバックパスをGKポール・ロビンソンが空振りしオウンゴールするという出来事もあった。
2010年W杯
堅実な志向を信条とする名将ファビオ・カペッロを監督に迎え、予選では欧州最多の34得点で突破を果たす。
そしてグループCで同居することとなったのはアメリカ・アルジェリア・スロベニア。 サン紙がEngland・Algeria・Slovenia・Yanksの頭文字を取ってEASY、あるいはビートルズ以来最高のグループと表現したように、比較的戦いやすい組に入れて安心という風潮があった。
ところがアメリカ戦ではジェラードのゴール*4で先制するものの、アメリカMFデンプシーのさほど力のないシュートをGKグリーンがキャッチ…したかに見えたがボールはグリーンの手からこぼれ落ちそのままネットを揺らすという形で追いつかれてしまう。続くアルジェリア戦ではスコアレスドローに終わり、スロベニア戦で1-0で勝利して辛うじて2位通過*5を果たすという為体であった。
決勝トーナメント初戦の相手は強豪国のドイツ。とはいえ本大会のドイツは若い選手が多く経験不足であり、更にグループリーグでセルビアに敗れるなど不安要素を抱えていた。しかし試合は前半相手GKノイアーのアシストなどで2点を先制され、その後1点を返したところで事件が起きる。
ランパードのミドルシュートがクロスバーに当たりゴールラインを越えたのだが、これをノイアーがすかさずキャッチしそのままドイツ選手はプレーを続行している。そう、ランパードのゴールが認められないという世紀の大誤審が起きてしまったのである。1966年大会決勝のジェフ・ハーストによる疑惑のゴールと同様の事態が立場を変えて発生したのであった。
これにより前半を1-2で終えることになったイングランドは、後半ミュラーやエジルらドイツの若手選手が紡ぎ上げるカウンター攻撃の餌食となり、1-4で敗れベスト16での敗退が決まった。
EURO2012
グループDでフランスと引き分けたのちスウェーデンとウクライナに連勝して首位通過。
しかし決勝トーナメント初戦でイタリアと対戦、またしてもPK戦で敗れてしまった…。
2014年W杯
ウルグアイ・コスタリカ・イタリアと共にグループDに組み分けされた。
何と優勝経験国3チームが同居する死の組入りであり、国民も過半数がグループリーグ敗退を予想、サン紙も4年前とはうってかわって"LORD HELP US!"とこの事態を嘆いた。
イタリア戦では先制されたのちルーニーの好アシストでダニエル・スターリッジが同点ゴールを決めクネクネダンスを披露するもののバロテッリのヘディングが決まり敗れた。続くウルグアイ戦ではルーニーのW杯初得点となる同点ゴールがあったが、主将ジェラードの僚友であるルイス・スアレスを止められず彼の2ゴールの前に敗れ、コスタリカ戦*6を待たずしてグループリーグ敗退が決まってしまった。
グループDではコスタリカの番狂わせやスアレスの噛みつきといった注目を集めた出来事もあったが、それらとは関係なしにある意味予想通りの敗退となったようである。
EURO2016
ロシア・ウェールズ・スロバキアと共にグループBに組み入れられる。
ロシア戦では後半ATに追いつかれドロー。イングランド代表はEUROでの初戦に勝ったことがなく(本大会も含めると5引き分け4敗)、暗雲が立ち込める結果となる。ウェールズ戦ではガレス・ベイルのフリーキックで先制されるものの、いずれも交代メンバーのジェイミー・ヴァーディとスターリッジがゴールを決めて逆転勝利。スロバキア戦ではスコアレスドローに終わるもののグループ2位となり決勝トーナメント進出を決めた。
そして決勝トーナメント初戦の相手は幸運なことに格下のアイスランド。試合も開始4分でルーニーがPKを決め幸先よく先制…したのだが、その後前半のうちに2点を奪われ逆転され、後半に巻き返すこともできずに試合終了のホイッスル。イングランドは本大会最大の番狂わせの犠牲となってしまった。
そしてこの敗退を受けて、皮肉の得意な国内メディアは代表チームを徹底的に扱き下ろした。
デイリー・メール紙は「いなくなって清々した」、デイリー・エクスプレス紙は「わけがわからない」、デイリー・テレグラフ紙は「イングランド最大の恥辱」と辛辣な言葉を並べ、元イングランド代表FWゲーリー・リネカーはTwitterで「我々の歴史上最悪の敗北。イングランドはプロサッカー選手より火山が多い国に負けた。アイスランドは良いプレーをした」とコメントした。
折しもイギリス国内では国民投票によりEU離脱が決められており、イングランドがEUからもEUROからも離脱することや、デービッド・キャメロン首相とロイ・ホジゾン監督の辞任表明が重なったことを皮肉るジョークが流行した。キャメロン首相の後任に「欧州から撤退する国を率いるのにうってつけの人物」としてホジゾン監督を推すジョークもあった。
2018年W杯
グループGでベルギー・パナマ・チュニジアと同居。
チュニジア戦はハリー・ケインの2ゴールで勝利、初出場のパナマ相手に6-1の大勝。
グループリーグ最終戦のベルギーに敗れ2位通過となるも、結果的に強豪国の少ない楽な山に入ることに成功。
ベスト16のコロンビア戦、後半のPKで先制するも、結局ATに追いつかれ延長戦に。
しかし延長戦でも決着はつかず、試合はPK戦にもつれ込む。
今までPK戦を大の苦手としていたチームであったが……なんと3-4で制したのである!
W杯でPK戦を制したのは初めてのこと。まさに歴史が動いた瞬間である。
この勝利により、「ベスト8に入れば上出来」と言われていたチームは俄然勢いづき、続くスウェーデン戦は2-0で勝利。実に7大会ぶりとなるベスト4進出を決めたのだった。
準決勝クロアチア戦。開始5分でFKを得ると、キーラン・トリッピアーのチーム初シュートが先制点となり、幸先の良いスタートを切る。
さらに相手は2戦連続PK戦を戦い抜いており、体力的にも有利に思われたが……
クロアチアはそこから驚異的な粘りを見せ、後半イヴァン・ペリシッチのゴールで追いつかれ、再び延長戦にもつれ込む。
結局相手エース、マリオ・マンジュキッチに逆転弾を決められ、さらに先制点を挙げたトリッピアーが負傷退場して万事休す。
3位決定戦では再びベルギーに敗れるものの、前評判を考えるとまさに大きな躍進を見せてくれたと言っても過言ではないだろう。
○アシュリー・コール
全盛期は世界最高の左サイドバックとも称された名手。
ユース時代からアーセナルに所属していたが、2006年にライバルのチェルシーへ移籍。両チームでプレミア制覇を経験した他、チェルシーではUCL優勝の美酒も味わった。
代表では2014年までに107試合出場。
○ウェイン・ルーニー
キャリア初期を地元のクラブであるエバートンで過ごしたのち、モイモイFOOTBALL GENIUSモイーズ監督との関係悪化もあって2004-05シーズンにマンチェスター・ユナイテッドへ移籍した。マンUでは歴代通算得点ランクでボビー・チャールトンの記録を抜いて現在1位である。
技術や得点力も高いが、フィジカルや献身性も併せ持っており、マンU入団当初はスタンドプレーに走りがちでボールロストも多かったC・ロナウド*9よりも評価が高かった。後にパフォーマンスを向上させた彼と、元アルゼンチン代表のカルロス・テベスも加えた悪童トリオ攻撃陣の躍動は2007-08シーズンのUCL優勝へと繋がった。マンUでのキャリア晩年は主将も務めた。
2016-17シーズンを最後に退団し、古巣のエバートンに復帰した。エバートン入団後間もなく代表引退を表明したほか、アラン・シアラー以来2人目となるプレミアリーグ通算200ゴールを記録した。
代表デビューは17歳111日と当時の最年少記録であり、現在イングランド代表歴代通算最多得点記録保持者である(こちらもボビー・チャールトンの記録を抜いて1位となった)。
若い頃はラフプレー・暴言・アルコール依存・トイレ以外の場所での放尿などの素行不良でも知られた他、薄毛など容姿をからかわれることも少なくない。
○ジョン・テリー
チェルシーの主将を務めるCBで、闘志あふれるプレーが持ち味である。
2007-08UCL決勝では自身のPK失敗が祟って優勝を逃したが、2011-12UCL決勝でバイエルン・ミュンヘンにPK戦に勝利し優勝を果たした(テリー自身は出場停止であった)。
代表では2003年~2012年に78試合出場。不倫疑惑や人種差別疑惑で主将の地位を剥奪されるという騒動に巻き込まれたこともあった(後者に関しては裁判で無罪が確定している)。
○ピーター・クラウチ
身長203cmを誇る長身FW。2006年W杯および2010年W杯に出場した。
純朴な人柄から国民の人気が高く、ゴールを決めた後にはロボットダンスを披露することがある。
○ジョー・ハート
現在のイングランド代表正GKで、2010年W杯後に代表のレギュラーに定着した。
マンチェスター・シティでは2010年代に入ってレギュラーの座をつかみ、2回のプレミアリーグ制覇などを経験したが、足元の技術に不安があることで新監督のペップことグアルディオラの信頼を得られず、トリノ、ウエストハムにレンタル移籍後、バーンリーに完全移籍した。
○ハリー・ケイン
トッテナムに所属するFW。
2014-15シーズンにリーグ21得点を記録する大ブレイクを果たした。
代表デビューはEURO2016予選のリトアニア戦であるが、ルーニーと交代で入った79秒後に代表初ゴールを記録した。
EURO2016本選ではなぜかコーナーキックのキッカーを任され、このホジソン監督の不可解な采配が批判されたりもした。
登録日:2010/04/08 (木) 21:14:55
更新日:2021/04/18 Sun 09:32:09
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Hola アルゼンチン ウイイレだとチート サッカー サッカー選手 バルセロナ バロンドール ブログ プレステのような男 マラドーナ2世 メッシ メッスィ リアルチート リオネル・メッシ レオ 世界最優秀選手 乱交パーティー 現実でもチート 身長168cm
リオネル・メッシ(Lionel Andrés Messi Cuccittini)とは、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するプロサッカー選手である。
アルゼンチン出身の1987年生まれ。
ポジションはCFやWGなど、攻撃的な位置ならどこでも機能する。
愛称は『レオ』、『プルガ(スペイン語でノミ)』。
サッカー界に突如現れた未だに進化し続ける天才。いや、もはや天才という言葉では到底表現出来ない。安易な表現だが、彼はもはや神だ。
そういっても過言ではないだろう。
正にサッカーをするために生まれてきた男である。
この偉大なプレイヤーをリアルタイムで見ることが出来ることに私達は感謝しなければならない。
●クラブでの活躍
17歳の時トップチームでデビューを果たす。
観る者を引き付けるプレーで、目の肥えた地元のファンの心をガッチリとつかんだ。
そしてそのシーズンで、17歳10ヶ月7日という当時のバルセロナにおいて最年少ゴールを決める。
(その後この記録はボージャン・クルキッチが17歳51日で達成し、破られているが、その時のアシストはメッシ本人)
その後も世界最優秀若手選手、リーガエスパニョーラ最優秀外国人選手等のタイトルを獲得し、着実にステップアップする。
そして08-09シーズンでは、FCバルセロナ史上最強と言われたチームの主軸として活躍。
見事チームは史上初の5冠を達成し、メッシはそれに大きく貢献した。
自身もCL得点王、バロンドール、FIFA世界最優秀選手等のタイトルを獲得。
クラブと自身のタイトルを合わせると16個のタイトルを総なめにする。
09-10シーズンは怪物クリスティアーノ・ロナウドと並ぶリーガ最高34得点を記録、これはほぼ1試合1得点という驚異的なペースである。
この活躍からシャビ、イニエスタを抑え2年連続バロンドール授賞となった。
……そして、何よりメッシを生ける伝説たらしめているのはその継続性。
08-09から19-20シーズンまで12シーズン連続リーガ20得点*1という前人未到の記録を築いており、
11-12シーズンに至っては50得点という、リーガどころか欧州全リーグの歴代最大得点記録を叩き出した。
そのうえアシストも常に10を超え、20を上回ることもザラ、30アシストを達成したことすらある。
バロンドール受賞はすでに6回。その間、2位にもつけていなかったのは2018年ただ1回である。
サッカーの歴史において数多にいる伝説的なストライカーにおいても、彼のように一度トップレベルに至ってから10年以上にわたってキャリアに一切の陰りがない者は極めて稀。
もっとも、同じ時代に生まれ2008年からバロンドールの座を2人でほぼ全て分け合っているクリスティアーノ・ロナウドという絶対的ライバルの存在は無視できないところではあるが、一人の選手のキャリアとして彼を超えるということは、未来永劫にわたって困難を窮めることであろう。
(その期間内の例外は、2018年にルカ・モドリッチに与えられた1つだけである)
●代表での活躍
メッシの代表デビューは、意外にも「開始40秒でレッドカードでの一発退場」と、涙のほろ苦いデビューとなっている。
2006年のワールドカップには、18歳で出場しいきなり1ゴール1アシストを記録するという離れ技をやってのけ、この活躍でその名は世界中に広まった。
しかしマラドーナ監督指揮下のA代表では真価を発揮できず、得点王最有力候補として期待され挑んだ2010年南アフリカワールドカップではまさかの無得点。
アルゼンチン代表も準々決勝でドイツの組織力に手も足も出ずに不本意な結果に終わった。
主将として臨んだ2014年のワールドカップではグループリーグで4得点を挙げ前回の不本意な結果を晴らす活躍。その後もチームの攻撃を担い続けたが、決勝でドイツに敗れ優勝ならず。大会MVPを受賞したが、トロフィーを逃した悔しさは隠せなかった。
コパ・アメリカ2015でも決勝進出するも、PK戦の末チリに破れまたも準優勝に終わった。
予選敗退すら危惧された2018年のワールドカップではメッシ自身はゴール・アシスト共に記録するもベスト16止まり。
クラブにおける輝かしいキャリアとは裏腹に、代表選手として一切のタイトルに恵まれていないこともメッシを語るうえで欠かせない事柄である。
なおユース大会での活躍は凄まじく、FIFAワールドユース選手権大会、北京オリンピックのタイトル獲得に大きく貢献している。ワールドユースでは得点王・MVPも受賞している。
●プレースタイル
ポジションは、セカンドトップや右WG。
169cmと小柄ではあるが決してフィジカルが弱い訳ではなく、筋肉質で体幹が強いため当たりにも強い。
そして特筆すべき点は、なんと言ってもドリブルだろう。
バルセロナでは、プレッシャーがかからない右サイドでボールを受けると、その後の選択は殆どゴール方向に向けてドリブル開始である。
彼はドリブル時には殆ど左足でプレーしストライドが短いため、それを生かした加速力・スピードには目を見張るものがある。
限られたスペースの中での速さはトップレベル。
ゴールに向かって走るそのスピードはディエゴ・マラドーナをして「6速目のギア」といわしめるほど。
体の使い方が上手く、また非常に高度な足元のセンシビリティーを駆使した華麗なボールタッチによって、流れるようなドリブルを得意とする。
その能力ゆえに、一般的なドリブラーが多用するような複雑なフェイントはほとんど用いず、単純な動作のみで相手を翻弄できる。
ドリブルで何人でも抜いてしまえる一方でパサーとしても天才的で、低い位置での組み立てや相手の裏を斯く決定的なパスも持ち味。
得点感覚、シュートセンスも並大抵では無く、シュートは右足で打っても遜色ない威力・技術を持つ。
要はドリブルもパスもシュートも最高峰である。
メンタルも強靭であり、エル・クラシコ、CL決勝でゴールを決めている。
ただし、PKだけはなぜかあまり得意ではない(成功率は人並みなのだが、これだけの能力を持ちながらなぜか人並み止まり)。
必然として絶対的なエースとして君臨し、彼のいる場所は良くも悪くも「メッシ中心の戦術」と評される。
とはいえ周囲を活かす能力も含めてのメッシであるため、「メッシ中心の戦術」には実際のところチームメイトとの折り合いも含まれる。
配置上はCFだが一列下がってゲームメイクし破壊力のあるWGを切り込ませる偽9番、CFには純正9番を据えつつ自由を担保させた右WG、とバルサ内でもその役割は度々変化しており、
「メッシの真の適正ポジションはどこか」「別のポジションを任せるべきではないか」という話題はいつまで経っても尽きない。
●バルセロナとの蜜月の関係
幼い頃からその才能を見出だされ、名門クラブの下部組織でプロを目指しながらプレイしていたメッシだが、11歳の彼に突如問題が降りかかる。
成長ホルモンの分泌障害が確認され、「このままでは身長が150cmぐらいまでしか伸びない」と言われてしまうのだ。
その後3年半毎晩太ももにホルモン注射を打ち続けてなんとか病を克服するものの、彼の身長が169センチと低めなのはこの病のためと思われる。
その当時、クラブ側はいくら逸材とはいえ "一ユース選手" でしかない彼を特別扱いするかどうか決めかねており、
またメッシの両親にも、月10万円と高額な治療費は支払い続ける経済的余裕は無かった。
メッシは、岐路に立たされていた。
そんな彼が13歳の頃、彼に目をつけたのがスペイン屈指の名門、バルセロナである。
バルセロナ側は、治療費の全額負担、家族のスペインでの職・住居の補償という破格の待遇と引き換えに彼を獲得。マシアと呼ばれる下部組織で彼を育て上げた。
当時のユース監督カルロス・レシャックは、彼の最初のボールタッチでかなりのレベルの選手だと判断し、プレーを30秒見て獲得を決断する。
監督は「紙ナプキンでもなんでもいいから直ぐ契約書を作れ」と指示。
そして紙ナプキンを差し出し、メッシに「契約書にサインしてくれ」と言った。
メッシがサインすると、彼はこう言ったという。
「君は、バルセロナの選手だ」
このエピソードからか、メッシはバルセロナに対して大変な恩義を感じており、ユニフォームを着るならバルセロナかアルゼンチン代表しか無いと語っている。
――――が。
●バルサ退団騒動
2014年にジョゼップ・マリア・バルトメウ会長が就任して以降のフロントの迷走に次ぐ迷走、
にもかかわらず「自分たちに非はない、現場の問題である」という態度を崩さないフロント。
2020年、メッシ33歳。未だに正真正銘の衰え知らずながらも、クラブのためにも「引き際」を視野に入れざるを得ない年齢。
そして19-20UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝、この後CLを制するバイエルンに2-8の歴史的惨敗。
世代交代を打ち出す新監督ロナルド・クーマンが多くのベテランをあっけなく切り捨て、
そこにはバルサが誇るもう一人のエースストライカーでありメッシの「相棒」であり「親友」の、ルイス・スアレスも含まれた。
さらにはフロントが民間企業と結託し、選手のネガティブキャンペーンやフロント擁護論を広めるネット工作を行っていたことまで報じられる始末。
メッシもさすがにキレた。
19-20シーズン終了直後、ついに退団希望を書面で正式に通達する事態へと発展してしまう。
もっとも、バルサとの契約はあと1シーズン残っていた。
しかしメッシにはその偉大さに敬意を払い、本人の希望があれば一方的に契約を中途解消できる権利が与えられていたのだ。
……のだが、この契約は「6月10日まで」という期日があり、この時はとっくに8月だった。
19-20シーズンが正常に進行できなかったのが原因である。要は「シーズン終了直後くらいには言ってね」という期間指定なのが、シーズン終了が後ろ倒しになったので頓珍漢な指定になってしまったのだ。
なので特例として適用が認められるべきであるとメッシ側は主張するが、バルサ側も当然却下。
蜜月の関係を象徴するはずの契約条項が、その亀裂を証明してしまった。
ただでさえ世界一のフットボーラーに相応しい年俸を有するメッシに移籍金まで設定されていては、潤沢な資金源を持つメガクラブでもさすがに手が出ない。
下手をすれば移籍ではなく退団、あるいはボイコットにより、
メッシがお家騒動で貴重な1年を棒に振るという全世界のサッカーファンにとっての最悪の事態すら危惧されたが、
結局、「愛するバルサと法廷で争いたくはない」と残留を選択。
少なくとも残りの1シーズンをバルサで過ごすこととなった。
後にこの騒動を「最悪の時期だった」と語り、20-21シーズン序盤はクラブ共々不調(メッシ基準)が目立つも
十分に割り切ることはできたようで、予定通り若手が台頭し、苦闘しながらも希望の見える新生バルサの中でしっかりと活躍(2月現在)。
ただし、いずれにせよバルサとの契約はこのシーズンで満了となるため、去就については大いに注目を集めることとなっている。
さらにー。
メッシが衝撃的な行動をしてしまう。
20ー21シーズンのスーペルコパ。バルセロナは前半40分にフランス代表FWアントワーヌ・グリーズマンのゴールで先制したが、直後に失点して試合は振り出しに。後半32分にグリーズマンのこの日2点目のゴールで再びリードを奪うも、タイムアップ目前に同点弾を決められ、延長戦にもつれ込んだ。そして、延長前半3分に勝ち越し点を奪われて追う形に。延長後半アディショナルタイム。1点ビハインドのバルセロナは敵陣内で攻撃を仕掛けるなか、ビルバオFWアシエル・ビジャリブレから激しいチャージを受けてヒートアップしたメッシは、行く手を阻む相手の後頭部を目掛けて右腕を振り回し、こパンチで殴り倒すような格好になった。
結局、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の介入でビデオ確認を経て、ヘスス・ヒル・マンザーノ主審はメッシを一発退場処分。メッシは過去に、アルゼンチン代表で2005年8月17日(ハンガリー戦)、19年7月6日(チリ戦)と2度の退場処分を受けているが、バルセロナでの公式戦では753試合目にして初めてのレッドカードとなった。
●マラドーナ2世として
アルゼンチンの若手有力選手は、ドリブルやパスのスキルが高いとすぐ"マラドーナ2世"としてもてはやされ、
幾多の才能ある選手が、その通り名のプレッシャーに押し潰され、埋もれていった。
しかしその名を背負いつつもプレッシャーに見事打ち勝ち、乗り越えたのがメッシである。
小柄な体躯、左足一本のドリブル、マラドーナとそっくりな道筋を辿った5人抜き、神の手ゴール…
彼以上に「マラドーナ2世」として相応しい者はおらず、マラドーナからも直々に認められた。
むしろ前述の実績を鑑みれば、もはやマラドーナを超えたと言っても過言ではないであろう。
しかしアルゼンチンは、これで新たに「メッシ2世」の呪縛に捕らわれそうだ。
●その他
何故か日本語版のオフィシャルブログがスペイン語版より早く開設された。
現在は残念ながら終了している。
2011年6月17日にアルゼンチンで乱交パーティーを開催したのがバレる。
参加者はミリート兄弟、パレルモなど。
2011年、元チームメイトのボージャン・ケルキッチとは遠い親戚関係にあることが判明した。
メッシのルーツはスペインのカタルーニャ州にあり、曽祖父がボージャンの曽祖父と兄弟だったとのこと。
前者の孫娘がアルゼンチンへと渡ったことから、国籍が明確に枝分かれしたようだ。*2
Leo
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最終更新:2021年04月18日 09:32
*1 実際のところ、20点台より30点以上の方がずっと多い
*2 https://www.goal.com/jp/news/124/%E5%8D%97%E7%B1%B3/2011/10/14/2710350/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B7%E3%81%A8%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%81%AF%E8%A6%AA%E6%88%9A%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
サッカーイングランド代表
登録日:2017/03/24 Fri 01:41:46
更新日:2021/03/13 Sat 09:46:34
所要時間:約 21 分で読めます
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PK戦 W杯優勝国 イギリス イングランド サッカー サッカーW杯 サッカーチーム スリーライオンズ チーム ツッコミどころ満載 ネタ ネタチーム プレミアリーグ 代表 強豪 母国
サッカーイングランド代表は、イギリスのイングランド地方を統括するサッカー組織「フットボール・アソシエーション」が組織するサッカーのナショナルチームである。
愛称は「スリーライオンズ」、本拠地はロンドン郊外に建つ「サッカーの聖地」ことウェンブリー・スタジアム。
概要
近代フットボール発祥の地であるイングランドの代表チームだけあってその歴史は古く、1870年からスコットランド代表と非公式ながら初の国際試合を含め5試合ほど戦った。1872年11月30日、同じくスコットランドを相手に世界初の公式国際試合が実施された。
後述するような数多くの名選手を輩出し、世界的にも強豪国の1つとして認識されている…はずなのだが、大舞台での戦績は今一歩である。W杯およびEUROでのベスト4以上は1966W杯優勝(母国開催)、1968年EURO3位、1990年・2018年W杯4位のみで、W杯の優勝経験がありながら大陸別選手権*1の優勝経験がない唯一の国である。
近年特に指摘されているのがPK戦での弱さで、詳しくは後述するがW杯とEUROのトーナメントでPK戦による決着が導入されてから2勝6敗と大きく負け越している。
このような苦戦の原因としてプレミアリーグに外国人選手が多く自国の選手が育ちにくくなっていることや、過密日程が選手の疲労や試合レベルの低下を招いていることを挙げる声がある。
あとは食べている物の差でもあるのだろうか
2012年、ナショナルフットボールセンターのセント・ジョージズ・パークが開設されたが、こういった改革がイングランド代表の実績にどんな影響を及ぼすかは今後明らかになっていくことだろう。
ちなみに長い歴史があれどあくまで「英国の一地方のチーム」なため、オリンピックには縁がない。
一応2012年ロンドンオリンピック時等では他地方代表(スコットランド・ウェールズ・北アイルランド)と合わせた「イギリス代表チーム」が結成されたりもしたが、
ロンドンの時には諸事情により男子はイングランド・ウェールズ連合チーム、女子はイングランド・スコットランド連合チームとなり北アイルランドは不参加となってしまい、リオデジャネイロではイングランドから提案したらディスられ断念したという。
EURO1996
本大会は母国開催ということで躍進が期待された。
スイスと引き分けたのちスコットランドとオランダに連勝しグループAを1位通過。
準々決勝ではスペインにPK戦で勝利(!)したが、続く準決勝ではPK戦に敗れた。
相手はPK戦が比較的得意で、かつ最終的に優勝を果たすドイツであったので少々致し方なかった所もある。
1998年W杯
グループGではチュニジアに勝ち、シード国のルーマニアに敗れたが、コロンビアに勝ったことで2位通過。
決勝トーナメント初戦の相手はアルゼンチン。2-2で迎えた後半開始早々に事件が起きる。デビッド・ベッカムがディエゴ・シメオネのタックルを受けて倒されたのだが、ベッカムは倒れたままシメオネの足を引っかけ転倒させるという報復行為に出てしまい、結果ベッカムは一発退場となる。後半と延長戦を10人で凌いだイングランドであったが、苦手のPK戦で敗れた。
この敗退を受けて非難の矛先は主にベッカムに向けられ、デイリー・ミラー紙は"10 heroic lions, one stupid boy"と断罪するなど、以降彼は2年以上に亘って批判され続けることとなった。
EURO2000
グループAに配属。
ポルトガル戦では2点を奪った後3失点するという形で逆転負け。続くドイツ戦では1-0で勝ち前回大会のリベンジを果たすものの、ルーマニア戦では先制された後2点を奪って逆転するものの、そこから2失点し再逆転され勝ち点3・グループ3位で敗退となった。
ベッカムがポルトガル戦の2点を演出しながらも浴びせられる批判が最高潮に達したのがこの時期であった。
2002年W杯
アルゼンチン・ナイジェリア・スウェーデンと同じグループFに入った。
強豪が多い死の組への加入となったが、アルゼンチンに勝利し残り2チームに引き分けたことで、スウェーデンに続く2位通過を果たした。
アルゼンチン戦では本大会で主将を務めたベッカムがシメオネと和解、試合ではベッカムが決めたPKが決勝点となり、ベッカムは予選での活躍と併せて4年前の汚名を返上した。
決勝トーナメントでは初戦でデンマークに3-0と完勝するものの、続く準々決勝でブラジルに逆転負けしベスト8という成績で敗退。とはいえ相手は最終的に優勝を果たすチームであり、近年の敗れ方ではマシな方と言えるかもしれない。
EURO2004
グループBでフランス・スイス・クロアチアと同居。
フランス戦ではベッカムのPK失敗もあって1-2で敗れるが、残り2戦に連勝して2位通過。
決勝トーナメント初戦(準々決勝)の相手はポルトガル。開始早々先制するものの前半のうちに若手ルーニーが負傷交代を強いられ、後半に追いつかれる。延長戦ではソル・キャンベルのゴールが認められないという出来事もあり、更に勝ち越し点を決められるが、その5分後にランパードが同点ゴールを決め、試合はPK戦へと突入した。そのPK戦で1番手のベッカムがフランス戦に続き失敗、5-6で再びPKで苦杯をなめる結果となった。
2006年W杯
グループBではやや苦しみながらもパラグアイとトリニダード・トバゴに連勝し早々にグループ突破を決め、スウェーデンと2-2のドロー。
スウェーデン戦でオーウェンを負傷で欠いたせいか決勝トーナメント初戦ではエクアドルにやや苦戦するものの、ベッカムのFKで挙げた1点を守り切り勝利した。
準々決勝の相手はポルトガル、EURO2004に続く対決である。マンチェスター・ユナイテッドで攻撃の核を担う若手であるルーニーとC・ロナウドが対決するという構図となった。
前半はスコアが動かず。後半早くにベッカムが負傷交代を強いられたのちに事態が急変する。
ルーニーがカルヴァーリョを踏みつけるラフプレーにより一発退場。カードが提示される前にC・ロナウドが主審に激しく抗議し、ルーニー退場後には彼がベンチに向かってウインクする姿が目撃されたため、イングランド国内ではC・ロナウドがチームメイトのルーニーを退場に追いやったと解釈された。
試合は10人のイングランドが攻撃を凌ぎ切りPK戦に入るものの、3人のシュートが相手GKリカルドに止められたことでまたもPK戦敗退。特にジェイミー・キャラガーは最初主審のホイッスルの前にボールを蹴ってしまい成功するものの当然認められず、蹴り直しがセーブされてしまった。そしてこのPK戦で唯一成功したオーウェン・ハーグリーヴスがカナダ出身であったため、イングランド人はPKに弱いという説が説得力を増したりもした。
こうして再度PKで敗れてしまった代表であるが、非難の矛先は主にルーニーを退場に追いやったとされたC・ロナウドに向けられた。しかし彼はルーニーに謝罪し和解した模様で、本大会の後レアル・マドリードに移籍するまでの3シーズン、ルーニーと共にマンUのプレミア3連覇や2007-08シーズンUCL優勝の原動力となる。
EURO2008
予選のグループEでクロアチアとロシアの後塵を拝し予選敗退。
アウェーでのクロアチア戦ではDFガリー・ネヴィルのバックパスをGKポール・ロビンソンが空振りしオウンゴールするという出来事もあった。
2010年W杯
堅実な志向を信条とする名将ファビオ・カペッロを監督に迎え、予選では欧州最多の34得点で突破を果たす。
そしてグループCで同居することとなったのはアメリカ・アルジェリア・スロベニア。 サン紙がEngland・Algeria・Slovenia・Yanksの頭文字を取ってEASY、あるいはビートルズ以来最高のグループと表現したように、比較的戦いやすい組に入れて安心という風潮があった。
ところがアメリカ戦ではジェラードのゴール*4で先制するものの、アメリカMFデンプシーのさほど力のないシュートをGKグリーンがキャッチ…したかに見えたがボールはグリーンの手からこぼれ落ちそのままネットを揺らすという形で追いつかれてしまう。続くアルジェリア戦ではスコアレスドローに終わり、スロベニア戦で1-0で勝利して辛うじて2位通過*5を果たすという為体であった。
決勝トーナメント初戦の相手は強豪国のドイツ。とはいえ本大会のドイツは若い選手が多く経験不足であり、更にグループリーグでセルビアに敗れるなど不安要素を抱えていた。しかし試合は前半相手GKノイアーのアシストなどで2点を先制され、その後1点を返したところで事件が起きる。
ランパードのミドルシュートがクロスバーに当たりゴールラインを越えたのだが、これをノイアーがすかさずキャッチしそのままドイツ選手はプレーを続行している。そう、ランパードのゴールが認められないという世紀の大誤審が起きてしまったのである。1966年大会決勝のジェフ・ハーストによる疑惑のゴールと同様の事態が立場を変えて発生したのであった。
これにより前半を1-2で終えることになったイングランドは、後半ミュラーやエジルらドイツの若手選手が紡ぎ上げるカウンター攻撃の餌食となり、1-4で敗れベスト16での敗退が決まった。
EURO2012
グループDでフランスと引き分けたのちスウェーデンとウクライナに連勝して首位通過。
しかし決勝トーナメント初戦でイタリアと対戦、またしてもPK戦で敗れてしまった…。
2014年W杯
ウルグアイ・コスタリカ・イタリアと共にグループDに組み分けされた。
何と優勝経験国3チームが同居する死の組入りであり、国民も過半数がグループリーグ敗退を予想、サン紙も4年前とはうってかわって"LORD HELP US!"とこの事態を嘆いた。
イタリア戦では先制されたのちルーニーの好アシストでダニエル・スターリッジが同点ゴールを決めクネクネダンスを披露するもののバロテッリのヘディングが決まり敗れた。続くウルグアイ戦ではルーニーのW杯初得点となる同点ゴールがあったが、主将ジェラードの僚友であるルイス・スアレスを止められず彼の2ゴールの前に敗れ、コスタリカ戦*6を待たずしてグループリーグ敗退が決まってしまった。
グループDではコスタリカの番狂わせやスアレスの噛みつきといった注目を集めた出来事もあったが、それらとは関係なしにある意味予想通りの敗退となったようである。
EURO2016
ロシア・ウェールズ・スロバキアと共にグループBに組み入れられる。
ロシア戦では後半ATに追いつかれドロー。イングランド代表はEUROでの初戦に勝ったことがなく(本大会も含めると5引き分け4敗)、暗雲が立ち込める結果となる。ウェールズ戦ではガレス・ベイルのフリーキックで先制されるものの、いずれも交代メンバーのジェイミー・ヴァーディとスターリッジがゴールを決めて逆転勝利。スロバキア戦ではスコアレスドローに終わるもののグループ2位となり決勝トーナメント進出を決めた。
そして決勝トーナメント初戦の相手は幸運なことに格下のアイスランド。試合も開始4分でルーニーがPKを決め幸先よく先制…したのだが、その後前半のうちに2点を奪われ逆転され、後半に巻き返すこともできずに試合終了のホイッスル。イングランドは本大会最大の番狂わせの犠牲となってしまった。
そしてこの敗退を受けて、皮肉の得意な国内メディアは代表チームを徹底的に扱き下ろした。
デイリー・メール紙は「いなくなって清々した」、デイリー・エクスプレス紙は「わけがわからない」、デイリー・テレグラフ紙は「イングランド最大の恥辱」と辛辣な言葉を並べ、元イングランド代表FWゲーリー・リネカーはTwitterで「我々の歴史上最悪の敗北。イングランドはプロサッカー選手より火山が多い国に負けた。アイスランドは良いプレーをした」とコメントした。
折しもイギリス国内では国民投票によりEU離脱が決められており、イングランドがEUからもEUROからも離脱することや、デービッド・キャメロン首相とロイ・ホジゾン監督の辞任表明が重なったことを皮肉るジョークが流行した。キャメロン首相の後任に「欧州から撤退する国を率いるのにうってつけの人物」としてホジゾン監督を推すジョークもあった。
2018年W杯
グループGでベルギー・パナマ・チュニジアと同居。
チュニジア戦はハリー・ケインの2ゴールで勝利、初出場のパナマ相手に6-1の大勝。
グループリーグ最終戦のベルギーに敗れ2位通過となるも、結果的に強豪国の少ない楽な山に入ることに成功。
ベスト16のコロンビア戦、後半のPKで先制するも、結局ATに追いつかれ延長戦に。
しかし延長戦でも決着はつかず、試合はPK戦にもつれ込む。
今までPK戦を大の苦手としていたチームであったが……なんと3-4で制したのである!
W杯でPK戦を制したのは初めてのこと。まさに歴史が動いた瞬間である。
この勝利により、「ベスト8に入れば上出来」と言われていたチームは俄然勢いづき、続くスウェーデン戦は2-0で勝利。実に7大会ぶりとなるベスト4進出を決めたのだった。
準決勝クロアチア戦。開始5分でFKを得ると、キーラン・トリッピアーのチーム初シュートが先制点となり、幸先の良いスタートを切る。
さらに相手は2戦連続PK戦を戦い抜いており、体力的にも有利に思われたが……
クロアチアはそこから驚異的な粘りを見せ、後半イヴァン・ペリシッチのゴールで追いつかれ、再び延長戦にもつれ込む。
結局相手エース、マリオ・マンジュキッチに逆転弾を決められ、さらに先制点を挙げたトリッピアーが負傷退場して万事休す。
3位決定戦では再びベルギーに敗れるものの、前評判を考えるとまさに大きな躍進を見せてくれたと言っても過言ではないだろう。
○アシュリー・コール
全盛期は世界最高の左サイドバックとも称された名手。
ユース時代からアーセナルに所属していたが、2006年にライバルのチェルシーへ移籍。両チームでプレミア制覇を経験した他、チェルシーではUCL優勝の美酒も味わった。
代表では2014年までに107試合出場。
○ウェイン・ルーニー
キャリア初期を地元のクラブであるエバートンで過ごしたのち、モイモイFOOTBALL GENIUSモイーズ監督との関係悪化もあって2004-05シーズンにマンチェスター・ユナイテッドへ移籍した。マンUでは歴代通算得点ランクでボビー・チャールトンの記録を抜いて現在1位である。
技術や得点力も高いが、フィジカルや献身性も併せ持っており、マンU入団当初はスタンドプレーに走りがちでボールロストも多かったC・ロナウド*9よりも評価が高かった。後にパフォーマンスを向上させた彼と、元アルゼンチン代表のカルロス・テベスも加えた悪童トリオ攻撃陣の躍動は2007-08シーズンのUCL優勝へと繋がった。マンUでのキャリア晩年は主将も務めた。
2016-17シーズンを最後に退団し、古巣のエバートンに復帰した。エバートン入団後間もなく代表引退を表明したほか、アラン・シアラー以来2人目となるプレミアリーグ通算200ゴールを記録した。
代表デビューは17歳111日と当時の最年少記録であり、現在イングランド代表歴代通算最多得点記録保持者である(こちらもボビー・チャールトンの記録を抜いて1位となった)。
若い頃はラフプレー・暴言・アルコール依存・トイレ以外の場所での放尿などの素行不良でも知られた他、薄毛など容姿をからかわれることも少なくない。
○ジョン・テリー
チェルシーの主将を務めるCBで、闘志あふれるプレーが持ち味である。
2007-08UCL決勝では自身のPK失敗が祟って優勝を逃したが、2011-12UCL決勝でバイエルン・ミュンヘンにPK戦に勝利し優勝を果たした(テリー自身は出場停止であった)。
代表では2003年~2012年に78試合出場。不倫疑惑や人種差別疑惑で主将の地位を剥奪されるという騒動に巻き込まれたこともあった(後者に関しては裁判で無罪が確定している)。
○ピーター・クラウチ
身長203cmを誇る長身FW。2006年W杯および2010年W杯に出場した。
純朴な人柄から国民の人気が高く、ゴールを決めた後にはロボットダンスを披露することがある。
○ジョー・ハート
現在のイングランド代表正GKで、2010年W杯後に代表のレギュラーに定着した。
マンチェスター・シティでは2010年代に入ってレギュラーの座をつかみ、2回のプレミアリーグ制覇などを経験したが、足元の技術に不安があることで新監督のペップことグアルディオラの信頼を得られず、トリノ、ウエストハムにレンタル移籍後、バーンリーに完全移籍した。
○ハリー・ケイン
トッテナムに所属するFW。
2014-15シーズンにリーグ21得点を記録する大ブレイクを果たした。
代表デビューはEURO2016予選のリトアニア戦であるが、ルーニーと交代で入った79秒後に代表初ゴールを記録した。
EURO2016本選ではなぜかコーナーキックのキッカーを任され、このホジソン監督の不可解な采配が批判されたりもした。