nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

八幡山城

2013年10月03日 | 滋賀県の城郭・環濠

 天正13年(1585年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武功を立てた羽柴秀吉の甥、羽柴秀次は、同年の8月23日,の論功行賞で近江八幡430,000石を与えられると,安土城の隣地の鶴翼山、通称八幡山(標高286m、比高100m)の南半分を利用して放射状式連郭山城と居館を築いた。山上の本丸等の主郭部と山麓の居館部が同時に構築され、石垣によって固められた。城下町は、安土城下町の町民を移住させて進められ近隣からも移住を促した。琵琶湖から水を引いた八幡堀によって町の周囲が防衛された。秀次の尾張清州移封で京極高次が28,000石で入るが、文禄4年(1595年)の秀次が切腹させられた時、廃城となった。現在、壮大な石垣を残すのみですが、周遊歩道が整備され、本丸跡には、村雲御所瑞龍寺門跡が建っています。

[ 所在地:滋賀県近江八幡市宮内町]

アクセス>JR近江八幡駅下車徒歩約30分でロープウェイ公園駅。公園駅からロープウエイで近江城跡駅

八幡山城の概要

八幡山城の概略図

八幡山城略図

 

 

西の丸址・・・・・琵琶湖の眺め最高!

 

北の丸址

 

瑞龍寺山門(本丸への虎口跡)

 

村雲御所・瑞龍寺門跡の概要

村雲御所・瑞龍寺本堂(本丸跡)          

 文禄5年(1596年),豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公が、豊臣秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から京都村雲の地と瑞龍寺の寺号及び寺領1,000石を賜り創建され、昭和36年(1961年)に京都よりこの八幡山へ主要建物が移築されました。日蓮宗唯一の門跡寺院です。

 

二の丸址 

八幡堀                      ▼八幡堀

 

近江八幡の町なみ(新町通り)

 

2013/10/02 訪城

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豊臣秀次(羽柴秀次)     (1568年~1595年)

 豊臣秀吉の姉、とも(日秀尼公)の子として生まれる。天正13年(1585年)近江国八幡山城主となり、ついで尾張・伊勢を領する100万石の大大名となった。天正19年(1591年)秀吉の子鶴松が亡くなると秀吉の養子となり、跡継ぎとして関白になった。しかし、秀頼の誕生により跡継ぎの地位が危うくなったのか次第に粗暴な振る舞いが目立つようになったと言われているが、この史実のほどは、明らかではない。ただ、折に触れて秀吉と衝突したことは確かで、最後は、謀反の疑いをかけられ高野山に追放され、切腹を命じられた。二十七歳の生涯を閉じた。さらに、妻子など40人余が京都三条河原で見せしめに斬首された。


安土城

2013年08月23日 | 滋賀県の城郭・環濠

   織田信長が天下統一を目標に天正4年(1576年)1月17日、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高190mの安土山に築城させた平山城。岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。現在は、四方とも干拓により陸地になっているが当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形であった。天正7年(1576年)、5月、5層7階の壮麗な天守閣を有する城を完成させた。しかし天正10年(1582年),織田信長が本能寺の変で明智光秀に打たれると、その混乱の中6月15日、天守などを消失。のち、羽柴秀吉によって廃城とされた。そのさい安土城の城下町は羽柴秀次の築いた八幡山城(滋賀県近江八幡市)にそのまま移されている。現在、城の石垣,石段,礎石のほか、織田氏の菩提寺の総見寺の三重塔、仁王門(楼門)等が残存している。また、安土山は、山全体が国の特別史跡に指定されています。

[所在地:滋賀県近江八幡市安土町豊浦]

アクセス>JR安土駅下車徒歩20分

安土城の概要

安土城址の石碑

 

石垣と大手三門址

東側石塁北上段郭と虎口

 大手道

 

大手道

再現の大手道の復元

石仏が多くみられる                               羽柴秀吉邸址

 

羽柴秀吉邸復元図

羽柴秀吉邸間取図

           

黒金門跡

 天主址西下の伝二の丸址に織田信長公の本廟がある。

 重臣、羽柴秀吉は、天正11年(1583年)1月三法師に年賀を表すべく登城し、翌2月織田信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂等の遺品を埋葬して本廟とした。そして6月2日の一周忌には、織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った

二の丸址入口               ▼織田信長公本廟(二の丸址)

 

天主閣入口                                                           天主閣址

  

安土城天主(天守)跡

天主跡よりの眺め

 

 安土城天主跡から少し降りたところにある本丸御殿跡。「織田信長公記]によればこの建物には天皇を招き入れる「御幸の間」があったと記載されている。

本丸跡

総見寺跡

 総見寺は、臨済宗妙心寺派の末寺。安土城築城の際、天正4年、織田信長が他所より移築し、安土城本丸の西方の峰に自らの菩提寺にしたと伝えられている。天正10年の天主崩壊の際も焼け残ったが、安政元年(1854年)11月16日火災により本堂なぞほとんどを焼失。今は礎石のみが三重塔の北に残っている。その後、昭和7年仮本堂が大手門近くの伝徳川家康邸跡に建てられ現在に至る。三重の塔は、天正3~4年に織田信長公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移建した。

 ▼総見寺本堂跡            ▼総見寺三重塔(重要文化財)

 

総見寺仁王門(楼門)(重要文化財)

 

安土山地図と航空写真

2013/08/22 訪城

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丹羽長秀(1535~1585年)

 早くから織田信長に仕え、尾張・美濃での戦いに活躍。入京前より部隊指揮官の地位にあった。入京後、京都の政治に関与している。元亀元年(1570年)、姉川の戦いの後、佐和山城攻めの主将、翌年二月開城させると、そこに入れ置かれた。犬上・愛知郡地域と地侍を支配する。大正元年頃より若狭の支配も任され、若狭武田氏の旧臣たちを傘下に置いた。天正4年(1576年)の安土築城では総奉行を務める。天正10年(1582年)5月、織田信孝に副えられ、四国征伐に就こうとした時、本能寺の変が勃発。羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加、織田信長の仇を討ち取った。清州会議で4人の宿老の一人となったが、常に羽柴秀吉に同調、その躍進を助けた。


膳所城

2013年07月07日 | 滋賀県の城郭・環濠

   慶長5年(1600年)関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は、翌年の慶長6年(1601年)東海道を制し湖上の船運を抑える目的で、大津城を廃し、現在の膳所城址公園(膳所崎)に四層四階の天守のある膳所城を築城させた。完成後は、戸田一西が30,000万石で入城した。その後城主は、ころころ変わったが、慶安4年(1651年)以後は、譜代大名の本多氏の世襲となり、60,000万石で、明治維新まで続いた。膳所藩の重要な任務として、京都の警備、特に禁中火番や洛中火消という消防活動が幕府から命じられ、幕末までその任務が遂行されていた。城は、湖中にせり出すように本丸、二の丸、三の丸が築かれた。明治6年(1873年)廃城となり、破壊されたが、現在、陸続きになった本丸址は、膳所公園として整備され、石垣がわずかに残っているほか、城門が、模擬再建されています。

[所在地:滋賀県大津市本丸町]

アクセス>京阪電鉄石山坂本線・膳所本町駅下車徒歩7分

                                          城門(模擬城門)

 

膳所城址碑

 

 

天守閣址

  

 

 2013/7/6訪城


大津城

2013年07月07日 | 滋賀県の城郭・環濠

   天正14年(1586年),豊臣秀吉は、坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに、現在の大津市浜大津に天守もある水城を築城させた。だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、大津城主の京極高次は、東軍(徳川方)に属し大津城に3,000騎で籠城した。防衛には、不向きな城であったが、奮戦し、7日間持ち堪え、9月13日西軍の立花軍が、二の丸を占領した時点で、高野山の客僧木食応其和尚の仲介で講和が成立した。9月14日に降伏開城した。京極高次は、近くの園城寺に入り,剃髪して、高野山に上った。西軍の15,000騎を大津城に釘付けにした。功績は、大きく、戦後、徳川家康は、京極高次に22,000石加増して若狭小浜城82,000石に転封させた。京極高次が若狭へ移りまもなくして、徳川家康は、大津城を廃城にした。

[所在地:滋賀県大津市浜大津5]

<アクセス>京阪電鉄石山坂本線・浜大津駅下車徒歩1分

大津城跡の石碑・・・・・京阪浜大津駅から琵琶湖側へ道路を渡ったところに設置されています。

 

大津城縄張り推定図

階段の下が大津城本丸址です。

 

2013/7/6 訪城

 

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壬申の乱 瀬田川の戦 弘文元年(672年)

 天智天皇後の皇位争いで、近江朝、大友皇子(天智天皇の子)軍と大海人皇子(天智天皇の弟)軍が、近江国の瀬田川で戦い、大津宮陥落。大友皇子自害。翌年、大海人皇子は、飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)宮で即位し、天武天皇となる。

木曽義仲、打出浜で最後の戦 元暦元年(1184年)

 源頼朝が、木曽義仲を追討のために、弟の源範頼、源義経を上洛させる。近江国の打出浜で木曽義仲軍約300騎と範頼、義経軍と最後の戦になり、義仲大津栗津で戦死(31歳)。

比叡山焼き討ち 元亀2年(1571年)

 浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、延暦寺の近江国の寺領を乗っ取る。

大津城の戦 慶長5年(1600年)

 関ヶ原の戦の前哨戦。大津城主で6万石の京極高次が、東軍(徳川方)に与したために、大津城に3,000騎で籠城。西軍(大坂方)15,000騎の攻撃を受ける。大津城は、関ヶ原の戦の前日の9月14日に落城。京極高次の正室(常光院)は、お市の方の三姉妹の次女。


坂本城

2013年06月29日 | 滋賀県の城郭・環濠

 元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺焼き討ち後、織田信長は、明智光秀に近江国滋賀郡を与え、京と比叡山延暦寺の抑えとして琵琶湖の南湖西岸に坂本城を築城させた。その後、明智光秀は、坂本城を拠点に西近江の平定を目指す。さらに丹波国平定後、亀山城主となったが、坂本城も、明智光秀の持ち城であった。天正10年(1582年)山崎の戦の敗戦後、羽柴秀吉方の堀秀政軍に城を攻撃され、明智一族の明智秀満が天守に火を放ち落城した。その後、城は丹羽長秀により再建されたが,天正14年(1586年)、羽柴秀吉の命により、坂本城主の浅野長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城となった。資材は、大津城の築城に使用された。現在、坂本城の一部は、坂本城址公園として整備され、明智光秀像が建てられています。

[所在地:滋賀県大津市下坂本]

アクセス>JR比叡山坂本駅下車徒歩10分

                                                                           坂本城址の石碑

 

明智光秀像(坂本城址公園に建)

 

 

                     坂本城本丸跡碑

 

坂本城址の石碑(二の丸址)

 

 2013/6/27 訪城

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比叡山焼き討ち 元亀2年(1571年)

 浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、延暦寺の近江国の寺領を乗っ取る

明智光秀 (1528年~1582年)

 足利義昭から禄をうける幕臣だが、永禄11年(1568年)織田信長入京以前に織田信長と主従関係を結んだ。次第に足利義昭より離れ、織田信長の重臣の一人となる。元亀2年(1571年)坂本城主。焼き討ちされた比叡山の旧領を与えられ、堅田衆や北山城の土豪たちを摩下に置いた。天正元年(1573年)足利義昭将軍追放後も、しばらく京都所司代村井貞勝を助けて京の政務にたずさわっている。天正3年(1575年)6月より丹波経略を命じられるが、丹波ばかりでなく、大坂・雑賀・播磨等へも出陣している。丹波平定は、天正7年(1579年)9月。翌年8月これを与えられ、亀山居城。丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶を与力とし、近畿管領ともいうべき地位にあった。天正10年(1582年)6月本能寺の変を起こして織田信長父子を殺し、最後山崎の戦いに敗れて土民に殺される。

天台真盛宗総本山  西教寺 ・・・・・・・ 明智光秀公と一族の菩提寺

 

 

西教寺の総門・・・・・明智光秀が坂本城の城門を移築した

 

西教寺本堂

2013/7/6 訪問