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死ねないので本を読む

2024-12-31 10:14:15 | 🇫🇷文学
本文抜粋

『死にたいのに死ねないので本を読む: 絶望するあなたのための読書案内』(草思社)

  • 2021/11/11
死にたいのに死ねないので本を読む: 絶望するあなたのための読書案内 / 吉田 隼人
死にたいのに死ねないので本を読む: 絶望するあなたのための読書案内
  • 著者:吉田 隼人
  • 出版社:草思社
  • 装丁:単行本(264ページ)
  • 発売日:2021-10-29
  • ISBN-10:4794225385
  • ISBN-13:978-4794225382
内容紹介:
ホフマン、ボードレール、マラルメ、ニーチェ、ハイデガー、バタイユ、藤原定家、上田秋成、波多野精一、九鬼周造、塚本邦雄、三島由紀夫……。十六歳で自殺未遂を犯してから、文学書、思想書… もっと読む
学校生活に馴染めず、「どこか別な世界へ逃げ出したい」「一刻も早く死ぬほかに解決策はない」と死に囚われていた十六歳の高校生は、憑かれたように一冊の本に読み耽っていた――。

角川短歌賞・現代歌人協会賞受賞の歌人・研究者が、古今東西の名著のエッセンスを、読書時の記憶を回想するとともに紹介するエッセイ集から、自殺未遂の経験を描いた一篇をご紹介します。
 

十六歳の高校生に自殺未遂を犯させた一冊とは?

新進気鋭、才気煥発、といった感じのまだ若いフランス人哲学者に、指導教授が(もちろんフランス語で)ぼくをこんなふうに紹介した。「タンカという、日本の伝統的な詩があって、彼はその分野で若くして大変に重要な賞を獲得した学生なんだ……」。ハイカイ、という名前で第一次大戦後ぐらいからフランスでも幅広い知名度を獲得した俳句と違って、短歌というのは決して国際的に通用する用語ではないらしく、その哲学者は困ったような顔でぼくに言った。「ポエット? あなたはポエットなのですか?」
 

短歌を作ってはいても詩心とは程遠く、「現代詩手帖」に連載を持っていながらその実、現代詩の世界にはまったく蒙(くら)いぼくが初めて出会った「ポエット」は、御多分に漏れずというかなんというか、シャルル・ボードレールであった。しかしぼくはボードレールの名前を最初から「ポエット」の名前として了解していたわけではない。
 

あれはたしか中学一年生の頃、学校で配られた文庫本の注文票で欲しい本のところに丸をつけ、そのぶんの代金を専用封筒に入れて持っていくと、夏休み前ぐらいに注文した本が届くというシステムがあった。ろくに本屋もない田舎町の学校にだけ存在したシステムなのかも知れない。新潮文庫、角川文庫、集英社文庫の三社があったと思うが、右も左もわからないまま、漱石・三島・川端から乙一・村山由佳(当時は二人ともまだライトノベル作家という扱いだった)に至るまで片っ端から丸を付けて注文したので、どの版で誰の作品を読んだかまではよく覚えていない。ともかくそこで、先生からも周りの生徒からも呆れられるほど注文した大量の文庫本を抱えて帰り、間近に迫った期末テストの勉強を放擲して(点数がガタ落ちして父からぶん殴られたのはまた別の話である)濫読した中に芥川龍之介があり、たぶんその解説か何かに引用されていたのが『或阿呆(あるあほう)の一生』のあの有名な一節だった。

 
「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」……。学齢にも満たない頃から「人は皆いつか死ぬのだ」という漠然とした厭世観(えんせいかん)に憑(つ)かれ、田舎の公立中学に進んでからは、今ではマイルドヤンキーあるいはマイルドでないヤンキーとして立派に大人になっているであろう粗暴な生徒ばかりの学校の雰囲気に馴染めず、どこか別な世界へ逃げ出したい、そこにしか自分の居場所はないのだと思い込んでいたぼくにとって、自殺した作家としてその名を知っていた芥川の言葉には強く訴えかけるものがあった。……あった、のだが、十三歳のぼくはかわいそうに「ボオドレエル」がフランスの詩人の名前だということを知らず、線路の「レール」の一種だと思い込んでいた。文庫本の解説にはこの一行しか引用されていなかったから、これが主人公が丸善の洋書部で背表紙に書かれた作家の名前を一人ずつ読み上げていく場面にあらわれる一節だということがわからなかったのだ。それに同じ作品からもう一つ、「架空線」が放つ「紫いろの火花」を何としても手に入れたいと思ったという箇所が一緒に紹介されていたから、余計に電車の線路という印象が強まったのだろう。
 

これまた都合がいいのだか悪いのだか、そのころ引っ越したばかりの家のすぐそばを阿武隈急行という単線で二両編成のローカル線が通っていて、部屋にいると一時間に一本ぐらい電車の通る音が聞こえた。隣の福島市まで出るのに片道で四四〇円(当時)もかかるこの電車に乗るのは中学生にとって困難だっただけに、却(かえ)ってこの線路がここではない別などこか、外の世界へつながっているのだという憧憬は日増しに強まっていた。家のそばを通る単線の線路はその頃のぼくにとって、芥川にとっての「一行のボオドレエル」に優るとも劣らず、この田舎町に縛り付けられた厭わしい人生からおさらばするための輝かしい「レエル」だったのである。

 

この世の外ならどこだっていい!


福島市内の高校に合格し、その「レエル」の上を走る電車に乗って毎朝通学するようになった頃にはさすがにボードレールが線路ではなく外国の詩人だと理解し、その作品にも翻訳を通じて親しむようになっていた。高名な『悪の華』よりも散文詩集――三好達治訳の『巴里の憂鬱』(新潮文庫)と福永武彦訳の『パリの憂愁』(岩波文庫)のどちらの版だったかはもう忘れてしまったが――のほうに魅かれたのは、韻文詩よりは散文詩のほうが翻訳でもその味わいが伝わりやすく、またある程度の筋書きのある、洗練された掌篇小説としても読むことができる作品だったせいもある。しかし何より、胸中に巣食ったきりいよいよ我が物顔でぼくの思考を支配し、一刻も早く死ぬほかに解決策はないと昼も夜も脅迫してくるあの厭世観にぴったりくるような言葉が散りばめられていたことが、十六歳のぼくがこの小さな書物に捕えられてしまった最大の理由だったのだと思う。今にしてみればなぜあんなにも「死」に囚われていたのかまったくわからず、鬱病以外の何物でもなかったとおぼしい当時のぼくが、夏休み、ベッドから起き上がる気力もないまま何遍も読み返していたお気に入りの一篇は「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」と題されていた。

 
「この人生は病院だ。患者はそれぞれベッドを移りたいという欲望に憑かれている。こちらの患者がどうせ苦しむのなら暖炉のそばがいいと言うかと思えば、あちらの患者は窓のそばに行けば具合がよくなるものと信じ込んでいる」……その散文詩の出だしを、いま手許にあるプレイヤッド版全集の原文からぼくなりに訳せばこんなふうになる。この患者の一人たる「私」もまた、今いるこの場所から離れれば苦しみはなくなると思い込んで、自分の魂にあれこれ「引っ越し先」を提案する。リスボン、ロッテルダム、バタヴィア、はたまたバルチック海の果て、北極……。そして終始だんまりを決め込んでいた「魂」は遂に爆発して、こう叫ぶのだった。「どこだっていい! どこだって! この世の外ならどこだって!」
 

人生がそれ自体で病院なのだとしたら、東西南北どこへ行こうと無駄、この苦しみから逃れるためには人生という病院、すなわちこの世からおさらばするしかない。実際、田舎の中学から憧れていたあの電車に乗って脱出して、県庁所在地の、県内では一番の進学校とされている高校に進んだところで、憂鬱な人生は憂鬱なまま、ぼくは苦しんでいるではないか……。そんな考えがいよいよ強迫観念となって逃れがたく、一日じゅう頭のなかでガンガン鳴り響くようになった晩夏のある日、ぼくはふらふらと家を出て、夕焼けの照りつける線路のほうへ向かって歩き出した。いま註釈を見てみると「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」という題は、ボードレールがエドガー・ポーの評論を通じて知ったトマス・フッドの英詩からの引用で、一語に綴られるべきanywhereがany whereと二語に分かたれているのは誤植または誤記とされている。しかし当時のぼくにはこの空白が一本の線路、一行の「レエル」の通り道にしか見えなかった。その上を電車が通過したためにanywhereという語が二つに引き裂かれた轢死体、それがany whereだと思った。ボードレールが詩人の名前だと知り、電車通学をするようになってもまだ、線路はぼくにとって「この世の外」へ連れて行ってくれる輝かしい「一行のボオドレエル」だったのだろう。ぼくは線路の上に身を横たえた。レールは夏の夕日を反射してぎらぎらと光っていた。


……しかし電車は来なかった。いつまで経っても来なかった。一時間に一本しか通らない、赤字採算のローカル線である。死の誘惑に酔いしれて、そのことをすっかり忘れていたのだ。どれぐらい待ったのか、そのうちふと我に返って、すると急に死ぬのが怖くなり、半ベソをかきながら家に帰った。夕飯は焼き鮭だった。

 

この間抜けで滑稽な自死未遂譚をわざわざ語るという、およそ自分語りの中でも最も悪趣味な部類に入るであろう所業をここで敢えてなしたのは、一つには自分が今後このような馬鹿げたことをしでかさないため、もう一つにはこの種の厭世観に憑かれたぼくの同類に、いかにその厭世観に基づく行動が愚かで滑稽であるか知らしめるため、のつもりである。十六歳の頃には気付けなかったが、当時のぼくを厭世の味に酔わせたのと同じ散文詩集のなかで、ボードレールはこうした勘違いから馬鹿げた行為に走りがちな青少年の心理を、むごたらしいほど露わに解剖してくれているのだ。それはたぶん、彼自身もまたぼくらの同類だったからであり、次のような一節をわざわざ書きつけたのは、ぼくがいま自分の恥を晒(さら)したのと同じような、自戒を込めた忠告だったのだろう。「どうして、いちばん簡単でいちばん必要なことさえ成し遂げられないような奴らに限って、唐突に余計な勇気を発揮して、この上なく馬鹿げた、そして時にはこの上もなく危険な行動にでてしまうのか」(「不憫な硝子売り」« LE MAUVAIS VITRIER»)
 

書物への旅はときに、危なっかしい横道へ入り込んでいってしまうことがある。しかしそこから生還する道を教えてくれるのもまた書物なのだが、あの頃のぼくのように一人で書物の世界にのめりこんでいるとその道に気付けないまま、危ない方向へ一直線に進んでしまいかねない。書物というやつはできるだけ、道を逸れそうになったとき引き戻してくれる誰かと一緒に読むのが望ましいもののようである。
 

[書き手]吉田隼人(よしだ はやと)
1989年、福島県生まれ。県立福島高校を経て2012年に早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系卒業。早稲田大学大学院文学研究科フランス語フランス文学コースに進み、2014年に修士課程修了、2020年に博士後期課程単位取得退学。高校時代より作歌を始め、2013年に第59回角川短歌賞、2016年に第60回現代歌人協会賞をそれぞれ受賞。著書に歌集『忘却のための試論』(書肆侃侃房、2015年刊)。
死にたいのに死ねないので本を読む: 絶望するあなたのための読書案内 / 吉田 隼人
死にたいのに死ねないので本を読む: 絶望するあなたのための読書案内
  • 著者:吉田 隼人
  • 出版社:草思社
  • 装丁:単行本(264ページ)
  • 発売日:2021-10-29
  • ISBN-10:4794225385
  • ISBN-13:978-4794225382
内容紹介:
ホフマン、ボードレール、マラルメ、ニーチェ、ハイデガー、バタイユ、
藤原定家、上田秋成、波多野精一、九鬼周造、塚本邦雄、三島由紀夫……。
十六歳で自殺未遂を犯してから、文学書、思想書は、著者にとって唯一の心の拠り所であった。
角川短歌賞・現代歌人協会賞受賞の歌人・研究者が、古今東西の名著のエッセンスを、
読書時の記憶を回想するとともに紹介する。

佐々木敦氏(思考家)推薦!
本書を読むと、著者がかつて、重度の反時代的文学少年だったことがわかる。
そして彼は、そのまま大人になった。
「書物への旅」は、書物「と」の旅、書物「から」の旅、でもある。
この「旅」の、なんと蠱惑的で、かつ過酷なことだろうか!



はしがき

Ⅰ 記憶――十二の断章
一行のボオド「レエル」――『パリの憂愁』
傍観者のエチカ――『エチカ』
存在と弛緩――『存在と時間』
記憶の周波数――『物質と記憶』
浅茅が宿の朝露――『雨月物語』
放課後の物騙り――『アクアリウムの夜』
コッペリウスの冬――『砂男』
雨はライプニッツのように――『形而上学叙説』
カフカと父親の話――『文学と悪』
かるてしうす異聞――『省察』
アナベル・リイ変奏――『美しいアナベル・リイ』
書かれざる物語――『二人であることの病い』

Ⅱ 書物への旅――批評的エセー
世界は一冊の書物――『マラルメ詩集』
ブライヤーは何の花?――『思想のドラマトゥルギー』
木漏れ日の哲学者――『喜ばしき知恵』
終る世界のエクリチュール――『渡辺一夫敗戦日記』
ある自伝の余白に――『闇屋になりそこねた哲学者』
美とは虚無のまたの名――『定家百首』
時間についてのエスキース――『時と永遠』
劇的人間と劇場型人間――『岬にての物語』
視ることのドラマトゥルギー――『内的体験』
ジル・ド・レ覚書――『異端の肖像』
一輪の花の幻――『夏の花』
翻訳の悪無限――『「いき」の構造』
さよならの不可能性について――『さよならを教えて』

あとがきにかえて――「早稲田の文学と私」

Arsène Lupine

2021-06-18 00:43:29 | 🇫🇷文学
初出:1926年12月~1927年1月「ル・ジュルナル」紙連載 同年7月単行本化
他の邦題:「青い目の女」「青い眼の女」「湖底の宮殿」(保篠訳)「青い目の少女」「緑の目の少女」(ポプラ)
◎内容◎

 ラウール=ド=リメジーことルパンは、パリの町中で不審な男に後をつけられるイギリス美女と、同じ男に言い寄られる緑の瞳をもつ美少 女とを見かける。イギリス美女のあとを追ってラウールは列車に乗り込むが、押し入ってきた謎の男たちに襲われ、イギリス美女は死んでしまう。現場近くで捕 まった一味の一人はあの緑の目の美少女。ルパンはついつい彼女を逃がしてしまうが、続く別荘での強盗事件の現場にも彼女の姿があった。
 緑の目の令嬢、オーレリーをめぐって暗闘する男たち。オーレリーのその緑の瞳に隠された記憶の中に、彼らが狙うなにか重大な秘密が眠っているらしいのだ。ルパンはオーレリーを救い、その謎を解き明かすために冒険を開始する。


【師匠シリーズ】引き出し

2019年8月11日
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【霊感持ちの】シリーズ物総合スレ8【友人・知人】

137 :引き出し やりなおしorz ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 22:55:25 ID:vbLvaS0Q0
大学三回生の夏だった。
早々にその年の大学における全講義不受講を決めてしまった俺は、バイトのない日には暇を持て余していた。
特に意味もなく広辞苑を一ページ目から半分くらいまで読破してしまったほどだ。
全部をやりとげないあたりがまた俺らしい。

ともかく、そんな屈折した毎日に悶々としていたある日、知り合いから呼び出しを受けた。
かつて都市伝説などを語らう地元の噂系フォーラムに出入りしていた時に出会った、音響というハンドルネームの少女だ。
このあいだまで別の名前でネット上にいたらしいが、
『音響』時代を知る俺と二年振りに再会してから、なにか思う所があったらしく、
またそのハンドルネームを名乗っているようだった。
いったい何の用だと訝しく思う気持ちもあったが、
黙って座っていると、周囲の男どもがチラチラ視線を向けてくる程度には可愛らしい容姿をしている彼女なので、
悪い気はしない。
ただ、その視線の半分は、ゴシック調で固めたそのファッションに向けられる、好奇の目であったかもしれないのだが。

指定されたカレー屋で待ち合わせ、少し遅れてやってきた彼女ととりとめもない話をする。
カレー屋陰謀論という、頭の痛くなりそうな理論を淡々と語る彼女に、
「カレーを食べた後に犯罪を犯す人が多いというのは、単なる蓋然性の問題。
 それだけ食される機会の多い料理だということ」
と反論すると、
「蓋然性ってなに」と聞いてくる。
「蓋然性ってのは、つまり、ネジにたとえるなら、
 その絶対量からしてバギーちゃんのかけらというよりは、ポセイドンの部品なんじゃないかなってことだ」
と言うと、
「バギーちゃんってだれ」と返される。
「ドラえもんの大長編って見たことない?」と聞くと、「ない」。
そこで会話が終わった。
歳は確か俺の四つ下のはずだ。これもジェネレーションギャップなのか。

140 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:01:49 ID:vbLvaS0Q0
俺もリアルタイムではないが、普通、ドラえもんの映画版は、ビデオや漫画で観ているのものだと思い込んでいた。
なかなか本題に入らない。イライラしてくる。
そう言えば、いまさらのようだが、この女は信用ならない。
過去に騙されて恐ろしい目にあったことが、一度ならずあったからだ。
デートしよう、などというメールの文面は、こんにちは程度の意味に取るべきだろう。

心理的な壁を作ろうと、少し身を引いた時だった。
急に音響が立ち上がり、「こっちこっち」と入り口に向かって手を振った。
黒い。俺には理解できない黒いファッションに身を包んだ、十六,七歳と思しき少女がやってきた。
音響と同質の格好だが、もっと黒い。
そしてあろうことか、髪は銀色。薄っすらパープルの口紅。そして、エメラルドグリーンのカラーコンタクト。
少女は重そうなスカートを翻して、俺の前の席についた。
「るりちゃん。なんかこむづかしい字を書く」
少女は紹介に軽く頭を下げてから、その音響に顔を寄せてひそひそと耳打ちをする。
「王は留まり、王は離れる、って」
音響は頷きながらそう言った。
頭の中で字を思い浮かべる。『瑠璃』か。
それが本名なのかナントカネームなのかわからないが、とりあえずこちらも会釈せざるを得ない。
「で、なにこれ」
俺の言葉に音響があっけらかんと言う。
「紹介するって言ったでしょ」
頭を抱えそうになる。
あれか、ともだちを紹介するってやつ。
確かにそんな話をした覚えがあるが、俺は別の世界の人間とつきあう自信はない。
なにより俺には今、特定の相手がいる。

142 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:06:05 ID:vbLvaS0Q0
困惑した顔を隠さない俺に、瑠璃ちゃんとやらは目をぱちぱちと瞬いて、哀しそうな表情を見せた。
もっとも、それが怒っている顔だと言われたらそうとも見えてしまうだけの、微妙な変化に過ぎなかったのであるが。
「紹介するって言ったの忘れた?メチャ可愛くて困ってるともだち」
ちょっと待った。修飾語が一つ増えてる。
紹介されるのは確か、『メチャ可愛いともだち』だったはずだ。
「困りごとの相談がある?」
黒いのが二人して頷く。
きた。こんなことだろうと思った。
音響は俺のオカルト道の師匠並みに、あやしいものへ首を突っ込みたがるフシがある。
そして、その尻拭いをこれまでに二度してしまったのが運の尽きで、どうやら懐かれてしまったのかも知れない。
「ちゃんと言ったでしょ。可愛くてメチャ困ってるともだち紹介するって」
修飾語の順番が変わった。
猛烈に嫌な予感がする。
注文したカレーが来たので、とりあえず食べることにした。
これが本格的というやつなのか、やたら具が少なく、複雑なスパイスの風味が鼻に来る。
俺は目の前で黙々とカレーを食べている二人の少女を窺う。
あんな服どこで売っているのだろうか。
それに、服に合わせた化粧をしているようだが、外に出るたびにこれではさぞや時間が掛かることだろう。
瑠璃と名乗る少女がふいにスプーンを持つ右手を止めて、「迷惑ですか」という目で問いかけて来た。
はっきり「そうだ」と言えないあたり、自分で自分が嫌いになる。
それにしても、その黒ずくめの服装に白い肌、銀色の髪に緑の目と揃うと、まるで人形のようだ。
音響の方がまだファッションの枠の中で留まっている気がする。

143 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:08:52 ID:vbLvaS0Q0
その不思議な色の瞳を見ていて、ふいに思い出す単語があった。
『緑の目の令嬢』
なんだっけこれは。頭の中で数回繰り返す。みどりのめのれいじょう。
そうだ思い出した。モーリス・ルブランの小説、ルパンシリーズの一編だ。
怪盗アルセーヌ・ルパンが緑の目の少女に出会い、彼女の受け継ぐ莫大な遺産をめぐる事件に関わっていく話で、
確か湖の底に隠された古代ローマの遺跡なんかが出てきた記憶がある。
そう言えば昔読んだ時には、頭の中で勝手に、緑の目の少女のビジュアルに、
孫の方の『カリオストロの城』に出てくるヒロイン、クラリス姫を嵌め込んでいた。
その少女は名前を何といっただろう。忘れてしまった。結構好きだったのに。
カレーをスプーンで掬い、スープのように啜ることしばし。思い出した。
「オーレリーか」
ボソリと口をついて出てしまった。
音響がそれを聞いて驚いた顔をする。
「どうして知ってるの」
その驚き様にこっちの方が驚く。
「俺がルパン読んでちゃ悪いのか」
「別に悪くはないけど」
なんなんだ、こいつ。ドラえもんの大長編は見てないくせに、ルパンシリーズは読んでるのか。
確かに別に悪くはないが。なんだか釈然としない感じだけが残った。

「で、なにがあった」
食べ終わって、水に手を伸ばす。
音響が瑠璃を肘で小突く。瑠璃が音響の耳元に唇をよせて、ボソボソと話す。やがて音響がこちらを向く。
「瑠璃ちゃんは低血圧なのよ。で、朝起きた時にしばらく動けないんだって。
 その目が覚めてボーっとしてる時に、部屋で変なことが起きるんだって」
また続きを音響に耳打ちする。

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145 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:11:58 ID:vbLvaS0Q0
「瑠璃ちゃんのベッドのそばに小さいタンスがあって、中に下着とか小物とかが入ってるんだけど、
 その引き出しのひとつが開いてるのね。
 夜寝る前には、全部閉まってたはずなのに」
この『初対面の人には声を聞かせません』とでも言いたげなキャラ作りに、だんだんと苛立ってきた。
格好といい、自分が普通じゃないことをそんなにアピールしたいのか。
俺の苛立ちを気にもせず、音響の通訳は続く。
俺はどっちの顔を見ながら聞いていればいいのか迷いながら、交互に視線を向けた。
「あれっ?変だなって思ってると、その開いた引き出しから何かがチラッと動くのが見えて、
 そこに意識を集中していると、ゆっくりじわじわ、なにか白いものが中から出てくるのよ。
 すぐに人間の手だってことはわかるんだけど、もちろん、誰かが中に隠れちゃえるような引き出しじゃないし、
 指が見えて、手のひらが見えて、手首が見えて、腕が見えて、肘が無くて、ズルズルありえないくらい伸びて。
 でも動けなくて。目が逸らせなくて。怖くて。
 それから、その手が何かを掴んで、またズルズル引き出しに戻っていって、
 ズルって全部隠れて見えなくなったら、やっと起きられるの」
デジャヴを感じた。
何故だろう。ゾクゾクした。この話はまるで、金縛中に起きるバッドトリップのようだ。もしくはただの夢か。
「それ、起きられるようになるまでは、ほんとに動けないのか? 
 それから、起きられるようになるのって、急に? 
 そこで、開けてたはずの目が、もう一度開いたような感覚がない?」
音響が通訳する。
動けないというよりは、動きたくないって感じの十倍濃縮版。起きるのは急に。そんな感覚ない。
『動きたくない』という感覚は、金縛りのパターンからは外れるようだ。
金縛りはたいていの場合、『動きたい』はずだ。
それに、入眠時幻覚の類にしても、朝の目覚めの時におこるというのはよくわからない。
そんなこともあるのだろうか。覚醒時幻覚とでもいうのか?

149 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:16:34 ID:vbLvaS0Q0
低血圧というのがそもそもあまりイメージがわかない。
それに、その『手』はなんだ。
「動けるようになってから、引き出しを見たらどうなってる?」
「開いたまま。中を覗いてみても何もない。下着とか靴下とかだけ」
「その手が掴んで、タンスの中に引きずり込んだものって、なに?」
「わからない。覚えてない。多分、それを見ている時には知ってたはずなのに、消えた時には思い出せなくなってる」
なるほど。何が無くなったかも分からないわけだ。
つまり、この出来事は、何も消えたものがなくても成立する。
ふと、以前読んだ本のことを思い出した。
そこには、夢は不要な短期記憶を脳の引き出しの奥深くに沈めて、
頭の中を整理している最中に再生される、フィルムの断片なのだと書いてあった。
断片の中には脳を活性化させる強い記憶もあり、
それらを合成し、理解しうるものに再構築されたものが、レム睡眠時に上映されているもので、
そこからカットされた断片は、脳の記憶野を圧迫しないように、『忘れられていく』のだと。
それが本当のことかは知らない。
ただ俺は『引き出しの手』に、なにか寓意的なものを感じざるを得なかった。
「もしかして、その手が掴んでいったものって、自分にとって要らないものだったんじゃない?」
二人でボソボソと相談でもするように耳打ちしあってから、瑠璃は首を左右に振る。
「大切なものだったかも知れない。それさえ分からない。
 ベッドから体を起こして、自分の部屋を見回したら、
 何か大事なものを無くしてしまったような気がして、とっても悲しくなる」
今聞いているこの話が、単純に彼女たちの嘘ではないとしたら、気持ちの悪い話だ。ますますゾクゾクしてくる。
嫌いではない。この感覚は。
「それが、何度も続けて起こるのか」

151 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:20:34 ID:vbLvaS0Q0
「一ヶ月くらい前から。二,三日にいっぺん。あ、でも、最近は毎日かも、だって」
俺は少し考えた。カンカンと、使わなかったスプーンの柄で机を叩く。
「本当に何かが部屋から消えているのか、知る方法がある」
二人の少女がこちらをじっと見ている。
スプーンで目の前を払う真似をして続けた。
「その部屋から、ベッドと引き出し以外、全部外に出す」
少しして息を吸う音がかすかに聞こえた。
「そうすれば、もし手が出てきて、『何か』を掴んで引き出しに消えていったと感じたなら、
 その喪失感は錯覚だ、ということになる」
何も部屋になかったことは確認済みなのだから。
俺は上手いことを言ったつもりだった。我ながら良いアイデアだと思った。
けれど、瑠璃が体験したというその不可解な出来事を、夢、もしくはなんらかの幻覚だと半ば決め付けていた俺と、
そうではない彼女自身との間には、大きな発想の隔たりがあったのだ。
瑠璃はふるふると震えながら、音響の耳元に口を寄せる。
「そんなことをして、手がどこまでも伸びてきて、ベッドの上の私を掴んだら……」
ゾクリとした。空気が張り詰める。
しまった。油断した。
経験上、過剰な怯えは、本人と周囲の人間に良くない影響を及ぼす。中でも一番困るのは、泣かれること。
「ひどい」と言って、音響が隣の少女をかばうような仕草をした。
そして「どういうつもり」と冷たく言い放ち、俺を軽く睨む。
どういうつもりも何も、俺は協力的に解決策を提出したつもりだった。
だがそれは、他人の悩みを真剣に考えないオトコという、不本意なレッテルを相手方に貼らせただけだった。
また、負い目だ。

153 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:25:24 ID:vbLvaS0Q0
この音響という少女には、いいように振り回されているような気がする。
「わかった。それはナシ」
肩を竦める。
結局、俺は気がつくと、その手の出てくるという引き出しのある寝室で、現地調査することを約束させられていた。

その二日後だ。曜日は土曜。
俺は欠伸をしながら自転車をこいでいた。まだ夜も明けやらぬ早い時間。
暗い空の深みのある微妙な色彩に目を奪われながら、微かな肌寒さにシャツの裾を気にする。
今日は暑くなるとニュースでやっていたはずなのに。
ガサガサと妙にかさ張る手書きの地図を苦労して広げ、目的地を確かめる。
なんだ。もうすぐそこじゃないか。
そう思いながら角の塀を曲がると、薄闇の中に浮かび上がる、小綺麗な白い三階建てのマンションが目に入った。
おいおい。高そうな所に住んでるじゃないか。
高校生の身分で一人暮らしと聞いて何様だと思ったが、もしかすると親がかなりの金持ちなのかも知れない。
駐輪場に自転車を停め、階段を上る。向かうは三階の角部屋だ。実にけしからん。

指定されたドアの前に立つが、まだ音響の姿が見えない。ちょうど待ち合わせの時間なのに。
まだ周囲は暗く、朝のこんな早い時間に、女性の部屋の前でうろうろしているのは実に気まずい。
辺りを気にしながら、念のためにドアノブを捻ってみたが、やはり鍵が掛かっている。
音響を待つしかないようだ。その場でしゃがみこむ。
何故俺はこんなところでこんなことをしているのだろう。そう思いながら、憂鬱な思いで額に指をあてる。
要は、寝起きにタンスの引き出しから手が出てくる幻覚を見るという、
緑の目の令嬢瑠璃の悩み解決のための現地調査だ。

156 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:30:36 ID:vbLvaS0Q0
完璧を期するなら、ずっと部屋の中で寝ずの番をしていた方がよいのだろうが、
初めて会ったうら若き少女の部屋で夜を明かすなど、俺にしても避けたいものがあった。
聞くところによると、目覚ましを掛けなくとも、彼女はいつもだいたい決まった時間に目が覚めるのだという。
ただ低血圧なもので、そこから起き上がるまでが長いのだとか。
そして俺と音響は、その目が覚める時間の少し前に部屋に行き、
実際にその場でなにが起こっているのか確かめる、という作戦だった。
なのに、その音響が来ない。今日のために合鍵を渡されているのはヤツなのに。寝坊しやがったのか。
ドアの前でイライラしながら待つこと二十分。小さな足音とともに、ようやく音響が姿を現した。
「アホか」
思わず毒づいていた。
近づいてくるその姿は、先日のカレー屋の時とほとんど変わらない、ゴシックな風体だったのだ。
待ち合わせの時間に遅れてまで譲れないのか、その格好は。
問い詰めて言い訳を聞くのも空しくなるだけなので、
「いつも可愛いなあ」と嫌味だけ言っておいて、ドアを指差し開けろとジェスチャーをする。
音響はロクに謝りもせずに鍵を取り出すと、ドアノブにあてる。
金属が擦れる小さな音とともにドアが開かれ、二人してその中に滑り込む。
玄関からして広い。まずそこに驚く。俺の部屋とどうしても比較してしまう。
暗い中を半ば手探りで進む。もちろん足音を殺して。
余計な物音を立てて、中で眠る少女の普通の目覚めを妨げてはいけない、という配慮からだ。
音響が摺りガラスの嵌め込まれたドアの前に立ち、唇に人差し指を立ててみせる。

157 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:33:58 ID:vbLvaS0Q0
分かっている、と俺が頷くと向き直り、そっとノブを引いていく。
視界にわずかな光が差す。部屋のカーテンの隙間から、薄っすらとした朝日が漏れている。
もうすぐ夜が明けてしまう。余計な時間を掛けたからだ。
そう思ったのも束の間、目の前に広がる室内の様子に唖然とする。
ダイニングとリビングを兼ねたような間取りのかなり広い部屋に、所狭しと家具や物が並べられている。
明らかに普段の生活上のものではない。
部屋の真ん中や居住空間を侵すような場所に、それらが置かれていたからだ。
散らかってるのとは違う。強いて言えば、引越しの最中のような印象だ。
ただ、普段この部屋にあるらしい家具類は、きちんとあるべき場所に収まっているように見える。
要するに『多い』のだ。どこか別の場所から余分な家具が運び込まれているのか。
ハッとした。
二日前のカレー屋で話したこと。
『その部屋から、ベッドと引き出し以外、全部外に出す』
却下されたはずの俺の提案を、彼女は俺たちが来るのに合わせて実践してしまったのか。
見ていてくれている人がいるからと安心して。
嫌な予感がした。
その無造作に置かれた家具たちを、幾筋かの淡い光線が照らす。
音響が硬い表情で俺のシャツを引っ張る。その指さす先には、別の部屋に通じるドアがあった。
寝室か。
ゴクリと唾を飲み込む。
家具はこの向こうの部屋から持ち込まれたものに違いない。ということは、この向こうには……

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159 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:39:50 ID:vbLvaS0Q0
音響が静かにドアを開けていく。
後に続く俺の目の前に、薄暗い室内が広がる。手前の部屋よりもカーテンが厚いのか。
それでもそこには、夜明けの空気が満ち始めていた。
ガランとした部屋。異様な光景だった。
ベッドと小さなタンスだけ。あとはなにもない。けっして狭くない室内がさらに広く感じる。
そして、そのタンスの一番上の引き出しが開いている。
寒気がした。どこか遠くから耳鳴りが聞こえ、そしてフェードアウトしていくように消えていった。
ひっ、という息を飲む声がする。
音響が震える指で俺のシャツの裾を掴んでいる。
その視線の先にベッドの膨らみがある。その掛け布団の中から、小さな顔が覗いている。
その顔はタンスの方を見ている。首を捻った格好で。
目が、開いている。
まるで自分の意思ではないように、周囲の筋肉が強張ったまま、目が見開かれているようだった。
その目はタンスの一番上、一つだけ飛び出た引き出しを凝視している。
異常な気配が部屋を包んでいる。
俺と音響の息遣いだけが聞こえる。
二日前の話を聞いた段階では、夢の可能性が高いと思っていた。だが、現実には彼女の目は開いている。
ということは金縛りか。
だが……
今、この瞬間。
ベッドと引き出しの間の空間に、俺の目には何も見えないその空間に、彼女は何かを見ているのだろうか。

161 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:42:20 ID:vbLvaS0Q0
部屋の入り口で動けないでいる俺たちの前に、ベッドの中で動けないでいる少女の、
声にならない悲鳴が響いて来るような、そんな幻聴さえするようだ。
だが、何も、何も見えない。
見えないのに。彼女の大きく開かれた目は今、何を見ている?
悲鳴が上った。
脳天を直撃するショックがある。音響が頭を抱えて叫んでいる。恐怖心に耐え切れなくなったのか。
だが次の瞬間、俺の身体は無意識に反応した。
自分でもよく分からないことを喚きながらタンスに駆け寄り、引き出しを殴りつけるようにして閉める。
それに引きずられるように動いた音響が、少し遅れてベッドの上の少女に覆いかぶさる。
「起きて、起きて」
叫ぶように繰り返す。
俺は背後のタンスを気にしながら、その様子を見守る。
やがて、硬直したように首を曲げて目を開いていた瑠璃が、ビクンと全身を震わせると、小さく息を吐いた。
「起きた?起きた?」
音響が掛け布団を剥ぎ取って、その肩を揺さぶる。
軽い痙攣のような震えがその顔に走った後、瑠璃は小さく頷いた。とりあえずは大丈夫のようだ。
俺は少し落ち着いて、タンスの方を振り返る。
あの異様な気配はどこかへ行ってしまっていた。柔らかな木目調の、ただのありふれたタンスだ。
それでも身構えながら、そっと一番上の引き出しに手を掛ける。
恐る恐る引いていくと中には、白い布が見えるばかりだった。暗くてよく見えないが、靴下の類のようだ。

167 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:45:11 ID:vbLvaS0Q0
恐れるようなものはなにもない。あの気配は錯覚だったのか。
その時、背後からまた悲鳴が上った。全く予期してなかったので、飛び上がるほど驚いた。
それでも振り返り、ベッドの方を見る。
音響が口を押さえながら、震える指先で瑠璃の右手首を指している。
パジャマの裾から細い手首が覗いているのだが、その異様なほど白い肌に、濃い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
それは人間の手の平の形に見えた。手首を掴み、ありったけの力で握り締めたような痕跡……
泣き出しそうなほど怯えている音響に対し、当の本人はきょとんとして、
事態を把握しているのかどうかも分からないような顔をしている。
低血圧の人間の寝起きだからなのか。
俺はとっさに暴漢の可能性を考えた。一人暮らしの女性の部屋に忍び込む不埒な輩。
だが入り口には鍵が掛かっていた。それはこの俺自身確かめている。
すぐにカーテンの隙間に手を突っ込み、この寝室の窓に鍵が掛かっているのを確かめる。
そして、二人を残したまま隣の部屋に移動し、
すべての窓とベランダへの出入り口に、鍵が掛かっているのを確認した。
念のために、風呂やトイレの中も勝手に開けて、中に誰も潜んでいないか調べる。
広いとは言っても、所詮マンションの部屋だ。すぐに、俺たち三人以外誰もいないことは分かる。
ということは、俺と音響がやってくるまで、このマンションの部屋は密室状態だった。
そしてあの痣を見るに、ついてからさほど時間が経過していないだろう、ということを合わせて考えると、
合理的に出せる結論は一つしかない。
俺はすぐに寝室に取って返し、まだベッドから起き上がらない瑠璃の右手首を掴む。
そしてじっくりとその痣の跡を見る。
特徴的な部分がある。四本の棒とその向かい側の一本の棒。その位置関係をしっかりと確認する。
左手だ。

169 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:48:30 ID:vbLvaS0Q0
彼女の右手の手首にこの痣をつけたのは誰かの左手。
そして、その誰かとは……彼女自身。
「なにするの」
音響が抗議の声を上げる。
これは自傷行為の一種なのか。
引き出しから出てくるという白い手も、彼女の妄想の産物なのだろうか。
あるいは、毎晩引き出しを開けていたのも彼女自身なのかも知れない。
自分のしていることを、まるで他人にされているように感じる精神障害があるらしいが、
この少女もそういう心の病を抱えているのだろうか。
そう考えていると、逆にゾッとするものがあった。
だが次の瞬間、俺の目は信じられないものを見た。
瑠璃が、俺に掴まれた右手を取り戻そうとするように、もう片方の左手をのろのろと伸ばして来た時だ。
そのパジャマの裾がずれて手首が露になる。
そこには右手の手首と全く同じ形の痣が浮かんでいた。
思わず息を飲んだ。
痣。
左手首にも痣。
向かい合う四本の棒と一本の棒。思い切り握り締められたような跡。
左手首に左手の跡?
俺は自分の手の平を凝視して、人間の指の構造を確認する。
あの痣は間違いなく左手で付けられたものだ。
どうすれば自分の左手首に、左手で握った痣を付けられるんだ?
それとも、密室状態のこの部屋の中に彼女以外の誰かがいて、そして忽然と消えたというのだろうか。
俺は自分の背後にあるタンスに、再び異様な気配を感じた。
だがそれは、俺の錯覚に過ぎないのだろう。ただの恐怖心が生み出した幻に……

171 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:51:45 ID:vbLvaS0Q0
瑠璃はその自分の左手首の痣に気づき、そこにじっと視線を落としていたかと思うと、一言ぽつりと呟いた。
「He seemed to have come to this room……」
俺は彼女の顔を改めて見る。
その時、カーテンから射し込んだ光が、その瞳に反射してキラリと輝いた。
今さらのように気づく。二日前と目の色が違うことに。
あの時は確かにエメラルドグリーンだった。いかにもカラーコンタクトらしい安っぽい色をしていた。
けれど今、目の前にいる少女の目は、鮮やかなブルーだ。
カラーコンタクトをしたまま眠りはしないだろう。
いや、そういう常識を抜きにしても、それが彼女のナチュラルな目の色であることは直感で分かった。
「日本人じゃ、ないのか」
そう呟いた俺に、音響が横から口を尖らせる。
「だから通訳してたじゃない」
斜めに射し込む明け方の光の中に、人形のような顔をした少女が微かに微笑んだ気がした。

その後の顛末は、また別の機会に話そう。
この少女が持ち込んだ事件は、簡単に語れないほどやっかいな事態を引き起こして行くのだから。
そのためにはもう少し、それに関わる過去を掘り起こす必要があるだろう。
ただ、一つだけ付け加えることがある。
その土曜日から数日後、俺は古本屋に立ち寄った。
そこでふと思い出して、ルブランのルパンシリーズの小説を探してみた。また読みたくなったのだ。
だが、なかなか見つからない。
うろうろと店内を歩き回ることしばし。盲点だった入り口近くでそのコーナーを発見した。

174 :引き出し ラスト ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:54:49 ID:vbLvaS0Q0
しかしそこにあったのは、南洋一郎の翻訳による子ども向けのルパンシリーズだったのだ。
がっかりしながらも、小学生のころに何冊か読んだことを思い出して懐かしくなり、一冊抜き出して手に取ってみた。
やっぱり、今読むと平仮名が多く、表現も容易でなんだか違和感がある。
くすぐったくなり、棚に戻す。
そして、その近くのあったタイトルが目に留まった。
それを見た瞬間、笑い出してしまう。だって、おかしいから。
あの時カレー屋で音響が驚いたわけが分かったのだ。俺が『オーレリー』と呟いた時だ。
緑の目の令嬢とでも称えるべき瑠璃の容姿をあげつらった俺に対し、音響は『どうして知ってるの』と言った。
同じルパンシリーズを読んでいる人間だと、お互いここで分かったわけだが、その時の彼女の言葉のニュアンスは、
俺がそう受け取ったように、『どうしてあなたもその小説を読んでるの』という単純なものではなかったらしい。
そこには、ある隠された真実を、一目で見破られたことへの驚きが込められていたのだ。
俺は笑いながら、そのタイトルの背表紙を棚から抜き出す。通り過ぎる客が変な目でこっちを見ている。
本の中身を確認して、やっぱりと思った。
ドラえもんも見てないくせに、ルパンシリーズは読んでるなんて生意気だと思ったのだが、どうやら早とちりだったらしい。
音響は、この子供向けの南洋一郎訳のシリーズを読んだだけだったのだ。
俺が別の翻訳家による邦題、『緑の目の令嬢』として記憶していた本を、
彼女は南洋一郎の翻訳によるタイトルで覚えていたらしい。
頁を閉じ、薄く埃を被っているその本の表紙を軽く息で吹く。
『青い目の少女』
なるほどね。
また、笑った。

◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルチュール=ルボー
シャンパンのブローカー。列車内で死体となって弟と共に発見される。

☆アンシベル夫人
ギョームの母親で未亡人。

☆エティエンヌ=ダストゥー
オーレリーの祖父。秘密の莫大な遺産の鍵を孫娘の記憶に残す。

☆オーレリー=ダストゥー
美しい緑の目をもつ令嬢。彼女が受け継ぐ何か莫大な遺産があるらしい。

☆ガストン=ルボー
シャンパンのブローカー。列車内で死体となって兄と共に発見される。

☆ギョーム=アンシベル
オーレリーの財産を狙う若い男。

☆コンスタンス=ベークフィールド
イギリス貴族の娘で記者。実はヨーロッパをまたにかけた大泥棒。

☆ジャック=アンシベル
ギョームの父親。

☆ジョド
オーレリーの財産を狙う男。

☆ジョドの甥
叔父の悪事の片棒をかつがされる少年。

☆ソビヌー
マレスカルの部下の刑事。大臣推薦で配属される。

☆大臣夫人
マレスカルを公然と保護する某大臣の妻。

☆タランセ侯爵
オーレリーの祖父ダストゥーの友人。「カラバ侯爵」でもある。

☆トニー
マレスカルの忠実な部下の刑事。

☆バランタン
オーレリーに仕える老召使。

☆ビクトワール
ルパンの乳母。

☆フィリップ
マレスカルの部下の刑事。

☆ブレジャック
内務省司法局長。オーレリーの義父でマレスカルの上司。

☆ベークフィールド卿
イギリス貴族。休暇中モンテ・カルロに滞在。

☆ラウール=ド=リメジー
冒険家の若き男爵。もちろん正体は怪盗紳士。

☆ラボンス
マレスカルの部下の刑事で、その腹心。

☆リュシー=ゴーティエ
ロワイヤル劇場の新人歌手

☆レオニード=パリ
オペレッタ女優。

☆ロドルフ=マレスカル
内務省の国際捜査部警視。かなりの洞察力をもつ名刑事だが、ポマード頭のプレイボーイでうぬぼれ屋。

◎盗品一覧◎

◇ジュバンスの泉
薬効のあるミネラルウォーターがわき出る鉱泉。そのありかは湖の下のローマ遺跡。

<ネタばれ雑談>

☆「ルパン空白時代」を語る一編

 『緑の目の令嬢』が発表されたのは1926年。ルパンシリーズ第1作が発表されてから実に20年が過ぎ、ルパンシリーズの仕切り直しともいえた前作『カリオストロ伯爵夫人』からほぼ3年のブランクを置いての発表となった。その3年間、ルブランは何も書いてなかったわけではなく、1924年に非ルパンものの短編『プチグリの歯』を発表しているし(のち英語版でルパンものに改変)、1924年末から25年年明けにかけて非ルパンものの長編『バルタザールのとっぴな生活』(これまた日本でルパンものに改変された)を発表している。それでも「ルパン」からはしばらく遠ざかっているし、以前に比べればややペースが落ちた気がするのも確かだ。

 本作の時代設定は『八点鐘』同様に、またも『虎の牙』よ りもずっと前の前日談、『奇岩城』と『813』の間に挟まれた「ルパン史空白期」となった。第一次世界大戦が始まる前の平和な時代、「ベル・エポック」を またも舞台にしたわけだ。ルブランとしては『虎の牙』の後の時代は描きにくかったろうし、大戦の傷跡が深いこの時期ではかつての「良き時代」を懐かしむ読 者のニーズに合わせたというところもあっただろう。
 では『緑の目の令嬢』の時代設定は具体的にいつなのか。手がかりは本文中に四ヶ所ある。物語の序盤にラウールことルパンが「34歳の男」と表現され、「第一次大戦の数年前の四月末」との明記がある。物語の前半での別荘強盗事件の日付が「4月28日水曜日」となっている。そして物語の終盤、ラウールとオーレリーがローマ遺跡に向かう日付は「8月15日土曜日」だ。ところが困ったことに、万年暦で調べてみるとこの二つを同時に満たせる年は存在しない。ルブランがチェックを誤ったのではないかと思われる。
 「4月28日水曜日説」を採用すると、これは1909年の事件ということになる。だが「8月15日土曜日説」を採用すると一年さかのぼる「1908年」だ。『奇岩城』が1908年4月23日木曜日から始まる物語と確定していて、これと『緑の目の令嬢』の冒険が同時期に重なり合うことはたとえ超人ルパンであろうと物理的に不可能だ。ということで、ここでは一応「1909年4月~8月の事件」ということにしておきたい。ルパンの生まれた年が1874年と確定しているが彼が5月以降の生まれであれば「34歳の男」と書かれていることにも矛盾は生じない。

 『緑の目の令嬢』はルパンシリーズの後期作品の中では割と名前を知られている方だ。その理由はたぶんに「あのアニメ」(これについては後述)の 存在が大きいと思われるが、それを抜きにするとシリーズ中ではそれほど目立たない、小粋ではあるが小粒な作品だ。ルパンの冒険としてはそれほど大がかりな ものではなく、大した強敵も登場せず、推理物としてもそれほど工夫がある方とは思えない。系譜的には『八点鐘』につらなる恋愛冒険小説といったところで、 正直なところ主人公がルパンでなくても…と思うところがなくもない(もちろん「ルパンらしさ」もちゃんとあるんだけど)。


☆魅力的なヒロインたち

 そんな中で最大の魅力はタイトルにもなっている「緑の目の令嬢」、ヒロインのオーレリー=ダストゥーのキャラクターだろう。21歳とシリーズ中最年少のヒロインであり(「うろつく死神」の女の子が一応同い年か)、 町でも目を引く金髪・緑眼の可憐な美少女で、優しく清純な修道院寄宿生、はたまた劇場で見事な美声を披露する歌手でもある。莫大な遺産を受け継いでおり、 それを解く鍵を記憶の奥底に持っているため男たちがその争奪戦をしているという謎めいた設定もあって、総じて「守ってあげたくなるタイプ」、「あのアニ メ」で絶大な人気を誇るヒロインの原型と見れないこともない。

 最初はラウール(ルパン)に対して警戒をみせるが、やがて一途な純愛を捧げるようになるあたりは『八点鐘』のヒロイン・オルタンス=ダニエルのパターンでもある。そして相思相愛の関係になりながら、「あなたは永久に愛するようなかたじゃないわ。残念なことだけど、ながいあいだ愛することさえもしないはずよ」(大友徳明訳)とラウールに対してかなり割り切った発言(シリーズの「お約束」にツッコミを入れてる気もしなくもない)をすることも強く印象に残る。
 オーレリーの登場は当然これ一作なのだが、一作だけではもったいないと思う人はいるようで、ジャン=クロード=ラミによるパスティシュの形をとったルパン評論『アルセーヌ・リュパン-怪盗紳士の肖像-』では、ちょっと設定を変えられたオーレリーが登場してルパンの片棒をかついでいたりする。

 一応この物語のヒロインはオーレリーだけなのであるが、物語の序盤でもう一人、出番をこれだけにするには実にもったいない女性キャラが登場している。そう、イギリス貴族の令嬢であり婦人記者、そしてその正体はなんとルパンも舌を巻いてしまった大泥棒、コンスタンス=ベークフィールドだ。こちらも金髪に青い目の町中でも目立つ美女で、実際ルパンも最初は彼女に目をつけてその後を追いかけるのだ。
  レストランでトースト4枚を頼んで周囲を唖然とさせながら、平然とそれを平らげてさらに4枚注文、列車の中でもルパンの目の前で19個もチョコをパクつい ているというすがすがしいまでの大食ぶり。ベル・エポックの時代の女性は「ウェストの存在が認められていなかった」という表現までされてしまうほどコル セットできつくお腹を締めるのが定番で、したがって「淑女の大食い」などとても考えられないことだった。この点でも異様に目立つ女性キャラといっていい。 読者としてはこの辺から「この女、ただ者ではない」と思うべきなのかもしれない。
 そして彼女の名探偵並みの洞察力。ルパンの名刺や帽子のイニシャルからその正体をあっさりと見抜き、ルパンの度肝を抜いている。そしてその正体は国際的盗賊団の一味の女泥棒。ルパンはなるほどそうだったかと思い当たりつつも「一夜の旅の美しい道連れが泥棒だったとは!」などとかなりガッカリしている。自分の職業を棚にあげて、ホントに勝手なやつである(笑)。

 ミス・ベークフィールドは物語の序盤であっさり死んでしまい、もちろん出番はそれきり。「もったいないなぁ」と思った読者は決して少なくなかったようで、フランスで製作されたジョルジュ=デクリエール主演のTVドラマ版ではキャスリン=アッカーマンが演じたベークフィールドはルパンも驚くスリの妙技を披露し、列車で襲われても重傷を負うだけで命を拾う。さらにシリーズのオリジナル作品「トンビュル城の絵画」で再登場してルパンと一緒に「仕事」をするという、なかなか嬉しい改変がなされていた。


☆目の色の話

 ところで、本作のヒロイン・オーレリーは表題のとおり「緑の目」をもつ。本文中のラウールの目線からの表現によると「金色の縞(しま)のはいった、ひすいのような緑色の大きな目」(大友徳明訳)だそうである。

 さて、フランスにおいて「緑の目」をもつ人はどのくらいいるのだろう?
 「目の色」といっても、正確には眼球の光の入り口である「瞳(瞳孔)」の周囲にある「虹彩」の色の話だ。日本人はじめ東アジア人はほぼ真黒な虹彩をしているが、ヨーロッパ系の人たちには褐色や青、緑などさまざまな色の虹彩があり、人物を特定する重要な手掛かりとして昔から指名手配犯の人相書にも必ず明記されていた。
  フランスにおける「緑の目」の持ち主のパーセンテージを確認することができないでいるのだが、ネットであれこれ調べた限りでは緑の目は北欧系に多いらし く、スウェーデン・デンマーク・ノルウェーの「北欧三国」、およびその地からの移住先であるアイスランドでかなり多いという。オランダでも多いというか ら、おおむね北ヨーロッパのゲルマン系民族に多いということになるらしい。フランスもいろんな民族がゴチャゴチャした歴史があるから単純にラテン系民族と も言い切れないのだが、ともかくフランスではそんなに多くないことは確からしい。
 「緑の目」がそう多数派でもない国では、「緑の目」は神秘的、ともすれば魔術的なイメージをもたれるようだ。フランスでの用例は確認していないのだが、たとえばお隣イギリスの魔法使いハリー・ポッターは緑色の目をしている。また同じくイギリスのシェークスピアは「オセロ」や「ヴェニスの商人」の中で「緑の目の怪物(the green eyed monster)」という表現を使っている。もっともここでは「嫉妬(しっと)」の例えとして「緑の目の怪物」という表現を使っており、これを出典として今でも英語の慣用句では「緑の目の怪物」といえば嫉妬、やきもちのことを指している。さらに話を広げると、「緑の一つ目の怪物(green one eyed monster)」といえば宇宙人(エイリアン)の通俗イメージだ。
 イギリスの例ばかりを引き合いにして、フランスでのイメージを確認できないのが悔しいのだが、本作のオーレリーの「緑の目」にも謎めいた神秘性、清純なのか悪女なのか分からない怪物性、激しい感情を内に秘めた恋する女性というイメージを読み取ることは可能だと思う。

 一方のミス・ベークフィールドは「みごとな青い目」だ。 日本人は昔から欧米人を「青目」扱いしてきたのだが、ヨーロッパでも「青い目」の分布は偏りがあるようで、ネットで見かけた分布図によるとバルト海沿岸地 域に多く、そこから離れるに従って少なくなる傾向にあるようだ。緑の目と同じように北欧を中心に多いが、イギリスでもかなりの割合らしい。そういえば作中 でもラウールが特に根拠も示さずに最初から「イギリス女」とめぼしをつけていた。

 ところでこの「緑の目の令嬢」、日本語の訳では長いこと「青い目」と訳されてきた歴史がある。
 まずムッシュ・ルパン訳者である保篠龍緒が『青い眼(目)の女』というタイトルで最初に訳している。本文でもオーレリーの目は「青」と表現されていた。じゃあベークフィールド嬢と同じになっちゃうじゃないか?と思ってしまうところだが、保篠はベークフィールドについては「空色の目」と表現して区別していたのだった。
 そして南洋一郎も『青い目の少女』というタイトルで本作をリライトしている(オーレリーの年齢も明らかに下げてある)。 しかし奇怪なことに本文中ではオーレリーをちゃんと「エメラルドのような緑の目」と表現しており、ベークフィールドは「青い青い空色の目」と表現されている。現在刊行されているバージョン ではタイトルも「緑の目の少女」と改められているので矛盾は消えたが、以前なぜ「青い目」というタイトルにしていたのか疑問は残る。保篠訳で「青い目」と いう訳題が定着していたからかもしれないが…ベークフィールドの「空色の目」という表現も保篠版を参考にしたのかもしれない。
 日本で「緑の目の令嬢」という訳題をつけたのは1960年刊行の東京創元社版「アルセーヌ・リュパン全集」が最初になる。このタイトルは偕成社「アルセーヌ=ルパン全集」版にも引き継がれたが、南版があまりにも広く読まれたために「青い目の少女」のタイトルでこの作品を記憶してる人は結構多い。
 
 そもそも日本語では「緑」を「あお」と表現することが多い。これは古代日本語では色の分類が「くろ」「しろ」「あか」「あお」の四色しかなかったことが原因と言われ(この四つだけ「○○い」と活用できる)、 現在でも信号機の「青信号」、緑の草木を「あおあお」と表す表現に残っている。本文中に「ヒスイのような」という例えがあるので緑色であることは保篠も百 も承知だったと思うのだが、日本語的ニュアンスとしては「青い目」のほうがいい、という判断があったのかもしれない。また日本人は欧米人に「青い目」とい う印象を強く持っている一方で「緑の目」にはなじみが薄かったことも一因だろうか(確かに見たことのない人には「緑の目」というとすごく不気味に感じたかもしれない…)。

 なお、ルパンシリーズの歴代ヒロインの目の色について、当サイトの掲示板でご教示いただいたところによると、
 『ルパン逮捕される』のネリー=アンダーダウンが黒。
 『奇岩城』のレーモンド=ド=サン=ベランが褐色。
 『八点鐘』のオルタンス=ダニエルが青。
 『エメラルドの指輪』のオルガが青。
 という例が確認できるそうである。


☆ルパンはどんな時代だった?

 ミス・ベークフィールドにあっさり正体を見抜かれるが、ルパンはこのときラウール=ド=リメジー男爵なる冒険家貴族に化けている。ベークフィールドに指摘されるように、以前名乗っていた偽名ラウール=ダンドレジーとよく似ている。ただその偽名を名乗っていた『カリオストロ伯爵夫人』はシリーズでは前作とはいえ、「ルパン史」では最初期の話(およそ14年前)で、しかもルパンが巧妙にもみ消した過去と思われるので、ちょっと不自然な気がしなくはない。まぁベークフィールド女史の情報網がカリオストロ伯爵夫人並みに凄かったのかも知れないが。
 ルパンが過去に使った偽名ということでは、ルパンがうっかり帽子にそのまま縫い付けていた「H.V」のイニシャル、オラース=ベルモン(Horace Velmont)も再登場。『おそかりしシャーロック=ホームズ』『結婚指輪』に続く登場で、ルブランも気に入った偽名だったのかもしれない。

 ところでラウール=ド=リメジー男爵は世界をまたにかけた探検家だ。ミス・ベークフィールドのセリフによると、チベットと中央アジアを探検してきて、その探検談のインタビューが新聞記事に載っているというのだ。
 戯曲『アルセーヌ・ルパンの帰還』の雑談で触れているが、この時代「チベット」といえば「世界最後の秘境」の代名詞みたいなもので、ホームズも失踪時にチベットを旅していたことになっていた。その『帰還』ではルパン自身もチベットに旅行しているらしい(もっともこの戯曲は「正史」とはいえないが)。同時代にチベットや中央アジアを探検したといえばスウェーデンの地理学者スウェン=ヘディン(Sven Hedin,1865-1952)が有名で、ルブランもそれを意識していたかもしれない。
 しかしルパンは実際にチベットや中央アジアを探検しただろうか?『ルパンの冒険』でやはり探検家貴族のシャルムラース公爵に会うために南米まで出かけた例はあるし、『影の合図』ではアルメニアに出かけていたとの記述がある。だから中央アジアも…とも言えるのだが、なんとなくリメジー男爵の存在ともども偽装なのではないかという感じがある。後に書かれた『謎の家』でもルパンは世界一周を果たした航海士貴族として登場するが、これも実際にはやってなかったととれる記述になっている。

  ルパンは言うまでもなく「泥棒」である。だが、ちゃんと泥棒生活をしている模様は前期作品に集中していて、後期になると泥棒をやってる様子がほとんど出て こない。本作『緑の目の令嬢』も基本的には美女を助けるためにルパンがほぼ善意で奔走する話で、悪事に手を染める場面はあまりない(一か所だけ、お医者さんにひどいことをしてる場面があるが(笑))。
 でもやっぱり泥棒家業で生活してるんだろうな、と思わせる描写もある。ミス・ベークフィールドと同じ車室で眠りにつこうとする場面で、「簡単に手に入れた札束が、財布にどっさり入っている。確実に実行できて、たっぷりと収穫の望めるいろいろな計画が、彼の才知にたけた頭のなかにうずまいている」(大友訳)と書かれているのだ。その直後に皮肉にも自分が強盗に襲われるはめになるのだが、これは『ふしぎな旅行者』でも似たような場面があった。

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日本語では「緑」を「あお」と表現することが多い。これは古代日本語では色の分類が「くろ」「しろ」「あか」「あお」の四色しかなかったことが原因と言われ(この四つだけ「○○い」と活用できる)

Liste d'écrivains américain

2021-03-27 03:23:04 | 🇫🇷文学
Liste d'écrivains américains par ordre chronologique
Liste d'écrivains américains, classés par année de naissance (puis par ordre alphabétique au sein de chaque année).

Voir aussi la liste d'écrivains américains par ordre alphabétique.


Sommaire
1 XVIe siècle
2 XVIIe siècle
3 XVIIIe siècle
4 XIXe siècle
4.1 1800-1850
4.2 1851-1899
5 XXe siècle
5.1 1900-1950
5.2 1951-2000
xvie siècle[modifier | modifier le code]
William Bradford (1590 - 1657)
Thomas Morton (1579 - 1647)
John Winthrop (1588 - 1649)
xviie siècle[modifier | modifier le code]
Roger Williams (1603 - 1683)
Anne Bradstreet (1612 - 1672)
Mary Rowlandson (1636 - 1711)
Edward Taylor (1642 - 1729)
Robert Calef (1648 - 1719)
Samuel Sewall (1652 - 1730)
Cotton Mather (1663 - 1728)
Sarah Kemble Knight (1666 - 1727)
xviiie siècle[modifier | modifier le code]
Jonathan Edwards (1703 - 1758)
Benjamin Franklin (1706 - 1790)
J. Hector St John de Crèvecoeur (1735 - 1813)
Elizabeth Graeme Fergusson (1737-1801)
Robert Bolling (1738-1775)
Thomas Jefferson (1743 - 1826)
Olaudah Equiano (? - 1797)
Judith Sargent Murray (1751 - 1820)
Philip Freneau (1752 - 1832)
Phillis Wheatley (1753 - 1784)
Hannah Websters Foster, 1758 - 1840
Mason Locke Weems, 1759 - 1825
Susanna Rowson, 1762 - 1824
Tabitha Tenney, 1762 - 1837
William Hill Brown, 1765 - 1793
Charles Brockden Brown, 1771 - 1810
Francis Scott Key, 1779 - 1843
Clement Clarke Moore, 1779 - 1863
Washington Allston, 1779 - 1843
Washington Irving, 1783 - 1859
James Fenimore Cooper, 1789 - 1851
Catharine Maria Sedgwick, 1789 - 1867
John Howard Payne, 1791 - 1852
Lydia Howard Huntley Sigourney, 1791 - 1867
John Neal, 1793 - 1876
William Cullen Bryant, 1794 - 1878
John Pendleton Kennedy, 1795 - 1870
John Lofland, 1798 - 1849
John Kearsley Mitchell, 1798 - 1858
William Apess, 1798 - 1839
Robert Charles Sands, 1799 - 1832
xixe siècle[modifier | modifier le code]
1800-1850[modifier | modifier le code]
Jane Johnston Schoolcraft, 1800 - 1842
John Hill Hewitt, 1801 - 1890
Caroline Stansbury Kirkland, 1801 - 1864
Lydia Maria Child, 1802 - 1880
Ralph Waldo Emerson, 1803 - 1882
George Lunt, 1803 - 1885
Nathaniel Hawthorne, 1804 - 1864
Robert Montgomery Bird, 1806 - 1854
Nathaniel Parker Willis, 1806 - 1867
William Gilmore Simms, 1806 - 1870
Theodore Fay, 1807 - 1898
Henry Longfellow, 1807 - 1882
John Greenleaf Whittier, 1807 - 1892
William Davis Gallagher, 1808 - 1894
Willis Gaylord Clark, 1808 - 1841
Edgar Allan Poe, 1809 - 1849
Abraham Lincoln, 1809 - 1865
Margaret Fuller, 1810 - 1850
Harriet Beecher Stowe, 1811 - 1896
Fanny Fern, 1811 - 1872
Thomas Gold Appleton, 1812 - 1884
Harriet Jacobs, 1813 - 1897
Rebecca Harding Davis, 1813 - 1910
Jones Very, 1813 - 1880
Abraham Coles, 1813 - 1891
William Wells Brown, 1814 - 1884
Eliza Farnham (1815 - 1864)
Henry David Thoreau, 1817 - 1862
James Thomas Fields, 1817 - 1881
Thomas Mayne Reid, 1818 - 1883
William Ellery Channing, 1818 - 1901
Frederick Douglass, 1818 - 1895
Herman Melville, 1819 - 1891
James Russell Lowell, 1819 - 1891
Walt Whitman, 1819 - 1892
Edward Everett Hale, 1822 - 1909
Elizabeth Drew Stoddard, 1823 - 1902
George Henry Boker, 1823 - 1890
Bayard Taylor, 1825 - 1878
Frances Ellen Watkins Harper, 1825 - 1911
James Madison Bell, 1826 - 1902
John William De Forest, 1826 - 1906
Henry Timrod, 1828 - 1867
Fitz-James O'Brien, 1828 - 1862
Abel Beach, 1829 - 1899
Paul Hamilton Hayne, 1830 - 1886
Emily Dickinson, 1830 - 1886
Mary Mapes Dodge, 1831 - 1905
Louisa May Alcott, 1832 - 1888
María Amparo Ruiz de Burton, 1832 - 1895
Mark Twain, 1835 - 1910
Henry Ames Blood, 1836 - 1900
Bret Harte, 1836 - 1902
Thomas Bailey Aldrich, 1836 - 1907
William Dean Howells, 1837 - 1920
Henry Adams, 1838 - 1918
James A. Herne, 1839 - 1901
Ingersoll Lockwood, 1841 - 1918
Sidney Lanier, 1842 - 1881
William James, 1842 - 1910
Ambrose Bierce, 1842 - 1914
Bronson Howard, 1842 - 1908
Henry James, 1843 - 1916
Richard Watson Gilder, 1844 - 1909
Sarah Winnemucca, 1844 - 1891
George Washington Cable, 1844 - 1925
Edgar Fawcett, 1847 - 1904
Joel Chandler Harris, 1848 - 1908
John Vance Cheney, 1848 - 1922
Joseph Arthur, 1848 - 1906
Emma Lazarus, 1849 - 1887
Sarah Orne Jewett, 1849 - 1909
Kate Chopin, 1850 - 1904
Edward Bellamy, 1850 - 1898
Eugene Field, 1850 - 1895
1851-1899[modifier | modifier le code]
Mary E. Wilkins Freeman, 1852 - 1930
W. C. Morrow, 1854 - 1923
Henry Cuyler Bunner, 1855 - 1896
Lyman Frank Baum, 1856 - 1919
Harold Frederic, 1856 - 1898
Booker T. Washington, 1856 - 1915
Anna Julia Cooper, 1858 - 1964
Pauline Hopkins, 1859 - 1930
Hamlin Garland, 1860 - 1940
Abraham Cahan, 1860 - 1951
Charlotte Perkins Gilman, 1860 - 1935
O. Henry, 1862 - 1910
Edith Wharton, 1862 - 1937
Ida B. Wells-Barnett, 1862 - 1931
Joséphine Diebitsch Peary, 1863 - 1955
Black Elk, 1863 - 1950
Richard Hovey, 1864 - 1900
Sui Sin Far (Edith Maud Eaton), 1865 - 1914
Laura Ingalls Wilder, 1867 - 1957
Mary Hunter Austin, 1868 - 1934
W.E.B. Du Bois, 1868 - 1963
Edgar Lee Masters, 1868 - 1935
Edwin Arlington Robinson, 1869 - 1935
Frank Norris, 1870 - 1902
Stephen Crane, 1871 - 1900
Theodore Dreiser, 1871 - 1945
James Weldon Johnson, 1871 - 1938
Paul Laurence Dunbar, 1872 - 1906
Willa Cather, 1873 - 1947
Bell Elliott Palmer (1873 – 1947)
Gertrude Stein, 1874 - 1946
Amy Lowell, 1874 - 1925
Robert Frost, 1874 - 1963
Edgar Rice Burroughs, 1875 - 1950
Jack London, 1876 - 1916
Zitkala-Ša, 1876 - 1938
Susan Glaspell, 1876 - 1948
Sherwood Anderson, 1876 - 1941
Carl Sandburg, 1878 - 1967
Upton Sinclair, 1878 - 1968
Wallace Stevens, 1879 - 1955
Mina Loy, 1882 - 1966
William Carlos Williams, 1883 - 1963
Cornelia Meigs, 1884 - 1973
Sinclair Lewis, 1885 - 1951
Ezra Pound, 1885 - 1972
H.D. (Hilda Doolittle), 1886 - 1961
Rose Wilder Lane, 1886-1968
Marianne Moore, 1887 - 1972
Raymond Chandler, 1888 - 1959
T.S. Eliot, 1888 - 1965
Alan Seeger, 1888 - 1916
Eugene O'Neill, 1888 - 1953
Charles Boardman Hawes, 1889 - 1923
Conrad Aiken, 1889 - 1973
Claude McKay, 1889 - 1948
Katherine Anne Porter, 1890 - 1980
Howard Phillips Lovecraft, 1890 - 1937
Conrad Richter, 1890 - 1968
Zora Neale Hurston, 1891 - 1960
Nella Larsen, 1891 - 1964
Henry Miller, 1891 - 1980
Jim Tully, 1891 - 1947
Edna St. Vincent Millay, 1892 - 1950
Pearl Buck, 1892 - 1973
Monica Shannon, 1893 - 1965
Dorothy Parker, 1893 - 1967
E.E. Cummings, 1894 - 1962
Jean Toomer, 1894 - 1967
Dashiell Hammett, 1894 - 1961
Carol Ryrie Brink, 1895 - 1981
F. Scott Fitzgerald, 1896 - 1940
John Dos Passos, 1896 - 1970
Louis Bromfield, 1896 - 1956
William Faulkner, 1897 - 1962
Thornton Wilder, 1897 - 1975
Ernest Hemingway, 1899 - 1961
xxe siècle[modifier | modifier le code]
1900-1950[modifier | modifier le code]
Thomas Wolfe, 1900 - 1938
Margaret Mitchell, 1900 - 1949
Sterling Brown, 1901 - 1989
Langston Hughes, 1902 - 1967
Kay Boyle, 1902 - 1992
John Steinbeck, 1902 - 1968
Erskine Caldwell, 1903 - 1987
Countee Cullen, 1903 - 1946
William Irish, 1903 - 1968
Anaïs Nin, 1903 - 1977
Lorine Niedecker, 1903 - 1970
Robert Penn Warren, 1905 - 1989
Stanley Kunitz, 1905 - 2006
Robert A. Heinlein, 1907 - 1988
William Maxwell, 1908 - 2000
George Oppen, 1908 - 1984
Richard Wright, 1908 - 1960
Jack Williamson, 1908 - 2006
Theodore Roethke, 1908 - 1963
William Saroyan, 1908 - 1981
Nelson Algren, 1909 - 1981
John Fante, 1909 - 1983
Chester Himes, 1909 - 1984
Wallace Stegner, 1909 - 1993
Eudora Welty, 1909 - 2001
Paul Bowles, 1910 - 1999
Charles Olson, 1910 - 1970
Carlos Bulosan, 1911 - 1956
Elizabeth Bishop, 1911 - 1979
Tennessee Williams, 1911 - 1983
L. Ron. Hubbard, 1911 - 1986
John Cheever, 1912 - 1982
A. E. van Vogt, 1912 - 2000
Robert Hayden, 1913 - 1980
Randall Jarrell, 1914 - 1965
John Berryman, 1914 - 1972
William Burroughs, 1914 - 1997
Bernard Malamud, 1914 - 1986
Ralph Ellison, 1914 - 1994
Saul Bellow, 1915 - 2005
Thomas Savage, 1915 - 2003
Arthur Miller, 1915 - 2005
Herman Wouk, 1915 - 2019
Shelby Foote, 1916 - 2005
Walker Percy, 1916 - 1990
Carson McCullers, 1917 - 1967
Robert Lowell, 1917 - 1977
Gwendolyn Brooks, 1917 - 2000
Robert C. O'Brien, 1918 - 1973
Philip José Farmer, 1918 - 2009
Frederik Pohl, 1919 - 2013
Robert Duncan, 1919 - 1988
J. D. Salinger, 1919 - 2010
Isaac Asimov, 1920 - 1992
Ray Bradbury, 1920 - 2012
Charles Bukowski, 1920 - 1994
John Graves, 1920 - 2013
Patricia Highsmith, 1921 - 1995
Richard Wilbur, 1921 - 2017
William Gaddis, 1922 - 1998
Jack Kerouac, 1922 - 1969
Damon Knight, 1922 - 2002
Grace Paley, 1922 - 2007
Kurt Vonnegut, 1922 - 2007
James Dickey, 1923 - 1997
Joseph Heller, 1923 - 1999
Denise Levertov, 1923 - 1997
Norman Mailer, 1923 - 2007
Gordon R. Dickson, 1923 - 2001
James E. Gunn, 1923 -
James Baldwin, 1924 - 1987
Truman Capote, 1924 - 1984
William Humphrey, 1924 - 1997
Leonard Nathan, 1924 - 2007
Kenneth Koch, 1925 - 2002
Elmore Leonard, 1925 - 2013
Flannery O'Connor, 1925 - 1964
James Salter, 1925 - 2015
William Styron, 1925 - 2006
Gore Vidal, 1925 - 2012
A. R. Ammons, 1926 - 2001
Poul Anderson, 1926 - 2001
Robert Creeley, 1926 - 2005
J. P. Donleavy, 1926 - 2017
Allen Ginsberg, 1926 - 1997
Harper Lee, 1926 - 2016
Alison Lurie, 1926 -
Ed McBain, 1926 - 2005
James Merrill, 1926 - 1995
Frank O'Hara, 1926 - 1966
Edward Abbey, 1927 - 1989
John Ashbery, 1927 - 2017
Mary Higgins Clark, 1927 -
Galway Kinnell, 1927 -
William S. Merwin, 1927 -
James Wright[Lequel ?], 1927 - 1980
Philip Levine, 1928 - 2015
Edward Albee, 1928 - 2016
Philip K. Dick, 1928 - 1982
Raymond Federman, 1928 - 2009
William J. Kennedy, 1928 -
Alan E. Nourse, 1928 - 1992
Cynthia Ozick, 1928 -
Robert M. Pirsig, 1928 - 2017
Hubert Selby, 1928 - 2004
Anne Sexton, 1928 - 1974
Frederick Exley, 1929 - 1992
Ursula K. Le Guin, 1929 - 2018
Adrienne Rich, 1929 - 2012
John Barth, 1930 -
Gregory Corso, 1930 - 2001
Gary Snyder, 1930 -
Newton Thornburg, 1930 - 2011
Donald Barthelme, 1931 - 1989
Don Carpenter, 1931 - 1995
E. L. Doctorow, 1931 - 2015
Toni Morrison, 1931 - 2019
Tom Wolfe, 1931 - 2018
Robert Coover, 1932 -
Sylvia Plath, 1932 - 1963
John Gregory Dunne, 1932 - 2003
George Powers Cockcroft, 1932 -
John Updike, 1932 - 2009
John Gardner, 1933 - 1982
Ernest Gaines, 1933 -
Cormac McCarthy, 1933 -
Jerry Pournelle, 1933 - 2017
Philip Roth, 1933 - 2018
Harlan Ellison, 1934 - 2018
Amiri Baraka, 1934 - 2014
N. Scott Momaday, 1934 -
Gerald Vizenor, 1934 -
Audre Lorde, 1934 - 1992
Richard Brautigan, 1935 - 1984
Harry Crews, 1935 - 2012
Ken Kesey, 1935 - 2001
Mary Oliver, 1935 - 2019
Annie Proulx, 1935 -
Robert Silverberg, 1935 -
Charles Wright, 1935 -
Richard Bach, 1936 -
Lucille Clifton, 1936 - 2010
Don DeLillo, 1936 -
Stephen Dixon, 1936 -
James Lee Burke, 1936 -
Larry McMurtry, 1936 -
Rudolfo A. Anaya, 1937 -
Jerome Charyn, 1937 -
Jim Harrison, 1937 - 2016
Andrew J. Offutt, 1937 - 2013
Toby Olson, 1937 -
Thomas Pynchon, 1937 -
Robert Stone, 1937 - 2015
Hunter S. Thompson, 1937 - 2005
John Kennedy Toole, 1937 - 1969
Raymond Carver, 1938 - 1988
William Kotzwinkle, 1938 -
Joyce Carol Oates, 1938 -
Ishmael Reed, 1938 -
Charles Simic, 1938 -
Michael S. Harper, 1938 -
Toni Cade Bambara, 1939 -
Russell Banks, 1940 -
Maxine Hong Kingston, 1940 -
Fanny Howe, 1940 -
Robert Pinsky, 1940 -
Norman Spinrad, 1940 -
Max Apple, 1941 -
Frederick Busch, 1941 - 2006
Billy Collins, 1941 -
Simon J. Ortiz, 1941 -
Anne Tyler, 1941 -
John Edgar Wideman, 1941 -
Gloria Anzaldúa, 1942 - 2004
Leighton Gage, 1942 - 2013
John Irving, 1942 -
Ron Padgett, 1942 -
Sam Shepard, 1943 - 2017
Louise Glück, 1943 -
Steven Millhauser, 1943 -
Dan Fante, 1944 - 2015
Alice Walker, 1944 -
Joy Williams, 1944 -
Kent Anderson, 1945 -
Annie Dillard, 1945 -
Richard Bausch, 1945 -
Robert Olen Butler, 1945 -
Thom Jones, 1945 - 2016
John Perkins, 1945 -
Tobias Wolff, 1945 -
Tim O'Brien, 1946 -
Paul Auster, 1947 -
Ann Beattie, 1947 -
Tom Clancy, 1947 - 2013
Tim Gautreaux, 1947 -
Yusef Komunyakaa, 1947 -
Stephen King, 1947 -
David Mamet, 1947 -
T. C. Boyle, 1948 -
James Ellroy, 1948 -
William Gibson, 1948 -
George R. R. Martin, 1948 -
Marta Randall, 1948 -
Leslie Marmon Silko, 1948 -
Art Spiegelman, 1948 -
Dan Simmons, 1948 -
Lois McMaster Bujold, 1949 -
Denis Johnson, 1949 - 2017
Richard Russo, 1949 -
Jane Smiley, 1949 -
Julia Alvarez, 1950 -
Jorie Graham, 1950 -
Mark SaFranko, 1950 -
1951-2000[modifier | modifier le code]
Kirk W. Johnson (écrit au xxie siècle)
Jeffrey McClanahan (écrit au xxie siècle)
Larry Brown, 1951 - 2004
Joy Harjo, 1951 -
Amy Hempel, 1951 -
Orson Scott Card, 1951 -
Richard Crasta, 1952 -
Michael Cunningham, 1952 -
Rita Dove, 1952 -
Jayne Anne Phillips, 1952 -
Alberto Ríos, 1952 -
Amy Tan, 1952 -
Kevin Canty, 1953 -
Tom Gabbay, 1953 -
Alice McDermott, 1953 -
Ron Rash, 1953 -
Don Winslow, 1953 -
Andrea Barrett, 1954 -
Sandra Cisneros, 1954 -
Lorna Dee Cervantes, 1954 -
Louise Erdrich, 1954 -
Siri Hustvedt, 1955 -
Barbara Kingsolver, 1955 -
Cathy Song, 1955 -
Jim Grimsley, 1955 -
Percival Everett, 1956 -
David Guterson, 1956 -
Rob Roberge, 1956 -
Elizabeth Strout, 1956 -
Richard Zimler, 1956 -
Michael Connelly, 1957 -
Li-Young Lee, 1957 -
James McBride, 1957 -
Lorrie Moore, 1957 -
Richard Powers, 1957 -
Lionel Shriver, 1957 -
Linda Joy Singleton, 1957 -
Donald Antrim, 1958 -
Rick Bass, 1958 -
Pete Fromm, 1958 -
Chris Offutt, 1958 -
George Saunders, 1958 -
William T. Vollmann, 1959 -
Jonathan Franzen, 1959 -
Bruce Holbert, 1959 -
Dejan Stojanović, 1959 -
Jeffrey Eugenides, 1960 -
Greg Iles, 1960 -
Colin Harrison, 1960 -
Laura Kasischke, 1961 -
David Leavitt, 1961 -
David Means, 1961 -
Rick Moody, 1961 -
Cecilia Samartin, 1961 -
Paul Beatty, 1962 -
Suzy Becker, 1962 -
David Foster Wallace, 1962 - 2008
Chuck Palahniuk, 1962 -
Michael Chabon, 1963 -
Iain Levison, 1963 -
Donna Tartt, 1963 -
Jonathan Ames, 1964 -
Dan Brown, 1964 -
Dan Chaon, 1964 -
Craig Clevenger, 1964 -
Bret Easton Ellis, 1964 -
Augusten Burroughs, 1965 -
Beth Fantaskey, 1965 -
Dennis Lehane, 1965 -
Scott Wolven, 1965 -
Sherman Alexie, 1966 -
Mark Z. Danielewski, 1966 -
Brian Evenson, 1966 -
Matthew Specktor, 1966 -
David Vann, 1966 -
Paul Harding, 1967 -
Adam Johnson, 1967 -
Jhumpa Lahiri, 1967 -
Willy Vlautin, 1967 -
Mitch Cullin, 1968 -
Junot Díaz, 1968 -
Rachel Kushner, 1968 -
Sam Lipsyte, 1968 -
Arthur Phillips, 1969 -
Jake Adelstein, 1969 -
Colson Whitehead, 1969 -
Chris Adrian, 1970 -
Dave Eggers, 1970 -
Simone Elkeles, 1970 -
Nathan Englander, 1970 -
Adam Haslett, 1970 -
Andrew Sean Greer, 1970 -
Trenton Lee Stewart, 1970-
Christopher Coake, 1971 -
Atticus Lish, 1972 -
Greg Olear, 1972 -
Andrew Porter, 1972 -
Gary Shteyngart, 1972 -
Anthony Doerr, 1973 -
Frank Bill, 1974 -
Nicole Krauss, 1974 -
John D'Agata, 1975 -
Travis Mulhauser, 1976 -
Jesmyn Ward, 1977 -
Jonathan Safran Foer, 1977 -
William Boyle, 1978 -
Lauren Groff, 1978 -
Nickolas Butler, 1979 -
Carson Cistulli, 1979 -
Ben Lerner, 1979 -
Benjamin Percy, 1979 -
Kevin Powers, 1980 -
Karen Russell, 1981 -
Atia Abawi, 1981 ou 1982 -
Luke Mogelson, 1982 -
Thomas Pierce, 1982 -
David Joy, 1983 -
Phil Klay, 1983 -
Tao Lin, 1983 -
Colin Winnette, 1984 -
Alexandra Kleeman 1986 -
Brit Bennett, 1990 -
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柄谷行人

2021-03-27 01:29:02 | 🇫🇷文学
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La Langue française n'est pas la langue française LHTn°11
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Tombeaux de la littérature LHTn°5
Poétique de la philologie LHTn°4
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Complications de texte : les microlectures LHTn°2
Ce que le cinéma fait à la littérature (et réciproquement) LHTn°1
Les Philosophes lecteurs LHTn°zéro
Théorie et histoire littéraire
Suite
LHT n°6MAI 2009
Tombeaux de la littératureTombeaux de la littérature
DOSSIER
Alexandre Gefen, Ma fin est mon commencement : les discours critiques sur la fin de la littérature

Guillaume Artous-Bouvet, Versions d’un tombeau

Olivier Bessard-Banquy, Du déclin des lettres aujourd’hui

Stéphane Chaudier et Julian Négrel, Le Stabat Mater de Régis Jauffret : quel tombeau pour quelle littérature ?

Alexandru Matei, La perplexité devant la littérature

Mathilde Morantin, « Usages du roman pour une littérature usagée » : l’instrumentalisation du roman au service de la fin de la Littérature

Timothée Picard, La mélomanie porte-t-elle les écrivains à la « déclinologie » (et vice-versa) ? (Parcours à travers la littérature contemporaine, et mise en perspective)

Nathalie Chatelain, Lorsque le titre se fait épitaphe : chronique de la mort annoncée du conte de fée fin-de-siècle.

DOCUMENTS
Jacques Rivière, « La crise du concept de littérature »

Raymond Dumay, Mort de la littérature (1950)

Jacques Etienne Ehrmann, La mort de la littérature (1971)

TRADUCTION
Kôjin Karatani, La fin de la littérature moderne

ENTRETIEN
Dominique Viart, Résistances de la Littérature contemporaine

INÉDIT
Enrique Vila-Matas, Les Dés des os des morts


Traduction mai 2009LHT n°6 TOMBEAUX DE LA LITTÉRATURE titre articleFR ENG KÔJIN KARATANI
La fin de la littérature moderne
in K. Karatani, Kindaï bungaku no owari, Tokyo, éd Inscript, 2005, p.35-80. Texte traduit par Misako Nemoto, maître de conférences à l’Université Meiji, Tokyo, avec l’aimable autorisation de l’auteur.
Cet article est basé sur une transcription d’une série de conférences que j’ai tenue en octobre 2003, au Collège d’Osaka du Centre International de Recherches en Sciences Humaines de l’Université du Kinki.
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1J’aimerais parler aujourd’hui de « la fin de la littérature moderne ». Cette fin ne signifie pas, qu’après la littérature moderne, viendra, par exemple, la littérature postmoderne, ni que la littérature disparaîtra totalement. Ce dont je voudrais parler, c’est le rôle spécifique qu’a joué la littérature dans la modernité, en revêtant une importance et une valeur toutes particulières, et la fin de ce phénomène. Cette fin, je n’ai même pas besoin de la claironner. Elle est un fait. Peu de personnes considèrent aujourd’hui que la littérature est importante. Je n’ai donc pas à m’en faire le porte-parole. Au contraire, il faudrait presque insister aujourd’hui sur le fait qu’il fut un temps où la littérature a joué un rôle très important.
2J’ai eu moi–même beaucoup à faire avec la littérature. Je n’ai pourtant aucune intention de vous inciter à faire de même et je considère qu’il n’en est nullement besoin. Cependant, il est nécessaire de réfléchir sur cette époque où la littérature paraissait éternelle, ainsi que sur ce que signifie sa disparition, puisque cette réflexion nous amène finalement à penser notre époque.
3Quand je dis littérature moderne, je pense au roman. La littérature moderne ne se réduit évidemment pas au seul domaine du roman, mais le fait que le roman y a occupé une place primordiale constitue sa particularité. La « littérature » a existé avant la modernité. Elle comptait pour la classe dirigeante et l’intelligentsia. Or le roman n’y était pas inclus. En Europe, la poétique a toujours existé depuis Aristote, mais celle-ci, s’appliquait au théâtre et non au roman. Nous retrouvons la même situation au Japon. La littérature signifiait les textes chinois (kanbun) et classiques, et les romans ou les récits fictifs (Haïshi1) n’étaient pas pris en considération par les intellectuels. C’est seulement à partir des années 20 de l’ère Meiji2 qu’on a commencé à reconnaître l’importance du roman. En somme, si la littérature moderne a joué un rôle prépondérant, c’est parce que le roman y a occupé une place centrale donnant lieu à des œuvres d’envergure.
4La fin de la littérature moderne marque donc la fin d’une époque où le roman et les romanciers occupaient une place importante. C’est ainsi que j’aimerais parler tout d’abord d’un romancier. Il s’agit de Sartre. Peut-être m’objectera-t-on que Sartre était philosophe, auteur de pièces de théâtre et de romans, critique de tous les arts, journaliste et militant social. Il reste malgré tout à mes yeux essentiellement romancier.
5En feuilletant l’autre jour une anthologie d’articles et d’entretiens donnés par Deleuze (traduite en anglais), je suis tombé sur ces paroles déclarant que son unique maître avait été Sartre. Deleuze distinguait les « maîtres privés » des « maîtres publics » et affirmait que Sartre avait été son seul « maître privé ». Ceci montre justement que Sartre a été « romancier ». Sartre n’a jamais été un philosophe professeur d’université. Sa philosophie était essentiellement littérature, ou plutôt quelque chose qui ressemblait de très près à des romans.
6Deleuze cite les paroles suivantes de Sartre : « En un mot, la littérature constitue la subjectivité d’une société en état de révolution permanente. » Autrement dit, la littérature se charge de la révolution permanente lors même que la politique révolutionnaire se transforme en conservatisme. Or il est remarquable que Sartre parle ici de « littérature » et non de « philosophie ». Il a touché à tout, pas seulement au roman. Et ce qui le lui a permis, c’est le roman, son point de vue de romancier.
7Sa présence a été d’un tel poids qu’en France, ceux qui sont venus après lui ont eu beaucoup de mal. Nombre d’entre eux ont fait le choix de critiquer ou de ridiculiser sa pensée pour se démarquer et assurer leur propre existence. Mais en réalité, ils l’admiraient. Sartre avait d’ailleurs prévu toutes ces critiques. Derrida a attaqué par exemple « la philosophie de la présence », mais c’est justement ce que Sartre avait tenté de faire en écrivant sur « l’imagination ». Quant à l’anti-roman, il lui doit sa reconnaissance en tant que littérature et La Nausée n’est autre qu’un anti-roman.
8Prenons le concept d’écriture qui a connu un grand succès dans les années 1960. Il désignait des œuvres qui n’étaient ni des romans, ni de la philosophie. Or, disons les choses franchement, ses représentants ne savaient écrire ni des romans ni des pièces de théâtre comme Sartre, ils ont donc réfuté ces formes, tout en réhabilitant, par le concept de l’écriture, ce que Sartre appelait « littérature ». Ceci pour dire que « l’écriture » n’a signifié que la fin du roman (y compris le Nouveau Roman) comme littérature moderne, et qu’il était tout à fait illusoire d’y voir une quelconque possibilité d’une nouvelle littérature.
9Dans l’exercice de ma fonction en tant que critique littéraire au Japon, j’ai la nette sensation d’avoir vu la fin de la littérature moderne dans les années 1980. C’était la période de l’économie de la bulle, de la société de consommation, cette époque qu’on a qualifiée de postmoderne. La plupart des jeunes d’alors lisaient la « pensée contemporaine »3 plutôt que les romans. Autrement dit, la littérature n’exerçait plus un pouvoir d’avant-garde comme elle l’avait fait jusque-là. Dans ce sens, on peut dire que ce que Sartre avait nommé « littérature » était passé dans une forme d’écriture critique qui n’a d’ailleurs pas duré longtemps. Quand je dis « fin de la littérature moderne », j’y inclus aussi la notion d’écriture en tant que critique de la littérature moderne ainsi que la critique et la philosophie déconstructivistes. Les choses sont apparues ainsi dans les années 1990. Au Japon, c’était juste après la mort de Kenji Nakagami.
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10Avant de chercher le pourquoi et le comment de ce déclin et de cette perte d’influence de la littérature, j’aimerais préciser que ce phénomène ne se limite pas au Japon. J’ai déjà mentionné la France, mais aux États-Unis, la littérature avait déjà connu un recul plus tôt, car c’est là que la culture de masse, dont notamment la télévision, s’était développée le plus tôt, dans les années 1950. Étant donné le nombre important des minorités aux États-Unis, la littérature y est devenue dès cette époque, une littérature des minorités. Dès les années 1970, on voit apparaître des écrivains femmes noires ou d’origine asiatique. Ces auteurs jouissaient certes d’une grande vitalité littéraire, mais celle-ci n’était pas de nature à exercer une influence sur l’ensemble de la société. Nous retrouvons la même situation dans le Japon des années 1980 avec des noms comme Kenji Nakagami, Yangji Lee ou Yûko Tsushima.
11Les États-Unis nous ont largement devancés. La preuve en est que l’apparition dans les universités japonaises de sections de « création littéraire » où enseignent des écrivains est un phénomène que l’on connaissait aux États-Unis dès les années 1950. Il est arrivé à Faulkner de dire que le meilleur moyen de devenir écrivain était de tenir un bordel ; or on en était en réalité bien loin : des écrivains commençaient déjà à naître de cursus universitaires de création. Cependant dans l’Amérique d’aujourd’hui, la faculté de lettres n’est plus du tout populaire. Elle ne survivrait pas si l’on n’avait pas eu recours aux études sur le cinéma. Il est vrai qu’au Japon aussi, les facultés de lettres tendent à disparaître.
12Mais là où j’ai vraiment senti la fin de la littérature, c’est lorsque j’ai appris que la littérature perdait subitement son influence en Corée. Ce fut un choc. J’ai eu de nombreuses occasions, dans les années 1990, de participer à des réunions d’écrivains japonais et coréens et de rencontrer des écrivains coréens, des réunions où j’ai ressenti l’impression que ce qui était arrivé au Japon n’arriverait pas en Corée. Par exemple, aussi tard qu’en 2000, j’ai proclamé, lors d’une conférence de presse en Corée, que la littérature était morte au Japon. Je voulais dire par là que la littérature japonaise créait certes encore des produits qui pouvaient être mis en circulation dans le circuit global tels que les œuvres de Haruki Murakami, mais qu’elle avait perdu le rôle qu’elle jouait, la signification qu’elle avait au sein de la société japonaise. J’ai appris plus tard que ces paroles avaient connu de nombreux échos parce qu’elles décrivaient une situation qui n’était pas étrangère en Corée : la vogue de Haruki Murakami avait aussi atteint les jeunes lecteurs coréens. On m’avait alors demandé ce que je pensais de l’avenir de la littérature en Corée, et j’avais répondu qu’elle continuerait de jouer un rôle important dans ce pays. La littérature y resterait, comme y subsisteraient les mouvements politiques.
13Or ce ne fut pas le cas pour la littérature. Les mouvements étudiants se sont certes apaisés, mais ceux des ouvriers sont encore en plein essor ; des cocktails Molotov ont été lancés lors du congrès des ouvriers de l’automne 2003. Si les mouvements étudiants ont été si puissants en Corée, c’est parce qu’ils suppléaient à l’impossibilité d’organiser des mouvements ouvriers et plus généralement des mouvements politiques. C’est pourquoi il est tout à fait normal que les mouvements étudiants se soient affaiblis dès que les mouvements politiques et ouvriers n’ont plus connu de restriction spéciale. Il en fut de même pour la littérature. La littérature, en Corée, occupait effectivement la même place que les mouvements étudiants. Elle tenait lieu de tout ce qui restait impossible dans la réalité.
14Or le déclin de la littérature semble y avoir commencé dès la fin des années 1990. Jong Chul Kim, critique littéraire renommé, a abandonné la littérature pour initier un mouvement écologique ; il publie notamment une revue intitulée « Critique verte ». Il m’a invité à l’automne 2002 pour faire une conférence en Corée, car il savait que je m’étais éloigné de la littérature pour animer le mouvement NAM. Pour éviter tout malentendu, je tiens à insister que Jong Chul Kim est le genre de personne qui me dira avoir lu récemment Bruine de neige de Jun’Ichiro Tanizaki pour la quatrième fois. Je lui ai demandé pourquoi il avait abandonné la littérature. Il m’a répondu avoir choisi la voie littéraire car il avait cru que la littérature concernait toutes sortes de problèmes, allant du moi jusqu’à la politique, comprenant même les contradictions insolvables. Or il s’était rendu compte que depuis quelque temps, elle ne s’intéressait plus qu’à des problèmes très restreints, ce qui à ses yeux n’était plus de la littérature et c’est pourquoi il avait choisi de la quitter. Je lui ai exprimé mon assentiment.
15J’ai appris plus tard que tous les critiques littéraires coréens que j’avais rencontrés dans les années 1990 s’étaient retirés de la scène littéraire. Nombre de ces critiques étaient non seulement des critiques, mais publiaient aussi des revues, ou possédaient des maisons d’édition. Ces gens-là ont tous abandonné la littérature en même temps. Je ne pense pas que ce fut parce que ces critiques ne pouvaient plus comprendre la sensibilité des jeunes générations. Non, cela signifiait que la littérature à laquelle ils avaient cru était finie. Je n’aurais jamais imaginé que les choses se dérouleraient aussi rapidement en Corée. Et c’est ainsi que j’ai été amené à me convaincre de la réalité de la fin de la littérature.
3
16J’aimerais maintenant réfléchir à la signification spéciale qu’a prise la littérature moderne, c’est-à-dire le roman. La littérature existait avant la modernité, ainsi que les théories littéraires. C’est la poétique. Or, comme je l’ai déjà signalé, le roman n’en faisait pas partie. Le roman existait certes déjà, et avait beaucoup de succès tout en n’étant pas pris en considération.
17Or il est très significatif que le concept d’« esthétique » ait fait son apparition au xviiie siècle. À l’origine, aesthetic signifiait philosophie de la sensibilité. C’est essentiellement dans ce sens, par exemple, que Kant emploie ce mot dans sa Critique de la raison pure. Ceci signifie que l’esthétique est une science de la sensibilité ou de l’affection. Il ne faut cependant pas oublier qu’il y a là une nouvelle pensée. La sensibilité ou l’affection étaient jusque-là des facultés humaines sous-estimées par la philosophie. On souhaitait s’en éloigner pour être rationnel. Or il était à cette époque question de les relier à des facultés intellectuelles et morales (telles que l’entendement ou la raison) par le biais de l’imagination dont on s’était méfié jusque-là comme faculté prêtant à illusion, et c’est à partir de cette période qu’on a commencé à la reconnaître en tant que faculté créatrice. C’est sur fond de ce changement que la littérature a été amenée à jouer un rôle de plus en plus important.
18L’esthétique est née en Angleterre et a connu un essor particulier dans le romantisme allemand. Or ce qui est curieux, c’est qu’on a assisté à la même époque, à un phénomène semblable au Japon. Dans la seconde moitié du xviiie siècle, Norinaga Motoori (1730-1801) a insisté sur la primauté du mono no aware (le sentiment des choses)4 en tant qu’empathie ou imagination, sur la connaissance et la morale que prônait le néo-confucianisme. En se basant sur cette notion, il affirma que c’était Le Dit du Genji (1001), qui, malgré ses apparences d’immoralité, recelait la vraie morale. Cette pensée a surgi loin des influences occidentales. Elle possède pourtant quelque chose qui n’est pas sans rapport avec l’Occident : cette attitude qui consiste à affirmer la sensibilité ou les affections, découle d’une société civile constituée principalement par la classe commerçante et industrielle.
19D’un autre point de vue, cela signifie que l’on commence à l’époque à découvrir dans le « roman », qui jusque-là n’était considéré que comme lecture de divertissement relevant du domaine du sensible, une dimension épistémologique et véritablement morale, bien que différente de la philosophie et de la religion. Le roman sera à la base d’une « communauté empathique », c’est-à-dire, d’une nation en tant que communauté imaginaire. C’est lui qui identifiera les intellectuels et le peuple, ainsi que les diverses classes sociales, grâce à l’« empathie », afin de former une nation.
20C’est ainsi que le roman, dévalorisé jusque-là, entame son ascension. Mais le prix à payer en sera lourd. Car si le roman n’est qu’un plaisir relevant du « sensible », il ne sera pas esthétique. Pour que la littérature dépasse la connaissance et la morale, il faut, en retour, qu’elle se les inflige à elle-même de façon permanente. Il fut une époque où l’on a défendu la poésie par rapport à la morale et la religion. Or ce qui peut être considéré de nos jours comme intellectuel et moral par rapport à la littérature c’est le politique ou le marxisme. Les débats sur « la religion et la politique » ou « la politique et la littérature » sont nés de cette promotion de la littérature qui a cessé d’être un simple plaisir.
21Dans le cadre du débat autour de « la religion et la littérature », les défenseurs de cette dernière prétendaient que celle-ci était plus religieuse qu’une religion institutionnalisée et qu’elle pouvait servir d’indice moral ou que, tout en étant fictive, elle pouvait être plus véridique que ce que l’on appelle communément la vérité. Dans le débat autour de « la politique et la littérature » également, la défense de la littérature consistait, dans la plupart des cas, à avancer que sous des dehors apolitiques d’impuissance et d’inaction, elle pouvait tendre vers quelque chose de plus révolutionnaire que la politique révolutionnaire (institutionnalisée), ou que, tout en n’étant que de la fiction, elle présentait une connaissance surpassant la connaissance ordinaire. C’est ce que signifiait Sartre lorsqu’il disait que « la littérature constitue la subjectivité d’une société en état de révolution permanente ». Ces paroles de Sartre décrivent la situation post-kantienne de la littérature.
22Mais aujourd’hui personne ne prend la défense de la littérature. Car personne ne la critique non plus. On en fait vaguement cas du point de vue social, tout en considérant qu’elle relève, au fond, de l’ordre des enfantillages. Il n’en est plus question aujourd’hui, mais il y a environ trente ans encore, on discutait « de politique et de littérature », en affirmant par exemple que la littérature devait préserver son indépendance face à la politique. Pour dire les choses plus clairement, c’était une façon de demander aux littérateurs leur position vis-à-vis de la politique, ou plus précisément, du communisme. C’est pourquoi le discrédit du parti communiste marque la fin du problème « politique et littérature ». Un écrivain ne doit-il pas être capable d’écrire tout ce qu’il veut ? Inutile de parler de politique, c’est ringard ! Tels sont, en gros, les propos qui en découlent.
23Tout n’est cependant pas si simple. Car la promotion du statut de la littérature a partie liée avec la charge morale dont on l’investit. Si elle s’en libère, elle n’est plus que simple plaisir. Si on ne s’en formalise pas, tant mieux. Et vive la littérature ! J’ai d’ailleurs toujours été d’avis qu’il ne fallait pas la forcer à être éthique ou politique. À dire la vérité, je considère qu’il y a des choses plus importantes que la littérature. J’estime, dans le même temps, que le roman qui est à l’origine de la littérature moderne est une forme historique qui a fait son temps.
4
24Avant les temps modernes, le monde était constitué de plusieurs empires. La langue, sous ces empires, se résumait à la langue écrite : les idéogrammes dans l’Asie de l’Est, le latin en Europe de l’Ouest, l’arabe pour les pays de l’Islam. C’étaient des langues mondiales que les gens ordinaires ne savaient ni lire ni écrire. Les États-nations ont surgi d’une fragmentation de ces empires, en se créant chacun sa propre langue populaire (vernaculaire) et se détachant ainsi des langues mondiales.
25Concrètement parlant, chaque langue a été créée non pas tant à partir d’une activité d’écriture directe dans la langue populaire, mais à partir de traduction de langues mondiales, comme le latin, en langues populaires. Luther a traduit la Bible en langue populaire et a jeté les bases de l’allemand moderne. De même pour le roman de Dante, La Vita Nova, qu’il écrivit dans une des langues populaires de l’Italie qui deviendra par la suite l’italien moyen. On a regretté que cet écrivain, réputé pour sa maîtrise du latin, n’ait pas écrit dans cette langue. Je pense cependant que si sa langue est devenue de référence, c’est parce qu’elle a été écrite comme une traduction du latin.
26Selon Dante, on ne peut pas écrire sur les sentiments amoureux en latin. Le fait que Shikibu Murasaki qui était versée en kanbun5 (écriture chinoise) n’a aucunement eu recours au kango (lexique chinois) dans Le Dit du Genji est à comprendre dans le même sens. Une langue aussi intellectuelle que le kanbun n’était pas propre à décrire toutes les nuances des sentiments. Or la langue yamato6 (japonaise) de Shikibu Murasaki n’est nullement une langue populaire de la région de Kyoto, mais elle a été écrite comme une traduction du kango et c’est pourquoi elle a pu devenir une langue classique de référence.
27C’est ainsi que dans chaque État moderne, la traduction d’une langue universelle et intellectuelle tel le latin ou le kanbun a été à l’origine de l’élaboration d’un nouveau langage écrit. Dans le cas du Japon, il a été nécessaire de recréer à l’époque de Meiji, un nouveau langage écrit se basant sur la langue populaire (orale). C’est ce que l’on appelle le genbun icchi 言文一致(l’harmonisation entre l’oral et l’écrit) qui a été réalisé là aussi par les romanciers. Tout à l’heure, lorsque j’ai parlé de l’« esthétique », j’ai évoqué l’importance accrue de l’imagination comme faculté faisant le lien entre la sensibilité et la raison. On peut dire la même chose sur le plan linguistique. Le genbun icchi a consisté à relier le sensible, l’émotionnel, le concret, à des concepts abstraits et intellectuels.
28Partout où un État-nation moderne est né, on a pu assister à ce processus. En Chine aussi, on a commencé à écrire en genbun icchi, délaissant le kanbun traditionnel. On dit qu’après la guerre sino-japonaise, de jeunes Chinois qui sont venus étudier en masse au Japon ont tiré des leçons du genbun icchi et l’ont adapté au chinois. Là encore, les romans ont joué un rôle important.
29Or aujourd’hui, les États-nations sont déjà constitués. Ceci revient à dire que les identités nationales se sont bien enracinées dans tous les coins du globe. Pour ce faire, la littérature avait été indispensable, tandis qu’aujourd’hui il n’est plus besoin de se forger une identité imaginaire. Nous sommes de plus en plus amenés à penser la nation en simples termes de profits économiques réels.
30À présent, les États-nations du monde entier sont « culturellement » menacés par la globalisation capitaliste, ce qui invite à des réactions, sans pour autant donner lieu à de fortes poussées nationalistes. Or s’il s’agissait de désavantage économique, on assisterait probablement à une réaction furieuse. Ce qui déclenche aujourd’hui une très forte réaction contre la globalisation n’est ni le nationalisme ni la littérature, mais les fondamentalismes chrétiens ou islamiques, qui s’érigent quant à eux en ennemis de la littérature.

Member Les traducteurs - Nouvelles du Japon

2021-03-27 00:34:24 | 🇫🇷文学
Les traducteurs

Catherine Ancelot a obtenu une maîtrise de japonais consacrée à l’histoire de la traduction littéraire au Japon. Depuis…

Chris Belouad est maître de conférences à l'université d'Ochanomizu à Tōkyō. Il est titulaire d'un doctorat en études japonaises obtenu à l'université d'Ōsaka. Spécialiste de l’histoire des relations franco-japonaises, il s’intéresse particulièrement à la naissance des études japonaises en France et aux représentations du Japon en France au XIXe siècle.

Corinne Quentin est directrice de l’agence littéraire Bureau des Copyrights Français à Tōkyō où elle vit depuis 1984.…

Diplômé de l’INALCO, Jacques Lalloz a enseigné à l’Institut franco-japonais de Kyoto et à l’Université Kyōdai. Prix de…

Après des études de lettres et de japonais à l’université Paris VII, Jacques Lévy exerce des activités d’interprète et de traducteur avant d’enseigner à l’université de Hirosaki puis, depuis 1996, à l’université Meijigakuin.

Janina Tomimoto est titulaire d’une maîtrise de japonais des Langues’O sur Tanabe Seiko et le parler d’Osaka.

Elle vit dans le Kansai où elle enseigne le FLE dans plusieurs universités.

Le Japan Literature Publishing Project (JLPP), chapeauté par l’agence de la Culture, a pour ambition de mieux faire connaître la littérature japonaise contemporaine par le biais d’actions de traduction dans diverses langues.

Journaliste et écrivaine née dans le département d’Ibaraki au Japon. Exerçant le métier de journaliste depuis 1986 et résidant en France depuis 22 ans, elle est correspondante permanente de médias japonais.

Fondatrice de Nouvelles du Japon, un site pensé pour ouvrir la littérature japonaise à un large public, faire découvrir de nouveaux auteurs et tisser une communauté de traductrices et traducteurs du japonais vers le français.

Olivier Malosse est né à Rochefort en 1981. Après des études de cinéma à Montpellier et de Japonais à Lyon, il séjourne à Tokyo plusieurs années pour effectuer des recherches sur le cinéma japonais des années 60-70.

Silvain Chupin est traducteur.

Après une maîtrise de Lettres modernes, Sophie Bescond fonde en 1999 la librairie/maison d'édition Le Rat Pendu, basée en Bretagne.

Thierry Maré est né le 3 octobre 1957 à Amiens. Ancien élève de l’École Normale Supérieure de la rue d’Ulm et agrégé de Lettres modernes, il est arrivé au Japon en 1986, à l’invitation de l’université Gakushūin, à Tōkyō, dont il est aujourd’hui professeur.

Après des études de Lettres classiques à l’université de Lille et quelques années passées dans l’enseignement secondaire en France, Vincent Brancourt s’installe au Japon en 1998.

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