スポーツエトセトラ

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産業対抗野球大会史(10)そして日本選手権へ

2020-07-01 09:22:05 | 産業対抗野球史
社会人野球のビッグイベント・産業対抗野球大会特集の最終回は、
最後の大会となった1973年の第23回大会の部門大会に参加したチームをご紹介します。




ちなみに、1958年当時の参加チームをまとめた「産業対抗大会史(4)」をご覧いただくと、
チーム数の違いが歴然です。238から119と、ちょうど半減しています。
また、部門ごとにこれだけチームの数に開きがあると、不公平だとして「産業対抗を続けていても…」という声が上がるのは必然ですね。
この15年間で、日本の産業構造に巨大な変化が起こっていたことが理解できるでしょう。

国鉄や電電などの社会インフラ部門はともかく、それ以外の部門では参加チーム数に大きなバラつきがあったことが分かります。
特に自動車業界は急激に成長を続け、富士重工(現・スバル)、本田(現・Honda)、本田鈴鹿、トヨタなど現在も活動を続けているチームが多数。
電気機械も東芝、松下電器(現・パナソニック)、日立製作所などが現在も強豪として君臨していますね。

一方で、電力ガスや石油、鉱業炭礦、紙パルプにいたっては代表決定戦のみ
(ただし紙パルプは「全」が付くように、大昭和製紙(富士・白老)と王子製紙(苫小牧・春日井)の系列チームにより選抜)でした。

ガス部門は現在でこそ全国のガス会社が参加していますが、当時は野球部の活動にあまり熱心ではなかったようです。
化学工業と造船、百貨店商業、化学繊維、建設なども、現在存続しているチームはありません。
日本の産業構造は現在に至るまで、生き物のように激しく変化していることが分かります。

さて、「サンベツ」の愛称がつけられた産業対抗大会については、
愛着を持つ関係者も少なくなかったようですが、結局23回でその歴史に終止符が打たれることになりました。

都市対抗と違い、補強選手なしで真の単独日本一を決める大会として、翌1974年から「社会人野球日本選手権大会」がスタート。
会場は「野球のメッカである関西で全国大会を」という関西地区を中心とした関係者の熱意により、甲子園球場を舞台に開催されることになりました。
産業対抗も当初は「各地の持ち回り」「関東と関西交互で」などの声があったようですが、
都市対抗との2大大会として定着させるために、社会人野球のメッカ的なイメージがあった後楽園での開催が定着しました。
これで社会人野球は東の都市対抗、西の日本選手権という2大大会を中心に、開催されていくことになります。

産業対抗大会の歴史を探るシリーズは今回が最後となります。
今後、もしこの大会を復活させるとしたら、どんな部門の区分けがなされるんでしょうか。

※データについては毎日新聞のデータベース(縮刷版)や、手元にあった『日本野球連盟50年の歩み』(20年以上前、都市対抗観戦時に購入)、
野球体育博物館内にあった過去の連盟報などで、数年前に調べたものを元にしています。
なお、リニューアルされた日本野球連盟のホームページ内に新設された『JABAデジタルミュージアム』で
過去の連盟報が閲覧できますので、興味がおありの方はそちらも参考になさってください。


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