■目次
謝辞
編者緒言
年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
1957
2 心理学の歴史 1850?1950 石田英敬訳
3 科学研究と心理学 石田英敬訳
1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
6 アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
10 ルーセルにおける言うことと見ること
11 かくも残酷な知 横張誠訳
1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
13 侵犯への序言 西谷修訳
14 言語の無限反復 野崎歓訳
15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
16 水と狂気 野崎歓訳
17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
日本語版編者解説(石田英敬)
■内容
編者緒言
「『ミシェル・フーコー思考集成』全十巻に収録されたのは、生前に単行本として刊行されていた著作をのぞき、フランスおよび諸外国で刊行された、序文、序論、紹介文、対談、論文および記事、講演記録などからなる、ミシェル・フーコーの全テクストである」とまず初めにあり、そのあと「一 コーパスの定義」「二 テクストの配列」「三 テクストの提示の仕方」「四 テクスト校訂の規則」「五 年譜、索引、および書誌」と説明が続く。
年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
「思考集成」を刊行する際に、「読解の道具」として作られたもの。それぞれのテクストには説明がほとんどないので、そのテクストの背景などを知るのにとても役に立つ。またフーコーがいつどういう仕事をしていたかというだけでなく、何の本を読んでいたか、誰の影響を受けていたか、などが分かるのでおもしろい。あと説明が簡潔なのもいい。
1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
L.ビンスワンガー『夢と実存』(J.ヴェルドー仏語訳)への序論、パリ、デスレ・ド・ブルウェール社、1954年刊、9-128頁
「現存在分析」の創始者であるL.ビンスワンガーの論文「夢と実存」のフランス語訳の単行本につけられた「序論」。
『夢と実存』は、みすず書房から荻野恒一ほか訳で1992年に単行本として出版されている(フーコーの「序論」付き)。ちなみにフーコーの「序論」の訳が「思考集成」の石田訳と結構違うが、私にはどちらが正しいか判断できない。
また中山元訳『精神疾患とパーソナリティ』(ちくま学芸文庫、1997年)に付された訳者による解説「フーコーの初期」に、この「序論」についても詳しい説明がされているので参考になる。
1957
2 心理学の歴史 1850-1950 石田英敬訳
D.ユイスマンとA.ウェベール共編、『ヨーロッパ哲学史』、第二巻「現代哲学の諸相」、パリ、フィシュバヒェル書店、1957年、591-606頁
「序」「自然の先入見」「意味の発見」「客観的意味作用の研究」「客観的意味作用の根拠」という章立てでフーコーが心理学の一世紀を振り返る論文。
「二十世紀半ばまでの心理学の全歴史は。自らの科学としての企てとそれらの公準とのあいだの様々な矛盾の逆説的な歴史である」(本文より)とのことで、フーコーの心理学に対する立ち位置が分かる。
3 科学研究と心理学 石田英敬訳
E.モレール編『フランスの研究者は問う、…フランスにおける科学研究の方向と組織』、トゥールーズ、プリヴァ書店、「新研究」叢書、第十三編、1957年刊行、173頁-201頁
心理学を始めようとするフーコーに対しある教師が「メルロー=ポンティ氏のように「心理学」をやりたいのか、それともビネたちのように「科学的な心理学」をやりたいのか」と尋ねるエピソードから始まり、途中に「研究の合理性、科学性、そして客観性が、研究の選択それ自体にしか根拠のないものである以上、研究の有効性の実際の保証は非心理学的な方法と概念とに求められる以外ない」とあり、「心理学は冥界への回帰によってしか救われないのである」という言葉で終わる論文。
1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
ミシェル・フーコー『狂気と非理性-古典主義時代における狂気の歴史』(パリ、プロン書店刊、1961年)p.Ⅰ-ⅩⅠ。この序文は初版にのみ全文掲載。1972年のガリマール社版以後の3つの再版には未収録。
田村俶訳『狂気の歴史』(新潮社、1975年)には、初版の序文を廃止した理由の書いてあるガリマール版の序文とともに全文掲載されている。
「編者解説」で石田英敬が「61年の序には文化の「構造」の概念が際立たされているのに対して72年頃にはそれが消される傾向にある(『臨床医学の誕生』の手直しに関する『年譜』の1972年の記述参照、本巻41-42頁)」と指摘している。
5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
(J=P・ウェベールとの対話)、「ル・モンド紙」、5135号、1961年7月21日、9頁
短いインタビューで、『狂気の歴史』への当時の知識人の反応とフーコーのそれに対する応答が読みとれる。
「博士論文の審査委員会の反対質問のひとつはまさに私が『愚神〔狂気〕礼賛』を行おうとしているのではないか、というものでした。しかし、そうではないのです。私が言いたかったことは、狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそなのだということなのです…。」(本文より)
6アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
「新フランス評論」、九年次、一〇八号、一九六一年一二月一日号、1123-24頁(cf. A.コイレ『天文学革命』、パリ、ヘルマン社、「思想史叢書」、1961年)
科学史家アレクサンドル・コイレの著作への書評。フーコーの科学史や認識論への関心のあり方を読みとれる。
「一七世紀初頭において、真理が生まれる場所は移動したのだ。それはもはや世界の姿の側にあるのではなく、言語の内的で交差した形態の中にある」(本文より)
1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
J=J.ルソー『ルソー、ジャン=ジャックを裁く-対話』序文(A.コラン、1962年刊)「クリュニー叢書」、7-24頁
「ルソーの晩年の作品である『対話』は、『告白』と『孤独な散歩者の夢想』の中間に位置し、この二作品とともに「自伝三部作」を構成するが、その特異な形態からルソーの狂気の資料として扱われることが多かった。フーコーは、対話の言語活動の立体的構成を分析し、作品の側からテクストを読み解くことによって、心理学や精神医学が前提とするような狂気の実定性をつき崩し、「作品の不在」としての狂気の問題系を浮き彫りにしている」(「編者解説」より)
8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
「父の〈ノン否〉」、「クリティック」誌、一七八号、一九六二年三月、195-209頁(J.ラプランシュ『ヘルダーリンと父の問題』パリ、PUF社、1961年刊について)
「ヘルダーリンを論じた「父の〈否〉」も、詩と狂気との問題を、心理学的な事実としての狂気から説明するのではなく、作品が、「作品の不在」としての狂気の経験へと開かれていく〈境界=極限〉の言語の在り方として読み解こうとする戦略に貫かれている。しかも、芸術と狂気の問題の系譜を芸術家の成立に遡ってとらえかえし、「作品」と「作品とは別のもの」(=狂気)との一体性との問いが回帰してくる契機を、西欧文化の歴史のパースペクティヴのなかにとらえている。そして、ヘルダーリンのしの言語と神の死の問題を、『狂気の歴史』において示された「狂気の分割」の構図のなかに収めてみせている。」(「編者解説」より)
9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
「カエルたちの叙事詩」、「新フランス評論」一一四号、一九六二年六月、1159-1160頁。ジャン=ピエール・ブリッセの『神の学、あるいは創造』(Paris,Charmuel,1900)について。
レーモン・ルーセルの同時代人ブリッセの言語論への評。
「忘却、死、悪魔との闘い、人間の零落といったすべては語のための闘いの一つのエピソードにすぎない。それは神々とカエルたちが、立ち騒ぐ朝の葦の葉むらでかつて繰り広げていた闘いである」(本文より)
10 ルーセルにおける言うことと見ること
「レットル・ウーヴェルト」第四号、一九六二年夏、38-51ページ。『レーモン・ルーセル』(Paris, Gallimard, coll. 《Le Chemin》,1963)第一章の異文。
1963年出版『レーモン・ルーセル』の第1章の異文で、「単行本所収に際して削除された段落を含み、より詳細な読解を提示している(「編者解説」より)」。日本語訳は、豊崎光一訳で法政大学出版局から出ている。
11 かくも残酷な知 横張誠訳
「クリティック」誌、一八二号、一九六二年七月、597-611ページ。(C.クレビヨン『心の迷い、気の迷い』〔エティアンブル校訂、解説、パリ、A.コラン社、1961年〕と、J=A・ド〔?〕・レヴェロニ・サン=シール『ボーリスカ、あるいは現代の倒錯』〔パリ、1798年〕について)。
「サドの言説と同時代に出現する一八世紀末の恐怖小説の言説空間についてクレビオンやレヴェロニの作品を論じた」論文。「古典主義時代と「文学」を隔てている言語空間の境界に対する関心」が現れている。
1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
H=L・スツェッグ編『ロルフ・イタリアーンデルとの旅』所収(J.シャヴィ訳)、ハンブルク、芸術自由アカデミー刊、一九六三年、46-49頁
「一九六〇年のクリスマスに書かれた私信。一九六三年にロルフ・イタリアーンデルの五十歳の誕生日を祝う記念文集の中で公表。フリード(P.G)『ロルフ・イタリアーンデルの世界』(クリスチャン書房、一九七三年)に再録。」
「それなればこそ、昨日の夜パリで貴方がセネガル人たちに話しかけるのを見たとき、おそらく間違っているでしょうが、こういう印象を抱いたのです。貴方は自分を孤立させるものによって人間と結びついていると。結局のところ、孤独な人間のみがいつの日か互いに出会うことができるのです。」(本文より)
13 侵犯への序言 西谷修訳
「クリティック」誌一九五-一九六号、ジョルジュ・バタイユ特集、一九六三年八-九月、751-765ページ。
「一九六三年のバタイユの追悼号に「クリティック」誌に発表された論文「侵犯への序言」(No.13)は、六〇年代のフーコーにおける〈限界=境界〉および〈侵犯〉の概念を示した中心的な論考である。私たちはそこに、サドやバタイユをとおしてフーコーが、神の死んだ現代世界における〈限界〉および〈侵犯〉の言語の経験として〈性(セクシュアリテ)〉を問題化していく姿をみてとることができる。」(「編者解説」より)
14 言語の無限反復 野崎歓訳
「テル・ケル」誌第一五号、一九六三年秋、44-53ページ
「サド、恐怖小説、ボルヘスを論じながら、古典的「修辞学」に対置される「バベルの図書館」によって定義される断片化し無限に連なる言語空間の布置に、一八世紀末に出現した厳密な意味での「文学」の言語の場所を見いだしている」(「編者解説」より)
15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
「新フランス評論」誌、第一三〇号、一九六三年十月、709-716ページ(ロジェ・ラポルト著『夜を徹して』、パリ、ガリマール、「ル・シュマン」叢書、一九六三年刊について)。
「ロジェ・ラポルトの作品のエクリチュールの時を、夜と昼との分割の手前に維持された中間状態にもとめ、非限定の三人称代名詞による発話により宙づりにされた言説空間を論じた「夜明けの光を見張って」(一九六三、No.15)にも、境界=極限の言語空間において成立する文学経験という構図はつらぬかれている」(「編者解説」より)
16 水と狂気 野崎歓訳
「医学と衛生」誌、第二十一巻六一三号、一九六三年十月二十三日、901-906ページ。
水と狂気の結びつきを軸に、西洋世界における狂気の位置の変化を論じている。
古来、理性は大地、非理性は水と結びつけられて考えられてきた。そのため水は狂気と闘う手段としても用いられてきたのである。狂気の水治療法は17世紀に体系的に確立され、19世紀になっても精神病院で定期的に行われていたが、その間にそれまで心を鎮めるような役割を持ってきた水が、恐慌をきたすための手段へと変化したのだ。フーコーはその新しい役割を、「水は辛いものである」「水は懲らしめる」「水は自白の道具である」「水は狂気に告白を強いる」の4つにまとめた。19世紀半ばまでの狂気に起きた変化をフーコーは「狂気は水に属するものであることをやめて、煙の親類になった」と言い、これを「狂気に関する想像的空間におけるきわめて重要な変化」と述べている。そして「今日、狂気はもはや水に属するものではない。水はしばしば、また別の種類の告白を強いているのである」という文章でこのテクストを終えている。
17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
「クリティック」誌、第一九八号、一九六三年十一月号、931-945ページに初出〔後に『テル・ケル理論総括』(スイユ社、一九六八年)に所収〕。
(J=L・ボードリ、『イマージュ』、スイユ社、一九六三年;M・プレネ、『二分された風景:散文の行線』、スイユ社、一九六三年;Ph・ソレルス、『中間層』、スイユ社、一九六三年;「テル・ケル」誌一-一四号、一九六〇-一九六三年、について論じたもの)
「シミュラークルの言語・記号空間における言語作用の、同形性(イゾモルフィスム)から、ロブ=グリエと「テル=ケル」派の作家たちの作品を論じた「距たり・アスペクト・起源」は、同時代の文学との関係をあかす、代表的な論文である」(「編者解説」より)
18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
「フランス=オプセルヴァトゥール」誌、第十四号、七一〇号、一九六三年十二月十二日、14ページ(J=E・アリエ著『若い娘の冒険』、パリ、スイユ社、一九六三年について)。
「この当時まだ「テル=ケル」派の一角を占めていたアリエの前衛的小説を評する」文章。この文章の背景には、「かくも残酷な知」と同じように、フーコーの「古典主義時代と「文学」を隔てている言語空間の境界に関する関心」があった。
■引用
■書評・紹介
■言及
*作成:橋口 昌治
UP:20031114 REV:
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『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p.
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■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p. ISBN-10:4480790225 ISBN-13:978-4480790224 \5800 [amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
20 幻想の図書館 工藤庸子訳
21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
24 空間の言語 清水徹訳
25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
27 血を流す言葉 兼子正勝訳
28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
29 書くことの義務 兼子正勝訳
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
31 哲学と真理 慎改康之訳
32 侍女たち 松浦寿輝訳
33 世界の散文 宮下志朗訳
34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
38 外の思考 豊崎光一訳
39 人間は死んだのか 根本美作子訳
40 無言の歴史 増田真訳
41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
42 哲学者とは何か 金森修訳
43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
48 歴史の書き方について 石田英敬訳
49 ポール・ロワイヤルの文法
50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
日本語版編者解説(小林康夫)
■内容
1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
E.カント『人間学』(M.フーコー仏語訳)所収、パリ、ジャン・ヴラン書店、一九六四年刊、7-10ページ。
一九六一年、ミシェル・フーコーは、文学博士号取得のための副論文として、イマヌエル・カントの『実用的見地における人間学』の注解つきの翻訳三四七ページを、一二八ページに及ぶ序文とともに提出する。この翻訳および序文は、ソルボンヌ大学図書館にタイプ原稿のかたちで保管されている。フーコーは、ここにある「書誌略述」の添えられた翻訳のみを公刊した。
内容はカントの『人間学』が完成に至る過程とその時期についての分析である。
「『人間学』のなかのひとつの註は、この著作が、それが執筆される以前「およそ三十年間」にわたって行われた講義の内容であるということを示している。その三十年の間、冬学期の授業が人間学に、夏学期の授業が自然地理学にあてられていたということだが、しかし実際は、上の数字は正確なものではない。」(本文より)
20 幻想の図書館 工藤庸子訳
G.フローベール『聖アントワーヌの誘惑』ドイツ語版のために書き下ろした「あとがき」(フランクフルト、インゼル書店刊、一九六四年。217-251ページ)。同じテクストの仏訳は、本書所収の図版とともに「図書館の《幻想》」(Un "fantastique" de bibkiotheque)というタイトルで、Cahiers de la compagnie Madeleine Renaud-Jean-Louis Barrault,No 59,一九六七年三月刊、7-30ページに掲載された。M.フーコーはこの評論の新しいヴァージョンを、「幻想の図書館」(La Bibliotheque fantastique)というタイトルで、一九七〇年に発表した。本稿では〔 〕内に入れた文章は、一九七〇年版にはにないものである。両テクストの異同は、註によって示した。
「『誘惑』とは、フローベールにとって、おのがエクリチュールの夢なのだという感じがする。つまり、エクリチュールがそうあってほしいと思われる何か〔-柔らかで、艶(つや)があって、自然な感じで、しっくりと文章の陶酔のなかに解けこんで、美しい-〕しかもついに白日の形式(フォルム)にめざめるためには、エクリチュールがそれであることをやめなければならぬ何か。」(本文より)
21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
「新フランス評論」誌、一三五号、一九六四年三月号、444-459ページ。
「クロソフスキーの言語、それはアクタイオーンの散文-侵犯の言葉なのである。あらゆる言語は、それが沈黙を相手どるとき、そのようなものではないだろうか?」(本文より)
22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
(司会ミシェル・フーコー、参加者、G.アミィ、J=L・ボードリ、M=J・デュリー、J=P・ファイユ、M・ド・ガンディヤック、C・オリエ、M・プレネ、E・サングイネッティ、P・ソレルス、J・チボードー、J・トルテル)、初出「テル・ケル」誌、第十七号、一九六四年春号、12-54ページ(於スリジー・ラ・サール、一九六三年九月。《新しい文学?》のテーマのもとに、テル・ケル派のグループによって企画された討論会である)。
「バタイユが「テル・ケル」一派にとってこれほど重要な人物でありえたのは、シュールレアリスムの心理的次元から、彼が《限界》、《侵犯》、《笑い》、《狂気》と呼んだ何かを浮上させ、それを思考の経験に仕立てあげたからではないでしょうか?そこで、以下のような問題が提起されると思います。すなわち、思考するとはどういうことなのか、思考するというこの驚くべき体験は、いったいどういうことなのか?そして文学は、現在のところ、この問題を再発見しつつある。」(本文より)
23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
(参加者:M=J・デュリー、J=P・ファイユ、M・プレネ、E・サングイネッティ、P・ソレルス、J・トルテル)、初出「テル・ケル」誌、第十七号、一九六四年九月、69-82ページ(スリジー・ラ・サール、一九六三年九月)
「No.22、No.23の拙訳にあたっては、岩崎力氏による優れた訳業(『新しい小説・新しい詩』、竹内書店、一九六九年)を参照させていただいた。竹内書店版には、「テル・ケル」誌第十七号掲載のふたつの討論に加えて、ジャン=ピエール・ファイユ「新しいアナロジー」、およびマルスラン・プレネ「逆の思考」も併せて紹介されている。」
「ところで、文化によっては、もっと厳しい限界があり、より明瞭な稜線辺がある。したがってそれらに背く人、他の人よりも限度を超えやすい人々がいて、限界の、異議申し立ての、違反のゲームが、とりわけ激しく、明白な分野ないし領域があるものなのです。古典時代における理性-狂気の問題とは、そういうことだと私は考えています。」(本文より)
24 空間の言語 清水徹訳
「クリティック」誌、二〇三号、一九六四年四月、378-382ページ。
ロジェ・ラポルトやクロード・オリエの作品について論じた文章。
「ロジェ・ラポルトの『夜を徹して』は、この薄明のしかも恐るべき「領域」のもっとも近くに位置する。」
「クロード・オリエの作品は、その全体が言語と事物とに共通する空間の模索である。」(本文より)
25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
「ターブル・ロンド」誌、一九六号、一九六四年五月「精神医学の状況」、11-21ページ
「第Ⅰ巻に収められた諸論文は、この幻の一冊、つまり〈狂気・文学・言語〉の問題圏の前半の第一部を形作っていた。この第Ⅱ巻、とりわけ六四年と六六年のいくつかの論文はその後半の第二部と考えることができよう。とするなら、この〈第二部〉全体のマニュフェストの位置を占めるのが、「狂気、作品の不在」(No.25)ということになろうか。そこでは、狂気と文学とがともにある本質的な「空虚」あるいは「不在」の経験であること、そしてその「謎」においてこそ、「言語活動」が「死」と本質的な結びつきを持つことが断言されている」(「編者解説」より)
26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
「なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 我らが現代文学の先駆者」、「ル・モンド」紙、一九六四年八月二十二日、9ページ。
「レーモン・ルーセルの作品は、随分と以前から私たちの言語の底流となって作動していたのだが、私たちはほとんどそれに気づくことはなかった。」(本文より)
27 血を流す言葉 兼子正勝訳
「エクスプレス」誌、六八八号、一九六四年八月二十九日、21-22ページ(ウェルギリウス著『アエネーイス』のクロソフスキーによる翻訳-パリ、ガリマール社、一九六四年刊-について)。
「クロソフスキーは危険をおかして逆をおこなう。というよりも、彼はかつて誰もおこなわなかったことをおこなおうとする。つまり場所の詩的な配置を目に見えるように維持すること。統辞法の必要な網目組織を、わすかに後退させつつ、ただしけっして破壊せずに保ちながら、そうすること。」(本文より)
28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
「アナール-経済、社会、文明」誌、五号、一九六四年九-十号、996-1004ページ(J=P・リシャール著『マラルメの創造的宇宙』-パリ、スイユ社一九六二年刊-について)。
「わたしは、リシャールを批判した者たちを批判するつもりはない。わたしは単に、彼のテクストの周囲に描きだされた隔たりに注意を向けたいと思う。つまり、一見したところ論争の記号の数々に覆われているように見えながら、じつは沈黙のうちにテクストが占める場所の空白の輪郭を定めているようなあの余白、それに注意を向けたいのである。」(本文より)
29 書くことの義務 兼子正勝訳
「ネルヴァルは一九世紀で最も偉大な詩人か?」の一部、「アール」誌、九八〇号、一九六四年十一-十七日、7ページ(ネルヴァル諸作品の再版に際して、何人かの著作家に対しておこなわれたアンケートの断片)。
「ネルヴァルのテクストは、われわれに作品の断片を残したのではない。そうではなくて、書かなければならないということの、人は書くことによってのみ生きそして死ぬということの、繰り返される確認を残したのだ。」(本文より)
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
(アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもとに教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテクストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。
31 哲学と真理 慎改康之訳
(アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールとの対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。
「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。
「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただなかにいるのです。」(本文より)
32 侍女たち 松浦寿輝訳
「メルキュール・ド・フランス」誌、一二二一-一二二二号、一九六五年七-八月、368-384ページ。
ベラスケスの絵は「ラス・メニーナス」という題で世界中に知られている。これは「お付の女官たち」の意味である。このタイトルがプラド美術館のカタログに現れるのはようやく一八四三年になってからのことで、マドリッドの宮廷の財産目録にはずっと「家族の情景(エル・クワドロ・デ・ラ・ファミーリア)」ないし「国王の家族」の題で記載されていた。ミシェル・フーコーはこのエッセーを『言葉と物』(ガリマール社刊、一九六六年)に収めることを躊躇していたようだ。最初のうち彼は同書第九章でこれを簡潔に要約していた。次いで、この論考からいくつかの段落を削除し、表現を手直ししたうえで、そのまま『言葉と物』の第一章としたが、校正刷の段階でさらに刈り込んでいる。
33 世界の散文 宮下志朗訳
「ディオゲネス」誌、五十三号、一九六六年一-三月号、20-41ページ。ロジェ・カイヨワの依頼により、『言葉と物』の第二章となるべき部分を、事前に発表したものであるが、テクストには若干の差異が見られる。本集成第Ⅷ巻所収、No.292を参照のこと。
「四種の相似」「署名=外徴」「世界の境界」という構成になっている。
「われわれの文化において、類似(ルサンブランス)なるものが、充分かつ安定した、自律的な表徴(フィギュール)を知の内部で形成することをやめてから、二世紀以上がたっている。」(本文より)
34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
(R.ベルールとの対談)、「レットル・フランセーズ」誌、一一二五号、一九六六年三月三十一日-四月六日号、3-4ページ。
「大雑把に言えば、『狂気の歴史』は分割の歴史であり、とくに、すべての社会がどうしても打ち立てざるをえない、ある種の切断の歴史でした。それに対して今度の本では、秩序の歴史を書こうと思ったのです。」(本文より)
35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
「エクスプレス」誌、七七五号、一九六六年四月二十五日-五月一日、114-115ページ(ジャン・チボードー『序曲』-パリ、スイユ社、一九六六年刊-について)
「チボードーは『序曲』を、『王室儀式』の六年あとに書いた。この二つの日付のあいだでは、文学体験のある種の部分が変化してしまっている。」(本文より)
36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
「アルク」誌、二十九号、「ジュール・ヴェルヌ特集」、一九六六年五月、5-12ページ。
「ジュール・ヴェルヌの物語作品は、驚くばかりに、今述べたようなフィクシオンの非連続性に満ちている。」(本文より)
37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
「カンゼーヌ・リテレール」誌、五号、一九六六年五月十六日、14-15ページ。
「-いつ「意味」を信じなくなったのですか。
-社会に関してはレヴィ=ストロースが、そして無意識に関してはラカンが、意味というものがおそらく、ある種の表層的な作用、きらめきか泡沫のようなものにすぎないこと、そして、われわれを深層において横断し、われわれ以前にあって、時と空間のなかでわれわれを支えているのがシステムであるのを明かしてくれたとき、決定的な断絶の契機が訪れたのです」(本文より)
38 外の思考 豊崎光一訳
「クリティック」誌、二二九号、一九六六年六月、523-546ページ(モーリス・ブランショ特集)。
「ギリシア的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。「私は話す」という明言は、現代のあらゆる虚構作品(フィクシオン)に試練を課す。」(本文より)
39 人間は死んだのか 根本美作子訳
(C・ボヌフォワとの対談)、「芸術と余暇」誌、第三十八号、一九六六年六月十五-二十一日、8-9ページ。
「十八世紀の終わりと十九世紀のはじまりにおいて、どのような要素を使って人間が組み立てられたかを、『言葉と物』のなかでわたしは語ろうとしました。」(本文より)
40 無言の歴史 増田真訳
-カッシーラー『啓蒙主義の哲学』の仏訳に寄せて-
「カンゼーヌ・リテレール」誌、八号、一九六六年七月一-十五日、3-4ページ(E・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』-P・キエ仏語訳、パリ、ファイヤール社、「国境のない歴史」双書、一九六六年刊-について)。
「カッシーラーは「新カント派」である。この用語によって指し示されるものは、ある「運動」や哲学上の「流派」である以上に、カントによって打ち立てられた断絶を、西洋思想が乗り越えることができなかったということである。新カント派は、その断絶を復活させるという絶えず繰り返される命令であり、それはその断絶の必然性を再確認するとともにその規模を測り尽くすためである。(その意味ではわれわれはみな新カント派である。)」(本文より)
41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
C・ジャヌーとの対話、「フィガロ・リテレール」誌、一〇六五号、一九六六年九月十五日、7ページ。
ドゥルーズとともに、フーコーは『ニーチェ全集』のフランス語版の編集責任者となる。そのことについてのインタビュー。
「ところがニーチェの代わりに〈私〉ということはできません。その意味で彼は現代のすべての西洋思想の上に突出しているのです。」(本文より)
42 哲学者とは何か 金森修訳
(M.G・フォワとの対話)、「人間の認識」誌、二十二号、一九九六年秋、9ページ。(説明の日本語訳では「一九九六年秋」とあるが、フランス語ではautomne 1996 とあるので「一九六六年秋」の間違いだと思われる)
「哲学者は社会のなかに役割などもっていません。」(本文より)
43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
(C・ボヌフォワとの対話)、「芸術と余暇」誌、五十四号、一九六六年十月五-十一日号、8-9ページ。
「シュルレアリスムのリーダーだったアンドレ・ブルトンは一九六六年九月二十八日に逝去した。この対話はその直後に行われている。」(文末の註〔1〕より)
44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
「医学共進会」第88年次、一九六六年十月二十二日号、6285-6286ページ(医学的思考の性質に関する研究会より)。
「私たちはこう自問することができる、医学的実践の理論はもはや実証主義の用語ではない用語によって、それも、言語分析や情報処理の実践のなかで現在錬磨されている用語によって考え直されうるのではないかと。/言語の理論家、そしてその領域に関係するすべての科学の理論家たちと、医者たちとが一堂に会する「セミナー」が開かれるのは、一体いつのことなのだろうか。」(本文より)
1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
F・ニーチェ『哲学全集』第五巻、『華やぐ智慧、遺された断想(一八八一-一八八二)』への「概括的序論」(G・ドゥルーズとの共同執筆になる)、一九六七年、パリ、ガリマール社、端書き、Ⅰ-Ⅳページ。
「我々は、新たな観点が未刊文書によってもたらされ、それがニーチェへの回帰という観点であることを願っている。我々が希望するのは、彼が遺すことのできたメモ、およびそれらの多様な構想が、諸君の目に対して、組合せと置き換えのすべての可能性を解き放つことである。これらの可能性は、ニーチェに関して「来たるべき書物」という未完の状態をいまや永久に含み持っているのである。」(本文より)
46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
「カイエ・ドゥ・ロワイヨーモン」第六巻『ニーチェ』、ミニュイ社、パリ、一九六七年、183-200ページ(ロワイヨーモンの討論会、一九六四年七月)。
「マルクス、ニーチェ、フロイトにおける解釈の技術」に関するフーコーの文章のあとに、フーコー、ベーム、トーブ、ヴァッティモ、ヴァール、バロニ、ラムヌー嬢、ドゥモンビーヌ、ケルケルによる討論が続く。
「解釈の複数性、解釈間の戦争の問題は、思うに、解釈の定義そのものによって構造上可能になっているのです。というのも、解釈は無限になされ、解釈自身が自らを判断し決定する際に基点となる絶対的な地点は存在しないのです。その結果、このこと、つまりわれわれは解釈するまさにその瞬間に解釈されるべく委ねられているという事実を、あらゆる解釈者は知っておかねばなりません。この解釈の過剰性は、現在西洋文化を奥深いところで性格づけているひとつの特徴に相違ないのです。」(本文より)
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
(G・フェルーとの対談)、「ラ・プレス・ド・チュニジー」紙、一九六七年四月十二日付、3ページ。
インタヴューに「ミシェル・フーコー、自身を語る」「ミシェル・フーコー、チュニジアの感想」という囲み記事がついたもの。
「私が、構造主義に対して距離を取りながらも同時に構造主義をなぞって二重化するような関係をもっているのは、このためなのです。距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語っているからですし、なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからです。」(本文より)
48 歴史の書き方について 石田英敬訳
(R・ベルールとの対談)、「レットル・フランセーズ」紙、一一八七号、一九六七年六月十五-二十一日号、6-9ページ。
「書く者にとって重要なのは、かつては、万人の匿名性から身を引き離すことだったのですが、私たちの時代にあっては、固有名を消し去って、語られる言説のこの巨大な匿名のつぶやきのなかに自らの声を住まわせる、ということなのです。」(本文より)
49 ポール・ロワイヤルの文法
「ランガージュ」誌、七号「フランス言語学、文法理論」特集、一九六七年九月、7-15ページ。
このテクストをさらに発展させたものが、一九六九年に『ポール・ロワイヤルの文法』の再版に序文として収録された(本集成第Ⅲ巻所収、No.60)。
50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
(P・カルーゾとの対話。仏訳、C・ラッツェリ)、「ラ・フィエラ・リッテラリア」誌、第四十二年度、三十九号、一九六七年九月二十八日、11-15ページ。
[ ]のなかのテクストは一九六七年に出版された対談には見られず、P・カルーゾ『クロード・レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカンとの対話』-ミラノ、ムルシア社、一九六九年刊-91-131ページにこの対談が再掲載された際付け加えられたものである。
「我々は一見ヒューマニズムの問題について議論しているようですが、実はもっと単純な問題、すなわち幸福という問題にかかわっているのではないだろうかと思われます。私は、少なくとも政治的な面において、ヒューマニズムを、幸福を作り出すことを政治の目的とみなす態度そのものとして定義することができるのではないかと考えます。ところで、私には、幸福という観念が本当に思考可能であるものだとは思えないのです。幸福などというものは存在しません。人間の幸福についてはなおさらのことです。」
「「現在何が起こっているのか」を言うことが哲学者の役割であるとすれば、今日の哲学者にとってはおそらく、人間は自らが神話なしに機能し得るということを発見し始めているということを明らかに示すことが、その役割であると言えるでしょう。諸々の哲学や諸々の宗教の消滅は、おそらく何かそうした種類の事態に呼応しているのかもしれません。」(本文より)
51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
「ヌーベル・オプセルヴァトゥール」誌、第一五四号、一九六七年十月二十五日、49-50ページ(エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』ガリマール社、一九六七年〔邦訳:浅野徹他訳、美術出版社、一九八七年〕、および『ゴシック建築とスコラ学』ミニュイ社、一九六七年〔邦訳:前川道郎訳、平凡社、一九八七年〕について)。
「これらの翻訳は、われわれから遠く隔たった見慣れないものであったイコノロジーをハビトゥスに変える、という作用をわれわれに及ぼすだろう。つまり新たに歴史を学ぼうとする者たちにとっては、これらの概念や方法はもはや学ぶべきものたることを止め、むしろ人がそこから出発して見、読み、解読し、知るべきものとなるだろう。」(本文より)
■引用
■書評・紹介
■言及
*作成:橋口 昌治