犬山城(別名,白帝城)は、織田信長の祖父の織田信康が、天文6年(1537年)に木之下城を移して木曽川南岸の三光寺山に平山城を築いたのが始まりとされています。天正12年(1584年)小牧・長久手合戦の際には羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。その後、城主は何代か代わり、文禄4年(1595年)石川備前光吉が入り、慶長4年(1599年)城を改修し、天守を造りました。しかし光吉は、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、犬山城は、東軍に攻略され、慶長5年(1600年)に小笠原和泉守吉次が入城しました。慶長12年(1607年)徳川家康の九男義直が清州に入り、その家臣の平岩新吉が犬山城主になりましたが、平岩新吉が慶長16年1611年)に死去したため、その翌年から、成瀬正成は、竹腰正信とともに尾張藩の付家老として政務に携わり、元和3年(1617年), 成瀬正成が二代将軍徳川秀忠から犬山城を拝領して以後は幕末まで代々世襲で、犬山城主と尾張藩付家老を務めました。明治維新に犬山城は廃城となり、天守閣を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となりました。天主閣は、昭和10年(1935年)に国宝に指定されました。
[所在地:愛知県犬山市大字犬山字北古券8]
<アクセス>名鉄犬山線犬山遊園下車徒歩約15分
▼犬山城の概要
▼犬山城脾
▼本丸門
▼天守閣
▼天守閣
▼石落しの間 ▼つけ櫓
▼国宝指定書 ▼天主閣からの眺め
▼天主閣からの眺め
2014/01/01 訪城
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◆平岩親吉(1542~1611)
徳川家康の人質時代から側近として仕える。姉川・長篠の合戦に活躍。天正7年,家康の長男、信康の傅役をつとめていたが,信康の自刃後、その責任を感じ、謹慎。のち家康の命により、再出仕する。天正10年、甲斐郡代に任じられ、13,000石を領す。関東入国後、上野厩橋33,000石、関ヶ原合戦後、甲府63,000石を与えられ、家康の九男、義直の付家老となる。慶長12年、義直の尾張転封に従い、犬山123,000石を領す。
◆成瀬正成(1567~1625)
徳川家康に小姓として仕える。小牧・長久手合戦で功があり、天正18年、下総葛飾郡に4000石を与えられる。関ヶ原合戦には、根来衆を率い、使番をつとめる。戦後、和泉堺奉行となる。家康の側近になって、本田正純、安藤直次らとともに、政務の中枢に参与。慶長12年家康の九男義直の付家老となる。元和3年、犬山城を与えられ、同6年35,000石を給される。