nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

北畠氏館

2013年05月31日 | 三重県の城郭・環濠

 北畠氏は、村上源氏の流れをくみ、京都洛北の北畠に居所を構えた事から始まります。鎌倉時代末期、北畠親房は後醍醐天皇の信任を得て、側近となります。親房の長男の顕家は、奥州におもむき北朝の軍勢を相手に歴戦を重ね奥州北畠氏の祖となり、三男の顕能(あきよし)は興国3年(1342年)伊勢国一志郡多気に居館を構え伊勢国司に任じられ伊勢北畠氏の祖となります。南北朝から戦国時代にかけて、北畠氏は一族の木造氏や国人の長野氏、神戸氏との戦を繰り返しながら伊勢国司から伊勢守護、大和宇陀郡守護を勤め、支配権を確立して戦国大名に成長します。永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城で龍城し抵抗したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督をる譲ることで和解した。具教は信雄に対抗しようとしたが天正4年(1576年)信雄の命で暗殺された。北畠氏館、霧山城も兵火で消失した。北畠氏館跡は、現在の北畠神社境内を中心に西を山裾、それ以外を川で囲まれた場所にあります。背後の霧山城跡は、北畠氏の本城で、北畠氏館跡から西へ約1.8Kmの山頂(標高570m)に位置します。  現在、北畠神社(北畠氏館跡)、庭園跡そして霧山城跡は国指定史跡となっています。              

 [所在地:三重県津市三杉町上多気(北畠神社)]

<アクセス>JR名松線・伊勢奥津駅から徒歩約70分(5km)

多気北畠氏館の概要

 

  

  

北畠神社(北畠氏館跡)

 

 

            北畠顕家公の像です。

 

   

 

 

2013/05/29 訪城


田丸城

2013年04月07日 | 三重県の城郭・環濠

 田丸城は、南北朝動乱期の延元(1336年),御醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った公家の北畠親房が、愛洲氏や度会氏等の援助を得て、この玉丸山に平城を築いて南朝の拠点としたことが始まりとされる。南朝の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多木に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575年)織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には、三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年(1580年)には、この天守閣は炎上した。江戸時代には、紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は、代々城代を勤めた。城は、明治6年(1873年)に廃城となり、建物は取り払われた昭和3年(1928年),国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、地元出身の村上龍平の寄付により町有となり、その残りの城地も町有化し、町民に開放された。三重県指定史跡で総面積は、166,000m2 である。             

[所在地:三重県度会郡玉城町田丸]      

<アクセス> JR参宮線・田丸駅から徒歩5分            

内堀

                 

 

 

 

本丸跡                               ▼天守跡

 

二の丸跡                         ▼搦め手の通路

      

2013/04/07 訪城


楠城

2013年04月04日 | 三重県の城郭・環濠

 橘城は、伊勢国司の北畠顕泰が、正平24年(1369年)に築城した平城です。信濃国の豪族、諏訪十郎貞信(正信)が初代城主となり諏訪氏三代の後、応永12年(1412年)に四代城主に楠正威がなり、その後楠一族が城主を継続し、八代城主楠正盛が、豊臣秀吉に反抗したため、天正12年(1584年)城は、落城した。 

[所在地:三重県四日市市楠町本郷風呂屋]

アクセス>近鉄名古屋線・北楠駅から約15分

楠城主郭跡

楠城脾

 

2013/04/03  訪城


伊勢亀山城

2013年02月06日 | 三重県の城郭・環濠

 伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。その後、関氏の時代に現在の位置に移された。元亀4年(1573年)織田信長により関盛信が追放されるまで関氏十六代の居城であった。天正18年(1590年)に岡本宗憲が22,000石で入城し、天守、本丸、二の丸、三の丸などを増築した。岡本宗憲は、関ヶ原の戦では西軍に属して戦い滅亡。その後、伊賀(伊勢)街道の要衛として目まぐるしく城主は入れ替わったが、延亭元年(1744年)石川総慶が城主になると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることになる。明治6年(1873年)の廃城令により、ほとんどの構造物は取り壊された。現在は、天守台、多聞櫓、石垣・堀など一部が残るだけである。    

[所在地:三重県亀山市本丸町]

<アクセス>JR関西本線・亀山駅から約12分

 

 

 ▼本丸高石垣と多聞櫓

 

 

復元された二の丸帯曲輪

2013/02/05 訪城


一身田寺内町(環濠)

2013年02月05日 | 三重県の城郭・環濠

 一身田は、30軒余の農村集落であったが、戦国時代の15世紀に専修寺が建てられてから、専修寺を中心に発展をとげ、16世紀からは町の周りに環濠を作り、防衛的な性格を帯びた環濠集落になった。一身田寺内町は、真宗高田派の総本山専修寺を中心に、末寺や商家、宿屋などが集まり、四方を堀で囲まれている典型的な城郭的都市(濠集落)であるその範囲は、東西約500m、南北約450m(面積約20.2ヘクタール)。落ち着いた街並である。  

[所在地:三重県津市一身田]

 <アクセス>JR紀勢本線・一身田駅より徒歩5分又は、近鉄名古屋線・高田本山駅より徒歩15分。

一身田寺内町(環濠集落)略図

環濠に囲まれた寺内町には、濠に橋を掛け、内側に門を建てた出入り口が三か所(桜門・黒門・赤門)ありました

 、京都方面の出入り口黒門、寺内町の総門で、伊勢方向への出入り口、赤門、江戸方面への出入り口でした。

 

環濠(毛無川)

 

東側の環濠  ▼西側の環濠 ▼南側の環濠 ▼北側の環濠

   

道標

 

専修寺

 通称、高田本山の名で知られている真宗高田派の総本山

    

唐門            ▼山門

 

如来堂(国宝)        ▼御影堂(国宝)

 

太鼓門・・・専修寺の東側にある左右に長屋がつく四重の櫓門

                    ▼一御田神社(神明造りの社殿)

 

2013/02/05  訪城


名張城

2013年02月03日 | 三重県の城郭・環濠

 土豪の砦があった跡に、天正13年(1585年)筒井定次から伊賀名張8,000石を与えられた松倉重政(勝重の子)によって居城として築かれた城です。その後、慶長13年(1608年)に定次が改易となった後は藤堂高虎の城となったが、元和3年(1617年)、一国一城令により廃城とされた。寛永13年(1636年)に伊予今治から高虎の養子である高吉(織田信長の重臣丹羽長秀の三男)が2万石の大名として入城し、名張藤堂家を起こした。そして旧名張城跡に、陣屋を築いた。藤堂高虎のあと実子高次が家督を継ぐと、高吉は藤堂藩の家臣となり、高吉の死後、次男以下三名に5千石が分知され1万五千石となり、名張藤堂氏11代の陣屋として明治維新をむかえた。明治6年(1873年)に、ほとんどの建物は、取り壊されたが、現在、陣屋(殿館)建物の一部が残っている。         

 [所在地:三重県名張市丸の内54]

アクセス>近鉄大阪線・名張駅から5分

              

             ▼名張藤堂家邸跡(三重県指定史)

 

                                             祝間 東より望む        

 

庭 園

 

旧正門(太鼓門)

 

 

2013/02/03 訪城

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藤原千方窟・・・朝廷に反抗した千方が平安時代に四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えここに立てこもったという。四鬼は、伊賀忍者の阻という伝説もある。

天正伊賀の乱 天正9年(1581年)

 天正7年9月、伊賀国の織田信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に殺戮した。天正9年の伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。


津城

2013年01月29日 | 三重県の城郭・環濠

 戦国時代の永禄年間(1558~1570)に、長野氏の一族の細野氏が小規模な安濃津城を築いたのが始まりです。永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻の翌年、織田信長の弟信包が入城し、信包は、城郭を拡充して本丸、二の丸、三の丸が配された輪郭式の平城にした。天正8年(1580年)には5層の天守閣も完成し、城下町が作られた。信長の死後、豊臣秀吉の家臣富田信広が5万石で入城。関ヶ原の合戦では、その子知信が東軍に属したため、西軍の毛利秀元・長宗我部盛視の30,000騎余の大軍に包囲される。籠城の兵は劣勢(1,300騎)であったが奮戦の末、木食上人の調停により開城した。関ヶ原合戦後、22万石で入封した藤堂高虎によって城は、復興されたが、天守は再建されなかった。その後、大阪の役の功により、元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、32万石の大大名となり、12代にわたり城下町として発達を遂げた。明治6年(1873年)の廃藩置県により、廃城となり取り壊された。現在は石垣の一部と堀、昭和33年(1958年)に復元された三重の隅櫓が津城の往時の面影を伝えている。

[所在地:三重県津市丸の内]

アクセス>近鉄名古屋線・津新町駅から徒歩10分

 

 

復興三重隅櫓

 

城と城下町図

 

城の縄張図                                                                     

 

藤堂高虎像       ▼本丸跡

 

埋門跡

 

2013/01/29  訪城

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平氏、伊勢・伊賀に勢力を拡大 承徳元年(1098年)

 平氏(平正盛)、安濃津を本拠に勢力を拡大する。正盛、伊賀山田、鞆田の私領を六条院白川法皇第一皇女に寄進して白川院政に近づく。正盛の孫が清盛(平清盛)です。

安濃津城の戦 慶長5年(1600年)

 関ヶ原の戦の前哨戦。石田三成が挙兵し、伏見城落城後、大阪方が伊勢に侵攻する。毛利秀元ら30,000騎の大阪方(西軍)に対して、近隣の徳川方(東軍)の援軍を含めわずか1,300騎で籠城戦を激闘する。奮戦の末、木食上人のすすめで富田知信が開城する。大軍相手によく戦った知信は戦後、家康から2万石の加増を受ける。


伊賀上野城

2013年01月24日 | 三重県の城郭・環濠

 伊賀盆地中央の台地に、天正13年(1585年)、大和郡山より伊賀に転封となった筒井定次によって築かれた平山城です。筒井氏改易ののち、藤堂高虎の所領となると5重の大天守が造営されるなど、堅固な城寒に姿を変えた。藤堂氏は、一族を城代家老として配置。廃藩置県まで、津藩藤堂家の支城として、伊賀一国の統治拠点としての役割を担いつづけた。現在の天守閣は、昭和10年(1935年)に当地出身の政治家の川崎克氏の寄付により、木造伝統工法によって建造された天守閣である。

[所在地:三重県伊賀市上野丸の内]

アクセス>伊賀鉄道・伊賀線上野市駅から徒歩8分

               

白鳳門

 

  

 ▼伊賀上野城の大天守()と小天守()

                         ▼旧筒井城跡 

  

 深い内堀と見上げるような高い石垣

  

 2013/01/24 訪城

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天正伊賀の乱 天正9年(1581年)

 天正7年9月、伊勢国の織田信雄が8,000騎で伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年、織田信長が、45,000騎の大軍勢で、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に殺戮した。伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。

筒井騒動 慶長13年(1608年)

 筒井順慶の養子、筒井定次が筒井家の家督を継いでから,筒井定次が、重臣の中坊秀祐を寵愛したため筒井氏内部では、家臣団の対立が表面化した。伊賀上野に国替え後、筒井定次とソリが合わず重臣の松倉秀政、島政清興(左近)等が筒井家を去り、筒井家の実権は中坊秀祐が掌握し、彼による横暴が行われていた。慶長13年(1608年)6月,中坊秀祐は、駿府城の徳川家康に対し、主君の筒井定次の悪政や鹿狩りに熱中しての倦怠等を訴えた。このために筒井家は改易され、上野藩は、廃藩となった。中坊秀祐は筒井氏改易後、徳川家康から幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられている。しかし中坊秀祐は慶長14年(1609年) 2月29日,京都・伏見で筒井定次の旧臣の山中氏によって暗殺された

伊賀上野鍵屋ノ辻の仇討 寛永11年(1634年)

 柳生流の刺客荒木又右衛門、義弟渡辺数馬主従の4人が河合又五郎、桜井半兵衛ら11人と死闘のすえ、大願を成就する。背景には外様大名と旗本の対立があった。赤穂浪士、蘇我兄弟と並ぶ日本三大仇討の一つです。


鳥羽城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

 九鬼嘉隆(くきよしたか)は、志摩国を平定して、文禄3年(1594年)に鳥羽湾を望む高台に位置する平山城の鳥羽城を築いた。寛永9年(1631年)九鬼守隆が没すると御家騒動(相続問題)が起き、翌年二家に分断され、鳥羽を去った。その後、内藤、土井、松平、板倉、稲垣と城主が変わり、幕末には、伊勢神宮を外国船の猛威から守るため、沿岸に多数の砲台を築かざるをえず、鳥羽藩の財政が圧迫されるという一幕もあった。明治6年(1873年)に廃城となった。           

 [所在地:鳥羽市鳥羽3丁目]

<アクセス>JR・近鉄・鳥羽駅南口から徒歩10分

鳥羽城の概要

 

 

2013/01/01 訪城

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九鬼嘉隆、伊勢の大湊で大型の鉄甲船6隻を建造  天正5年(1577年)

 第一次木津川の戦で、織田水軍が、毛利水軍に敗れたため、織田信長の命により、鉄甲船を建造し、摂津大坂の木津川に回航して河口を封鎖する。天正6年(1578年)の第二次木津川の戦で毛利水軍を撃破する。

田(た)城の戦   慶長5年(1600年)

 関ヶ原の戦の一環。徳川方に与した嫡子九鬼守隆(徳川方)と大阪方に与した父の九鬼嘉隆(大阪方)の戦いです。九鬼守隆は、功により志摩の領土を安堵された。敗れた九鬼嘉隆は、答志島へ逃れ自刃した。

鳥羽藩主、江戸の芝・増上寺で大名刺殺  延宝8年(1680年)

 藩主内藤忠勝(3万2千石)が将軍家菩提寺の芝・増上寺で、前将軍家綱の法要中に宮津藩主永井尚長(7万4千石)を刺殺する。法要勤務の上で両者が対立して、刃傷に及んだ。永井尚長は無嗣で除封。内藤忠勝は、切腹になりました。

九鬼嘉隆(1542~1600)

 志摩の人で、はじめ北畠氏に属す。織田信長に仕えて水軍の将。天正6年(1578)11月6日、毛利方軍船を木津河口で撃破、大阪湾の制海権を握った。後、堺に常駐。関ヶ原の戦の一環の田(た)城の戦では、大坂方に味方し、嫡子九鬼守隆(徳川方)と戦う。敗れて、答志島へ逃れ自刃した。


神戸(かんべ)城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

 伊勢平氏の子孫の関氏の一族の神戸具盛は、戦国時代の1550年に神戸城を築いた。神戸氏は織田信長の侵攻にあい、織田信長の三男信孝を養子にする条件で和睦する。関ヶ原合戦後、一柳直盛が封じられたが、寛永13年(1636年)伊予西条に転じ、以後天領とされて城は破壊されてしまった。享保17年(1746年)に築城許可を得て、2年後に完成させた。現在は、城跡本丸跡等は、神戸公園となり、天守台が残っています

[所在地:鈴鹿市神戸5丁目]

<アクセス>近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅から徒歩20分

神戸城の概略

 

神戸城の略図

本丸跡                             ▼天守台

 

 

2011/11/01 訪城


桑名城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

 天正10年(1513年)伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源と考えられる。天正2年(1574年)に織田信長がこの地を征し、武将の滝川一益が入府。その後豊臣秀吉の時代には支配者が目まぐるしく入れ替わったが、関ヶ原の戦い後、徳川四天王の本田忠勝が桑名10万石で入府し、城を約10年を要して大改修した。元和3年(1617年)忠勝の子忠政は播磨姫路へ移封になり、松平定勝が封じられる。松平氏は一度転出するが、文政6年(1823年)に再び桑名に戻り、明治まで居城にした。現在は、九華公園として、桜やつつじの名所である。  

 [所在地:三重県桑名市吉之丸]

<アクセス>JR関西本線・近鉄名古屋線・桑名駅東口から徒歩15分

桑名城の概略図

 

本田忠勝像

  

 

 

2011/11/01 訪城


松坂城

2013年01月22日 | 三重県の城郭・環濠

   蒲生氏郷が、天正16年(1588年)松ケ島城に入城したが、城が狭く、海岸に近すぎるので、古城砦のあった四五百森に大規模な要害の城を築城した。松坂城と名付けられた城は3層の天守もある平山城である。氏郷は2年後、会津に移り、そのあとへ服部一忠が入府した。元和5年(1619年)以後は、紀州藩領となり、城代が置かれた。現在は、松阪公園になり、本丸や二の丸、天守台に石垣が残っています。

[所在地:松阪市殿町]

<アクセス>JR・近鉄・松阪駅から徒歩約15分

松坂城の概要

松坂城の縄張り図

 

    

二の丸跡

  

                                            本丸下段跡

 

本丸跡

 

本丸上段跡       ▼松阪開府之碑

  

2013/01/01訪城

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伊勢暴動 明治9年(1876年)

 明治維新により新政府は次々と改革を進めていったが、その中に米の代わりに現金で納めるなどとした地租改正を行った従来の税収を維持するように地租を定められたため、農民の負担は軽くならず、各地で農民の不満が高まっていた。明治9年(1876年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発した暴動は、愛知、岐阜、堺県(現在の奈良県)まで拡大した地租改正反対一揆である。

 この伊勢暴動を受け、時の為政者、大久保利通は、地租改正がうまく進まなかったことに焦り、12月31日、閣議を招集、翌、明治10年(1877年)1月14日地租3%を2.5%に下げたのである。このため、国家予算の8割超を地租収入が占めていた明治政府は、1,000万円以上の歳入減という大打撃をこうむり、官僚の削減、役所の削減が断行された。死者35人、負傷者48人などを含む処分者50773人という多くの犠牲を払いながら民衆が新政府に勝ったのである。

  久保利通は、明治11年(1878年)5月14日、士族6名により、暗殺された。殺理由は、『法令の乱用による政府官史の私利私欲などです暗殺後、凶器を投げ捨てて、まっすぐ宮内省に駆けむかい、門前に立ち、大声で自分たちが大久保を殺害の下手人であると名乗りました。彼ら刺客は、さすが『武士』でした。