スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

PL学園出身プロ野球選手一覧【Part2】

2020-05-16 09:00:36 | PL学園出身プロ野球選手
PL学園出身のすべてのプロ野球選手を紹介するシリーズの第2弾は、
1974年度卒~82年度卒の選手たちです。

今回もそうそうたるスタープレーヤーたちが名を連ねています。



74年度卒の金森栄治はアマチュア球界でキャリアを積み上げ、
プロでは勝負強いバッティングで人気を博しました。

翌75年度卒の尾花高夫は甲子園に出場できず、社会人を経てプロへ。
決して強くはなかったころのヤクルトのエースとして、奮闘を見せています。
2010年には横浜で、PL出身者としては初となる監督に就任しました。

78年の夏、PLはついに甲子園で初優勝の栄冠に輝きます。
準決勝、決勝での劇的な勝利から「逆転のPL」との異名を受けました。
その中心は西田真二-木戸克彦のバッテリー。ともに法大に進み、西田は野手に転向。
両名とも、プロでもチームの中心選手としてプレーしました。

西田の控え投手だったため甲子園での登板はありませんでしたが、
金石昭人は広島、日本ハムで二ケタ勝利をマークするなど長く活躍しています。

翌79年のセンバツも、相次ぐ逆転劇でベスト4へ。
主砲の小早川毅彦は名門・法大でも強打者として活躍し、
プロでも新人王を獲得するなど、1年目から結果を残しています。

山中潔はプロでは正捕手に一歩届かなかったものの、
貴重な控えとして5球団を渡り歩きました。
引退後もロッテや日本ハムで、守備力強化に貢献しています。

81年、PLはセンバツで初優勝。
主砲の吉村禎章は巨人で3年目にレギュラーに座ると、85年から3年連続で打率3割をマーク。
アクシデントによるケガがなければ、球界を代表する打者になっていたでしょう。

若井基安は高校のみならず大学、社会人と名門チームでレギュラーに座り、
いずれも全国大会で優勝を経験した「野球エリート」。
プロでも野球センスの高さを活かし、いわゆる「便利屋」として重宝されました。

エースの西川佳明は強豪・法大のエースとして活躍し、ロス五輪代表に選出。
アマ球界を代表する投手に成長しましたが、プロでは1年目の10勝が最高成績でした。

強豪校として認知されたPL学園野球部。ここから全盛期を迎えることになります。

PL学園出身プロ野球選手一覧【Part1】

2020-05-15 08:45:29 | PL学園出身プロ野球選手
かつて、「アマチュア野球」(日刊スポーツ出版社)という雑誌がありました。

ドラフト情報に特化して、高校・大学・社会人野球の有力な選手を紹介する、というものです。
私も何度か選手のインタビュー記事や読み物などを寄稿させていただきました。
残念ながら、雑誌、出版社ともに数年前に消滅してしまいましたが…。

2007年ですから今から13年ほど前になりますが、この雑誌で連載記事を持たせてもらったことがあります。
「泉直樹のドラフト研究」と銘打って、4回ほどプロに多くの選手を輩出した高校、大学
(PL学園、横浜、早大、法大)出身のすべてのプロ野球選手を表にまとめたうえで、文章として紹介しました。

昔のファイルを探したところ、当時のデータが見つかりましたので、
今回は第1回で紹介したPL学園出身の全プロ野球選手を紹介することにします。

2007年以降もPL出身のプロ選手が生まれていますので、データを改めて更新しています。
PL学園の野球部はその後、残念ながら休部してしまったので、
追加した選手はそれほど増えていません。

全部で82名もいますので、5回に分けて掲載します。



「甲」欄の★は甲子園に出場した選手です。

プロ第1号の野田征稔は創部(1956年)2年目に入部した、黎明期の選手です。

創部7年目の62年にPLは早くも甲子園に出場。翌63年春まで3期連続で出場しますが、
63年のセンバツでエースを任された戸田善紀をはじめ、4名の選手がプロ入りします。
戸田は阪急で日本一に貢献したほか、中塚政幸は大洋で主力打者として長く活躍。
坪井新三郎の息子・智哉もPL→プロという経歴を歩みました。

65年度卒業組では、得津高宏がシャープなバッティングでロッテの主力打者となりました。
福嶋久晃は大洋の正捕手として、長きにわたりプレーしています。

66年度卒組では加藤秀司。早くも2000本安打プレーヤーが誕生しています。
シュアなバッティングで首位打者2回、打点王3回を獲得。70年代後半の阪急黄金時代を支えました。

70年の夏の甲子園で、PLは初めて決勝に進出して準優勝に輝きます。
このときのエース・新美敏は日拓で1年目に12勝をマーク。新人王に輝きました。
新井宏昌は卓越した打撃センスで、87年に打率.366で首位打者を獲得。
PL出身者としては2人目の2000本安打を記録しています。

翌71年度卒組では行沢久隆。
代打や守備固めなど、貴重なバイプレーヤーとして西武黄金時代に貢献しています。

創部から15年で、多くのプロ成功選手を生み出したPL。
このあと、さらに多くの優れた選手をプロへと送り出すことになります。

甲子園未出場ながらプロ野球選手を多く輩出した高校ランキング

2020-05-14 08:46:45 | スポーツ史・野球
今回はちょっと趣向を変えます。

多くのプロ野球選手を生み出す高校と言えば、
甲子園でも名の知れた強豪・名門校というイメージがあります。

中学から有名な選手が集まり、レベルが高く、チーム内での競争が激しいのはもちろん、
スカウトからの注目も高く、何より甲子園に出場することで、
テレビや大観衆の前でその実力をアピールできるという利点があります。

一方で甲子園とは無縁ながら、プロで活躍している選手が存在することも確かです。

そこで、過去に甲子園に出場したことがないものの、
複数の選手をプロ球界に送り込んでいる高校をランキングで表してみました。

ドラフト制度移行のプロ入り選手に限定しています。



プロに4名以上の選手を輩出している学校は、実に21校に上りました。
太成学院大高や大商大付属の2校など、好選手を集めてもなかなか甲子園に届かないというのは
大阪のレベルの高さを物語っているといえますね。

生光学園は徳島では唯一の、野球部のある私立学校です。
徳島はまだ私学の高校の甲子園出場がありません。
好素材の選手が入ってきているようですが、なかなか結果を残せませんね。

2位の向上(神奈川)は昭和40年代、4位の横芝敬愛(千葉)は昭和50年代、
飛龍(沼津学園・静岡)、杜若(愛知)などは昭和60年代あたりから県大会で上位に進出するなど、
比較的古くから野球に力を入れている学校です。
ただ、強豪校が名を連ねる激戦区ということもあり、甲子園にはあと一歩届いていません。

逆に1位の横浜創学館、3位のつくば秀英などは平成以降に台頭した学校です。
どちらも、毎年のようにプロに選手を送り込んでいますね。
横浜創学館出身の秋山彰吾は、日本球界を代表する打者となりました。

両校とも県大会では上位の常連ですが、単純に試合で勝つことだけでなく、
指導者が「選手の育成」についていろいろと模索しながら、
真摯に取り組んでいるということでしょう。

甲子園で勝てるチームを作り上げる監督も偉大ですが、
多くの高校球児は「プロ」の世界を夢見ているはずですので、
上のレベルでも活躍できる選手を育てる指導者も、また一流だと思います。

1973年生まれのプロ野球選手たち 外国人編(2)

2020-05-13 08:43:18 | 1973年生まれのプロ野球選手たち
1973年度生まれで、NPBでプレーした外国人を紹介するシリーズの後編です。



日本人の選手と同じ条件にするため、
1973年4月2日~1974年4月1日生まれの選手に限定して表記しています。

今回は10月以降に生まれた選手。
見てみると、4月~9月生まれの選手より成績は劣る感じですね。

投手ではまず、ベバリン。ヤクルトではローテーションの一角に座り、
安定した投球を披露していましたが、右ヒジの故障で長期間の活躍は叶いませんでした。

バーンは近鉄(合併後のオリックス)、ロッテと渡り歩き、
先発、リリーフと起用方法を問わず、貴重な右腕としてまずまずの成績を残しています。

セラフィニは速球派のサウスポーとして、05年には11勝をマーク。
ロッテの31年ぶりの日本一に大いに貢献していますが、オリックスでは活躍できず。

一方で、メジャーで50勝以上をマークするなど実績十分のジョンソンは、
故障もあってNPBではいいところがありませんでした。

野手ではトニー・バティスタ。メジャー通算214本塁打で00年に41ホーマー、
来日前年には30本塁打を記録するなどバリバリのメジャーリーガーとして来日。
成績は悪くはありませんが、アメリカでの実績を考えれば期待ほどではなく、
契約を1年残して退団しています。

ロペスは楽天球団創設1年目に入団も、
チームの低迷を打破するような派手な活躍はできませんでした。

アルフォンゾはメジャー通算1500安打以上をマークするなど、実績は申し分なし。
ピークを過ぎた後に巨人のテストを受け入団も、結果は今一つでした。

1973年度生まれの外国人選手で、NPBでプレーしたのは34名。
日本人選手は93名ですから、あわせて127名の同級生がプレーしたことになります。
でも、今や現役選手はゼロ。これも時代の流れですね。

秋季高校野球関東大会 千葉県勢成績(1978年~1981年)

2020-05-12 08:40:59 | 秋季高校野球関東大会千葉県勢成績
高校野球の秋季関東大会における、千葉県勢の成績を紹介するシリーズの第4弾。
今回は1978年~81年です。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4を表します。

78年は地元開催ということで、3校が関東大会に進出。
しかし、揃って初戦敗退、しかも完敗という屈辱を味わいます。

以前も書きましたが、過去に59年、65年とホスト県となったときも全校0勝に終わっています。
地元での戦いのため、良いところを見せようというプレッシャーからか、
力を出し切れない感じですね。

79年は創部2年目の八千代松陰が快進撃。
県大会を制すると、関東でも一気に決勝へと駒を進めます。

かつて習志野の校長時代にスポーツを強化して
野球、サッカー、バレー部を全国区の強豪にした実績を持つ山口久太校長兼理事長が
「甲子園が先か東大合格が先か」と関係者にはっぱをかけていたようで、
その成果が早くも表れた形となりました。

80年には、印旛が3年ぶりの関東制覇を果たしました。
強打者・月山栄珠を中心とした強打のチームで、県大会に続き関東でも危なげなく勝ち進み、
翌年のセンバツ準優勝へとつながっていくことになります。

81年は、東海大浦安と千葉商大付の千葉県代表2校が揃ってベスト4に進出。
これは秋季関東大会が1県から2代表を出せるようになってからでは初となり、
現在(2020年)に至るまで、この年が唯一の事例です。

今なら両校ともセンバツに選ばれることになりますが、当時の関東の出場枠は「3」。
好投手・平沼定晴を擁し、優勝した上尾と接戦を演じた千葉商大付が
センバツ出場を勝ち取ることになりました。