スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

高校野球・都道府県別「私学一番乗り」一覧【西日本編】

2020-05-21 08:59:07 | スポーツ史・野球
各都道府県ごとに、高校野球の甲子園大会(センバツ・夏の選手権)で
出場一番乗りをした私立学校を紹介するシリーズ。

後編は西日本編です。



全体的に、東日本よりは早めでしょうか。

東日本と同様に大阪、兵庫、京都、広島、福岡など、
都市部ではかなり早い段階で私学が台頭していることが分かりますね。
特に近畿は「関関同立」が学生スポーツをリードしていたことが伺えます。

近畿と広島、福岡に挟まれた岡山、山口などの山陽地区も早いですね。
高校(中等学校)野球熱や人気は近畿を中心に高まり、
西は山陽、北九州、東は東海地区へと広がって言ったといえるのではないでしょうか。

九州勢は地域によってさまざまですが、四国勢は比較的遅い感じがしますね。
高知は土佐が甲子園で早々と結果を残していますが、
香川、愛媛は比較的公立優位の時代が長く続いています。

そして、未だに私学を送り出していないのが徳島。私学で野球部を持っているのは唯一、生光学園のみです。
すでにプロ野球選手を複数輩出していますが、夏の徳島大会準優勝(3回)が最高成績です。

平成以降、徳島県勢はセンバツで準優勝、ベスト4、ベスト8が1回ずつ。
夏の甲子園に至ってはベスト4以上がゼロ(ベスト8が7回)です。
優勝旗奪還のためには他の地域同様、私学の頑張りがカギを握っていると言えそうです。

以下、私学の初出場が遅い地域を順番に並べてみました。

1.徳島県(??年)
2.埼玉県(1985年)秀明
3.香川県(1983年)尽誠学園
4.秋田県(1981年)秋田経大付
4.山梨県(1981年)東海大甲府
4.富山県(1981年)高岡第一
7.佐賀県(1980年)龍谷

高校野球・都道府県別「私学一番乗り」一覧【東日本編】

2020-05-20 08:45:21 | スポーツ史・野球
今回は趣向を変えてみました。
テーマは高校野球における「私学一番乗り」です。

かつて、甲子園に出場する学校は公立学校が半数を占めていました。
以下は記念すべき、第1回中等学校野球選手権大会(1915年)の代表10校です。



カッコ内は現校名です。黄色は私学で、このときは早実1校のみでした。

しかし、昨年夏の第101回大会では、
49代表中35校が私学勢で占められています。
そこで、各都道府県で、私立学校が初めて甲子園に出場した年度と学校を、
以下に表してみました。

今回は東日本編です。



校名が変更となった学校は「現校名」を参照ください。
センバツ、選手権で先に出場した方を黄色にしています。

こうして見ると、第1回に出場している早実の東京をはじめ、
北海の北海道、東北の宮城、浅野の神奈川、中京商の愛知など、
現在に至るまで人口が多い地域ほど、早期に私学が台頭していることが分かります。

それだけ教育の機会が求められており、
公立学校だけでは補いきれない、という背景があるものと考えられます。
また、松商学園のある長野も教育熱が高い地域ですね。

一方で埼玉のように、昭和末期まで公立勢が優勢だった地域もあります。
新潟、富山も比較的、私学の甲子園出場が遅れていますね。

次回は西日本編です。

PL学園出身プロ野球選手一覧【Part5】

2020-05-19 08:22:29 | PL学園出身プロ野球選手
PL学園出身のすべてのプロ野球選手を紹介するシリーズの最終回は、
2000年度卒以降の選手たちです。

最後の甲子園出場となったのが2009年の夏の甲子園。
16年度いっぱいで休部となり、栄光の歴史にもひとまずピリオドが打たれることとなりました。



「球歴」に★が入っているのは現役選手を表します。

01年度卒組からは4名がプロ入り。この代は2年夏(00年)の甲子園で3回戦に進出。
下級生ながら4番を任された今江敏晃は、ロッテでは2度の日本一に貢献。
チームリーダー的な存在として活躍しています。

同じく2年ながら実質的なエースだった朝井秀樹は楽天黎明期にローテーションの一角を担いました。
桜井広大は09年に12本塁打をマークするも故障に苦しめられ、活躍期間は短めでしたね。

部員の暴力事故による影響で、01年の夏の府大会は出場辞退。
その影響からか、02年度卒組のプロ入りはゼロ。
米村明(77年度卒)以来、25年続いたPL野球部からの連続プロ入りも途絶えてしまいます。

03年度卒組では小窪哲也。青学では東都を代表する内野手に成長。
プロでは規定打席到達こそないものの、代打や守備固めなどの脇役として
現在もチームを支えています。

06年のセンバツでPLはベスト4に。甲子園での上位進出はこれが最後となりました。
そのときのエースが前田健太。高校時代から高い評価を受けていましたが、
広島ではエースとして10年から6年連続で二ケタ勝利をマーク。
メジャーでも安定した投球を披露するなど、日本球界を代表する投手へと成長しています。

09年は春夏連続で甲子園に出場。これが、大舞台でPLのユニホームが躍った最後の年となりました。
このとき、2年ながら1番打者を任されたのが吉川大幾。
下級生時からセンスの高さが光る選手でしたが、プロでは守備固めや代走中心の起用となっています。

現時点で、最後のPL戦士のプロ入りとなりそうなのが中川圭太。
東洋大では主砲を任され、昨年はルーキーながらオリックスでレギュラーに定着するなど
光る活躍を見せています。

最後に、個人的にPL野球部OBでベストメンバーを組んでみました。

1(三)松井稼頭央
2(二)宮本慎也
3(遊)立浪和義
4(指)清原和博
5(左)加藤秀司
6(中)福留孝介
7(右)新井宏昌
8(捕)福嶋久晃
9(投)桑田真澄

強烈なラインナップですね!
PL出身のプロ野球選手は総勢82名。
1000本安打以上を達成したのが13名、100勝以上が3名
(メジャーでの勝ち星を含めれば、前田健太を入れて4名)。

さらに、一軍出場ゼロだった選手はわずか10名。
質量ともに豊富な人材をプロへと送り込んでいることが分かります。
そんな栄光のPL野球部の復活はあるのでしょうか?

今後も、プロに多くの選手を送り込んだ高校を特集していきたいと考えています。

PL学園出身プロ野球選手一覧【Part4】

2020-05-18 08:42:15 | PL学園出身プロ野球選手
PL学園出身のすべてのプロ野球選手を紹介するシリーズの第4弾は、
1992年度卒~99年度卒の選手たちです。

90年代前半までは、安定して好素材の選手を生み出し続けていました。



PLのユニフォームが5年ぶりに甲子園に戻ってきた92年春のセンバツ。
主砲を任されたのが今岡誠でした。
大学でもスラッガーとして活躍し、アトランタ五輪代表メンバーに選出。
プロでも勝負強いバッティングで打撃タイトルを獲得しています。

2年生ながら背番号1を背負って乗り込んだのが松井稼頭央。
甲子園では活躍できませんでしたが、プロではすぐにレギュラーの座を奪取。
抜群の身体能力を活かした華麗なプレーで多くのファンを魅了しました。

94年のセンバツでは7年ぶりにベスト4に進出。
切り込み隊長としてチームに貢献したのがサブローでした。
プロでもロッテの中心選手として、長く第一線で活躍しています。

翌95年はセンバツでは初戦敗退も、夏はベスト8に進出。
このとき「東の沢井(銚子商)、西の福留」と称され、超高校級の強打者として注目されたのが福留孝介でした。
夏は府大会で7本塁打、甲子園でも2打席連続アーチをマーク。
社会人ではオリンピック代表に選ばれ、中日でも主力として活躍。
メジャーを経て、今も現役の好打者として君臨しています。

この時のエース・前田忠節は大学で野手に転向。プロでは外野の守備固めがメインでした。

96年度組のエースは前川。粗削りさが魅力でしたが、
さあこれからというときに不祥事で球界を去ったのは残念でした。
同期の荒金久雄は、プロでは代打や守備固めメインで起用されています。

横浜と死闘を展開した98年度組では、強打の大西宏明が強打を武器に
レギュラーまであと一歩のところまで迫っていました。
この時のキャプテンの平石洋介は、PL出身者では史上2人目となる
NPB監督として19年に楽天をAクラスに導きました。

2年生ながら1番打者としてレギュラーに座っていたのが田中一徳。
170センチに満たない小兵ながらプロでもすぐに一軍に定着。
しかし体力的なハンデか、長くは活躍できませんでした。
田中雅彦は、プロでは貴重な控え捕手としてチームを支えています。

年を追うごとに、チームもOB選手たちもスケールダウンしていった感は否めません。
次回は最終回です。

PL学園出身プロ野球選手一覧【Part3】

2020-05-17 08:52:22 | PL学園出身プロ野球選手
PL学園出身のすべてのプロ野球選手を紹介するシリーズの第3弾は、
1983年度卒~91年度卒の選手たちです。

甲子園での戦績、OBの活躍ぶりなどを見ても、
この時期は「黄金時代」、まさしく全盛期といえる華々しさです。



特に、85年度卒の投打の超高校級プレーヤー・
桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」は強烈なインパクトを残しました。
83年夏から5季連続で甲子園に出場し、いずれもベスト4以上。
優勝2回、準優勝2回と圧倒的な戦績を残しています。
この二人については甲子園はもちろん、ドラフト時に与えた社会的な衝撃、
プロ入り後の活躍についても申し分なし。ここであえてコメントすることはありません。

なお、85年度卒では5名がプロ入りしています。これはPL野球部史上でも最多の人数です。
内匠政博はアマ球界でキャリアを積み上げた後、近鉄でもレギュラー外野手になりました。

85年度卒の活躍に負けないのが、野球部史上唯一となる春夏連覇を達成した87年度卒。
特に夏はすべての試合が完勝で、安定した戦いぶりという点ではKK時代を上回りますね。
プロに進んだのは4名。中でも高校時代から抜群の野球センスを見せていた立浪和義は、
1年目からレギュラーを任され、打率3割を7度マーク。遊撃、二塁、三塁でGグラブ賞を受賞しています。

エースの野村弘樹はプロでも2年目から先発ローテの一角に定着。
弱小球団にあって6度の二ケタ勝利をマークしています。打撃もよかったですね。
中距離ヒッターの片岡篤史は日本ハム、阪神で主力打者として活躍。ベストナインにも2度輝きました。
橋本清は活躍期間こそ短かったものの、セットアッパーとして94年の巨人の日本一に貢献しています。

88年度卒では前年の春夏連覇のチームで、2年生の控えとしてベンチ入りした宮本慎也。
安定した遊撃の守備に加えて犠打などの小技の巧みさで、
90年代から00年代にかけて球界を代表する内野手として君臨しています。

甲子園への初出場以来、3年以上感覚を空けることなく大舞台にコマを進めていたPL野球部でしたが、
88年から91年まで、4年間甲子園から遠ざかります。

それでも90年度卒組では都市対抗でMVPにあたる橋戸賞を受賞、01年に巨人で13勝を挙げた入来祐作、
91年度卒組では巧みなバットコントロールで、プロ1年目にいきなり打率.327をマークした坪井智哉など、
絶えることなく好素材を送り続けています。