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🇨🇳三国志

2019-09-25 12:56:51 | 小説
陳 寿(陳壽、ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年?[1]))は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。甥は陳符(字は長信)・陳莅(字は叔度)・陳階(字は達芝)[2]。

Contents
1 生涯
2 『三国志』
3 陳寿への非難
4 陳寿を題材とした作品
5 関連項目
6 脚注
6.1 出典
6.2 注釈
生涯[edit source]
初め学識の高い譙周に師事し蜀漢に仕えるも、宦官の黄皓に逆らって左遷された。また、父の喪に服していた時に病気に罹り、下女に薬を作らせていた。このことが発覚すると、親不孝者として糾弾された。これは儒教の礼教において、親の喪に服している時にわが身を労わるのは、もっての外とされていたからである。このため蜀漢滅亡後も、しばらく仕官できなかった。
やがて、同門でかつての同僚羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。司馬炎(武帝)にその才能を買われて、益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、張華らに高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した。これらの実績を踏まえ『三国志』を編纂すると、張華は「『晋書』はこの本の後に続けるべきであろうな」と称賛した。
張華の政敵であった荀勗は、陳寿を歴史家としては評価していたが、『三国志』の「魏志」の部分に気分を害する箇所があったため、陳寿を外地の長広郡太守に任命した。陳寿はこれを母の病気を理由に辞退したが、経緯を知った杜預の推薦により、検察秘書官である治書侍御史に任命された。
また『華陽国志』によると、尚書郎の李驤(李福の子)は同門の先輩であり、蜀漢に仕えていた時の仲は良好だったといわれる。だが、蜀漢が滅び晋の世になると、些細なことから両人の仲が拗れて決別し、後に李驤が晋に再仕官しようとした時に、陳寿がそれを妨害し、李驤は再仕官をすることを諦めて蜀に戻って、終始在野の名士として、その生涯を終えたといわれている。
母(『華陽国志』によると継母)が洛陽で死去すると、その遺言に従いその地に葬った。ところが、郷里の墳墓に葬る習慣に反したため、再び親不孝者と非難され、罷免されてしまった。数年後、太子中庶子に任命されたが、拝命しないまま死去した。『晋書』より300年ほど前に書かれた、『華陽国志』には、太子中庶子に就き、散騎常侍を兼ねた後、張華が上表し九卿に取り立てようとしたが、かなわず、その才を十分に生かす位に就けなかった時代をうらみ洛陽で亡くなったという異伝がある。
かつての師であった譙周は、陳寿に「卿は必ずや学問の才能をもって名を揚げることであろう。きっと挫折の憂き目に遭うだろうが、それも不幸ではない。深く慎むがよい」といったが、その通りの結果になったと『晋書』は評している。
『三国志』[edit source]
「三国志 (歴史書)」も参照
『三国志』は三国の内の魏を正統として扱ったが、魏を正統とした類書はほとんどが『魏書』(王沈の著など)など、魏単独の表題としていた。蜀漢や呉の歴史は、あくまで『魏書』の中で語られたのである。これに対し陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も『魏書』『呉書』『蜀書』と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。また、元は蜀漢に仕えた人物であったため、敬語の使い方などからも蜀漢を比較的よく扱おうとする姿勢が見える。
『三国志』は私撰(陳寿が仕えていた蜀漢では、史書を編纂する役人をほとんど置いていなかった[3])だったが、陳寿の死後、唐の太宗の時代に正史と認定された。なお『古国志』・『益州耆旧伝』など、『三国志』以外の彼の著作物は現存していない。
陳寿への非難[edit source]
『三国志』については、優れた歴史書であるとの評価が高い。夏侯湛が『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。
しかし、陳寿本人については『三国志』を書くに際して、私怨による曲筆を疑う話が伝わっている。例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、ついては米千石を頂きたい」と原稿料を要求し、それが断られるとその人物の伝記を書かなかったという話がある。また、かつて諸葛亮が自分の父を処罰し、自身が子の諸葛瞻に疎まれたことを恨んで、諸葛亮の伝記で「臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか」とそれを低く評価し、諸葛瞻を「書画に巧みで、名声だけが実質以上であった」などと書いたのだといった話も伝わっている。
以上、いずれも正史『晋書』に収録された逸話であるが、『晋書』という史書の正確性については批判的な評価が多い。丁儀一族は曹丕に誅殺されており、子孫は存在さえ疑わしい。また、陳寿は諸葛亮の政治家としての才能は非常に高く評価しており、軍事能力に疑問符を付けたとはいえ、『諸葛亮集』の完成を司馬炎に奏上した中で、北伐の敗因を天命に帰すなど、総合的な評価は賞賛している。
諸葛瞻については肯定的な評価をしていないのは事実である。『晋書』の他にも、常璩が『華陽国志』に、陳寿が諸葛瞻から恥辱を受けた恨み故に、『三国志』で諸葛瞻を悪く書いたと語った蜀漢の長老の話を記しており[4]、陳寿に対する同様の悪評は、340年に完成した王隠の『晋書』など類書に記録されており早くから広まっていた(正史『晋書』は648年刊)。
だが、『晋書』における陳寿が私怨による曲筆を行なったという記述は、清代における王鳴盛や趙翼による綿密な考証[要出典]によって、事実無根であると反論されている[5]。
陳寿の曲筆を指摘するもので最も批判を受けたのが高貴郷公殺害の経緯である。西晋に仕えたという立場上、その禅譲という正統性に対して重大な瑕疵を与えうるこの件に関して陳寿は隠蔽せざるを得ず[6]、唐代の考証学者劉知幾は「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し、「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した。
また、陳寿は故国である蜀漢をできる範囲で賞揚したものの、あくまで魏を正統な王朝として扱った。西晋は魏から禅譲を受けた王朝なので、魏を否定することは西晋を否定することになる。だから陳寿が魏を正統としたのは、時代状況からすれば当然といえる。また、表題を『魏志』という単独表題にせず『三国志』にしたのは、寧ろ大きな冒険といえるだろう(もっとも『三国志』は後世につけられた総題で、当初の表題は三国それぞれが独立して呼ばれていたという説もある)。後世習鑿歯らによる蜀漢正統論が高まるにつれ、陳寿が蜀漢を正統としなかったために、批判に拍車が掛かるようになった。更に時代が下ると、諸葛亮の神格化や蜀漢正統論者の朱熹の朱子学が、朝廷における儒教の公式解釈とされた事も相まって、陳寿は一層非難を浴びることになった[7]。
一方でこれらの批判に対して紀伝体としての体裁を整えるために、やむを得なかったとする意見も根強い。
陳寿を題材とした作品[edit source]
三国志外伝 「陳寿」 (小説、宮城谷昌光、文藝春秋)
関連項目[edit source]
三国志 (歴史書)
三国志演義
二十四史


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