伝説となった社会人野球三大大会の一つである、産業対抗野球大会の歴史を探るシリーズ第5回は、
第13回(1963年)から第16回(1966年)大会についてです。
金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。
第13回は1963年11月6日に開幕。高度経済成長時代へと向かう中で経済も好調だったのか、
5年ぶりに全22チームが揃っての大会となりました。
新三菱神戸、岩崎電気、新三菱京都、積水化学、トウトク、小西酒造など初出場組も増えています。
大会を制したのは熊谷組で、2年ぶり4回目。決勝で夏の都市対抗覇者・積水化学を下してのVでした。
藤津靖雄投手が全4試合に登板、4勝3完投の快投を見せて最高殊勲選手賞に輝いています。
第14回は1964年10月31日に開幕。
陸上自衛隊のほか、部門大会で熊谷組を破った日本熱学が初出場を果たしています。
延長戦が7試合、サヨナラ決着も7試合、うち3試合が本塁打によるもので、
開幕戦と決勝戦はサヨナラアーチでの決着と、劇的な展開のゲームが目立った今大会。
実に17本ものホームランが飛び出すなど、打撃の大会でもありました。
優勝は大昭和製紙で10年ぶり2度目。決勝でサヨナラ弾を放った尾関達三が最高殊勲選手賞に輝いています。
第15回は1965年11月7日開幕。
化学繊維部門が不参加のため21チームで行われました。金指造船、日本カーバイドなどが初出場を果たしています。
大会ではエース・三浦健二が全5試合に登板、4試合で完投する活躍を見せた日本石油(現・JX-ENEOS)が、初の黒鷲旗を手にしました。
ちなみに三浦は決勝(15日)の2日後に行われた第1回のドラフトで、西鉄からの3位指名を拒否。
翌66年には巨人(第2次ドラフト4位)、68年には東京(8位)をいずれも拒否し、プロには進みませんでした。
第16回は1966年11月8日にスタート。
三菱重工長崎、大阪ダイハツ、大倉工業、デュプロなどが初出場を果たしています。
優勝は意外にもこれが初の黒鷲旗となる、綿紡績代表の全鐘紡。
かつては都市対抗で一時代を築いた名門であり、綿紡績部門唯一のチームとして推薦での出場でした
(第1回大会も、綿紡績からは東洋紡富田が予選なしで出場しています)。
決勝では伏兵の電気化学に粘られるも2対1で下し、秋の王者に輝いています。
次回は第17回(1967年)から20回(1970年)です。
第13回(1963年)から第16回(1966年)大会についてです。
金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。
第13回は1963年11月6日に開幕。高度経済成長時代へと向かう中で経済も好調だったのか、
5年ぶりに全22チームが揃っての大会となりました。
新三菱神戸、岩崎電気、新三菱京都、積水化学、トウトク、小西酒造など初出場組も増えています。
大会を制したのは熊谷組で、2年ぶり4回目。決勝で夏の都市対抗覇者・積水化学を下してのVでした。
藤津靖雄投手が全4試合に登板、4勝3完投の快投を見せて最高殊勲選手賞に輝いています。
第14回は1964年10月31日に開幕。
陸上自衛隊のほか、部門大会で熊谷組を破った日本熱学が初出場を果たしています。
延長戦が7試合、サヨナラ決着も7試合、うち3試合が本塁打によるもので、
開幕戦と決勝戦はサヨナラアーチでの決着と、劇的な展開のゲームが目立った今大会。
実に17本ものホームランが飛び出すなど、打撃の大会でもありました。
優勝は大昭和製紙で10年ぶり2度目。決勝でサヨナラ弾を放った尾関達三が最高殊勲選手賞に輝いています。
第15回は1965年11月7日開幕。
化学繊維部門が不参加のため21チームで行われました。金指造船、日本カーバイドなどが初出場を果たしています。
大会ではエース・三浦健二が全5試合に登板、4試合で完投する活躍を見せた日本石油(現・JX-ENEOS)が、初の黒鷲旗を手にしました。
ちなみに三浦は決勝(15日)の2日後に行われた第1回のドラフトで、西鉄からの3位指名を拒否。
翌66年には巨人(第2次ドラフト4位)、68年には東京(8位)をいずれも拒否し、プロには進みませんでした。
第16回は1966年11月8日にスタート。
三菱重工長崎、大阪ダイハツ、大倉工業、デュプロなどが初出場を果たしています。
優勝は意外にもこれが初の黒鷲旗となる、綿紡績代表の全鐘紡。
かつては都市対抗で一時代を築いた名門であり、綿紡績部門唯一のチームとして推薦での出場でした
(第1回大会も、綿紡績からは東洋紡富田が予選なしで出場しています)。
決勝では伏兵の電気化学に粘られるも2対1で下し、秋の王者に輝いています。
次回は第17回(1967年)から20回(1970年)です。
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