スポーツエトセトラ

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千葉県高校出身者・ドラフト指名選手一覧(1965年~1973年)※修正済み

2020-04-18 14:33:21 | 千葉県高校出身者ドラフト指名一覧
今回から新シリーズとして、1965年にスタートしたドラフト会議で指名された、
すべての千葉県高校出身者を紹介していきたいと思います。
ドラフト外でプロ入りした選手も含めています。

※「柏熊克美」(小見川高→68年西鉄ドラフト外)が抜けていたことが判明しました。修正しています(2020年7月12日)。

まず第1回目は、1965年(昭和40年)~1973年(昭和48年)です。



選手名でグレーとなっているのは指名を拒否した選手。球歴で緑色となっているのが、高校在学時に指名された選手で、数字はドラフト指名順位となります。

1965年の記念すべきドラフト会議では、夏の甲子園準優勝の立役者であるエース・木樽と主砲の阿天坊、習志野の4番・斎藤が3位で指名。また習志野のクリーンナップ・谷沢、64年の都市対抗で橋戸賞を受賞した社会人野球の強豪・日本通運のエースである田中が指名されます。ただ、プロ入りしたのは木樽と斎藤のみ。このころのアマ野球選手にとって、プロは絶対的な存在ではありませんでした。

翌66年で阪神から6名指名された中山は、夏の千葉大会初戦、2回戦(コールド勝ちのため参考記録)と2試合連続ノーヒットノーラン。当時の県大会記録である41イニング連続無失点の活躍を見せた選手ですが、プロ入りは拒否しています。

67年は千葉県勢初の夏の甲子園制覇を果たした習志野から、3番センター・池田、4番キャッチャー・醍醐の2名と、春・夏連続でチーム初の千葉大会ベスト4進出を果たした木更津中央から3番・エースの三平、4番・佐藤の2名。池田と佐藤は拒否。ドラフト外では2名が入団しましたが、そのうち日野はプロの世界コーチとして長く活躍しました。

68年は史上最多となる6名が指名され、前出の田中が満を持して巨人入り。太平洋移籍後の73年、74年に二ケタ勝利をマークしています。5季連続ベスト4の木更津中央からはエースの宇佐美。3位指名と期待されましたが、1年目の開幕直前の練習中、打球を胸に受けて急逝。杉山は68年のセンバツでベスト8に進んだ銚子商で3番・捕手として活躍。コーチとして長く在籍しました。市原稔は引退後、フロント、コーチとして複数のチームで戦力強化に貢献しています。

69年は高卒での指名選手が初めてゼロに。その代わり、第1回のドラフト指名を拒否した谷沢が早大を経てドラフト1位でプロ入り。このころのドラフトは予備抽選で指名順位を決め、1位のチームから順番に指名していくウェーバー制で、中日はこの年1位。‟いの一番”、つまりナンバーワンの評価を受けていたということですね。早大では18本塁打、111安打と打撃センスをいかんなく発揮。中山は入団後、75年、76年と2年連続二ケタ勝利を挙げています。

70年は4名。豊倉は68年暮れにフィリピンに遠征した千葉県選抜メンバーでエース格として活躍。引退後、名スコアラーとして西武黄金期を支えました。渡辺は銚子商の主砲。ヤクルトでは内野のレギュラーとして活躍し、コーチ、フロントとしてもチームに貢献。鵜沢はその銚子商のライバル・成東のエース。この時代の成東は毎年のように銚子商の厚い壁に跳ね返され、この夏も東関東大会決勝で銚子商に敗退。大木は鵜沢の4年先輩で、引退後にフロント入りして球団常務にまで上り詰めました。

71年は高校生の指名はゼロ。中村は阪神でレギュラー内野手として活躍し、主に切り込み隊長を任されました。監督としても92年に2位に食い込み、トラフィーバーを巻き起こしていますね。

72年は春の関東大会準優勝・成東の剛腕エース・鈴木と、主砲・青木が指名。この年の成東も東関東大会代表決定戦で0‐1で銚子商に敗れています。鈴木は2年時もチームを東関東大会へと導くなど、全国大会未経験ながら評判高く、ウェーバー順2位での指名となりました。中日では抑えの切り札、ベテランとなってからは先発に回り、エース格の活躍を見せています。

73年は一人のみ。しかし、その唯一のプロ入りとなった掛布はのちに‟ミスタータイガース”として人気・実力ともに球界を代表する強打者として活躍。85年には主砲として日本一の立役者となり、引退後も解説者として茶の間でおなじみの存在となっています。

次回は74年以降です。


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