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2020-12-23 05:50:20 | Language
List of pioneers in computer science
From Wikipedia, the free encyclopedia
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This article presents a list of individuals who made transformative breakthroughs in the creation, development and imagining of what computers could do.


Contents
1 Pioneers
2 See also
3 References
3.1 Sources
4 External links
Pioneers[edit]
To put the list in chronological order, click the small "up-down" icon in the Date column. The Person column can also be sorted alphabetically, up-down.
Achievement
date Person Achievement
2018 Bengio, Yoshua Conceptual and engineering breakthroughs that have made deep neural networks a critical component of computing.[64]
2018 LeCun, Yann Conceptual and engineering breakthroughs that have made deep neural networks a critical component of computing.[65]
2011 Graham, Susan L. Awarded the 2009 IEEE John von Neumann Medal for "contributions to programming language design and implementation and for exemplary service to the discipline of computer science".
2011 Pearl, Judea Fundamental contributions to artificial intelligence through the development of a calculus for probabilistic and causal reasoning.[60]
2010 Valiant, Leslie Transformative contributions to the theory of computation, including the theory of probably approximately correct (PAC) learning, the complexity of enumeration and of algebraic computation, and the theory of parallel and distributed computing.
2008, 2012, 2018 Hinton, Geoffrey Popularized and enabled the use of artificial neural networks and deep learning, which rank among the most successful tools in modern artificial intelligence efforts. Received the Turing Award in 2018 for conceptual and engineering breakthroughs that have made deep neural networks a critical component of computing.[21]
2008 Nakamoto, Satoshi The anonymous creator or creators of Bitcoin, the first peer-to-peer digital currency. Nakamoto's 2008 white-paper introduced the concept of the blockchain, a database structure that allows full trust in the decentralized and distributed public transaction ledger of the cryptocurrency.[32]
2007 Sifakis, Joseph Developing model checking into a highly effective verification technology, widely adopted in the hardware and software industries.[59]
2000 Yao, Andrew Fundamental contributions to the theory of computation, including the complexity-based theory of pseudorandom number generation, cryptography, and communication complexity.
1997 Hsu Feng-hsiung Work led to the creation of the Deep Thought chess computer, and the architect and the principal designer of the IBM Deep Blue chess computer which defeated the reigning World Chess Champion, Garry Kasparov, in 1997.
1996 Pnueli, Amir Introducing temporal logic into computing science and for outstanding contributions to program and systems verification.[58]
1995 Picard, Rosalind[undue weight? – discuss] Founded Affective Computing, and laid the foundations for giving computers skills of emotional intelligence.
1995 Blum, Manuel Contributions to the foundations of computational complexity theory and its application to cryptography and program checking.[57]
1994 Floyd, Sally Founded the field of Active Queue Management and co-invented Random Early Detection which is used in almost all Internet routers.
1994 Feigenbaum, Edward Pioneering the design and construction of large scale artificial intelligence systems, demonstrating the practical importance and potential commercial impact of artificial intelligence technology.[55]
1994 Reddy, Raj Pioneering the design and construction of large scale artificial intelligence systems, demonstrating the practical importance and potential commercial impact of artificial intelligence technology.[56]
1993 Toh Chai Keong Created mobile ad hoc networking; Implemented the first working wireless ad hoc network of laptop computers in 1998 using Linux OS, Lucent WaveLan 802.11 radios, and a new distributed routing protocol transparent to TCP/UDP/IP.
1993 Hartmanis, Juris Foundations for the field of computational complexity theory.[53]
1993 Stearns, Richard E. Foundations for the field of computational complexity theory.[54]
1992 Lampson, Butler W. Development of distributed, personal computing environments and the technology for their implementation: workstations, networks, operating systems, programming systems, displays, security and document publishing.
1991 Torvalds, Linus Created the first version of the Linux kernel.
1991 Milner, Robin 1) LCF, the mechanization of Scott's Logic of Computable Functions, probably the first theoretically based yet practical tool for machine assisted proof construction; 2) ML, the first language to include polymorphic type inference together with a type-safe exception-handling mechanism; 3) CCS, a general theory of concurrency. In addition, he formulated and strongly advanced full abstraction, the study of the relationship between operational and denotational semantics.[52]
1989, 1990 Berners-Lee, Tim Invented World Wide Web. With Robert Cailliau, sent first HTTP communication between client and server.

🇮🇱Jew

Atwiki 日本語

2019-09-20 08:41:23 | Language
日本語

登録日:2009/09/01(火) 00:41:51
更新日:2018/07/25 Wed 23:12:18
所要時間:約 7 分で読めます

▽タグ一覧
Japanese ニホンゴムズカシイ ブロントさん 卒論項目 日の本語喋れよう 日本 日本語 日本語でおk 日本語族日本語派 美しい 言語 言語系統不明

日本で使用される言語。
CIAの調査では難解言語のひとつに数えられる(あくまで英語圏から、という見方で)。
「日本でのみの通用」とは言うがこれは、「標準語を使用した場合殆どの日本人に通じる」という意味で、方言等は含まない。
因みに日本以外でもパラオや台湾でも老人には結構通じたりする。
使用する文字は、主にひらがな、カタカナ、漢字及びアラビア数字。他用途に応じて各種アルファベット等。
このため、最も複雑な記述体型を有する言語となっている。


母音は五つと、世界を見ても少ない方。それでも難解言語とされる理由はまず、文字が多いと言うこと。
基本的なひらがなとカタカナに加え、漢字という数千に及ぶ文字を覚えなければならない。

文法は大陸系、発音は南方の影響がみられ、南北の混合言語であるという学説もあるが、よくわかっていないのが現状である。
その上、尊敬語表現、謙譲語表現、丁寧語表現、口語表現等、様々な表現方法が加わる為更に難解さが増す。これは日本人でも分からない人が多い。

特に、日本人は丁寧語と尊敬語をよく間違える。
例えば、「すみません、今なんと言いましたか?」と「申し訳ございませんが、今なんとおっしゃいましたか?」は同じ意味を表すが、
前者が丁寧語、後者が尊敬語である。

これら尊敬語や謙譲語は言葉の変化を覚える必要がある為、単純に難しいものである。が、ただ変化形を丸暗記すれば誰にでも喋れる為簡単だということもできる。
「なんとおっしゃられましたか?」は誤用の為注意。

謙譲語は自分をへりくだるものであり、普通他人には使用しない。「わたしが行きます」と「わたしが参ります」のような変化である。
因みに、尊敬語表現はあるのに謙譲語表現がない、という動詞もある。

日本語に多い間違いとして、上記敬語表現のような重複表現がある。これは単語に存在する意味の言葉を更に加えてしまうことである。
例えば、落馬するという言葉は「馬から落ちる」という意味であるのに、「馬から落馬する」などと書いてしまうことをいう。
その他、日常では量販店や飲食店等に行くと日本語の誤りに出会うこともできる。

「こちらでよろしかったですか?」
「こちら、※※になります」
「以上で大丈夫でしょうか」
「いくらからお預かりします」

等々。普段聞きなれている為か特に違和感は覚えないかもしれないが、これらは基本的に誤りである。

掲示板等ではよく漢字を間違えていることがある。
これは変換機能に頼っているせいで漢字が分からないのか、もしくは誤変換に気づかずにいるかのどちらかだろう。顕著なのは「以外」と「意外」。

その他、本来は誤字・誤用だった言葉がそのまま使われる、なんてこともある。独壇場がいい例である。



また、日本語にはラテン語のような古語表現も存在する。
これは現代人が聞くなり読むなりすると、「ああ」と納得したり、「うん?」と首をかしげたり、現代語と同じ言葉があるのに違う意味だったりと、
本当によく分からないものが多い。

とはいえ、現在でも様々な言葉が本来とは違う意味で使われていたり、または新しい意味が追加されたりと、日本語は日々進歩している。
例としては、微妙、全然、鳥肌がたつ、普通、等。
将来は現在使用されている日本語は古語になり、同じことを思われるのかもしれない。



補足等

最近では若年層に限らず、漢字を読めない人間が増えてきている。
鳳梨や天鵞絨とかいう当て字はいいとして、王様、大きい、父さん、炎、氷、等小学生で習うような漢字の読みが出来ない人がいる。

もっとも顕著なのは「十分」で、多くはこれを「じゅっぷん」と読むだろうが、正しくは「じっぷん」である。
「十」を「じゅっ」と発音する言葉は日本語には存在しない。

あまりに間違えて覚えている人が多い為か、「十」の読みに「じゅっ」を加えようか、という話もある。



他に常用漢字で雰囲気や巣窟等もネタにされるほど読めていなかったが、最近ではどうなのだろうか。


ついでに、日本語には他言語には殆どない、すばらしい機能いくつかがついている。

1つ目は「音訓読み」
外来語である漢字に自国語の読みを付け加えることで自国文化に深く効率的に吸収出来た。
漢字文化圏に属していた国の殆どは、この仕組みが無く民衆に理解が難しいかった為、その言語文化と共に漢字表記を失ってしまった。


2つ目に表現が非常に豊かなこと。(ただし、これは日本語の難解さや曖昧さを増す要素でもある為、欠陥とも考えられる)

『兄』という単語一つ上げても

兄ちゃん/お兄ちゃん/にいやん
お兄さま/おにぃ
あにうえ/兄上さま
兄さん/兄サマ/兄たま
兄者
兄貴/アニキ
にぃ/にぃにぃ/兄や
あんちゃん


こんだけ……いやまだまだある。(漢字・カナ・かな でニュアンスが変わるのがミソ)
ところで兄ってゲシェタルト崩壊おこすよね

またルイズたんのコピペは他の言語ではまず表現できない。

Atwiki 言語

2019-09-20 08:24:13 | Language




音には「音声」と「音素」の二種類があり、音声とは実際の声、音素とは話者が認識している声である。例えば日本語の「ガ」の子音は母音の後ろにあるかそうでないかによって音声が違う(有声軟口蓋摩擦音と有声軟口蓋破裂音、それぞれIPA国際音声字母表記で[ɣ]、[ɡ])が、話者はこれらを同じ発音だと思っているし、意味の違いにはならない。これを音素が同じであるというように言う。対して、我々は“橋”(音素表記:/háꜜsi/)と“箸”(/hasíꜜ/)が別々の発音であることを知っている。このように、たった一つの音素の違い(ここではアクセントの違い)を除いて他が全て同じであるような二つの単語の関係を「最小対」と呼ぶ。
否定を表す単語や標識(マーカー)などの形態素(意味をもつ表現要素の最小単位)はnやlなどのそれ単体で伸ばしやすい音(=流音)や、聞こえ度の高い音(母音や[z]など)によって表されるか、形態素が2つに分割されて別々の場所に付いているいることが多い(ex:ない、ず、not、no、ne…pas(フランス語)など)。また、疑問を表す形態素は最初や最後に来ることが多い(ex:"What" do you want?、あなたは好きです“か?”、いづれの山か天に近“き”(係り結び)、など)。これらはいずれも疑問であるかどうか、否定であるかどうかをはっきりさせないと意味が全く変わってしまうからと考えられている。
言語類型論において、単なる「普遍性」と「部分的な普遍性」との区別をしておくことは大切である。例えば、英語や日本語は所有者を「-'s」や「〜の」のような所謂「接辞」や「接語」をつけて表現する。対してハンガリー語などの言語では、所有されている方の単語に接辞をつける。例えば「az embar háza」(その男の家)という句では、「az embar」に「〜の」という意味の接辞や接語があるわけではなく、「ház」(家)に「-a」という接辞がつくことで所有関係を意味している。英語や日本語のように、所有しているものに接辞がついたり、ラテン語などのように、動詞が主語によって形を変えるような言語は主要部表示型言語と呼ばれ、ハンガリー語のように所有されているものに接辞がついたり、動詞が目的語によって形を変えるような言語は依存部表示型言語と呼ばれる。主要部表示型言語と依存部表示型言語はひとつの言語で混ざり合っている時もあるが、例えば、所有しているものと所有されているものの両方に接辞がつく、というように、片方だけで済むようなことをやっている言語は稀である(トルコ語などが該当する)。
日本語は、世界でも珍しく主語が省けるのに主語に応じた動詞の活用がない言語であり、世界でも珍しく[ɸ](ファの子音。英語のfとは違う)及び[ɽ](単語の始めのラ行の子音)を持つ。
英語は、世界でも珍しく関係代名詞を持ち、関係代名詞を持つ自然言語の中でも珍しく関係代名詞がwhatのような疑問詞だけでなくthatのような指示代名詞から派生している他、世界でも珍しく不定冠詞を持ち、世界でも珍しく[θ]の音を持ち、世界でも珍しく、aの類音が[æ][ʌ][ɑ]と複数ある。
ケチュア語は、自然言語らしからぬとても規則的な活用をする自然言語。
人工言語アルカの語彙数は約15000語であり、創作クラスタの作る大体の人工言語はこれに準拠していると思われるが、まずは2000語をメドに作るといいと言われている。一音節の基本語彙を組み合わせて派生語を作っていくと、案外たくさん作れるかもしれない。
我々は傘を「差す」と言い、英語では「open」(開く)と言う。このように言語や文化によって言い方が異なる。セレンによれば、このような語法をもオリジナルで考えることでより進んだ人工言語を作ることが可能なようだ。
日本人の作る人工言語はラ行が多くなると言われる。というのも、日本語ではlもrも同じラ行にしてしまうからで、致し方ないとも言える。
エスペラント語で「不足」あるいは「不足する」と打つと18禁な単語が出てきてしまう……というように、人工言語では日本人が聞くと変に聞こえるような単語が出てきてしまう場合も往往にしてある。一見して普通の単語でも、活用などによっては下品な言葉が出てくる可能性があるので、そういうことを気にする場合はよく考えて作りたい。




ドイツ語

登録日:2009/09/18(金) 20:23:40
更新日:2019/07/04 Thu 15:40:40
所要時間:約 7 分で読めます

▽タグ一覧
BLEACH GSG9 …ばーむくーへん? ←ばぉむくーひぇん アスカ ガンダム御用達 クーゲル・シュライバー ←要はボールペン ジェイド スパロボ セラフィックブルー ドイチュ ドイツ ドイツ語 ファフナー フンバルト・ベンデル 厨二病御用達 滅却師 独語 空耳 言語


食らえ!必殺!


クーゲルシュライバーッッッ!!!


ドイツ語とは、主にドイツ、およびその周辺で使用される言語。書いてある通りに読む、とよく言われる。

使用する文字はアルファベットに加えて、ウムラオトと呼ばれる変母音(a、o、uの上に‥がついたもの)と
エス・ツェット(ギリシア文字のβに似た文字で発音はs)がある。
ちなみにパソコンの使用などでウムラウトが出せない場合はa、o、uの後にeをつけて、エス・ツェットが出ない場合はssで代用する。
エス・ツェットは小文字扱いで大文字のエス・ツェットを使うことはまれ。
また、スイスドイツ語においては、ウムラウトおよびエス・ツェットの表記には代用形(ae, oe, ue, ss)のほうを用い、固有文字は使用されない。

+
ドイツ語アルファベットの読み方

原則はローマ字読みと同じだが、eiはアイ、ieはイー、euはオイなど若干違うところもある。あとrはやたら舌を巻く。
よく例として挙げられるのはEinstein(アインシュタイン)。エインステインとは読まない。
しかし一部例外があるとはいえ、規則性があってないような英語とは違い、発音の規則さえ覚えてしまえば、たとえ単語の意味がわからなくても読むことはできる。
結局のところ規則に従ってローマ字風に読んでさえいれば、我々日本人が曖昧な日本語も理解できるように、向こうの人も理解してくれる。
拙くても頑張って話そうとする健気な幼女姿勢を見せる者に対しては人はわりかし寛大に接するものである。
英語のthに相当する発音が無いのも日本人にはありがたい。
他にもj,s,v,w,zも英語と発音が違い、それぞれ英語のy,z,f,v,tsに相当する。例えばJapan(日本)は"ヤーパン"と発音する。

ドイツの代表的な自動車メーカーVolkswagenは"フォルクスヴァーゲン"と読む。この綴りを英語で読めば"ヴォルクスワーゲン"となる。
ところが、日本語での正式名称(カタカナ表記および読み)はなぜか独英混ぜこぜの"フォルクスワーゲン"とされている。
……つまるところ、これは日本語にはvの音が存在しないことへの配慮である。要はリヒャルト・ワーグナーが実際にはヴァーグナーなのと同じ事情。

あとhのみ、無音である。無音といってもまったく発音しないわけでもないのだが、普通は直前の母音を伸ばすと考えて相違ない。
ウムラウトの発音については、文字通りというか、aeなら口を「あ」の形にして「エ」と発音すると近い音が出る。oe、ueについても同じ要領で発音する。
他にも多数細かい読み方はあるが割愛する。


もともとドイツ語と英語は共通の祖語を持つ言語で、両者は2000年ほど前に分化したと言われている。
そのため英語と共通の語源を持つ語彙が多く、同じ綴りでほとんど同じ意味の単語が多い。
また、綴りが違う語でも、発音に類似性があったり一部の文字に置換があったりする程度で、部分的な一致となるとさらに多くの単語が該当する。

+
【綴りが同じor類似する単語の一例(独/英)】


ドイツ語の面倒なところには、「名詞の性別」と「不定動詞」にある。
とはいっても不定動詞は基本的に規則変化であるため、それを覚えてしまえば楽だが名詞の性別は地雷もあったりする。

例えば父親(Vater)は男性名詞、
母親(Mutter)は女性名詞、
子供(Kind)は中性名詞
とこのあたりはまあわかるが、

庭、学校、家、少女、牛乳、茶。これらの性別はどうだろう。


男、女、中性、中性、女、男なのだが。

ちなみに名詞の性別に対して不定冠詞(ein~、eine~)や定冠詞(der~、die~、das~)を格ごとに(~が、~の、~に、~を)使い分ける必要がある。
とは言うが辞書で調べればわかるのでそれでついでに覚える、という根気があればドイツ語はパーツの構成を覚えるだけなのでそのあたりはわかりやすい。

ここまで読んだ時点で気づいた勘のいいアニヲタ諸君もおられるかも知れないが、ドイツ語においては名詞の最初の文字は必ず大文字にする習慣がある。
知らない単語だとしても、その単語が名詞かどうかは文頭に置かれていなければ容易に判別できる。
ついでに言えば、"冠詞"+"なんちゃら"+"名詞"……という形の場合、"なんちゃら"は形容詞だろうとおおよその見当をつけることもできる。
そしてさらに言えば、通常小文字で書く形容詞の語頭を大文字にすると名詞化が起こる。(英語で言う「the+形容詞」のようなもの。)
例えば、gutは「良い」だが、Gutは「良いこと(もの・人)」となる。

初学者にとっては面倒なことこの上ないが、ドイツ語には英語では廃れてしまった格変化が残っているため語順の制約が英語よりも緩い。
つまり、冠詞の格変化の形を見れば、語順に頼らずとも文の要素(いわゆるSVOCMと呼ばれているやつ)の判別が可能だということ。(多少語順を変えても文意が通る。)

後は成立の歴史上方言の差が激しいので習ったところと違うところでは通じないことがよくある。



…と、ドイツ語の文法その他を抜きにして、ドイツ語は多く中二病患者やゲームの登場物の名称に好かれる傾向にある。
なぜかと言われれば(おそらく)発音が無駄にかっこいいからである。

数字を数えるだけでも

null(ヌル、0)
eins(アインス,アインツ[慣]、1)
zwei(ツヴァイ、2)
drei(ドライ、3)
vier(フィーア、4)
fuenf(フュンフ,フンフ[慣]、5)
sechs(ゼクス、6)
sieben(ズィーベン、7)
acht(アハト、8)
neun(ノイン、9)
zehn(ツェーン、10)
elf(エルフ、11)
zwoelf(ツヴェルフ、12)
dreizehn(ドライツェーン、13)

sechzehn(ゼヒツェーン、16) ※16と17は形が崩れる
siebzehn(ズィープツェーン、17) ※語末or子音の前にある「b」の音は「p」

zwanzig(ツヴァンツィヒ、20)
dreissig(ドライスィヒ、30) ※30だけzがss(エス・ツェット)になって~ssigになる

sechzig(ゼヒツィヒ、60)
siebzig(ズィープツィヒ、70)


と発音する。

21以上99以下の(10で割りきれない)数字は、und(英語のandに相当。)をつけて表記・発音する。このとき一の位を先に言う。
仮に23ならdreiundzwanzig(ドライウントツヴァンツィヒ)と読む。要するに「3と20」という表記法。20をnullundzwanzigなどとは読まない。
(数詞に限った話ではないが)ドイツ語では一つの単語であることを示すためにスペースを空けずにくっつけて書く。おかげで長くなると読みづらい。
100はhundert(フンデルト)と読み、200はzweihundert(ツヴァイフンデルト)。
……だが、101はeinundhundertではなくhunderteinsとする。前後がごちゃごちゃして混乱しやすい。
いくつか野暮ったい例を挙げると、zweihundertzweiundzwanzigは222、dreihundertfuenfundsechzigは365である。アラビア数字ならたった3文字で済むのに。

1000はtausend(タウゼント)。1万は英語と似た表記で、zehntausend(ツェーンタウゼント、つまり10千)と書く。同様に10万はhunderttausend(100千)。
一方、100万はeine Million(英語っぽく書けば a million)となり、200万は複数形でzwei Millionenとなる。
例えば、200万ユーロは、英語ではtwo million eurosだが、ドイツ語ではzwei Millionen Euroとなる点が対照的。
なおEuroはドイツ語ではオイロと読む。Europa(欧州)もオイローパ。どうでもいいが、地域名のオイローパは中性名詞だが、女神オイローパは女性名詞。
10億(1000百万)はeine Milliarde、1兆(1000十億)はeine Billion。ちなみにMillion、Milliarde、Billionはいずれも女性名詞である。

序数(第nの~、n番目の~)は、原則、特定の語尾(19までは-t、20以上は-st)をつけるだけという比較的シンプルなもの。
例外は1のerst、3のdritt、8のacht(語形変化なし)の3つで英語よりは少ない。あとは7をsiebentとせずにsiebtと簡略化するケースがあるくらい。
ただし、建物の階数の数え方はアメリカ方式ではなくイギリス(欧州)方式なので注意が必要。
日本語で言う「1階」は「das Erdegeshoss(the ground floor)」で、「2階」が「der[das] erste Stock[werk](the first floor)」。
倍数を表す際には-fachを、反復数(回数)を表す際には-mal(付加語の場合は-malig)をつける。

西暦の記述は、1099年以前と2000~2099年は普通に数字として読めばおk。
1100~1999まで(と2100~2999年まで)は桁を2つに区切って間にhundertを入れる。1Q984年ならneunzehnhundertvierundachtzig(19*100+4+80)と書き、読む。
幸い、我々アニヲタが生きる時代の表記・読みは比較的易しい。世紀を前後にまたぐと一気に面倒になるが。
今年(2019年)は、zweitausendneunzehn(ツヴァイタウゼントノインツェーン)、2000と19。

それから、ドイツ語圏では、小数点に,(カンマ)を使い、桁の区切りに.(ピリオド)を使う(日本と逆になっている)ため、少々戸惑うかも知れない。
区切る桁数は上記の記数法を見てもわかるように3桁ずつ。(例: 1.234.567.890 Euro、円周率は3,14)

数詞に関してはフランス語ほどではないが英語よりもややこしい部類。

ちなみに上記の5(fuenf)のueや、12(zwoelf)のoeは正確にはウムラオトである。
またこの記事の冒頭のセリフ「クーゲルシュライバー」もなかなか格好いいように感じるが、


要はボールペンである


ほかの単語も格好よく

分度器→ヴィンケルメッサー
セブンイレブン→ズィーベンエルフ
007→ヌルヌルズィーベン
下痢→ドルフファーレン
騎士→リッテル
豚→シュヴァイン
豚の塩漬け→アイスヴァイン
マンモス→マムート
弓→ボーゲン
メイス→シュトライコルベン
ナイフ→メッサー
鳩→タウベ
タマネギ→ツヴィーベル

「豚」ですらコレである


他にも黒い森という地名もSchwarzwald(シュヴァルツヴァルト)となり、
かの有名なブリッジストーンをそのままドイツ語にはめると、Brueckestein(ブリュックシュタイン)となる。

尤も全部の単語がそうではなく、
毒→ギフト、死→トート、鮫→ハイ、など日常で使う単語と変わらないような響きのものも結構ある。

他には医療用語はカルテやケロイドなどドイツ語が多い。理由は医療が発達したのがドイツ中心であったため。

後、「風邪」=流行性感冒,発熱性消耗性疾患を日本語ではかなり文字数を食うが、ドイツ語では比較的楽だからというのもある。

また、アルバイトという言葉もドイツ語である。主な意味は労働、副業、内職などで英語のwork(ing)に近い。カタカナのアルバイトよりも広い意味で用いられる。
それからスキージャンプの用語であるK点のKはドイツ語の極限点の頭文字である。

あとどうでもいいがヨーロッパの国では6をセックスと発音するところもある。ニヤニヤするのは日本人と英語圏だろうか。
(もっとも、我々の意味するところのSEXと英語でのそれは、主とするところが異なるが……)

更にどうでもいいがガンダムのジオン公国でも使われている。

リック・ドムⅡ(リック・ドム ツヴァイ)
ドムフュンフ
ノイエ・ジール
等々

他に連邦軍のジムはゲムと発音する(偽装ジムのゲム・カモフや鹵獲ジムのゲファンゲナー・ゲム等)。これはドイツ語にはザ行に当たる発音がないため。




ただ
ザクⅡはザクツーである。
公国も最初は大日本帝国がモデルだったが、いつの間にか(あの人のキャラのせいで)ナチス・ドイツにすりかわった名残だろう。

Wのゼクスもドイツの6からきている。

一方ガンダムSEEDにおいても、MSの武器の名前にドイツ語が頻繁に使われている。

00ではCBの外部組織のMSにドイツ語の名前がついている。

銀河英雄伝説における銀河帝国の公用語も、ドイツ語に近いものとなっている。(但し遠い未来の為、現代と微妙に差異がある)
例:黒色槍騎兵=シュワルツ・ランツェンレイター


◆ドイツ語が使用されている国々 ※()内はそれぞれの国名のドイツ語表記と読み
 ドイツ連邦共和国 (Bundesrepublik Deutschland, ブンデスリパブリーク ドイチュラント)
 オーストリア共和国 (Republik Österreich, リパブリーク エスタライヒ)
 スイス連邦 (Schweizerische Eidgenossenschaft, シュヴァイツェリシェ アイトゲノッセンシャフト 通称: die Schweiz)
 リヒテンシュタイン公国 (Fürstentum Liechtenstein, フュルステントゥム リーヒテンシュタイン)
 オランダ王国 (Königreich der Niederlande, ケーニヒライヒ デア ニーダーランデ 通称(海外領土を除く本土): die Niederlande)
 ベルギー王国 (Königreich Belgien, ケーニヒライヒ ベルギエン)
 ルクセンブルク大公国 (Großherzogtum Luxemburg, グロースヘルツォークトゥム ルクセンブルク)

 その他各国のドイツ人コミュニティー(東欧、北欧、ロシア、アメリカ、イタリア北部など)

Arabia

2019-09-15 05:08:11 | Language
アラビア文字と言語[edit source]
現在、表記にアラビア文字を使う言語は、アラビア語、ペルシア語、ダリー語、クルド語、パシュトー語、バローチ語、アゼルバイジャン語(主にイラン領で)、シンド語、ウルドゥー語、カシミール語、パンジャブ語(主にパキスタン領で)、ウイグル語、カザフ語(主に中国領で)、キルギス語(主に中国領で)、ベルベル語、マレー語(主にブルネイ、そしてマレーシアやインドネシアでは、ムスリム向けのメディアや宗教関係)、モロ語(英語版)(主にフィリピンのモロ族)、ジャウィ語、バルティー語(英語版)などである。
表記がアラビア文字からラテン文字に変更された言語は、トルコ語、マレー語、インドネシア語、スワヒリ語などがある。これらの言語で文字改革が行われた理由は、日常生活からのアラビア文字の排除による脱イスラム化・西欧化を狙うといった動機によるほか、簡略な表記体系による識字率の向上をはかり、さらに母音を表記しやすくなるという論理を掲げたこともある。しかし、アラビア文字を改良して母音表記を徹底し、簡略な表記体系を作り上げることに成功した事例もあるため、実際は言語学的な事実よりも、『ヨーロッパ=進歩的』という観念に基づいた発想によってアラビア文字が敬遠された面が大きい。これらの言語でも、ラテン文字化へとすんなり舵を切ったわけではなく、アラビア文字を改良して、自言語に完全適用した文字体系にすることで効率のよい表記を達成しようとしたグループも存在した。
 マレー・インドネシア語、スワヒリ語など、多くの言語では、政府公用の表記法がラテン文字に変わっただけで、民間や宗教関係ではアラビア文字も継続して使用されたし、私的な教授や伝承、使用については特に弾圧も受けなかった。またマレーシアでは、マレー語のアラビア文字表記もラテン文字表記に一歩譲るものの、学校で第2正書法として教授されている。しかしトルコのみはアラビア文字による出版物を禁止することで、アラビア文字の使用そのものを断ち切る形でラテン文字化を遂行した。現在でもトルコでは、この時定められたトルコ語表記用のラテン文字29文字以外の文字を用いた出版物を禁止しており、アラビア文字によるトルコ語表記のみならず、クルド語への弾圧の道具にもなっている[5]。
チェチェン語、タタール語、カザフ語、キルギス語、トルクメン語、ウイグル語、ウズベク語、タジク語、ドンガン語などの旧ソ連内のムスリム(イスラム教徒)の諸民族の言語の表記にはロシア革命直後に一時ラテン文字化が試みられたが、スターリンの粛清が始まるとロシア語にならったキリル文字に改められた。なお、当初はラテン文字ではなく、ロシア連邦内のムスリムの間では、アラビア文字を改良して用いるべきという案を唱える知識人も多かった。現在でも、公式の文字表記はラテン文字やキリル文字であっても、アラビア文字も民間や宗教関係で使用され続けている。
アゼルバイジャン語、トルクメン語、ウズベク語、タタール語などはソ連崩壊後、さらにラテン文字への再切り替えが進められている。
また中国のウイグル語等のムスリム達少数民族の言語は、かつてはソ連の影響でキリル文字化が図られ、中ソ国境紛争後はさらにソ連との違いを明らかにするためにピンイン風のラテン文字正書法が行われたが、1980年代の民族政策の転換によりアラビア文字が復活された。なお、現在のウイグル語で用いるアラビア文字はアリフ、ワーウなどに点を付加した文字を用い、8つある母音の全てを書き分ける独特なものである。
また、中国に住んでいる中国語(漢語)を話すムスリム(回民、現在の回族)は、アラビア文字で口語体の漢語を書き記すことがあった。このアラビア文字表記の漢語を小児経(小児錦とも)といい、クルアーンなどの経典の注釈に使われて印刷もされたほか、手紙や日記などの個人的用途に使われた。現在でも回族が集中的に居住する寧夏や甘粛では小児錦が部分的に使われているという。また、旧ソ連に移住した回民はドンガン人と呼ばれるようになるが、ドンガン語と呼ばれる彼らの話す漢語の一種もかつてはアラビア文字で書かれていた。また、中国国内のドンシャン族とサラール族も、アラビア文字による自言語表記を行っている。
スペイン語も、主に国内のイスラム教徒の間においてアラビア文字で書かれたことがある。
アラビア文字はもともと子音のみで語根が決まるセム系言語のために作られた文字であった、同じセム系文字を起源とするヨーロッパのアルファベットが文字の転用により母音を全て書き分ける方向に向かったのに対し、アラビア文字はそのような発展をしなかった。セム系言語に限れば、文脈で母音の読み方はほぼ決定するため、アラビア文字は合理的な文字といえる。しかしセム系言語とはまったく違った言語的特徴を有するペルシア語、ヒンドゥスターニー語、トルコ語(オスマン語)、マレー語などに導入された際はこの特徴が逆に不便と考えられることが多い。実際にはこれらの言語でもアラビア文字の改良は主として子音の追加、転用にとどまり、母音の完全な表記へと進むことは少なかった。母音の完全表記に至ったのはウイグル語やクルド語等である。

Saussure

2019-09-15 01:22:26 | Language
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Saussure, Ferdinand de

フェルディナン・ド・ソシュール


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■略歴
1857年11月26日、ジュネーヴに生まれる。
1872年 14才で、処女論文「ギリシア語ラテン語およびドイツ語の諸単位を少数の根源に還元するための試論」を「インド・ヨーロッパ諸語の起源」の著者ピクテに捧げる。
1873年 高校に進学し、ボップの文法でサンスクリット語の勉強を始める。
1875年 ジュネーヴ大学に入学。家の方針で科学と物理を専攻。
1876年 創立直後のパリ言語学会に18歳で入会。ライプチヒに留学し、青年文法派と交流する。
1878年 ベルリンに留学。「インド・ヨーロッパ諸語における元書の母音体系についての覚え書」を出版。
1880年 ライプチヒ大学の学位論文(哲学)は「サンスクリットにおける絶対属格の用法」。
1881年 パリに出て、高等研究院の講師。
1891年 スイスへの帰国に際し、10年間の功労を讃え、フランス政府よりレジヨン・ドヌール勲章が授与される。
1892年 34歳で結婚。
1896年 ジュネーヴ大学専任講師。
1907年 第1回目の一般言語学講義。音声学の原理と異変言語学。
1908年 第2回目の一般言語学講義。序説と印欧言語学の概観。
1910年 第3回目の一般言語学講義。フランス学士院特別会員に推される。
1913年。2月22日、死去。
(小松英輔 編 相原 奈津江・秋津 伶 訳 2003 『一般言語学第三回講義 エミール・コンスタンタンによる講義記録』, エディット・パルク. 後袖より)

■主な単著
◆Bally, Charles et Sechehaye, Albert 1949 Cours de Linguistique Generale.
=小林 英夫 訳 19400301 『一般言語学講義』, 岩波書店, 495p.
=198601 ISBN-10: 4000000896 ISBN-13: 978-4000000895 \4515 [amazon]/[kinokuniya]

◆Saussure, Ferdinand de 1908-1909 Cours de Linguistique Generale.
=山内 貴美夫 訳 19710425 『ソシュール 言語学序説』, 勁草書房, 252p.
=1984 272p. ISBN-10: 4326150165 ISBN-13: 978-4326150168 \2625 [amazon]/[kinokuniya]

◆Riedlinger, d'Albert 1907 Premier Cours de Linguistique General.
=小松 英輔 編相原 奈津江・秋津 伶 訳 20080327 『一般言語学第一回講義 リードランジェによる講義記録』, エディット・パルク, 317p. ISBN-10: 4901188062 ISBN-13: 978-4901188067 \3675 [amazon]/[kinokuniya]

◆Riedlinger, d'Albert et Patois, Charles 1908-1909, Deuxieme Cours de Linguistique General.
=小松 英輔 編 相原 奈津江・秋津 伶 訳 20061101 『一般言語学第二回講義 リードランジェ/パトワによる講義記録』, エディット・パルク, 317p. ISBN-10: 4901188054 ISBN-13: 978-4901188050 \3675 [amazon]/[kinokuniya]

◆Constantin, d'Emile  1910-1911, Troisieme Cours de Linguistique General.
=小松英輔 編 相原 奈津江・秋津 伶 訳 20030222 『一般言語学第三回講義 エミール・コンスタンタンによる講義記録』, エディット・パルク, 311p. ISBN-10: 4901188038 ISBN-13: 978-4901188036 \3570 [amazon]/[kinokuniya]

◆Saussure, Ferdinand de 1993 Trisieme cours de linguistique generale(1910-1911) (d'apres les cahiers d'Emile Constantin),Pergamon Press.
= 編:小松 英輔 訳:相原 奈津江・秋津 玲,20090306 『一般言語学第三回講義〈増補改訂版〉――コンスタンタンによる講義記録+ソシュールの自筆講義メモ』,エディット・パルク,335p. ISBN-10: 4901188070 ISBN-13:978-4901188074 \3675 [amazon]/[kinokuniya] ※

◆―――― 1910, 3 eme Cours de Linguistique Generale.
=影浦 峡・田中 久美子 訳 20070327 『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』, 東京大学出版会, 210p. ISBN-10: 413080250X ISBN-13: 978-4130802505 \3150 [amazon]/[kinokuniya]

■関連書・研究書
◆丸山 圭三郎 19810715 『ソシュールの思想』, 岩波書店, 384p. ISBN: 4000012207 ISBN-13: 978-4000012201 \4200 [amazon]/[kinokuniya] ※

◆丸山 圭三郎 1983 『ソシュールを読む』, 岩波書店, 340p. ISBN-10: 4000048724 ISBN-13: 978-4000048729 \2520 [amazon]/[kinokuniya]

◆丸山 圭三郎 1985 『ソシュール小事典』, 大修館書店. ISBN-10: 4469042439 ISBN-13: 978-4469042436 \2940 [amazon]/[kinokuniya]

◆Starobinski, Jean 1980, Words upon Words: Anagrams of Ferdinand de Saussure, Yale Univ Pr, 160p.
=金澤 忠信 訳 2006 『ソシュールのアナグラム――語の下に潜む語(叢書 記号学的実践)』, 水声社, 311p. ISBN-10: 4891765801 ISBN-13: 978-4891765804 \2625 [amazon]/[kinokuniya]

◆前田 英樹 訳 1991 『ソシュール講義録注解(叢書・ウニベルシタス)』, 法政大学出版局, 193p. ISBN-10: 4588003453 ISBN-13: 978-4588003455 \2835 [amazon]/[kinokuniya]




*作成:岡田 清鷹



『ソシュールの思想』

丸山 圭三郎 19810715 岩波書店,384p.

last update: 20171027

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■丸山 圭三郎 19810715 『ソシュールの思想』,岩波書店,384p. ISBN:4000012207 ISBN-13: 978-4000012201 4200 [amazon]/[kinokuniya] ※

■内容(本書のカバー折込部分より)

近代言語学の父、ソシュール。だが広く流布したその像をこえて、彼の仕事は何処に全体像を結ぶのか。言語機能と人間精神の関係への多様な思索は、人間諸科学の方法論と認識に実体概念から関係概念へというパラダイム変換を促し、構造主義以降現代まで、20世紀後半の思想の共通基盤を造った。本書は「一般言語学講義」原資料に拠って、原初の記号理論と思想の本質を明らかにする。精密な実証的裏付けと、神話やアナグラム研究の初の紹介とは、ソシュール研究の決定版として今後の眺望を拓くことになろう。

■目次

まえがき
Ⅰ ソシュールの全体像
第1章 ソシュールの生涯とその謎
 1 家族と幼年時代(1857―1869)
 2 処女作「諸言語に関する試論」と《鳴鼻音》の発見 ――中等学校時代(1869―1875)
 3 『覚え書』と学位論文――大学時代(1875―1880)
 4 パリ時代(1880―1891)
 5 ジュネーヴ時代(1891―1913)
第2章 『一般言語学講義』と原資料
 1 ソシュール批判
 2 『講義』の成立事情と、原資料
第3章 ソシュール理論とその基本概念
 1 言語能力と社会制度と個人
   ランガージュとラング ラングとパロール
 2 体系の概念
   価値体系としてのラング 連辞関係と連合関係 共時態と通時態
 3 記号理論
   言語名称目録観の否定 シニフィアンとシニフィエ 形相と実質
   言語記号の恣意性 記号学と神話・アナグラム研究


Ⅱ ソシュールと現代思想
第1章 ソシュールとメルロ=ポンティ ――語る主体への帰還――
 1 ムーナンのメルロ=ポンティ批判
 2 コトバの非記号性
 3 経験主義批判
 4 主知主義
 5 真の命名作用
第2章 ソシュールとテル・ケル派 ――貨幣と言語記号のアナロジー――
 1 ソシュールの用いた比喩
 2 テル・ケル派の解釈と批判
 3 ラングの価値とパロールの価値創造
第3章 ソシュールとバルト ――記号学と言語学の問題をめぐって――
 1 バルト批判
 2 ソシュールの記号学
 3 《原理論》としての記号学と、《構成された構造》の記号学
第4章 ソシュールとサルトル ――言語の非記号性と意味創造――
 1 非記号の記号化と、記号の非記号化
 2 言語の内在する意味
 3 外示(デノテーション)と共示(コノテーション)


Ⅲ ソシュール学説の諸問題
第1章 ラングとパロールと実践
 1 ラング概念の多様性
 2 パロール概念の多様性
 3 《構成された構造》と《構成する構造=主体》
 4 《構成原理》の次元
 5 個人的実践とパロール
第2章 シーニュの恣意性
 1 パンヴェニストのソシュール批判
 2 外的必然性と記号学的恣意性
 3 分節言語の自立性と恣意性
第3章 言語における《意味》と《価値》の概念
 1 二重のソシュール現象
 2 『講義』自体に見出される疑問点
 3 ピュルジェの仮説
 4 二つの実現
 5 価値と意義(シニフイカシオン)と意味(サンス)

 参考文献
 ソシュール手稿目録
 ソシュール著作目録
 事項索引
 人名索引

■引用

P. 27
言語記号そのものより記号間の差異であり、それが対立的価値の働きを構成する
P. 44
その一つは、ソシュール思想の根柢をなす《ラング》と《パロール》の概念規定に関わるものである。たとえばラングのもつ社会制度というアスペクトと示差的価値体系というアスペクトとは矛盾しないであろうか。言語はそのあらゆるレヴェルにおいて変異体(ヴァリアント)をもっているが、変異体というのは示差的機能を有していないので、社会的制約もまた蒙らないのが原則である。ところがこの拘束を受ける《結合変異体variante combinatoire》は、ラングによって義務づけられ、個人の自由にならないという意味では制度的である一方、音素とは違って弁別機能を持たないため示差的ではない。それでは結合変異体は強制されたものとしてラングに属するべきか、非示差的なものとしてパロールに属するべきか。また社会制度に対立する個人の言行為として捉えられる活動としてのパロールと、形相(フォルム)に対する実質、本質的(p. 44)構造に対する物理的顕在現象でしかないパロールとを、同一概念として扱ってよいかどうか。
いや一言にしていえば、ソシュールにおいてすべてが両義的なのは何故か。言語記号(シーニュ)の不分離性(=言語表現と意味の一体化)とその二重性(シーニュはシニフィエ、シニフィアンからなる)、言語記号の必然性とその恣意性、言語の不易性と可易性、ラングの現実性と抽象性、さらにはパロールの創造性と没意味的物質性、等々の逆説的真理はどこから生まれるのか。(p. 45)
P. 46
周知のごとく、この書が外国語に翻訳されたのは、日本における小林英夫氏のものがはじめてである。出版の十二年後である一九二八年に、『講義』は『言語学原論』という題名のもとに岡書院から訳出され、のちにその版権が岩波書店に移って一九四〇年にはその改訳新版が登場し、さらに一九七二年にその題名を『一般言語学講義』と変えた改版が出された。今でこそ現代言語学の元祖であるとともに、ひろく人間科学一般にわたる方法論とエピルテモロジーにコペルニクス的転回をもらたしたソシュールの評価は高まる一方であるが、当時はお膝元のヨーロッパにおいてさえごく一部の専門家の間でしか話題とならなかった。日本語訳についてドイツ語訳がなされ(一九三(p. 46)一年)、ロシア語訳が続き(一九三三年)、さらにスペイン語(一九四五年)に訳されたものの、アングロ=サクソン系の最初の翻訳は、一九五九年まで出されなかったのである。これに続いて、ポーランド語(一九六一)、ハンガリア語(一九六七年)、イタリア語(一九六七年)、スウェーデン語(一九七〇年)とさまざまの国語に訳される(p. 47)
P. 79
ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力およびその諸活動をランガージュlangageとよび、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングlangueとよんで、この二つを峻別した。前者はいわば《ヒトのコトバ》もしくは《言語能力》(p. 79)と訳せる術語で、これこそ人間文化の根柢に見出される、生得的な普遍的潜在能力である。まことに、ヒトがhomo faberでありhomo sapiensであるためには、まずhomo loquensである必要があったし、ランガージュの所有は、その間接性、代替性、象徴性、抽象性によて人間の一切の文化的営為を可能にせしめた。レヴィ=ストロースLevi-Straussは、自然と文化の境界線を《道具》の存在の中に見る従来の定説をくつがえし、《コトバ》の所有のうちにこそ、人間の真の飛躍があると言っているが、この考え方はソシュールの次の発言に照応している。
 ランガージュは、人類を他の動物から弁別するしるしであり、人類学的な、あるいは社会学的といってもよい性格をもつ能力と見做される。
これに対して、ラングは一応《言語》という訳があてられる概念で、ランガージュがそれぞれの個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自の構造をもった制度である。この普遍性と個別性・特殊性とはいささかも矛盾しない。たとえば、家族制度というものはどんな人間集団にも共通して認められる普遍的な特徴となっているが、民族や時代の違いでさまざまな形をとって現われるように、ヒトのコトバも、その機能に関しては同一でありながら、別の言語共同体に属する人々(たとえばスワヒリ語を話す人々と日本語を話す人々)がお互いに伝達しあうことは不可能に近い事実を想起しよう。換言すれば、ランガージュは自然に対置された人間文化la cultureの源であり、ラングは社会との関係においれ歴史的、地理的に多様化している個別文化les culturesにあたるのである。(p. 80)
P. 88
第一のパロールは、全く物理的・偶然的な現象に過ぎず、厳密な意味では科学の対象にはなり得ないもので、データとしての意味しかもたない副次的行為である。ソシュールがベートーヴェンのソナタやシンフォニーをラングに譬え、その演奏をパロールに譬えた時のパロールがそれで、まさに「一つのシンフォニーはその演奏なしにも存在する現実である。同じように、ラングの中に与えられているもののパロールによる実行は、非本質的」であると言えよう。もし、パロールがこの現象だけであったら、《二つの言語学》の必然性は失われ、言語学はラングの言語学の同義語にならざるを得ない。事実、「生理的音声は言語学に属さず、……言語学の補助的な学である」と断言しているソシュールは、第二のパロールの重要性を知っていればこそ、パロールの言語学に言及したのであった。
第二のパロールは、ひとり類推的創造の源となるばかりでなく、個人の言行為が、あらゆる瞬間に世界の再布置化であり新しい価値の創造である点において第一のそれとは比較にならない重要性をもち、第Ⅱ部で詳しく見るように、メルロ=ポンティの言う言語の創造的使用とコノテーションの問題に深く関わっているのである。
さて、この項を終える前に、もう一つだけ押さえておかねばならないのは、ラングという概念も多義的であるという事実である。先に、「一応」と断ってラングを「言語」と訳したのもそのためで、私見によれば、ラングは次の三つの概念に分けられよう。第一は、ソシュールがles kanguesと複数形で用いたラングであり、これが「諸言語」、「諸国語体」と訳される、現実の自然言語の謂である。第二は、ソシュールがla langueと単数形で用いたラングで、これは前者の一般化から帰納される普遍的事象をさす。もちろん、ソシュールも注意深く断っているように、これとランガージュを混同してはならない。ランガージュは普遍的存在とはいっても、あくまでも生得的な構造化能力であり、構造でないことはすでに見た通りだからである。
P. 89
第三のラングは、この章の後半でも再びとりあげる記号学的原理であって、ソシュール的なラング、パロールの分岐をもつ方法論およびエピステモロジークな重要性(p. 89)は、ここに至ってはじめて見出されるのである。すなわち、ラングが社会制度の一つではなく、社会が、そして文化総体が、一つのラングとして捉えられる記号学的認識であって、ホイットニーからソシュールへの矢印を、ソシュールから(ヤーコブソンを介して)レヴィ=ストロースの方向へ逆転せしめたものとも言えるであろう。(p. 90)
P. 98
さて、以上に見てきたような言語、ひいてはこれを根柢とする文化の構造(=体系)を研究するにあたっては、即自的な実体ではなく、言語主体の視点から生ずる関係の網を対象とせねばならないことは当然であろう。ソシュールはこの関係が二つの異なった次元に見出されることに気づいていた。彼によれば、「ある語が隣接し、配列され、近づけられ、他の語と接触する様式は二つあり、これを語の二つの存在の場、もしくは語同士の間の関係の二つの領域と呼ぶことができる」のである。
第一の関係は、《顕在的》な連辞関係rapport syntagmatiqueと呼ばれるものである。話された(または書かれた)言葉は、時間的(または空間的)に線状の性質をもっており、その発話内に現われた個々の要素は、他の要素との対比関係におかれてはじめて差異化され意味をもつ。英語に具体例を求めるならば、I saw a boy. という文中で、sawがseeの過去形であることがわかるのは、Iに先立たれa boyが後続しているからこそであり、もしその前にtheとかmyといったような限定辞が来ればsawは名詞の「のこぎり」という意味になってしまう。……このように個々の語のもつ意味と機能を決定する第一の関係は、与えられた一定にコンテクスト内で直接観察されるものであり、ソシュールはこの結合グループを連辞suntagmeと呼んだ。この連辞は従来の句や節および文といった統辞論上の単位のみならず、語の下位要素の結合をも含めるもので、形態論と統辞論の壁をとりはらった画期的発想である。
第二の関係は、各要素と体系全体との関係で、その場に現われる資格は持ちながらもたまたま話者が別の要素をす/でに選択してしまったためそのコンテクストから排除される要素群との《潜在的》な関係である。先に挙げた例を使うならば、I saw a boy. のsawの位置を占め得たであろうmet, hit, lovedなどという同系列要素群との関係とも言えよう。文法的にはsawの位置を占める資格がなくても、その形の上の類似からpawやlawなどを連想したり、「のこぎり」という意味のsawから、carpenter, chisel, planeなどを想起する場合がそうである。これらは現実の文には現われず、同一コンテクスト内では相互排除、対立の関係にある。ソシュールはこれを連合関係rapport associatifと呼び、のちにイェルムスレウが範列関係rapport paradigmatiqueという術語に言いかえた。この新しい術語によって、ソシュールの考えていた「イメージの帯」という豊かな発想が幾分とも損なわれたのは残念なことと言わねばならない。確かに範列も、連合関係におかれる一つの関係ではあるが、連合関係には、まだほかにいくつもの意識的、無意識的連合の絆が存在するからである。
P. 102
ソシュールの言う連辞の型とは、換言すれば諸要素の連辞結合の規則にほかならず、のちの生成文法学派が唱える《回帰的規則recursive rule》や、テニエール用語の《結合価valance》をも含めた携帯、統辞の両領域をカヴァーする規則である。
P. 110
このように、ソシュールの提起した方法によれば、時代の移り変わるさまざまな段階で、まず共時的断面に目を据え、その俯瞰図と俯瞰図とを検討することによって体系総体の変化をたどるのが通時言語学であるということになる。
P. 113
通時的一連の事実の変化のなかには、共時的体系に結果的に影響を与える関与的変化と、共時的構造に何等の影響を及ぼさない非関与的な変化があるのは何故であろうか。自然界においては、すべての変化が、たとえ個別現象の連続であっても、その体系に影響を与えずにはおかない。個の価値は、その絶対的特性によって与えられ、個の集積と運動が、全体を形成しているからである。自然の次元においては、要素の同一性と差異は、その積極的(ポジテイヴ)な辞項間に樹立される。実質が変化すれば関係が変化するのであり、差異は客観的な差異でしかない。ところが、コトバを根柢におく文化の世界においては、差異を対立化するのは人間の視点であり、主体の意識である。共時態における同一性と差異の基準は、その体系内の他の共存辞項との対立であり、この対立を現象として生み出すのは言語主体の意識以外の何ものでもない。先にも述べたように、言語体系内の単位とは、この差異を対立化する現象の同義語なのである。
P. 114
これに対して、通時的同一性なるものは、言語主体の意識を逃れている。その基準は、形相(フォルム)(=体系内の関係)ではなく、実質(シュプスタンス)の次元にある。上古時代の「つま(妻・夫)」と現代の「つま(妻)」を同一の語と考えるとすれば、これは意味の実質が変ったにも拘らず音的実質の同一性が保たれているという事実からであり、平安時代の「いたつき」と現代の「病気」を同一の語と考えるとすれば、これは音的実質が変ったにも拘らず意味の実質が同一という事実からである。いずれの場合にも、シニフィアンとシニフィエが分離された抽象の実質(シュプスタンス)における同一性であり、言語学の対象とはならない。しかも、言語とはその話し手によって史的事実である以前に意識事実である。「つま」の意味的変遷も、「いたつき」と「病気」の意味的絆も、一般に言語主体には国語学者から知らされるまでは意識されないものなのである。これはちょうど、ある音素のさまざまな変異体が、言語主体にとっては意識されず、意識されるのは音素間の対立のみであるという事情と同じであろう。ソシュールが《具体的なもの》と呼んだのは、語る主体に感じられるもののことであり、これが唯一の表意的事実、言語現実であって、触知可能な物理的・客観的事象を《具体的なもの》と考えていたのでは全くなかった事実を忘れてはならない。「言語において具体的なものは、語る主体の意識にあるものすべてのことである。」
P. 119
我々の常識は、記号(シーニュ)とは「自分とは別の現象を告知したり指示したりするもの」と考え、日常的な経験から、たとえば黒雲が嵐を予告するシーニュ、煙が火のシーニュ、三十九度の熱が病気のシーニュであるのと同じように、コトバは事物や概念のシーニュであると思いこんでいる。ところが、こうした一般常識に反して、「コトバは《記号》ではない」という認識がソシュール思想の根底にあることを忘れてはならない。もちろん、コトバは結果的には《構成された構造》内で記号の様相を呈する。しかし、コトバ以前には、コトバが指さすべき事物も概念も存在しないのである。先に見たように、言語が名称目録でないという事実は、コトバが、既に区切られた言語外現実を指し示すものではなく、一次的には、自らのうちに意味を担っているという理論を導き出す。換言すれば、言語記号signe linguistiqueは、記号と呼ばれていても他の一切の記号と異なって、自らの外にア・プリオリに存在する意味を指し示すものでは決し(p. 119)てなく、いわば表現と意味とを同時に備えた二重の存在であるということである。(p. 120)
P. 124
ソシュールは、こうしてコトバに意味を奪回した。言語記号は、自らに外在する意味を指し示す《表現》の道具であることをやめた。しかし、ソシュールはさらにこれをとことんまで追求する。この取り戻した意味の源泉は何か。これこそラングという体系に依存する価値にほかならない。そしてその価値は、一つには言語主体が樹立する差異の対立化活動から生まれ、二つにはこの実践が獲得する社会性に裏づけられて確立される。
P. 136
そもそも、ラングに内在しラングなる価値体系を支えている二つの関係、すなわち連合・連辞関係は、それぞれの領域における差異化活動の原理であると言えるであろう。連合関係は潜在的かつ同時的意識の次元、連辞関係は顕在的かつ線状的空間(時間)の次元において。言語主体の意識は、辞項の差異と関係しか知覚せず、したがって、別々に分けられたシニフィアン、シニフィエとか、個々の辞項といった、他の辞項との関係を捨象した個別抽象体は意識の領域に達しない。つまりそんなものは、もともと存在していないのである。
P. 137
先にも述べたように、形相と実質の対立はシーニュの内容面にも見られることは言うまでもない。自然言語に限って言えば、実質は音的実質と意味的実質の二つに分けられよう。そのいずれも、言語の網(形相)を投影させない限り、どこに区切りを入れようもない連続体であって、それ自体は体系と無関係な存在である。音的実質が、人間によって発声可能なすべての物質音であるとすれば、意味的実質は、人間によって体験可能なすべての非言語的現実である。ラングは、形相を通してその両面に区切りを入れ、一方では物質音を対立関係におき、他方では非言語的現実を概念化する。この対立音のイメージと概念の一体化したものが言語記号であり、言語主体はその一方だけを切り離して意識することはできない。
P. 142
言語の中には差異しかない。それでは、意味はどこに求めたらよいのであろうか。ソシュールによれば、コトバの意味は、綴織と同じように差異と差異のモザイクから生まれるのである。「言語は音のイメージと、心的対立の上に成り立つ体系である。綴織に譬えてみよう。重要なことは、一連の視覚印象なのであり、色調の組合わせが織物の意味を形成するのであって、糸がどのように染められたかというようなことではない。」……綴織の材料である糸の物質性や、その製造法、色の染め方は実質に属し、非関与的なパロールであっても、言語主体がそれらの差異を用いて対立化させ、差異のモザイクを創り出す行為は形相化活動であって、第二のパロール活動にあたる。《実質》の対置概念は《関係》であると同時に結果として関係の網を生み出す《関係づくりの活動》でもあるのだ。……ドレミファソラシドという音階は純粋な関係に過ぎず、ドはそれ自体では何の意味も担っていない。しかし示差的である。ドはレでなく、レはミではない。この音階を用いて作曲家が一つのメロディを生み出した場合に、はじめて作曲家の意味志向が分節されて一つの意味が生れる。あらかじめ分節された即自的(アン・ソワ)な意味が存在し、人がそれを発見し、《実質》を用いてそれを表現するのではない。内容面における《実質》というものは、それがイェルムスレウのパーポートという意味である限り、我々の生きられる世界、生体験、意味志向なのであって、この意味志向には、志向性はってもまだ分節されない連続体であるそこに言語の網をかける時に、この網が投影さ(p. 142)れて影が映ることも、その時に切り取られる形、影によって縁どられたパーポートが、もう一つの実質すなわちイェルムレウの言うシュプスタンスであることも先に述べた。ソシュールの《実質》の対置概念は、言語の網《形相》であると同時にこの網を投影させる活動、さらには網自体を創り出す活動をも意味していることを再度強調しておこう。ここにこそ、網状組織としてのラングと、網を裁ち直すパロールの相互依存の接点が見出され、コトバとは「関係」と「動き」であるというソシュールの命題の正当な位置づけが、《形相(フォルム)》と《形相化》という概念を通してなされるのである。(p. 143)
P. 144
ソシュールの述べた恣意性は、実は次の二つの意味を持っているのだが、そのいずれもが言語内の問題であることを忘れてはなるまい。
第一の恣意性は、記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエとの関係において見出されるものである。つまり、シーニュの担っている概念xと、それを表現する聴覚映像yとの間には、いささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であ……る。
P. 145
これに対して、第二の恣意性は、一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(?)に見出されるもので、個々の辞項のもつ価値が、その体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。具体的に言えば、英語のmuttonの価値がフランス語のmooutonの価値とは異なる、その異なり方の問題で、その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという、その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。すでに見てきたように、ラングは一つの自立的体系であって、その辞項の価値は、言語内現実の中に潜在する価値が反映しているのではない。その区切り方の尺度は、あくまでもその言語社会で恣意的に定められたものであり、自然法則にはのっとっていないのである。ソシュールはこの第二の恣意性を《価値valeur》の概念とともに導入している。
P. 147
第二の恣意性すなわち価値の恣意性は、価値を生ぜしめる二つの関係に見出される。まず潜在的な連合関係に見られる恣意性は、その体系内における概念の配分と大きさの恣意性である。……「等価性を持つと見做される単語のそれぞれは、意味内容の微妙な差異を持ち、その単語が属している言語の外では、これに対応するものはないことが明らかになる。ある言語を所有することによって観念の練り上げが条件づけられる限り、また言語がすべて独自の、他とは混同されない歴史的特性を持っている限り、観念と人間の知識は何か時間の外にあるというものではなく、時間の中に浸りきった、人間共同体の経験の結実」であり、同一共同体内の個人ですら自らの語る意味内容を正確に他人に伝えられるとは言えないのであるまいか。
P. 161
《二重分節》というのは、言表ないしは信号がそれより小さい記号に分析され(=第一次分節)、さらにその記号表現面(=シニフィアン)が、その内容面に対応因子をもたない《形成素figure》へと分析される(=第二次分析)ことの謂である。換言すれば、内容面の最小単位は必ず表現面にその対応物を有するが、表現面の最小単位は内容面にその対応物を見出さない。
P. 200
ソシュール言語学の見地に立てば、分布主義にはいくつかの根本的誤謬が見出されるが、中でも最も大きいものは単位(ユニテ)の決定に関する問題である。分布主義はその定義からして、言語の諸単位があらかじめ存在していることを前提としており、その単位を発見し分布を知って全体の構造に至ろうとするタクシノミーにほからならないが、ソシュールの考えでは、コトバの要素は決してア・プリオリに与えられているものではなく、その要素が属する体系とともにしか見出されない。これはラングなる体系が、自然の潜在構造の反映ないしは敷写しではなく、人間の参加、社会的実践によってのみ決定される価値体系であるからにほかならない。確かにラングはそれが体系である限り、不連続な単位の存在を想定する。しかしその単位(ユニテ)は、自然の中に見出される実体ではないのである。
P. 201
   確かに書こうと決意する人間は、過去に対して彼だけが持っているような何らかの態度をとるものだ。文化というものはすべて、過去を継承する。……言語活動は、過去を超えるだけに満足せず、過去を要約し、回復し、実体として保持しようとする。
人間的事実=文化の構造は、正確には客観的でない。自然が法則の宇宙であるとすれば、文化はまさに尺度の宇宙である。まず存在するのは視点であり、その視点をどう選びとり主体的に事件を構成していくかが問題なのである。人間はモノをコトに仕立てあげ、過去の事実を歴史に変える。人は世界に意味を与えると同時に世界から意味を与えられ、すべての個人は世界を全体化する。
P. 224
パロールにおけるラングの現働化は、それ自体が二重であるという事実である。パロールは、一、形相の実質化(物質的表現)と、その正反対の、二、実質の形相化(生産活動)という逆説的二面性を有している。すなわち、
一、ソシュールが《音声作用phonation》と呼ぶパロールがそれで、これはシニフィアンをラングの規範と慣用の拘束下で物質化する行為である。文字通りラングの形相を実質化する無意識的作業であって、語る主体の意志はほとんど反映されない。メルロ=ポンティの言う、言葉の経験的使用がこれにあたり、ラングを曲に譬えれば、この種のパロールは既成の曲の機械的演奏である(芸術活動の一と考えられる真の演奏については別に考えたい)。
二、ソシュールが《結合combinason》と呼んだ言語行為がそれで、のちにヤーコブソンが《選択selection》という概念で補ったパロールの活動である。これは語る主体がラングのシーニュを範列軸のなかから選びとり、それを連辞軸において、言述(ディスクール)、さらにはテクストとしてつくりあげる活動である。これはその主体が《生きられる世界》である意/味の実質を《コトバの宇宙》に変える働きであり、意味志向の状態にある《沈黙》に表現を与え、それを分節化し意味化する――すなわち形相化する行為にほかならない。メルロ=ポンティの言う、言葉の創造的使用がこれにあたり、ラングを曲に譬えれば、この種のパロールは作曲活動である。
P. 232
確かに指標indiceと信号signalをあたまから同一視することはできない。だが、指標には自然的指標(たとえば、空の呈する色と天候、三十九度の熱と病気の関係など)と人工的指標(信号やパントマイム、身振り、祭儀、さらには文学作品、造形美術作品、音楽、映画など)があるのであって、後者は必ずしもコミュニケーションの意図をもつ指標とのみは断定できず、むしろ潜在的・無意識的表意作用をもつ指標の方がわれわれの行動をより大きく左右していることを忘れてはなるまい。別のいい方をすれば、一方にコードを照らし合わせて解読decoderされる人工的指標(=信号)があり、他方にはコードのメカニスムとは無関係に解釈interpreterされる人工的指標がある。文学作品が解読されるべきものではなく解釈されるべきものであることは常識であろう。これはデノテーションとコノテーションの対立であり、ルポルタージュ言語と詩的言語、さらには、透明な《道具としてのコトバlangage-instrument》と不透明な《対象としてのコトバlangage-objet》の対立でもある。いずれも同等の資格で《文化のコトバ》である。
P. 237
著者がすでにくりかえし述べたように、言語の本質はその《非記号性》にある。すなわち、ア・プリオリに切り取られ秩序づけられている《モノ》を指さすのではなく、連続体としての意味のマグマに働きかけてこれを非連続化し、概念化し、カテゴリー化するのが言語の本来の働きである。しかし同時に、言語記号が、自らの内に含むシニフィエを通して言語外現実を指さすということもまた、記号行為を成立させるための必須条件である。この逆説的真理の解明は、ソシュールの思想を解く大きな鍵の一つであって、これこそ、「コトバはすでに区切られた事物を指さしはしないが、自らが切り取ったものを、二次的に指さす」事実の指摘にほかならず、二次的に指さされている指向対照referentは、言語によってしか生れない《コト》である点を忘れてはならない。すなわちここで言う《コト》とは、言語の網formeが意味と音のカオスpurportに投影された結果はじめて生ずる実質substanceであり、これが社会の言語外現実、すなわち《構成された構造》の実質を形成しているのである。
P. 247
ソシュールの指摘をまつまでもなく、言語とは一つの社会制度であり、いくつかの位相を持つ集団的言語活動が、そこからそれぞれの集団における主体的な価値意識が捨象され対象化されたものとしての姿を呈している。それは一言語共同体に属する個人が否応なしにくりこまれてしまう規制の構造であり、一切の生体験がそのラングのシュマによって分節され条件づけられる。そこでは《意味》はもはや人間的意識が産出するものではなく、あらかじめラングによって決定されラングに内在しているものとして人間はそれに支配される。コトバは人間の産物であり、その意味は生産し得るものであるはずなのに、我々は生れ落ちてから一度も意味生産に参加したという自覚を持たない。類としての人間の創造物であるはずのコトバが、個としての人間にとっては既成の支配物となって現われ、我々はまさに自分と無縁な意味にとりかこまれる存在となる。
P. 254
ソシュールの、そしてその記号(シーニュ)理論をさらに発展した形で継承したメルロ=ポンティの理論におけるコトバは、実はこの第二次言語であった。しかし、最後に述べておかねばならぬ最も重要なこととして、ソシュールたちの主張は、いわば一時的な日常的な言語を止揚した文学言語が第二次言語であるというのではさらさらなく、第二次言語と呼ばれているものこそ本質的なコトバの姿であり、それが惰性化したものがいわゆる第一次言語であるという認識の定立化にほかならない。コトバは本質的には非記号的なものであるため、自らの誕生と同時に意味をもつ。言語外現実に働きかけてそれを切り取った瞬間瞬間にコトバの表現が完了し、それまでは存在しなかった意味が生れるのである。この行為の過程こそ本来のパロール活動であって、ラングはその結果に過ぎないにもかかわらず、実践的惰性態と化したラングの現実は巨大なシメールとなって個人の上にのしかかっている。いわゆる第一次言語はコトバの本質を隠(p. 254)蔽しながら我々の日常の生活を支配し、規制する。コトバが記号の姿を呈し、我々はその指さす先になる既成の意味世界を追いながら一つ一つ名を覚えさせられていく。これは虚像の意味世界であるが、それが虚像であることは一般には意識されない。一見そこに見出される必然は、自然的動物である人間を支配する自然の法則であるかのようにさえ思われる。生れ落ちたときから制度化された言語現実の中に身を置き、ラングによって外から規制されながら主体的価値意識を抑圧されている我々は、その拘束が《自然的必然》と同質のものと考えてしまい、そう錯覚することによって自らの内なる自然をも蝕んでいく。(p. 255)
P. 268
ラングの多様性の中でも、さらに問題をしぼってみると、社会制度としてのラングと記号学的価値体系としてのラングという二つのアスペクトが浮かび上ってくる。
まずラングとは、ホイットニー的な意味での社会制度である。個々の言行為であるパロールに対してラングとはこの社会的条件装置であり、人間のもつ潜在的言語能力の社会的産物である。それは集団の同意によって認められてはじめて成立し、個人は社会生活を通していわばこれを受動的に蒙るものである。ラングとは、ランガージュ能力の行使を個人を許すべく社会が採り入れた、必要な契約の総体である。したがって、社会制度としてのラングのもつ本質は、個人への規制の中にこそ最も顕著に見出される。パロールが個人的な意志と知能の働きであるのに反し、ラングの方は社会の制約という形を呈している。個人はひとりでこれを創ることも変えることもできない。このことは、……「原語の恣意性」という問題とも当然関わるが、この意味のラングにおいては、言語ほど必然(p. 268)なものではないと言えるであろう。(p. 269)
P. 269
第二のアスペクトは、一つの価値体系として捉えられたラングであって、ソシュールによればこれは社会制度としてのラングが同時に有するもう一つの特性である。この価値は、自然的事物のもつ絶対的特性によって定義される即自的価値ではなく、体系内の他の辞項との共存と対立から生れる相対的・否定的価値にほかならない。体系を離れてア・プリオリに存在する積極的意味も音のイメージもないのであり、あるものは相互間の差異だけである。
……
この差異という概念は、ソシュールにおいて記号の恣意性の原理と切り離すことができない。恣意性と示差性は相関的特性なのである。恣意的な記号は差異の上にのみ成立する。ある観念に対してある音のイメージを結びつけるのが恣意的なのではなく、無定形な意味と音を同時に切り取る、その切り取り方が恣意的なのであって、もしそうでないとしたら、価値の概念は自然の中に見出される絶対的要素を含むことになり、非社会的特質に裏づけられるものとなってしまうであろう。
P. 280
著者が、《構成された構造》であるラングに対置して《構成する構造=主体》と呼んだパロールのもつ社会性がこれであって、くり返すまでもなくこのパロールは単なる生理的発声現象や物理音といったシュプスタンスとは違い、一つの構造を有するものである。これは、イディオレクトの概念にも近い、個人の価値観やイデオロギーを支える言語・意識構造にほかならないが、これまた当然のこととして既成のラングという大きな構造の中にくりこまれ、否応なしに規制されている構造でもある。一方においてラングはパロールの産物として成立し、他方においてパロールはラングに規制されるように、この二つはつくり作られる永続的な相互依存関係におかれている。このパロールこそは、物質的なものに働きかけて、それをのり超え、しかもそれを保有しながら、具体的実践を行なう個人の社会行動の本質であり、歴史や社会の中にあってそれを動的なものにする《否定の契機、反構造的契機》である。またこの意味でのパロ(p. 280)ールとそれをくりこむラングとは、いわば同心円的であり、二つの逆の矢印が示すように、ラングによって規制されるとパロールと、逆にパロールによって変革されるラングの間に烈しい緊張関係が生ずると言うことができよう。(p. 281)
P. 306
「しかしコトバとエクリチュールは、事物の自然な関係に基盤を置いてはいない。」人間は他の動物と同じく生物学的に存在しながら、同時に記号学的世界に生きている。人間はしたがって、他の一切の動物とは異なり、環境に自分を適合させるというよりは、むしろこの表象的次元を介して環境の方を自分に適合するように《恣意的に》これを変形する。人間の周囲には、自然音とそれが言語の形相を通して変形された文化音がある、と言ってもよい。《語聾症surdie? verbale》という病気が知られているが、これは耳そのものの生理的故障とは全く関係なく、言語音のみに局限される症状で、話された語の意味が理解できない一種の失語症である。つまり、この(1)のシーニュの不分離性とあいまって、言語命名論と主知主義の否定の根拠でもあり、(2)の価値体系の概念が意味する言語の自立性とともに、経験主義否定の根拠/でもある。ア・プリオリに秩序をもち、カテゴリー化され、分類化された世界の潜在構造を、人間が言語を通して発見していくのではない。また言語が、その彼方にある思考とか知性のもつ《意味》をただ指さすものではなく、自らのうちに意味を担っているということは、のちにメルロ=ポンティの言葉を借りれば「コトバは意味を持つ」という認識であり、条件反射の道具や意味の転轍手に成り下がろうとしていた人間に、《語る主体》と《語る意味》を回復せしめたとも言えるであろう。コトバは観念の表現ではなく、観念の方がコトバの産物なのである。
P. 329
ビュルジェによれば、ラングは価値の体系であり、この《価値》は純粋に潜在的な実体で、これが具体的言述の中におけるさまざまな《意義》の現前を可能にせしめている。「意義を生み出す源が価値である」という考えは、まさにこの抽象的条件が、具体的・個別的実体を生み出す要因であるという意味に外ならない。また、フランス語のmoutonと英語のsheepは、その体系内の《価値》が異なりながらも、具体的連辞においては全く同じ《意義》をもつこともあり得るし、ここにこそ、価値体系を異にする言語からもう一つの言語への翻訳が可能である理由が見出されるのだ。《価値》はラングに属する形相であり、《意義》はパロールに属する実質(シュプスタンス)ということになろう。
P. 330
ビュルジェは、ラング自体がもつ潜在性と顕在性、抽象性と具体性という二重の性格を見落としている。潜在的なものはすべてラングに、それが現前され実行されたものはすべてパロールに属せしめることは、一見明快な区別であり、ソシュールの根底的区別である形相と実質に対応しているかのごとく思われぬこともない。潜在的実体である《価値》をラングに、それが条件となり源となって《意義群》をパロールに属せしめたのは、おそらく右のような論理に基づいているだろう。ところが、事実はそれほど単純ではないのである。
P. 333
本章で特に照射したい問題は、ラング自体のもつ《潜在性》、《抽象性》と《具体性》という二重の性格である。最も端的な例として言えることは、人間のもつ生得の普遍的な言語能力、抽象化・カテゴリー化・概念化の能力(p. 333)であるところのランガージュとの関係で考察されたラングは、前者があくまでも《潜在能力》であるのに対し、後者はそれが社会的に実現された《顕在物》であるという事実である。一方、この顕在的ラングも現実の言表に現われる個々の言行為であるパロールとの対比においては、《潜在的・抽象的条件装置》であって、決して具体的・物理的実体ではない。したがって、このラングとパロールの区別という視点に立つと、今度は前者が《潜在構造》であり後者はこれを顕在化し具体化したものと言えるであろう。このパロールの行為を《個人的実現realisation individuelle》と呼べば、先のラングの《社会的実現realisation sociale》との間に見られる。同じ実現のもつ位相の差が明確になってくるのである。(p. 334)
P. 335
以上から判明することは、ソシュールのラングには、①《形相》としてのラングと、②社会的に実現された《規範》としてのラングがあるという事実である。後者の具体性は、もちろんパロールの実質(シュプスタンス)とは異質のものであるが、純粋な関係の網である形相が社会的に実現された結果、一つには音的性格を持ち(原理的には、視覚・嗅覚・味覚・触覚といういかなる実現形式をとることも可能である)、二つには、その社会慣習が許容する変異体のみが強いられる(原理的には、いかなる差異でも対立化されさえすればよい)という意味で、一種の有形性を具えているラングなのだ。①の《形相としてのラングlangue-forme》は、イェルムスレウの《図式schema》と全く一致するのに対し、②の《規範としてのラングlangue-norme》は、イェルムスレルの《規範norme》と《慣用usage》の概念をあわせもったものであって、②は①が社会的に実現された実態である。ちなみに、イェルムスレウはソシュールのラング概念を次のように三分した。
   まずラングを考察することにしよう。それは次の三点から考察される。
  a その社会的実現と物質的顕現とは無関係に定義される、純粋な形相として(=図式)。
  b 特定の社会的実現によって定義されるが、なお顕現の細部には依存しない、物質的形態として(=規範)。
  c 特定社会において採用され、観察される顕現によって定義される、慣習の総体として(=慣用)。
P. 338
連辞関係と連合関係の問題を再び取り上げてみると、《形相としてのラング》に属する連辞関係は、連合関係と同じ資格で潜在的である。……組合せを可能にする結合規則そのものが、《形相としてのラング》の属する連辞関係であり、その規則によって実現される言表は、《規範としてのラング》に属する連辞である。連辞化された結果、確かに言表は一つの具体的コンテクストをもつが、これはあくまで言語的コンテ/クストに過ぎず、「文脈」と訳されるべきものであって、他の一切の状況と比べると、かなり抽象的なものにとどまっている。……いかなる現実の場で、誰によって、どのようあイントネーション、どのような声音で語られ、その対話者が誰であり、発話者といかなる関係にあるか、といったコンテクストや、さらにひろく、マリノフスキーB. Malinowski的な意味での《文化的現実のコンテクスト》、《状況のコンテクスト》といったコンテクストのもつ具体性と比較するだけで、連辞のもつ抽象性は明白であろう。右のような、文脈を除くすべての状況こそ、パロール次元における実現の場にほかならず、《規範としてのラング》の実現環境とは峻別されねばならない。
P. 345
この《意義》が絶対的自然の特性によって即自的に存在する実体でないことも忘れてはならないだろう。この歴史的・社会的産物は、《形相としてのラング》に属する恣意的《価値》に依存しているのである。

■書評・紹介

■言及


*作成:岡田 清鷹
UP: 20080605 REV: 20081115, 20090507,0730, 20171027
◇Saussure, Ferdinand de/フェルディナン・ド・ソシュール  ◇哲学/政治哲学/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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